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トリの花嫁  作者: あきざね
第一章 其処ではない何処か
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当惑_3

 真宇の靴で踏まれた苔の絨毯は容易く沈む。ちょっと振り返れば、沈んだ足跡が点々と真宇の後を追っていた。

 遭難している状況に在りながら、森林浴をしているような楽しさを感じている。

 楽観的だと我ながら思う。しかし楽観的に考えなければ泣き出してしまいそうなのだから仕方がない。

 緊張が(ほぐ)れて、見えてきたものは沢山ある。苔花は白色や黄緑色、薄紫色に黄色、群れ成して倒木や岩を幽玄に飾り立てる。シダ類の繁みは見様によって道を作るかのように左右交互に生え、その葉は首を垂れる。その様は、まるで真宇を森厳な世界へと誘っているかのようだった。

 そよ風が真宇の頬を撫でた。鳥の囀りと姿見せない住人たちの物音が、風に乗って耳に届く。真宇は多種多様な音の渦に混じる、微かな水音を耳聡く捉えた。


(川だ!)


 真宇は水音を頼りに獣道を突き進んだ。喉の乾きは最早、灼けつくような痛みを伴っている。しかし、早く早くと逸る気持ちに体がついていかない。

 川を求め歩いた真宇は、その行く手を背丈より三倍ほど高い断層が立ちはだかったとき、絶望にも似た思いを抱いた。


(水の音はしているのに……すぐ近くで聞こえるのに!)


 喉が灼ける。少しでも痛みが和らげばと、真宇は両手で喉を押さえた。もう一歩だって動きたくなくて両膝をついた。低くなった目線は地面をぼんやりと眺めている。そして彼女は、地面が濡れていることに気がついた。

 真宇は弾かれたように面を上げた。黒い断層から湧水が滲み、地面に浸み込めば水溜まりもできないほど細やかな流れを作っていた。彼女は立ち上がり、ふらふらと断層に歩み寄った。濡れた断層に手をつき、水の感触に歓喜する。湧水を飲むことに差して抵抗は覚えなかった。喉が灼けつくように乾いていたことに加えて、森全体が清浄な気を纏っていたからだ。

 真宇は両手で椀を形作り、ひんやりとした水を汲む。喉を鳴らして嚥下した水はすぐ身体に溶け込んだ。湧水の味は驚くほど甘くて、思わず涙が滲んだ。

 喉の灼けつく乾きが癒え、漸く満足した真宇は口元を拭い、ひと息を吐いた。彼女はぐっと伸びをして、空を仰いだ。


(好きだな、この雰囲気)


 そう改めて思う。上方は霧がかっているせいで明瞭に見えない。鳥も動物も霧の中に隠れ、何処に居るのか分からない。だが、可愛らしい鳴き声がここに居るのだと自己主張する様が愛しかった。


(もしかしたら、心休めに来たのかもしれないな)


 真宇は漠然とそう感じた。何故、あのような場所で寝てしまったのか、謎は残るけれども、彼女が好んで訪れそうな場所であることは確かだ。

 鳥が一層激しく囀る。葉擦れの音を響かせながら、梢を伝い渡る影を見た。影の正体が気になり、後を追おうとその場を動き――ほぼ同時に繁みが揺れた。

 びっくりして肩が大きく跳ねた。何事かと顔を向ければ、つい先ほどまで真宇が佇んでいた場所に蛇が居た。


(大きい!)


 真宇は蛇の異様さに気づき、目を見開いた。

 山道や畦道で見掛ける蛇が飛んで来たのではない。頭だけでも赤ん坊ほどの大きさが在る、大蛇がいたのだ。

 縦に割けた瞳孔が、ぎょろりと動いて真宇を捉えた。

 人の胴体ほど太い、苔色の胴体がとぐろを巻く。大蛇は鎌首をもたげさせ、顔を真宇と正面に相対させた。苔色の鱗の裂け目から覗く紅蓮の舌先がちろちろと空気を舐め、まるで獲物との距離を探っているように思えた。

 蛇に会ったら相手を刺激しないよう不用意に動くなと、祖父に教わったことはあるけれども、そのようなことを意識しなくとも驚愕が思考能力を奪い指先一つ動かせない。たとえ思考する頭があったとしても、次にすべき行動すら分からなかっただろうが。

 真宇はまさに蛇に睨まれた蛙の如く硬直している。

 大蛇の口が赤ん坊を丸呑みできそうなほど開いても、硬直は解けない。桃色の綺麗な咥内には、上顎にだけまるで乳歯のように真白な、鋭い牙が二本生えている。牙の先端をてらてらと光らせている液体は唾液か毒か、蛇について知識のない真宇には判別のつけようがない。

 獲物だと思われてる。確かな事実はそれだけ。


(私は食われて死ぬのだろうか)


 そこへ考えが至ると、一気に恐怖が極限に達した。


「――っ」


 息が止まる。蛇の動きが(のろ)く、真宇自身の躰の反応も鈍い。

 頭の中が真っ白に弾けそうになった刹那、大蛇の首が動いた。樹間から青とも緑ともつかぬ花緑青の飛影が突如として現れ、大蛇の太い首に勢いよく体当たりしたのだ。

 大蛇の首がぐにゃりと曲がり、白い蛇腹がひらめいた。

 真宇の正面に着地した花緑青の飛影は、優に二mを超える人型の何か(・・)だった。後ろ姿は花緑青の縁どりがなされた連なり目玉模様の白い羽冠を被り、花緑青一色の羽毛を纏った人間のようである一方で、赤銅色の鱗に覆われた鳥の脚は人間であることを否定する。

