賢人
「オランウータン館」にやって来た。先程、私が言っていた"森の住人"とは彼等の事である。
オランウータンは、マレー語で"森の住人"を意味している。大型の猿で尾がなく、一般に赤褐色の毛をしている。大人のオスの場合、身長1.5m、両手を伸ばすと2.4mにもなり、体重は55~100kgもあります。オランウータンのオスの顔の両脇にあるぷっくらとした膨らみは「フランジ」と呼ばれている。これは強いオスのしるしで、弱いオスは何歳になってもフランジが何故か大きくならない。髭をたくわえのど袋を持っている。凄まじい握力と腕力の持ち主であり、握力は300kg以上。腕力も人間と綱引きをすれば圧勝と言う規格外である。樹上で暮らす彼等は知能も高く、自分でベッドを作ってそこで寝る事が出来るのだ。
そして驚きなのが、彼等は集団行動をしないのだ。類人猿全体で見ても珍しい。理由として、彼等の住んでいるボルネオ島やスマトラ島の果樹に集団で押し掛けるとあっという間に食べ物が無くなってしまい、争いが起こってしまうかららしい。種を絶滅させない為に敢えて孤独を選んだ訳である。
また、彼等は人間の密漁や熱帯雨林の減少により生息数が減少している。先述の島にも一部地域しかいないとされ、絶滅が心配されている動物の1種である。
「おやおや、お客様のようだね。いらっしゃい」と、部屋の奥から紳士的な声が聞こえてきた。
彼の名前は"学者"である。不思議に思うかもしれないが、そういう名前なのである。
彼が私達の前に姿を見せている間は、ロープで綱渡りをしていたりハンモックで休んでいたり等のんびり屋のイメージが強いが、閉園して俺の向こう側に消えて行った後は、名前の通りの生活を送っているようだ。
晩御飯を食べ終え手作りのベッドへ向かった後、飼育員さんに渡された本を飽きるまで読み、寝る。読む本のジャンルは様々で、最初は絵本しか読んでいなかったらしいが、今では動物の図鑑から歴史・数学・化学・哲学書等まで及んでいるらしい。本人が本当に理解しているかどうかは別にしてもこれほどまでの知的探求心は人間から見ても称賛に値するし見習うべき事であろう。
「さて、今日は何を語らおうか友よ」と堅い口調で私に問うてきた。来園当時はあんな感じでは無く、寧ろ黒い暴君達と大差ないくらいに凶暴だった。飼育員さんに対する威嚇は毎日で、物は投げるわ噛み付こうとするわで園内でもずば抜けた問題児の1匹だった。そんな彼に対して飼育員さんが絵本を渡してみたところ、それにド嵌りしたらしく次々と本を読んでいくようになったらしく、気付いたら今のような感じになった――と彼は以前語っていた。本って素晴らしい。
「私、貴方に聞きたいことがあったんですよ。いいですか」
「何なりとどうぞ。こんな私でよければ」
「有難う御座います。学者さんは、結婚についてどうお考えですか?」
何故、私がこんな事を質問したか疑問に思った方もいらっしゃるだろうが、これは何となくだ。私は女性に対してあまり興味がない。過去に恋愛をしなかった訳では無いが長続きはしなかった。今の世の中、結婚はしたはいいが離婚する人間も激増している。それならしない方がいいんではないか――ふとそう思う事があり、彼に聞いてみたのだ。本当にそれだけだ。
「結婚ですか。そうですねえ・・・・」と少し間をおいてから、「生物や貴方達人間の集団を維持していくという観点からだったらした方がいいでしょう。しかし、基本は貴方方の自由意思に基づくもの。しようがしまいがそれの良し悪しを決める事は私には出来ません」と回答した。
「もう少し詳しくお願いします」
「では、最初言った事から。まず、貴方達人間以外の動物がオスメス1つになるのは子孫を残す為です。それ以外の目的は存在しえません。貴方達の言う"愛"という概念は、おそらく子育ての期間のみ存在する特殊なものです。集団の維持の観点から見てみると、貴方達の世界には税金と言う物があるらしいですね。それは、人間の数が減るとそのお金も減ってしまうとか。それ以外にも、仕事をするのに人数が足りないとか高齢の人達を少ない若者で助けなければならないとか、まあ色々問題は生じてしまうわけです。それを解消出来るのは子供を産む事のみ。それをするにはまず貴方達の場合は結婚する事になるわけです」
