蝶の夢
大学4年生のときに書いた小説です。当時の感覚や考えが表れていて、懐かしい。自分としては懐かしく、こしょばゆいような作品です。
わたしは蝶になった夢を見た人間だろうか。
それとも今人間になっている夢を見ている蝶なんだろうか。
荘子
目次
1 人間の夢を見る蝶。
2 ある男の夢を見る発明家
3 女性の夢を見る人形
4 蝶の夢を見る女性
5 人形の夢を見る男
6 発明家の夢を見る男
1 人間の夢を見る蝶
ある晴れた春の昼下がり、一匹の蝶が空を飛んでいた。
蝶は、何かを探して、ふらふらと飛んでいた。その飛び方は、ひどく疲れているようで、一本の目立たない木の葉の裏側にとまると、すやすやと眠ってしまった。
「次の店行くぞー。」
おれはそう叫ぶと、周りにいる大学時代の友人たちは、「変わらないな」と笑う。
大学時代の友人たちと飲むときは、いつもこうなる。しがらみもなく、気を心なく置ける仲間の前では、おれは一人のおれとしてそこに存在する。大学時代の友達は一生の友達になると、人生の先輩方はおっしゃっていたが、ようやくその意味がわかる年頃になってきた。大学時代を思い返し、学生の気分になることができるから、しがらみがないのだと言う人がいるかもしれないが、おれはそれだけではないとも思う。大学時代という、ある程度は成長しているが、まだまだ未成熟な段階の自分をさらけ出していたからこそ、気を使うことなくのびのびとすることができるのではないだろうか。
「お前最近何やってるんだ」
と、大学時代いつも一緒に授業を受けていたやつが尋ねる。「お前、一度就職したけど、すぐやめちゃったって聞いているんだよな」
「今は、コンビニでバイトしながら、将来の準備をしているんだ。」
「将来の準備って何?」
「それはまだ言えないな。来るべく時が来たら、教えてやるよ。」
「来るべく時が来るってなんだよ。まあお前らしい。変わらないな。」
一緒に授業を受けたやつとおれは、大学時代3年生の秋に就職活動をしようとしていたときみたいな会話をしながら、酒を飲んだ。大学時代と違うことは、今、おれは焼酎をロックで飲んでいるということだけだ。
蝶は眠りながら夢を見ていた。起きては眠る、を繰り返しながら、人間になって生活をしている夢を見ていた。蝶は起きる努力をしたが、春の昼下がりに目を覚ますことは容易なことではない。周りに自分を捕食する生物がいないか少し気になったが、こんな暖かい日はみんな眠っているに違いないと蝶は自分を納得させた。
春の日差しは暖かく、すべての生物を眠りにいざなった。
蝶は暖かい春の風を翅に受けながら、また眠りについた。
目が覚めると、おれは自分の部屋にいた。昨日、飲んだ後、家に帰ってそのままソファの上で寝てしまったのだ。おれは、水道水をコップに注いで飲んだ。飲み会の次の日の朝に飲む水は、体にしみ渡り、体内のあらゆる器官に活力を与える。まるで真夏の暑い昼に、太陽に顔を傾ける向日葵が水を得て、細胞壁と細胞膜で囲まれた細胞が喜びの声をあげるかのような感覚だ。
飲み会の後の思考は、いつもとは違う回路を進むので、新しい風景を見ることが出来て、愉快な気分になる。おれはそんなことを考えながら、シャワーを浴びることにした。シャワーを浴びることで体が一度リセットされて、新たな気分で、次のステップに進むことができる。
シャワーを浴びながら昨日の夜を思い返した。一緒に授業を受けたあいつも、今では子供もできて、幸せな家庭を築いているのかと。それに対しておれは、コンビニでバイトをしながら、ぼんやりした将来をなんとなく考えながらレジをうっているのかと。
思い返せば就職活動のときもそうだった。みんなが具体的な将来設計を描いて大企業にどんどん就職していく中で、おれはそれに対してなんとなく嫌悪感を抱いていた。今とちょっぴり先の未来を、過去に敬意を抱きながらゆっくり進んでいけばいいと思っていた。
駆け足でみんなと同じ方向に走っていくのが嫌だったのかもしれない。なぜ駆け足?なぜその道?速く走れる人がなぜ一番になる?そんなに急いで走ったら、きっと人生も早く終わってしまうのではないのか?質より量。たくさんの経験。経験から紡ぎだされるもの。それらが自明のごとく価値をもつこととされるのはなぜだ。
おれは走っていく道のりに対しても疑問を抱いていた。走っていたら突然その道が壊れて、落ちていってしまうかもしれないのに。あるいはその道は実は地獄へ続く道かもしれない。なぜ、それを選ぶのか。道に対する信頼はどこからくるのか。盲目的に道を信じていいのだろうか。
おれはゆっくりでいいから、風景を楽しみながら進んでいきたい。じっくり足で地面を踏み締めながら、進んでいきたい。自分の後ろにゴミを落とさないように進んでいきたい。でも、これまでに、いろんな失敗をして、進んできた道のりはゴミだらけかもしれないけれど。
ふー。シャワーを浴びてリセットしよう。シャワーを浴びて一度リセットさせて、ステップを上って行こう。
シャワーを浴び終えると、時計を見た。10時38分。コンビニのバイトは13時からなので、少し時間がある。おれは、洗濯をしながらスパゲッティを湯で、見るともなくテレビを見ていた。また、誰かが死んだらしい。テレビではコンビニで女性が人を殺した話を特集していた。コンビニで働く自分としては、興味を持つべき内容だったのかもしれないが、そのときのおれはぼんやりとしていて、歴史上の一つの小さな事件のように、単なる事実が頭の片隅に無造作に投げ込まれただけだった。
蝶はここで目を覚ました。男の考えが蝶の中に入ってきた。自分も蝶として、どう生きていくのだろうか。この人間と比べたら、きっと圧倒的に短い人生だろう。その中で、どう自分の道を進んでいくのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていたが、体系的に物事を考えるのは、ふさわしくない陽気だった。蝶はうつらうつら、何かを考えようとしたが、また、眠りについてしまった。