 闖入者は真宇を背後に庇ったまま冠羽を逆立たせ、折り畳んだ翼を広げた。シュルルと細い風音のような大蛇の警戒音を、けたたましい鳥声が掻き消す。


(なにが、起こっているんだろう)


 真宇が目を丸くする間も、大蛇と鳥人の攻防は続く。大蛇は真白な牙を露わにして噛み付く隙を窺い、対して鳥人は指先から指先までが背丈ほどの長さが在る翼を広げ、躰をより大きく誇示する。

 先に鳥人が動いた。残影の尾を引く速さで蹴りが繰り出される。喉元を蹴られて大蛇が怯む様子を見せるが、鳥人は容赦をしなかった。連続して、しかも寸分違わず同じ部位を蹴る。

 攻防戦は大蛇が逃走の意思を見せたところで終わりを告げた。鳥人は繁みの中へ遁走する大蛇を追おうとはせず、ただ耳をつんざくような勝利の雄叫びを上げた。

 繁みの揺れが治まる頃、翼を折り畳んだ鳥人が振り向いた。

 鳥人の背丈は兎に角、大きいの一言に尽きた。二メートルは優に越している。下手をしたら三メートル近いのではなかろうか。

 自然と真宇の首は反れ、高みを臨むこととなった。

 目玉模様の連なる羽根を冠する頭の下、のっぺりと平たく、顎の短いカマキリ顔は肌理(きめ)の細やかな鱗に覆われていた。鼻穴は在るが小鼻の無い顔は宇宙人を彷彿とさせる。

 鳥人の双眸と目が合う。山腹を紅葉の錦飾りが彩る頃、里に色を添える水稲のような金色。凪ぎのように静かな眼差しは、真宇の姿を捉えると動揺したように揺れた。


「――?」


 鳥人の唇、否、嘴だろうか。真正面からではさほど尖っているようにも見えないので判別し難いが、翼が在るのだから嘴と表現しても差し障りはないだろう。作り物めいた艶やかさを持つ桜色の嘴が薄く開き、低い声が漏れる。


(映画の撮影中……だったのかな?)


 真宇は現実に追いつけない頭でそう思った。尤も記憶の欠如が真宇の不安を煽り、結局、答えを求めて彼女は相手に問いかけた。


「あの、もしかして映画の撮影中でしたか? あの蛇は撮影用に造られたロボットなんですよね。私、一瞬、本物かと思っちゃいました。あはは……えっと、すみませんでした! 私迷ってしまって、その、ここが撮影現場だなんて知らなかったんです」


 真宇は撮影スタッフの姿を探して、ぐるりと首を巡らせた。

 だが、辺りに人の気配は全くない。誰かが茂みの向こうからやって来る気配もない。

 仕方なく真宇は鳥人型のロボット越しに撮影スタッフへ居場所を訊ねることにした。


「あの、皆さんはどちらにいらっしゃるんですか?」

「――?」


 鳥人型ロボットの彼、否、胸の膨らみようを見れば彼女だろうか。彼女は問いかけに対して、小首を傾げ返した。早期教育のおかげで日常生活に支障がないほどの英語が喋れる真宇だが、生憎、彼女の話す言語は英語でも況してや日本語でもなかった。

 言葉が通じないなんて拙い状況だと思いながら、真宇はさほど不安を感じなかった。それは鳥人型ロボットが小首を傾げたり、瞬きをしたりと細やかな動きをしてくれるおかげであり、ロボットを操縦する人間が言葉が通じないなりに反応を返してくれているおかげであった。

 彼女が恐竜がするような、日本のお化けがするような、一種独特な形に曲げた腕を伸ばす。二の腕だけで臀部まで届く腕の全長は膝まで達する。尤も彼女の脚は太腿とふくらはぎの比率が一対二ほどで、羨望より奇怪の念を抱かせる長足だったので、四肢の長さはバランスがよく取れている。

 翼の先端に生えた三本の指が、壊れ物を扱うかのように真宇の頭から頬、顎先までを辿る。ロボットの癖に指は人肌より少し熱いほどの温もりを帯び、弾力がある膚をしていた。

 ロボットの行動は慰めのつもりなのだろうが、いきなり肌に触れられれば驚きと戸惑いを覚えるものだ。当然、真宇も目を丸くし、曖昧に笑いながら相手の指を軽くいなした。

 彼女は顔に対して比率が大きな目を更に見開き、指に手を添えて微笑む真宇を凝視した。羨ましいほどけぶる羽毛製の睫を幾度か瞬かせ、彼女は空いた手でこめかみを掻いた。

 彼女の指が引き戻される。また翼を元のように折り畳んで、彼女は踵を返した。歩行する後ろ姿はまさしく鳥そのもの。細部まで再現するあたり、製作者のこだわりが感じられる。


「ま、待ってください」


 そう遠ざかる背中を呼び止めれば、彼女は立ち止まって振り返った。冠羽が風もないのにそよぐ。

 まるで急かされているようだと、真宇は思った。

 真宇が追従すれば、彼女は踵を返した。心なしか歩く速度が先ほどより早い。


「待ってください。もう少しペースを落としてほしいのですが」


 彼女は背中越しに振り返ったが、真宇の要望に反して更に速度を上げた。

 こうなったら仕方がない。彼女について行けるよう頑張るしかない。

 目的地も分からない道すがら、彼女は真宇を気遣うように何度か振り返った。そうして真宇に余裕があると思ったのか、少しずつ歩く速さを上げていく。

 盛り上がった根や岩、地面の起伏そのものなど、道の状態はかなり悪い。苔に足を滑らせ転びそうになりながら、真宇は彼女の背中を必死に追った。

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