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改稿(2017.1)
終業の鐘が鳴るや否や三年G組――通称、就職組に所属する生徒達はさっさと教室を出て行く。
真宇は教室から姿を消す級友たちを尻目に本の頁を捲った。人混みは好きではない。故に消灯や窓閉めの役割を任せられるしんがりが真宇の居所だった。
人混みが引いて漸く真宇は本を仕舞った。
眩しい雪明かりを遮るカーテンを直し、暖房の熱気を逃がすため開けられた窓を閉めて回る。その後、席に戻ってコートを着た。
鞄掛けから通学鞄を取り、隙間風の吹く教室後方の扉へ向かう。扉をきっちり閉めて、壁伝いに教室前方へ向かい、首を一巡りさせて忘れたことが無いか調べる。忘れたことがなかったなら消灯して下校する。
この一連の動作をすることが真宇の下校時の日課だった。
教室から出ると廊下をうろつく人影は既になく、教師の声だけが厳かに反響していた。就職組の教室を覗いて三学年は各教室で大学受験に向けた課外授業を行っている。故に就職組の教室は彼らの妨げにならないよう、階段脇と定められていた。
真宇は教室のすぐ近くに在る階段を降り、下駄箱で中靴からブーツに履き変えた。昇降口の扉を押し開けると、北風が顎先で切り揃えた黒髪を弄んだ。扉から手を離し、道すがら嵌めるつもりだった手袋を両手に嵌める。マフラー、マスク、手袋、コート、黒タイツ、ブーツ――完全武装を終え、真宇は外へ繰り出した。
秋に枯葉が舞っていたアスファルトの黒い道は、既に冬の装いに衣替えして久しい。雪が積もった道は白粉を塗ったかのように一面が白く、日没後の暗がりの中では光を反射して明るく心強い。
その反面、人通りの多い通学路の積雪は踏み固められ、つるつると滑って歩きづらい。おまけに海風が吹いて身体が横に押されるとあれば、踏み出す歩幅は自ずから狭くなった。
十二月下旬ともなれば冬の寒さが身に染みる頃で、そろそろ採用試験の最終通知が家に郵送されてもいい時期だ。
錆びた御守鈴を揺らして漸く帰宅すれば、犬小屋で蹲っていたタロウが黒い目を輝かせて這い出してきた。寒空の下でも厚い毛皮に覆われたタロウは元気そうに尻尾を振っている。
「ごめん、タロウ。散歩はちょっと待ってね」
真宇はそう謝り、片手だけの拝み手をした。
引き戸を開けて家の中へ入る彼女を引き留めようとばかりにタロウが高い声で鳴く。
「ごめんよ、タロウ」
後ろ髪を引かれながら、真宇は引き戸を閉めた。
土間には兄愛用の青い運動靴が揃えてあった。
(もしかして通知が届いて、母さんが電話でもしたのかな?)
ブーツを脱ぎ、土間の端に寄せて揃えると、真宇は居間に急いだ。
廊下に面する障子戸を開ければ、こたつに家族三人が揃っていた。
蜜柑を剥いていた手を休め、兄が此方を向く。
「採用通知、届いてるぞ」
兄はまだ結果を知らない体を装っていたが、目元が綻んでいる。おそらく母が封筒を開けたのだろう。そうと分かっても元々真っ先に知りたいと言う欲求もなかったので、真宇は不快感を抱かなかった。
逆に、残念な結果だったとき、どう伝えたらいいのか迷っていたこともあり気が楽になったくらいだ。
「採用通知見せてよ」
マスクを顎まで下ろしながら、真宇は兄に請うた。
タイツを履いただけの足で板張りの廊下を渡って冷えていたせいか、こたつに入れた足裏がじんと痒みを帯びた。
制服姿のままこたつに潜る妹の行儀の悪さを見て、兄が眉を顰める。
「お前なあ、先に着替えて来いよ。スカートが皺になるだろう」
「確認したらすぐに着替えるから。お願い」
「まったく、しょうがねえな」
そう真宇に拝み倒されて観念したのか、兄はティッシュで手を拭い、一通の封筒を彼女に手渡した。
差出人は大本命である宇宙開発センターだった。
封筒自体には封がしてあったが、すぐに剥がせた。糊代に一度剥がされた跡が見受けられる。兄は自分に関することは一番に知りたがる性質だったので、おそらく彼が気を利かせて封をしたのだろう。