ぼんやりとスパゲッティを食べていると、時間がどんどん過ぎていった。時間は、みんなに平等に与えられている唯一のものだと勝ち誇った顔で言う人がいるが、あれはきっと世界の7つの大きなウソのうちの一つだとおれは思っている。だいたい、自分ひとりでしか時間の流れを体感したことがないくせに、なんで当たり前のように他の人も同じ時間の流れを体感したと信じることが出来るのだろうか。
時間の流れは同じで、時間を捉える感覚的な問題に過ぎないという考えもあるだろう。しかし、納得できない。感覚がそもそもみんな違うのなら、時間を捉えているのもそれぞれ違うのだろう。ではなぜ自分の感覚で捉えた時間が客観的なものだと言えるのだろうか。いろいろな科学的手法とかで理論づけようとしているのも、後付けに思えてならない。もしかしたら、この世の中で証明されていることすべては、何かを隠すために無理やり意味づけされているのかもしれない。
結局、人間は自分というフィルターを通してしか、世界に接することができないのだ。
時間がどんどん過ぎて、バイトの時間もどんどん迫ってきたので、おれはスーツに急いで着替え、最寄り駅まで足早に歩き、電車に乗った。スーツで行く必要はないが、スーツで行ってはいけないというルールもない。
電車に乗っていると、前に、きれいな女性が現れた。その女性はすらっとしたスタイルで赤色のコートを着ていた。その女性は電車内でも輝いていた。一人だけスポットライトが当てられているようだった。おれも長い時間見つめていたが―あるいは短い時間だったかもしれない。時間というものは常に個人的で、相対的なものなのだ―相手がこちらを向いたときに、手元の時計を確認するふりをしながら視線を外した。女性は、凛とした表情で右手にかばんを提げて立っていたが、おれの降りるべき駅の一つ前で降りて行ってしまった。
そのとき、女性の過ぎた空間に目をやると、黄色い定期入れが落ちていた。おれは、さっとその定期入れを手に取ると女性に向かって走り出した。
「すみません。これ落とされましたよ。」
と、伝えると、その黄色いイヤリングをした女性は振り返った。電車を降りても女性は輝いていた。
「すみません。ありがとうございます。」
「いえいえ、定期がなければ、改札を通ることができないと思って。」
「ありがとうございます。でも、この駅あなたの降りるところだったかしら。仕事に向かうところでしたら、ご迷惑をおかけすることになったでしょうに。」
「いえ、大丈夫ですよ。次の駅のコンビニでバイトをしているだけですし、連絡をすればバイト仲間が何とかしてくれるはずです。」
「本当にありがとうございます。お礼をしたいのですが、私も急いでおりまして。」
「お礼なんて大丈夫です。黄色の定期入れを拾って、あなたのような素晴らしい方と話をすることが出来たので、私は、幸せを一緒に拾ったと思っていますよ。」
「あなたって面白い人ですね。すみません。それでは、さようなら。」
女性はそう言うと、足早に過ぎて行った。
おれは女性を見送ると、同僚に電話をして、遅れる旨を伝えてから電車に乗った。
その日は22時までバイトをした。
その次の日も、次の次の日も、おれは電車に乗って、コンビニでバイトをして、家に帰ってシャワーを浴びて寝た。変わらないおれは、昔と変わらないままスパゲッティとシャワーを愛していた。ただ、最近昔と変わった自分も意識するようになった。おれは、昔と変わって、焼酎のロックを好きになり、あのとき電車の中で会った女性を愛するようになった。
蝶は目覚めた。男が女性を愛した後どうなるか気になったが、もうこれ以上眠ることはできなかった。蝶は思った。この男は女性と結ばれて幸せな家庭を築くのではないだろうか、と。いろいろな物事を深く考えてしまう男ではあったが、好青年といった感じだったし、何より、悪意が感じられなかった。これは抽象的な感覚ではあるが、蝶は、一般的に感覚が鋭いものなのだ。
しかし、もしかしたら、男はこの女性と別れるかもしれない。いや、殺してしまうかもしれない。
そんな夢の続きに思いを巡らしながら、なかなかいい夢を見たなと蝶は感じていた。
でも所詮、夢は夢なのである。自分はこれから蜜を吸い、子供を産まなければならない。
それが蝶に生まれた宿命なのだ。
蝶は、夢の世界に別れを告げて、春の夕闇に消えていった。
2 ある男の夢を見る発明家
ぼくは、数か月前に2人目の子供が出来て、これから幸せな家庭を築こうとしていた。
しかし、あるとき道を歩いていると、後ろから背中を刺され、死んでしまった。
死んでみて思うことは、死ぬのは意外とあっけないことだということだ。ぼくは小さい頃、死んだ後の世界や、死ぬことの恐怖について半日くらい考えていたことがある。死んだら真っ暗になって、今考えている主体というものがなくなって、何も考えられなくなる。目をつぶって一人で考えているときや、寝ているときは、何かが頭の中に描かれて、それを意識する自分がある。しかし、死んでしまったら、何かを頭の中に描くこともできなくて、何も見えなくなる。何も考えていないということを考えているのではなく、究極的で、概念的な闇が訪れて、それに対して解決のできない恐怖を感じていた。
しかし、死んでしまった今、ぼくは考えを巡らすことができている。
ぼくがぼくの人生について振り返ることが、何かの役に立つかもしれないから、自分が刺されて死ぬまでを順に追っていきたいと思う。
ぼくは、都会のそこそこ有名な大学で経済を学んでいた。授業は結構面白くて、多くの大学生が休みがちな中、ぼくはほとんどの授業に出席していた。経済の授業は抽象的で仮定が多く、自分の人生にどう役立つか分からなかったが、役に立つ立たない関係なく、問題を設定して、論理的に分析を行い、それに対して何かしらの答えを出すということがぼくは好きだったのだ。
