第1章 2話
小さな机に、マグカップが3つ並べられている。
「…どう、ぞ。これ、僕が、育てた、ウラコウエイって、植物の、し、絞りかすで作った飲み物、です。ぼ、僕の母さんが、昔よく、作ってくれた。
コウエイのし、搾りかすだから、ぼ、僕は略して、コウシィってよ、呼んで、ます。」
青年が、若干雑な手つきでマグをシノとフェイへ差し出す。
「うわー!どうもありがとう、カナタくん。暖かい飲み物なんて久々だよお」
フェイは興奮しながらマグを受け取る…と同時に、青年の瞳を素早く観察した。
軽蔑と、羨望と、嫉妬…だろうか。フェイとシノを見る彼の目に、ごちゃ混ぜになった負の感情が渦巻いているのに気付く。
(…ま、我々乞食みたい事をしてるのだし。軽蔑されるのは慣れっこってなもんさね。)
コウシィの甘美な香りを嗅ぎながら、フェイは少し悲しげに微笑んだ。
そんなフェイの様子に一切注意を払う事なく、シノはマグを手に取る。漆黒の液体を、薄い唇でほんの少し啜るーーーー
「がっ!?かはっ、かはっ!!に、苦っ!!おい、カナタ貴様!!毒でも盛ったのか、この泥水に!?」
シノはコウシィの苦味に面食らったようだ。その様子を見て、無表情だったカナタの顔に微かな笑みが漏れる。
…ただしそれは、他人を嘲笑するような、どこか意地悪な笑顔だった。
「……ああ。すみません、ねえ。飲みたく、無かった、ら、飲まなくて、良い、ですから。」
カナタのまさかの反応に、シノはどうやら拍子抜けをしたようだ。
「き、貴様…なんで笑ってるんだ?あたしは今、貴様がせっかく出してくれた飲み物を反射的にブジョクしたんだぞ?腹が立たないのか?」
先ほどまで興奮していたはずのシノは、素っ頓狂な声で聞いた。驚きのあまり、怒りがどこかに行ってしまったらしい。
「いや、だって、ねえ。仕方ない、でしょ。あなた達みたいなヤバン、人、に、この、かんみ、なる、味が、分からない、のは。いかにも、きょ、キョウヨーが、無さそう、ですから。」
「なっ……貴様ッ!!」
マグを机に叩きつけ、激昂するシノ。対してカナタはその歪んだ笑みを、さらに深くする。
「カンミだのキョーヨーだのよく分からんが、取り敢えず馬鹿にされているということは何となく分かるぞ!貴様私をヤバンと言ったが、お前こそ舌が少々壊れているんじゃないか?カツゼツも悪いようだしな」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、カナタの顔に激しい怒りの色が見えた。が、次の瞬間に、彼の顔は無表情に戻る。
シノとカナタ。2人の間の空気が張り詰め、緊張がついに最高潮に達しようとした正にその時ーーー
フェイの強烈なチョップが、シノの脳天に直撃した。
「いっ…!!な、何をするフェイ!!
我々、ブジョクされたのだぞ!この舌ったらずの半獣人に…」
「それ以上言ったら怒るよ、シノ。ごめんねえカナタくん。この子、クールぶってる割に味覚お子ちゃまだからさあ。…うん、この飲み物、苦味の中にもほんのり花の蜜の甘みがする。美味いねえ」
カナタは、その無表情を一切崩さない。
フェイからの評価など、何とも思っていない風な様子だった。
「…ふん、そう、ですか。ま、あなた達に、褒められようと、されまい?されない?と、どちら、でも、良いこと、です。」
こんな話をしている場合では無いとばかりに、カナタは自身の頭を横に振る。
「…それよか、ぼ、僕が聞きたいの、は、先程の話、です。わ、忘れたい事が、な、無いのかとか、どうとか…。」
フェイは唇をマグから離し、ゆっくりと口を開く。
「……うーんとね。ちょっと突拍子も無い話だから、信じてもらえないかもしれないけど…。
【祝福の祈子】の中にはね、特殊な能力を持ってるヒトが稀にいて。例えば俺の場合は、対象のヒトの記憶をーーー」
フェイは、その無骨な人差し指をすっと立て、真っ直ぐにカナタの方へ向けた。
「記憶の一部もしくは全部を、奪うことが出来るんだ。本人が、望む望まないに関わらず、ね」
ニコリ、と笑うフェイ。顔から血の気を無くしたカナタ。そして、ブツブツと文句を言いながらも、コウシィの苦味と格闘するシノ。