真宇は三つ折りにされた紙を取り出した。結果がどうなのか、おおよその当たりがついているにも拘らず、心臓の鼓動が早鐘を打つ。まるで脅かされた後みたいにドクドクと鳴る血潮の音を耳の奥で聞きながら、真宇は三つ折りの紙面を広げた。
真っ先に採用の二文字が目に飛び込んできた。
「やった! 受かったよ!」
真宇は喜色ばんで叫んだ。
宇宙開発センターは独立行政法人であり、官公庁ではなくとも、そこに勤めているだけで世間の評価は高くなる。それは高卒採用の雑用係とも言える事務職であろうと変わりない。
四角形のこたつの左隣に座る兄が筋張った手で彼女の頭を撫でる。
「よくやった」
先ほどまで嬉しさをひた隠していた兄だけれども、今やへにゃりと表情を崩している。
真宇は兄を見て、父母を見た。
母が望む通り手堅い就職先を得て、褒めてもらえる筈だった。しかし父母の堅い表情を捉えて、真宇の顔から笑みが失せる。
真宇の心の声を代弁するように、兄が怪訝そうに問うた。
「どうしたんだよ。真宇が行きたかったところに受かったんだ。嬉しくないのか?」
父が何か問いたげな眼差しを母へ向けたが、母は一瞥を返しただけで、あとは父を見ようともしなかった。
沈痛な面持ちをした父が、暫し逡巡して口を開く。
「……めでたい空気に水を差すことになってすまない。だが、お前たちに伝えなければならない事がある。 ……母さんと話し合って、離婚することにした」
何を言われたのか、真宇は一瞬理解できなかった。彼女が意味を噛み砕いて理解しようとする間に、一足早く衝撃から立ち直った兄が呆然と呟く。
「何、言ってんだよ。 ……冗談だろう?」
「いいや、本気だ。今までは真宇がまだ自立していなかったから、離婚は避けるべきだと意見が一致してきた。だが、真宇は社寮に入るのだろう? そうしたら、私と母さんは二人暮らしになってしまう。 ……もう、耐えきれないんだよ」
真宇は衝撃から立ち直り切れないまま、ぼんやりと父を眺めた。兄と異なる工房で働く父は無口だが、いつも優しい眼差しをしていた。それが今や白目は黄ばみ、黒目もどこか虚ろだ。
次いで母に顔を向けた。久し振りに母の顔をまともに見た気がする。ふくよかだった頬が少しばかり削げ、目の下の皮が少し弛み、隈が濃くできていた。
堅い面持ちのままの母と視線が合う。真宇にとって母の眼差しはいつだって相手を屈服させ、従わせようとする絶対的な支配者のそれだった。眦が吊り上がった目を見た瞬間、視線が反射的に口元まで下がってしまった。
母の、赤い口紅を塗った唇が動く。
「真宇の親権はお父さんが持つわ」
兄が父母に食って掛かる。真宇はそれさえ蚊帳の外で起こる出来事のように捉えていた。
「タロウ、おいで」
真宇は腕の中に飛び込んできた犬を抱き締め、あやすように調子づけて背中を軽く叩いた。
兄は未だ家に残り、父と口論を続けている。母は台所に立ち、夕餉の準備をしていた。
「何なんだろうね、可笑しくないのに笑えてくる」
真宇は玄関先の石段に腰掛けた。タロウが太腿の上に顎を乗せ、横に侍る。
父母が離婚を宣言した――あの後、夕餉の準備に立った母の後を追った。
農家に生まれた母は家業が嫌で、家出を繰り返す不良娘だったと言う。母はそのことを現在、激しく後悔している。
――親の言うことをきちんと聞いておけば良かった。
常日頃からそう口癖のように零していた母だが、あの優しい眼差しが厳しい支配者のそれとなったのはいつの頃だったろうか。思い返せば真宇が十歳のとき、祖母が身罷った日こそ境目だったのだろう。
母の後悔は呪詛となって娘の思想を雁字搦めにした。親の、強いては大人の言うことを聞いておけば間違いない。
長年を掛けて形成された真宇の自己同一性だった。
真宇はあの激白の後、流し台に向かった母を追い掛け、その背中へ問い掛けた。
――……母さん。私、これからどうすればいいの?