一緒に授業を受けていた友達はぼくとは正反対だった。何かに対して一応の結論を取ることが嫌いで、いつも仮定の不確かさを考え、授業はほとんど聞いてなかった。そんな彼になぜ授業を受けるのかと尋ねたことがあったが、彼は、「つまらない授業の中に身を置きながら、将来の準備をしているんだよ」という以外、多くを語らなかった。
そんな彼が、ぼくに、有意義とは何か、という質問をしたことがある。ぼくは、
「たとえば何かの時間を過ごしたことが有意義だったというときは、その時間は大変充実していて、とても学びの多いものだったということではないかな。辞書的には意味があるって感じで載っていると思うんだけれど。」
と答えると、彼は、
「では、その有意義だということを決める主体というのは、それぞれであって、この世界に唯一絶対的な有意義というものはないのか。たとえば、自分以外の全員が有意義じゃないと考えていても、自分が有意義だと思えばそれは自分にとっては意味のあることで、意味のあるもの、有意義なもの、というのは自分というフィルターを通してしか観念することが出来ないものなのか。あるいは、自分がこれは唯一絶対的に有意義なものだと捉えれば、自分にとってそれは唯一絶対的な有意義なもので、絶対的なるものというのは、全体の中で決められているようで、実は、他者と次元が違うところで勝手に自己が決めているのではないか。」
と、意見を述べた。ぼくは、
「そうかもしれないな。そう考えると、評価というものも考えさせられるな。人間は社会的な動物で、他者との関係の中で生きているから、他者から自分がどう見られるかということを意識するけれど、究極的には評価し合えないのかもな。評価すること、そしてされることによって、人は自分を外部から形作ろうとするけれど、究極的には、世界を意味付けする主体たる自分が他者とは共有しきれない限り、他者からの評価なんて、巨大な建造物にデコピンするようなもんだよな。」
と答えると、彼は黙って下を向いて、一人で何かを考え始めてしまった。
こんな正しいか正しくないのかわからないこと―あるいは、正しいとか正しくないという次元では割り切れない分野のこと―に関して話し合うことがぼくたち二人の間でのコミュニケーションの一つであった。
ぼくは、その場で思いつくままテキトウに彼に答えていたが、彼はいつもそのことに関して真剣に考えて、ときには、感情をそこに込めることもあった。しかし実際、彼はあまり感情を表に出さない人で、いつも何かを自分の中で反芻しているようだった…
まるで、なにかの小説を読んでいるかの感覚になりながら、わたしは目を覚ました。これだけの夢を見ることは彼女にとって非常に珍しいことだった。夢を見るのは嫌いではないが、夢が途中で終わってしまうのは、読んでいる漫画の連載の途中で、作者が死んでしまったときのようで、寂しい気分になる。続きを知ることは二度とできない。想像することしかできないのだ。
わたしは、パソコンの画面を見て、自分が30分寝てしまっていたことを確認した。パソコンの前に突っ伏して寝てしまっていたのだ。
わたしは、あるものを発明しようとしていた。その内容は、簡単に言うと、目には見えないが、存在する何かを可視化するというものだ。そのためにわたしは20年の年月をかけてきた。
わたしは、普段の生活から、常に発明のことを考えていた。これまでの常識を覆す発明をするためには、これまでの常識とは違った生活を送らなければならない、というのが持論だった。常識にとらわれてはいけない。とらわれると、視野が狭くなってしまう。生まれたての赤ん坊のように、目に映る全てのものをあるがままに見なければならない。
わたしは常に傘をさして歩くことにしていた。雨の日も風の日も、晴れの日も、雪の日も。晴れの日に傘をさしていると、人々は怪訝な顔でわたしを見た。なぜ晴れているのに傘をさしているのかと。しかし、わたしは、雨が降るからではなく、みんなが傘をさすから、傘をさすのではないかと考えている。実際、雨が降っていても、小雨なら、みんな傘をささないのに、誰かが傘を差し始めると、雨の規模は変わってないのに、雨後のタケノコのように次々と傘をさしていく。
結局、皆、出る杭になるのを恐れているだけなのだ。晴れの日に、みんなが傘をさしていたら、いつしか、常に傘をさすことが常識になるだろう。
わたしは、雨後のタケノコのように、皆が乱立する中で埋もれてしまうのを恐れている。わたしは、雨なんか関係なく、天に向かって伸びる、誇り高き竹になりたいのだ。
話は戻るが、今回見た夢は、何かを暗示するかのようであった。そもそも滅多にわたしは夢を見ないのに加えて、その内容において、死者が、生前を回想するというスタイルで話が進んでいった。これは、死者になっても、実態があることを暗に示しているのではないだろうか。わたしの研究が、遂に実を結ぶことを予言しているのではないだろうか。
わたしは、おもむろに、手元の試作品を手に持った。この試作品は、キーホルダーくらいのサイズで、人形の形をしている。これが、目には見えないが、存在する何かに当たると、理論上は人形の形となって現れるのだ。もちろん、人形以外の形も作ってある。動物の形、ただの玉の形、抽象的な形。いろいろな形がある中で、実験したところ、人形の形が理論上、最もバランスがいいということが判明したのだ。
わたしは、この人形を壁に向かって投げつけてみた。もし、そこに目には見えないが存在する何かがあれば、その何かは、人形の形をもって現れるはずだ。わたしは淡い期待を持ちながら、結果を待ったが、そのキーホルダーサイズの人形は、地面に落ちて、何も起こらなかった。
わたしは、来る日も来る日も、人形を投げ続けていたのだが、毎回、空しく地面に落ちるだけであった。
