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トリの花嫁  作者: あきざね
第一章 其処ではない何処か
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改稿(2017.1)

 あとがき

 上空から俯瞰する基地は白一色だった、と斎藤氏は言う。

 八カ月ぶりに訪れた基地は地吹雪が運んだ雪に半ば埋もれかけていて、真新(まっさら)な敷地を見たときの衝撃は今も忘れられないとも。

 わたしたちは極寒の大地に置き去りにされた橇引きの犬たちのうち、九頭中八頭が生き残っていたことを『奇跡』だと声高に叫んだ。しかし斎藤氏をはじめ、インタビューに応じてくれた人たちは皆、あれが決して奇跡などではなく人為的に齎された悲劇だと口を揃えて言った。

 全てはひとつの計算違いが巻き起こしたものだった。

 当初、斎藤氏たちが基地を後にしたのち、後続の者が半日の間に基地へ入る予定だった。

 しかしたった十二時間の間に自然は猛威を振るい、後続の者は基地へ近づけなくなった。

 もし自然の脅威が起こらなければ、それが起こることを予測できていれば、否、それよりも斎藤氏たちが犬たちだけを残して引き上げなければ、犬たちは基地に置き去りにされたままになることはなかったのだ。

 それ故に斎藤氏たちはこの出来事を未然に防げた悲劇だと言う。

『犬たちは去る。わたしたちと、一匹の仲間をこの大地に置き去りにして。わたしの胸に去来する物悲しさは、きっとかつて犬たちが味わったものである筈だ』

 最後にかつての犬たちと同じ立場になった斎藤氏らが胸に抱いた思い――それは怒りや淋しさ、失望ではなく悲しみだった。


 真宇はその後書きを読み、酷い話だと、思った。

 もし仮に真宇が同じ立場に立ったとして、上司の意見に逆らえるとは考えられなかったけれども、ただ酷い話だと憤りを覚えた。





(ごめんなさい……)


 真宇は何度目になるか分からない言葉を心の(うち)で繰り言ちた。

 謝意を示すべき相手に背を向けて逃げていながら、一体何に対して謝っているのか、実は彼女自身もよく分かっていない。

 はたして許されたいと思っているのかさえ定かではない。ただそうすることで誠意を示していると思い込み、後ろ髪を引かれるような思いから逃れているだけではなかろうか。


(私じゃ助けられない……ごめんなさい……)


 巨大な木々が形作る森を当て所なく駆ける。

 喉の奥が裂けたかのように痛む。息はとうに上がり切り、呼吸を行う度に肺を冷たく乾燥した空気が満たす。新鮮な筈の空気は何故か血臭と、鉄錆の味がした。

 脚も遂に悲鳴を上げ、太腿が持ち上がらなくなる。

 だが、それでも生き延びる為に走らなければならなかった。

 やがて足同士が(もつ)れ、真宇は転んだ。幸いなことに彼女が倒れ伏した地面は厚く苔生しており、毛の長い絨毯のような苔が衝撃を和らげてくれたおかげで大した痛みも感じなかった。

 真宇はすぐさま起き上がろうとしたけれども、体力が底尽きたようで、足はガクガクと痙攣して立とうにも全く使い物にならなかった。


 ――もう逃げられない。


 そう悟った瞬間、真宇はもがくことを止め、大の字に寝転がった。

 神々しい金色の靄が上方で流動している。その向こう側には樹冠の緑が薄っすら透けて見えた。靄がもうじき晴れるのか、それともこれから濃くなるのか、そのことにさして興味はない。少なくとも今はあの怪物が上から襲ってくることはなさそうだ、と云う事実だけが真宇には必要だった。

 だが、それが何だというのか。

 安全地帯が限られたこの世界において、そこから逸れた真宇が生き残れる確率はごく低い。上からあの怪物に襲われずとも、この瞬間に在って別の生物に襲われて死ぬかもしれない。

 そう思い至ったとき、無残な死の映像が脳裏を過ぎった。思い出したくもない、生々しい記憶だ。それが今まさに真宇自身に迫っていると知り、恐怖心がまざまざと甦った。


(死にたくない!)


 何故、こんな目に遭うのか。

 真宇は顔を両手で覆い、啜り泣いた。


「嫌だ。死にたくない……なんでこんな目に遭うの?」


 そう呟き、思いがけず降りかかった不幸を一頻り嘆いたあと、真宇はぼんやりとする頭の片隅で帰りたいと強く願った。

 ここに居る限り、助けを求めたところで誰も迎えに来ないことは分かっている。そもそも、しでかした罪の重さを(かえり)みて、何処へ帰れるというのか。たとえ戻れたとして、真宇を待っているものは生き汚い自分への嫌悪感と仲間を見捨てた罪悪感だけだろう。

 それでも安全地帯に戻りたいのか。そう僅かに悩んだ末、真宇の脳裏を過ぎった情景は潮風が吹く故郷の街並みだった。

 思わず目頭が熱を帯びる。


(馬鹿だな、私)


 あの町から逃げ出してきた癖に帰りたがるなんて。あまりにも脆い心根の弱さを我ながら情けないと思う。


(逃避癖を治せと叱ってくれた兄さんは、私のことを心配してくれていたんだ)


 兄の優しさに漸く触れることができた気がする。

 甘やかすことだけが愛情ではない。兄はきっと本心から真宇を愛していた。そのことに今更になって気づいた。

 だが、もう全ては遅い。今となっては兄に『ありがとう』の一言も伝えられないだろう。


「にいさん……」


 涙が(まなじり)を伝い、蟀谷(こめかみ)に落ちていった。

 あの頃から何ひとつ成長していない自分自身が恥ずかしく、同時に悲しかった。叶うことならば、あの頃からやり直したいと後悔の念が胸に湧く。

 しかし、それは決して叶わない願いだ。

 疲れ切った身体が休息を欲し始める。火照った身体の大部分は外気に熱を奪われていたけれども、地面に預けた背面はポカポカと快い温かさで眠気を誘った。

 耳の奥で鳴る潮騒のような心臓の鼓動が、まるで子守唄のように聞こえる。

 瞼が半分閉じ掛け、抗い、しかし抗い続ける意味を見出せず、最終的に閉じるがままに任せた。

 瞼の裏側で細氷(さいひょう)と似た極小の光の粒がキラキラと輝く。肌寒い空気と、細やかな雪粒。それがある事を思い出させ、また涙が溢れた。

 そのせいだろうか。眠りの縁に落ちつつある最中、真宇は僅かに残った意識の片隅で、犬の悲しげな遠吠えを聞いたように思った。

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