「しかし、貴方達人間は特殊だ。自分達の遺伝子を残す事に決して固執していない。自分がこの人と一緒にいて幸せかどうか――それが判断材料になる。私達とはその点で決定的に異なっているのですよ」
「貴方はどうしたいですか?今思っている事が貴方の本音でしょう。結婚は貴方自身が判断なさい。まあ、一応していた方が年老いた時に色々助け合えるのではないかと私は思いますが」
「それは分かるんですけどね、学者さん。でも、一緒にいても楽しい人がいないといいますか・・・」
「それは貴方がそういう人に出会っていないだけ。視野を広くして沢山の人と交流すれば、必ずそういう人とは巡り合えます。貴方の過去の話を前聞かせて頂きましたが、きっとそのトラウマみたいなものもあるのではないでしょうかね。それを取り払ってしまえばきっとすぐにでも出会えますよ」と彼は答えた。
もし彼が人間だったなら、いずれノーベル平和賞を受賞する逸材になっていただろう。オランウータンである事が勿体無いくらいだ。
「私は貴方達が羨ましい。自由に愛を謳歌出来るのだから。私達は違う。生き残る為にメスを奪い、その為に命を賭けて戦う。無事結ばれて子供が出来て一時期は愛に溢れます。しかし、それはすぐに終わる。子供が巣立ってしまえば親は赤の他人として振る舞う。親子の縁何て1つも無くなります。でも貴方達は違う。親離れ子離れしても家族の絆は途切れる事は無い、永遠に続くものです。それがいかに素晴らしい事なのか、私はここに来てそれを知る事が出来ましたよ」
「それも、本で読んだのですか?」
「ええ、とても素晴らしい内容でしたよ。人間以外では考えられない愛の形。私も人間に生まれたかった」
「人間社会も、結構過酷ですよ?まあ、自然界のように普段から殺し合いという事は無いですけど、こっちにも弱肉強食の世界は存在します。結局人間だろうが動物だろうが生きてる世界は一緒です」
「そんな事は無いです。貴方達の世界は"無償の愛"がある。自分にとって、自分達の種にとって得をする事では無いのに、大切な存在に対しては命をも賭ける事が出来るのは人間だけです。私達は同族の子供だけ、それも子離れする一時期のみです。人間から見れば冷めて見える筈ですよ。私は多くの本を見て学び、人間の素晴らしさも知る事が出来ました。貴方はこの世界の素晴らしさをまだ理解していない。でも、それを実感する時が必ず来ます。その時は、是非私に教えて下さい」
彼は最早1人の哲学者と化していた。猿はおろか、人間の世界でもそういない存在になってしまったのだ。一体、どんな本を読み与えたらあんな風になるのか不思議でしょうがない。
とは言え、彼の言葉は非常に胸に染みるものばかりだ。この力のせいで人間の負の感情を嫌でも読み取れてしまうようになり、人間に絶望してしまっていた私だが、逆に言えばそれを知っているからこそ今度はその人の良い部分を探してみようという発想にもなる。その負の感情の裏には、それこそ人には言えない特別な事情があるのかもしれない。力が発現した当時はそんな事考える余裕なんて無かった。それがどれだけ愚かな事か――彼は考えさせるきっかけをくれる大事な存在だ。彼はもう"学者"何かじゃない、"賢人"だ。人々を導く存在なのだ。
午後2時。私は彼との深い話を終えて次の目的地へと向かう事にした。
「学者さん、今日も素晴らしい話を有難う御座いました。今度来た時も宜しくお願いします」
「いえいえ、またいらしてくださいね。後、最後に一言だけいいですか?」
「はい、何でしょうか?」
「この世界は愛で満ちていますよ。そして、それは結構身近なところにあるものです。だから気付きにくい。それを覚えておいてください。それでは、また今度」
最後に気になる事を言っていたが、それを考えるのは今度にしよう。さて、次はどこに向かおうか。