「今回の夢は、いいことが起こる前ぶれのような気がしたのだがなぁ」
と一人言を言いながら、煙草を吸った。煙草を吸うときは、二本同時に吸って、同じ長さまで吸うというのが、わたしの吸い方である。
わたしは気分転換に、散歩をすることにした。もちろん傘をさしてである。歩いていると、突然強い風が吹いた。その風はなぜだか甘い匂いがした。キンモクセイと、生クリームを混ぜたような匂いがした。しかし、キンモクセイの季節も違うし、周りにその姿は見当たらなかった。
わたしは、欠伸と深呼吸をすることにした。なにか不思議なことがあったときは、欠伸と深呼吸をすることにしていたのだ。欠伸をして、その場の空気と体内の空気を少し交換した後に、深呼吸で空気を丁寧に出し入れすることで、その場の空気感を自分の中に取り込むことができる。何かを頭では理解できなくても、体で何か理解できるかもしれないのだ。
わたしは、先ほどの眠気から来る、純粋で柔らかい欠伸をした後に、中学校のときに、体育の教師から習った、律儀で、格式的で、健やかな深呼吸をした。
わたしは、その儀式を終えた後、もしかしたら、と思い、家に帰ることにした。もう一度、人形を壁に投げつけてみようと思ったのである。
しかし、家に帰ると、そこに人形の姿はなかった。人形が落ちていた場所だけが、変に強調されていて、その場の空間とは調和しきれていなかった。わたしは煙草を二本吸って、自分を落ち着かせ、欠伸と深呼吸をした後に、パソコンに突っ伏して、もう一度眠ることにした。
3 女性の夢を見る人形
人形は夢の中でさらに夢を見ていた。
夢の夢の中で人形は女性とお茶をしながら、楽しそうに話をしていた。自分は人形なのだから女性と話すことはできないのにな、という疑問があったものの、女性と話すことがあまりにも楽しいので、そんなことはどうでもよくなってしまった。お茶をしたあと、人形は女性と外を歩いていた。その散歩もとても楽しいものだった。
楽しく歩いていたのだが、女性はいきなり泣いてしまった。なぜ泣いてしまったのか人形はわからなかった。でも、その女性の気持ちは、人形にも伝わった。人形は悲しみと憎しみの感情を持った。でも、なぜその感情が生まれるのかはわからなかった。
その後、人形は女性を置いて、走り出していた。どれだけ走っても、全然疲れなかった。走って走って走って走って…気が付いたら、人形は空を飛んでいた。必死に手を動かさないと、下に落ちていってしまうので、人形は必死に手を動かした。さっき走っていたときと違って、空を飛ぶことはとても辛かった。辛いけども、下に落ちることはどうしても避けたかった。下に何があるかは分からないが、決して落ちてはいけないと思った。
人形は必死に手を動かした。必死に必死に必死に必死に…
私は、夢から覚めた。そして煙草を一本吸った。あまりにもリアルに夢を見ると、何が現実か分からなくなることがある。
夢の中での矛盾に気づくことで、それが夢だと意識することが出来るときもあるが、あまりに現実的ではない夢や、あまりに現実的すぎる夢を見たときは、現実の世界で夢を見ていたのか、夢の世界で現実の世界を見ていたのかと、しばし脳内が混沌とした有様を呈することがある。たいていの場合は、時間が経ち、夢だと整理することで、心を穏やかにすることが出来るが、時間が経っても、まるで重い塊を飲み込んだのかのような意識が続くこともある。今回の夢は、うまく整理をすることが出来なかった。整理しようとすればするほど、まとまりを失い、記憶が薄れていくような気がした。では、完全に忘れられるかと言うとそうではなくて、ふとしたときに、夢のワンシーンが頭をよぎることがあった。それはまるで、殺し屋にずっと狙われているような感覚だった。殺し屋を捜せば隠れられ、気を緩ませると狙われる。その夢は、私を常に狙っていた。
人形はうとうとしながら、夢の場面が変わっていることに気付いた。今度は、人形はさきほどの女性になっていた。それだけを確認すると、人形は、再び夢の世界に入っていった。
私は十数か月前に恋をした。その人とは電車の中で出会った。私はそのとき急いでいた。傍から見たら優雅に佇んでいたように見えたかもしれないが、コートの中ではかなりの汗をかいていた。次の駅で降りて、タクシーに乗って、ホテルのロビーで待ち合わせをして…想像すると、かなりぎりぎりの状態にある。
駅で降りた後のことに思いを巡らせながら、電車に乗っていると、視線を感じたのでそちらを見てみた。その視線を送っていたと思われる男は、腕時計を確認していた。そうこうする内に、駅に到着して、私は、改札へと急いだ。改札へ行く道のりで自分を呼び止める声がした。振り返り、その声を出した人を見ると、さっき腕時計を確認していた男性が私の定期入れを届けてくれた。
「すみません。ありがとうございます。」
と私がお礼を言うと、男性は気さくな笑みを浮かべていた。
私が、何かお礼をしたい旨を伝えても、その男性は笑みを絶やさず丁寧に断った。
私は、男性との会話を楽しみたいと思ったが、これからの予定があることを思い出し、足早に改札に向かった。
その日から、電車に乗るのが楽しみになった。定期を拾ってもらった後、初めて男性と会ったときも、気さくに話を楽しめた。
私は、あまり人を好きにならないタイプであるが、今回は完全に一目ぼれをしてしまった。なぜかはわからないが、電車でその男性を見かけると、降りる予定の駅に着くのが早く感じられてしまう。私は、あるとき、その男性から食事に誘われた。そして、その食事のあと夜景を見る中で、男性の口から付き合いたいという言葉を聞くことが出来た。
私は、それからいろいろな所で彼とデートをした。すべての場所での彼との時間は、とても素晴らしいものであったが、特に好きだった場所は、公園だった。公園でとりとめのない話をすることがたまらなく幸せに思えた。彼は、物事を深く考える人だった。あるときは、私の何気ない質問に対して数分間考え込んでしまった。