いっときの沈黙の後。口を開いたのは、カナタだった。
「記憶を…奪う、ですって?じゃ、じゃあ、あなたは、やろうと、思えば、ぼ、僕の記憶を、ぜんぶ、う、奪うことも、出来ると…」
「うん。やろうと思えば可能だわねえ。でも、俺はシノちゃんと違って平和主義者だから、そんなこたぁしないけども。大抵はこうして一宿一飯にあずかるお礼に、貴方の忘れたい記憶だけをぱぱーっとトバしてしんぜよう、ってな感じかな。言うなれば取引だねえ。あ、記憶を取り出す作業は一瞬で終わるし、痛みも無いから安心してね。」
カナタはごくり、と唾を飲んだ。しっかりと大きい青年の喉ボトケは、狼のそれを感じさせる。
「もちろん忘れたい記憶が無いのなら、俺は無理にとは言わないよ。だってそれは、とても幸福な事だしね。ヒトは誰だって、過去のーー」
「全部、お願い、します」
「過去の記憶に……は?……」
カナタが発したまさかの言葉に、フェイは自身の耳を疑う。
「……全部って……え?カナタ君。今君、全部って言ったのかい?」
面食らった顔のフェイを他所に、カナタは涼しげな顔をして頷く。
「はい。ぜんぶ、です。文字通り、ね。僕の記憶、を、全て、消し去って、ほ、欲しいの、です」
「ぬ。なんだなんだ、貴様ら!私を差し置いて何の話をしているんだ?」
コウシィまみれになった口をぬぐいながら、1人会話から置いていかれたシノが尋ねる。フェイとカナタは、黙ったままお互いの顔を見つめている。
「…カナタくん。一つだけ、聞きたいことがあるんだけど」
顎の無精髭をいじりながら、フェイが口を開く。
「何で君は、記憶を全部消したいなんて言うんだろうか。もし良ければ、事情を教えて欲しいんだけど。無理、かな?」
フェイの提案に、カナタはあからさまに嫌な顔で応じる。
「…事情、って。そんな、こと、あなたに言う必要、あります、か?あなたは、それを、き、聞いて、何か、出来る、わ、訳じゃない、でしょう、に」
「いやあ。確かに君の言う通り、俺が君の個人的な事情を知ったところで、恐らく何の力にもなれないけれど。でもほら、俺だってこの通り、生身の人間な訳だからさ…」
フェイは少し困ったような顔で微笑んだ。
「きみがどんな人間か…どんな人生を歩んできたのかを知らないまま、全ての記憶を消すと言うのは、寝覚めが悪いと言うのかな…。モヤっとするというか……分かるでしょ?」
カナタは少し俯いた。自身の指に出来たササクレを毟りながら、フェイの発言の正当性を吟味しているようだ。
数分ほどの沈黙の後、カナタが重い口を開く。
「……ぼくが、どんな、人間か…。です、か。ふふ。良い、でしょう。話し、ましょう。僕が、どんなに、く、クズ、で、救いようのな、無い、人間か」
話しながらカナタは、自身の内にえも言われぬ高揚感が湧き上がるのを感じた。
「僕、は。彼方者なんです。最初から、こ、この土地に住んでいたわけじゃ、ない。や、ヤコブの梯子を通って、ちょうど、い、今から7年くらい、前に。他のクニから、ここに、やって来ました。いや、来たと言う、か…逃げて、来たと、言うか…。」
自身でも奇妙なほどに、その身の上を語る言葉を止められない。言葉が、次から次へと溢れ出てくる。
「……や、ヤコブの梯子を、通ると、彼方者になるって…僕に、大変な、ことが、起こるっていうのは、分かってた。
わ、分かってたけど、止められなかった。僕は、逃げたかった。そして、逃げた。結果僕は……失い、ました。」
7年。
7年もの間、この青年はたった独りで生きて来た。岸壁に囲われたこの土地で。
誰と会話をする事もなく、誰と心を通わせる事もなく、独りで。
そんな彼の前に今、ヒトが2人も現れた。
カナタ自身は全く気付いていなかったのだが、彼の心と身体はその実、ひたすら求め続けていたのだった。
話し相手を、心の底から。
誰かに聞いて欲しい。
誰かに知って欲しい。
そしてーーー
「……僕は、卑怯者の、クズ、です。全部、捨てて来ました。す、捨てちゃいけない、ものまで、捨てて来た。きっとその罰で、僕は……」
そして誰かに、自分の罪を断罪して欲しい。
「僕は、自分の夢を、失いました。」