母は肩越しに一瞥をくれたが、すぐ視線を手元に戻した。
――もう社会人になるのにそんなことを聞くの?
必死の思いでした問い掛けだった。それなのに答えは冷ややかな態度で容易く返された。
真宇は見捨てられたような気持ちを抱き、その場を足早に去った。
――どうしてお母さんの言うことが聞けないの!
そう叱られて、ずっと抑圧されてきた。自由にさせてくれと心が悲鳴を上げた時もあった。それなのに、いざ抑圧の蓋が外されてみれば、心から溢れ出るものは在らず、虚しさばかりが覗いている。
タロウの頭を掻きながら、真宇は母とのやり取りを思い出し、乾いた笑みを浮かべる。胸にぽっかりと穴が空いたようで、酷く虚しい気持ちだった。
(それでも、今は進むべき道が決まっているのだからいい)
母の願いを叶えるため日々を過ごしたように、社会に求められることを果たすよう日々を過ごせばいい。そうすればきっと胸に空いた虚も満たされるに違いない。
「……きっとそうだよね、タロウ?」
犬に問い掛けたところで答えが返って来る筈もなく、タロウは名前を呼ばれて円らな瞳を真宇に向けるだけだった。
そのキラキラと精気に満ちた目を見て、ふと進路指導室近くの廊下の掲示板に貼られたポスターを思い出した。夢見る彼、彼女らは生き生きとしていた。
(夢、か)
真宇は夢を持たない。母の描く夢が彼女の夢であったのだ。今更、何を夢見れるというのか。
己を抑圧する家はいつだって息が詰まる場所でしかなった。
しかしそれでも家族が居る、帰るべき場所だった。そこがあと僅かな時間で無くなる。そう考えた途端に不安が大水のように押し寄せた。
真宇は不安に呑まれないようタロウに縋り付いた。埃っぽいような犬の匂いと温もりが淋しさを埋める。
タロウの存在は真宇にとって心の拠り所だったが、此処を離れる以上、会うことは難しくなるだろう。
「そういえば、タロウは父さんと母さんのどっちが引き取るんだろうね」
タロウは再度名前を呼ばれて、一度は下げた頭を上げ、上目遣いで真宇を見つめた。黒目がちで円らな瞳が可愛らしくて、思わず口元が緩む。
タロウの柔らかい頬を円を描くように撫ぜる。口端をちょっと持ち上げれば、笑っているように見えて可笑しくなった。
そうして気分が持ち上がってきたときのことだ。
玄関の戸が勢いよく開き、兄が中から飛び出してきた。先ほどの出来事に憤りを見せていた兄は、未だ興奮冷めやらないまま頬を上気させている様子だった。
「……母さんと話し合ってるのかと思えば、また逃げたのかよ」
タロウと戯れる真宇を見咎め、兄は震える声音で呟いた。いつになく低い声音がこうも続ける。
「いい加減にしろよ、毎度毎度。言葉を知らない子供じゃねえんだ! 自分の気持ちくらい主張してみせろよ!」
そうは言われても、こうなってしまったならば、それはそれでしょうがないことではないのだろうか。そう考える頭は在りこそすれ、兄に伝えたところで理解はされないだろう。
でも、と真宇は躊躇いがちに口を開いた。
「しょうがないよ。だって父さんも母さんも心を決めてしまってるんだもん」
真宇の言葉を聞いて、信じられないとばかりに兄は目を見開く。
「本気でそう言ってんのか? ――ふざけんな」
そう吐き捨てて、兄は足音荒く家から遠ざかって行った。そのとき見えた兄の横顔は父母の喧嘩を止めたあと、部屋に戻るときに見たものと全く同じだった。
(嫌われたな)
真宇はそう直感した。しかし不思議と心は痛まなかった。何もかも、虚の中に吸い込まれてしまっているかのようだ。
真宇は胸の辺りの服を掴んでみた。ぽっかりと大きな穴が空いているような気がしているのに、確かな感触があった。
……それでも胸に穴が空いているのだ。抑圧の蓋が外された今、垣間見える虚こそが真宇という人間の本質であるように思えた。