私は、そんな彼が、積極的に誘ってこないことを悩んでいた。仲が悪いわけではないし、彼は私のことを愛していると言ってくれてはいたが、ある段階までいくと、まだその時期ではないと言って、彼は自分の世界に入って、段階を元に戻してしまった。
私は、不安になった。彼は、私のことを本当は愛していないのではないだろうか。私は思い切って公園で聞いてみた。
「私のことを本当に愛しているのなら、それをしっかりと示してほしい。そうじゃなきゃ、もう私はあなたと付き合っていられない。」
「確かに、おれは、君の誘いを何回も断っている。でもそれは仕方のないことなのだ。今、そのような関係になってしまったら、おれたちはもう元に戻ることは出来なくなってしまう。これは、君自身のためであるし、おれのためでもあるんだ。わかってくれ。」
「あなたはいつもそう言って、自分の考えに入ってしまって。私はもう我慢できない。態度を曖昧にするんじゃなくて、イエスかノーで答えてよ。」
「おれは、君のことを愛しているんだ。でも、イエスかノーで答えろというのなら、おれはノーと言わざるを得ないな。」
彼はそう言うと、腕時計を確認して、公園を後にした。残された私は、公園のベンチに座って、これまでの楽しかったことに思いを巡らせていた。でも自然と涙は出なかった。今、ここで起きた現実は、どこか不明瞭で、現実世界と夢世界の境界を曖昧にしていた。
私は、彼に振られてから、公園に煙草を吸いに行くようになった。彼と一緒にいるときに、彼は、私の煙草を吸っている仕草が好きだと言ってくれた。公園で煙草を吸っていると、いろいろな人に声をかけられた。私はそのどれにも、返事をしなかった。返事をしないでいると、たいていの男は、その場を去って行った。
そんなあるとき、女の子を連れた一人の男と出会った。
そこで人形は目覚めた。そして、夢の中の女性に恋をしている自分に気付いた。
人形は、人形でも人間に恋をするものなのかと冷静に分析しようとした。しかし、分析を続けることはできなかった。そもそも恋の支配下において、客体が、人間だろうが人形だろうが、そんなことは些細なことなのではないだろうか。人の間にいることを本質とする人間。人の形であることを本質とする人形。似ているようで、似ていないようで。共通点と、相違点を示して、体系的に比較することも可能ではあるが、人形は体系的なことが苦手なので、そこで思考はストップした。
では、恋とは何か。付き合うとは何か。結婚するとは何か。人形は、まとまり切らない頭を使いながら、考え始める。付き合うとは、非常に中間的なものである。友達でも、結婚相手でもない。肉体関係があるのかどうか。そして異性の親友と恋人は、必ずしも合致するものでもない。
では、付き合うきっかけとなる、恋とは何か。これは、言葉にすることは非常に難しいものである。感覚的に捉えることは人形にもできても、それを言葉に落とし込むことは、困難なことなのである。しかし、そもそも恋とは非常に概念的で、感覚的なものである。頭ではなく、体で捉えられるものと言ってもいいだろうか。そう言えば、人間にはDNAなるものがあって、それが行動を規定しているのだったっけ。と、考えると、人間が長い進化の過程で身体に組み込まれた一つの作用のことを、便宜的に「恋」と名付けているだけかもしれないな。
と、考えると、人形と人間の違いなんて究極的にはDNAがあるかないかだな。DNAのない人形が恋をするってことは、一部を除いて知られていないがな。
そんなことを考えながら、人形は空を見ていた。
一般的には、この人形は、透明人間と呼ばれている。実体は見えないけれど存在する。また、言葉を話すこともできない。透明人間は人間にとって、五感の中の触覚でしか、感知されないものなのである。
では、なぜこの人形は、人形として存在しているのだろうか。人形自信、人形になった瞬間というのは覚えていない。何かそうならざるを得ない理由があったと人形は考えている。何かの必要性に駆られてその姿になるというのは、進化の過程が証明したことである。
人形は空を見ながら考え事をして、一応の結論らしきものを思いついてしまうと、やることがなくなってしまった。やることがなくなってしまうと、人形はこの世界で一人、取り残されたような気持ちになった。それは、社会の大きな歯車の中で、自分のやる作業だけが終わってしまって、手持無沙汰なときに生じる感情と似ているかもしれない。
人形はやることがなくなってしまったが、女性に対する思いは、夢から覚めたときよりも強くなっていた。人形は、空を見ながら、女性と自分が空を飛ぶことを考えていた。夢の中での空の旅は辛かったけれども、女性と一緒に飛ぶ空は、軽やかで素敵なものだった。
4 蝶の夢を見る女性
女性は夢の中で蝶になって空を飛んでいた。優雅に美しく、甘い匂いを漂わせながら飛んでいた。
蝶は、花を探して空を飛んでいた。そして、いつもの場所にたどり着くと、周りの様子を確認し、ゆっくりと蜜を吸った。とても甘い。こんな甘いものを蝶はいつも吸っているのか。
蝶が蜜を吸っていると、前からバッタが来た。バッタは、蝶に話しかけてきた。
「最近、鳥の様子がおかしいんだ。いつもならこの時期、鳥が自分たちを食べに来るはずなのに、全然来ないんだ。」
「それだったら食べられる心配がなくてよかったじゃない。」
「いや、そうでもないんだ。ある一定数食べられないと、バッタの数が増えすぎてしまって、自分たちが食べるえさがすぐになくなってしまうんだ。食べるえさが減ってしまうと、餓死するバッタが増えて大変なんだ。あぁ、どうしよう。」
「餓死するのだったら、結局バッタの数が減ってちょうどいいんじゃないの。でも、どっちみち私には関係のないことよ。」
蝶はそういうと、また、甘い蜜を探して空に飛んで行った。
蝶は、今度は人間の多く住む世界に飛んできた。人間世界では、いろいろな音や匂いなど、刺激がありすぎて、蝶の感覚は麻痺しそうになってしまった。
蝶は出口を求めて空を漂っていると、いろいろな人間の声が聞こえてきた。ある人は文句を言い、ある人は悩み、またある人は、ストレスを発散させるべく歌を歌っていた。
蝶はそのすべてが、正直ではないような気がした。何かに理由をつけて、無理やり納得をしているように思えた。蝶は人間がちっとも自由ではない気がした。何かに無理やり結びつけられ、それでそのことに不満を抱えているような気がした。
だからかはわからないが、人間はせかせかしているように見えた。いつも何かを気にしていて、慌ただしい様子なのである。自分よりも圧倒的に長い時間を過ごす人間が、絶対的に時間がないと感じているように思えた。
蝶は空を漂っていた。すると、人間世界からの出口が見えた。
そこを抜ければ、また、花の蜜を吸うことができる。
蝶は無事出口にたどり着くと、空に向かって、飛んで行った。
そこで、女性の目が覚めた。なるほど、蝶の夢は確かにその通りかもしれない。私は一つの決心をして、煙草に火をつけた。
女性は、男性との関係を悩んでいた。女性は男性との付き合い方を悩んでいたのだ。
ある男は長女を他の子と遊ぶように言いつけると、私の方に寄って来た。男は煙草を求めてきた。煙草を一本渡して、しばらく世間話をした。私が公園に煙草を吸いに行くと、男はいつも長女と公園に来て、子供を遊ばせて煙草を吸いに来た。そのうち、私もその男に興味を持つようになり、その男の会社帰りにデートを何回か重ねた。しかし肉体関係になることはなかった。
その時期に私は、人形を見るようになった。その人形は、どこかで見たことがあるようで、いつも何かを探していた。私は電車の中でその人形を見つけたときに話しかけることにした。しかし、話しかけてはみたものの、その人形は、話さないことが人形としての本質であるかのように、頑固にその口を開けなかった。
私は、その人形を家の中でも見ることが多くなった。そして、前と彼との別れや、公園で出会った新たな男とのことを相談した。私は夢中になって話した。そして気付くと、私は涙を流していた。彼と公園で別れた後ですら、泣かなかったのに、なぜだかそのときは涙が止まらなかった。そして涙を流したまま、眠ってしまっていた。
目を覚ますと、涙は止まり、人形は私の前から姿を消していた。私はそこで一つの決心をして煙草に火をつけた。そして、男を呼び出した。
「これ以上私と一緒にいると、あなたも私もダメになるわ。」
私は、それまで男と会話していたときとは違うトーンで、男に別れを告げた。男は取り乱し、なんとか別れないようにしようと説得を試みていた。私は、あなたの言うことを聞くつもりがないことを伝え、その場を去ろうとした。すると男は、後ろから私の方に走ってきた。私は目の前が真っ暗になり、気がつくと、私は、男と同じベッドの上にいた。
私は、目が覚め、男が寝ているのを確認すると、服を着替え、急いで家に戻った。
私はわんわん鳴いた。人形に話をしたときに流した涙とは種類の違う涙である。今回の涙は、泣いても泣いても気持ちに整理をつけさせることが出来なかった。蝶の夢を見ることもできなかった。その日一日中泣いたあと、急に涙は止んだ。そして、頭に、一つの残酷で、決定的な考えが浮かび、私は、それを実行に移すことにした。男を殺そう。私は、男を殺しにナイフを持ってコンビニに向かった。外では、雨がパラパラ降っていた。
5 人形の夢を見る男
人形は女性を愛していた。なぜだかは分からないが、女性と一緒にいると、どんな困難も簡単に乗り越えられる気がした。人形は必要とされることが、その存在理由だった。そして、人形は女性を愛し、女性に必要とされることで存在するのだと思っていた。
人形は女性を探して歩いていた。いろいろな世界を歩いていた。蝶の舞う世界、人形の世界、静かな世界、騒がしい世界。どこを探しても、女性は見つからなかった。
人形は言葉を話すことができなかったし、人形を見ることができるのも数限られた人だけだった。人形は、必要としない人にとっては、その世界に存在しないものだからである。そのような人形の特徴が、人形が女性を探すことを困難にしていたのかもしれない。あるいは、人形が必要とされるタイミングでしか、人形は女性と会うことができないのかもしれない。
人形が女性と会ったのは、ある雨の日だった。
人形はその日も女性を探していた。人形は、傘をささずに、道を歩いていた。人形にとって傘は必要ないのである。傘をささずに外を歩くことは、人形を何だか懐かしい気分にさせた。人形が人形としての自覚を持ってから、雨が降ったのは初めてだったが、昔にもこんな気持ちを体験したような気分になったのだ。
人形が歩いていると、突然強い風が吹いた。その風は甘い匂いだった。その風の匂いに気をとられていると、遠くで叫び声が聞こえた。何かと思って走っていくと、ずっと探していた女性が道に座り込んでいたのだ。
最初、人形はとても嬉しかった。女性に出会えた嬉しさが、人形の心を温かく包んだ。
しかし、その暖かい気持ちはすぐに、冷たいものへと変わった。
女性は、血のべっとりとしたナイフを持って、泣いていたのだ。そして女性の前では男が倒れていた。人形はそれを見ると言いようのない感情に突き動かされた。自分が今そこに存在することが根底から揺らぐような感覚だ。人形は欠伸をした。そして、深く深呼吸もした。そうすることが、人形にとって必要なことに思えたのだ。
そして、人形は女性を置いて走り出した。
ぼくは、女性を思う人形の夢を見ていた。取り返しのつかないことをしたなと思った。そして、少し落ち着いた後、順調に歩んできた自分の人生を思い返した。
ぼくは、大学を卒業した後しばらくして大学のとき同じサークルで一番仲がよかった男と話をした。大学の仲がいい連中何人かで飲もうということだったのだ。一次会は昔を懐かしみながら、他の友達と話してばかりで、彼とは言葉を交わせなかった。一次会が終わって、彼が「次の店行くぞー」と叫ぶと、みんなで適当な店に入って飲みなおした。彼はお酒を飲むと素面とは打って変わって張りのある大きな声を出す。
「お前最近何やってるんだ」
二次会の席でぼくは彼に聞いてみた。
「お前、一度就職したけど、すぐ転職しちゃったって聞いているんだよな」
「今は、コンビニで店長をしているんだ。」
将来の準備についてぼくが尋ねると、来るべく時が来たら、教えてやると言いながら、彼は焼酎をロックで飲んで笑っていた。
そんな彼との飲み会が終わってから数カ月して、ぼくは、2人目の子供を得た。一人目が女の子で、二人目が男の子なので、一般的には良い順番と言えるかもしれない。会社では自分の立場も確立しつつあり、この前の彼との飲み会のあと、足を踏み外して軽い打撲をしたことを除けば、順風満帆な生活を送っていた。
ぼくは、月曜日から土曜日の午前中までしっかりと働くだけではなく、家族との時間も大切にすることにしていた。長女を連れて、公園に行くこともあれば、長男を抱っこして寝かすこともあった。あるいは、妻との何かの記念日には、そのときそのときで自分も妻も満足がいくように努力し、妻が何かの都合で実家に帰りたいというときは、最大限その意見を尊重した。そのような意味では、平凡と言われるかもしれないが、確実に将来に向かって歩みを進めていた。
そんなぼくの人生が狂い始めたのは、ある女性との出会いからだった。あるとき公園で長女と遊んでいると、その女性は髪をなびかせながら煙草を吸っていた。ぼくはその女性を見たときに、歯車が一つ外れたような気がした。そして気づいたら、長女を他の子供と遊ばせて、その女性の元に向かっていた。ぼくは、子供が出来てからすっぱりと辞めていた煙草をその女性からもらうと、肺の奥まで煙を入れて心を落ち着かせるように吸った。
女性は、煙草の煙に包まれながら、甘い匂いがした。そして、軽い世間話をしながら、女性の透き通るような琴線に触れる声の音色に耳を傾けた。素晴らしいオーケストラの発表を聞いたときに心が震えるように、ぼくの心はゆっくりとそして大きく震えていった。
その日から、長女と公園に行くのが楽しみになった。ぼくが公園に行くと、その女性はいつも煙草を吸っていた。ぼくは公園に行くときだけ煙草を吸うことにしていた。それは平凡な毎日を過ごすぼくにとってはささやかな楽しみでもあった。女性との会話の内容はほとんど覚えていないが、彼女の声や匂い、雰囲気は、いつもぼくの心を大きく震わせていた。
そのうち、デートをするようになった。会社の帰り、妻には遅くなると言って、その女性と待ち合わせをした。何回か女性とデートをすることはあったが、肉体関係になることはなかった。そこを超えると、もう後戻りが出来ない気がしたのだ。これまでに築いてきた家族や社会的地位が、ぼくの行動を抑制していたのかもしれない。
しっかりと仕事をし、長女と公園に行き、記念日には妻にプレゼントを贈り、たまに女性とのデートと煙草を楽しむ。そんな生活を何カ月か送っていた。そんなささやかではあるが、刺激を含んだ生活にも、ついに終わりが来た。女性が、別れを切り出したのだ。そのとき女性が言った言葉は覚えている。いや、むしろそのときの言葉しかぼくは思い出すことが出来ない。
「これ以上私と一緒にいると、あなたはダメになるわ。」
ぼくはこの言葉を聞いて、自分の歯車が、がらがらと音をたてて崩れるのを感じた。ぼくは必死だった。女性の方に走っていき、手に持っていたカバンで女性の頭を殴った。
そして、ぼくは気付いたら、ベッドにいた。ベッドの中で女性を思う人形の夢を見ていた。取り返しのつかないことをしたと思いながら隣を見たが、既に女性はそこにはいなかった。
6 発明家の夢を見る男
わたしは、あるものを発明しようとしていた。その内容は、簡単に言うと、目には見えないが、存在する何かを可視化するというものだ。そのためにわたしは20年の年月をかけてきた。
わたしは、普段の生活から、常に発明のことを考えていた。これまでの常識を覆す発明をするためには、これまでの常識とは違った生活を送らなければならない、というのが持論だった。常識にとらわれてはいけない。とらわれると、視野が狭くなってしまう。生まれたての赤ん坊のように、目に映る全てのものをあるがままに見なければならない。
わたしは晴れの日は傘をさして歩くことにしていた。晴れの日に傘をさしていると、人々は怪訝な顔でわたしを見た。なぜ晴れているのに傘をさしているのかと。しかし、わたしは、雨が降るからではなく、みんなが傘をさすから、傘をさすのではないかと考えている。実際、雨が降っていても、小雨なら、みんな傘をささないのに、誰かが傘を差し始めると、雨の規模は変わってないのに、雨後のタケノコのように次々と傘をさしていく。
結局、皆、出る杭になるのを恐れているだけなのだ。晴れの日に、みんなが傘をさしていたら、いつしか、常に傘をさすことが常識になるだろう。
わたしは、雨後のタケノコのように、皆が乱立する中で埋もれてしまうのを恐れているのだ。わたしは、雨なんか関係なく、天に向かって伸びる、誇り高き竹になりたいのだ。
わたしは、おもむろに、手元の試作品を手に持った。この試作品は、キーホルダーくらいのサイズで、人形の形をしている。これが、目には見えないが、存在する何かに当たると、理論上は人形の形となって現れるのだ。もちろん、人形以外の形も作ってある。動物の形、ただの玉の形、抽象的な形。いろいろな形がある中で、実験したところ、人形の形が理論上、最もバランスがいいということが判明したのだ。
わたしは、この人形を壁に向かって投げつけてみた。もし、そこに目には見えないが存在する何かがあれば、その何かは、人形の形をもって現れるはずだ。わたしは淡い期待を持ちながら、結果を待ったが、そのキーホルダーサイズの人形は、地面に落ちて、何も起こらなかった。
わたしは、来る日も来る日も、人形を投げ続けていたのだが、毎回、空しく地面に落ちるだけであった。
「今回はうまくいくと思ったのだがなぁ」
と一人言を言いながら、煙草を吸った。煙草を吸うときは、二本同時に吸って、同じ長さまで吸うというのが、わたしの吸い方である。
わたしは気分転換に、散歩をすることにした。今回は傘をささない。なぜなら雨が降っているからだ。雨が降っていないので、傘をさす、の対偶は、傘をささないので、雨が降っている、なのである。私は自分の行動を首尾一貫させたいのである。科学において、その首尾一貫性というのは、非常に大切なことなのである。
歩いていると、突然強い風が吹いた。その風はなぜだか甘い匂いがした。
そして、その匂いを吸いこむように、純粋で柔らかい欠伸をした後に、中学校のときに、体育の教師から習った、律儀で、格式的で、健やかな深呼吸をした。
わたしは、その儀式を終えた後、走っている一つの実体を見た。
その物体は、人間でもなく、ロボットでもない。そう、人形という言葉が最もふさわしい。人形の走る早さはあまりに速かった。わたしは、人形を追おうと努力したが、人々が傘をさしている道を走るのは容易ではなく、すぐに人形を見失ってしまった。ここでも、人類の偉大な発見を、常識に囚われ、傘をさしている人間によって阻まれてしまった。
わたしは、軽い憤りを覚えながらも、少しだけ見た人形の姿を思い返した。
そして、ゆっくりと欠伸をし、静かに深呼吸をした。
おれは、はっとして起きると、背中にべっとりとした汗をかいていた。男は寝床を出ると、シャワーを浴び、歯を磨いた。
シャワーを浴びて、ようやく現実世界に戻ってきた。今日もコンビニに行かなければならない。
おれは、昨日の朝から外に干してあった洗濯を中に入れ、丁寧に畳んだ。畳みながら見るともなくテレビを見ていた。この前の事件の続きをやっているらしい。なんでも何人もの目撃者がいるにもかかわらず、加害者はまだ見つからないらしい。物騒な世の中になったものだと思いながら、死というものについて考えてみた。死ぬまでは死者の個人的な時間は続いていく。それは、毎日が同じように繰り返されるから、循環した時間のように感じるかもしれないが、一般的には直線的なものだ。あるいは、循環的なものだったのが、どこかでその輪が切れて、直線的なものになってしまっているのかもしれない。いずれにしろ、自分は死んだことがないから、死者の時間に関しては、否定的な立場を取っている。すなわち、死んだものは死んだ時点でまさにジエンドで、そのあとは何もないのであると考えている。詳しくは知らないが、輪廻転生で、新たな生物に生まれ変わるという説もあるそうだが、もしその説が正しいとしても、おれ自身、前世の自分を意識できないのだから、信じきれない。要するに、この世界は、コンビニエンスストアのように、毎日毎日繰り返すけれども、何かをきっかけに、その輪が切れると、繰り返しは起こらなくなるのではないだろうか。
いつものように、考えるともなく考えていると、時間が近づいてくる。時間の流れはいつでも不平等だ。
おれはスーツに着替えると電車に乗ってコンビニへ急いだ。雲が曇る日曜日だった。
コンビニで働いているとわかるのだが、人には生活のリズムというのがある。そのリズムをつかむことで、コンビニで働くことは効率的になる。混む時間帯と、空いている時間帯を統計にとることによって、バイトの適正な配置などを実現することが出来るのだ。ただ、統計が万能であるとも限らない。混む時間帯や空いている時間帯が統計の予想とは異なった結果になることがあるのだ。
その日も、そんな統計の予想とは異なった日であった。予想なら混む時間帯に空いていたり、予想では空いている時間に混んでいたり、働く身としては精神的にも肉体的にもやりづらい日であった。おれの大学の友達が来たのは、予想に反して空いている時間帯であった。それまでコンビニで会ったことはなかったのだが、やつは結構このコンビニを利用しているらしい。予想に反して空いているということもあって、おれとやつは、飲み会以降の話に花を咲かせていた。
話をしながら横を見ると道路に一人の人形が立っていた。おれはちらりとその人形に目をやったが、もう一度目をやると人形はいなくなっていたので、特に気にしていなかった。
しかし、気が付いたら、人形はおれの友達の後ろに立っていた。そして、ナイフで一突きに友達を殺してしまったのだ。
あまりに突然の出来事に動転した。そして、人形の顔を見ようとしたが、人形はその場から姿を消していた。おれがやつの状態を確認していると、そばで、膝から落ちる音がした。見ると、赤色のコートを着た女が座り込んでいて、その右手にはナイフが握られていた。そのナイフには血の跡が付いていたが、おれが女を見るとその血はすっと消えていってしまった。
女は、その場の出来事に言葉が出ないようだった。
おれは、具体的には分からないが、何かがぐるぐると周っていたものが、切られて一本のものになったような気分になった。
現実か夢かはわからない。確実なのは、一人の男がコンビニで切られて横たわっているということだけだ。
おれと女は目を合わせて、そこにお互いの姿を確認し合っていた。
横たわった男に、一羽の蝶が止まった。蝶は女性とコンビニで働く男、そして、横たわった男を順に眺めた。蝶がきょろきょろと見まわす様子は、まるで花の蜜を探しているようだった。
一羽の蝶は翅を開いた。そしてすべてに納得したかのように、人間の世界の出口を探しに、空へ飛んで行った。
完