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トリの花嫁  作者: あきざね
序章 暗涙
2/16

改稿(2017.1)

 真宇がタロウの綱を杭に繋げている間に、タロウは犬小屋に戻り、とうに丸くなって寝る準備を整えていた。


「いい気なもんだ」


 綱を結び終えた真宇は軽く息を吐いた。しかし、その表情は柔らかい。

 真宇は家に入る前にタロウの背中を撫でた。柴犬の毛触りはごわついており、決して手触りのいい代物ではないが、掌越しの柔らかさと温もりはほっこりと胸の内を温かくするものがある。


「ただいま」


 帰宅の挨拶を小さく呟きながら、真宇は玄関の引き戸を開けた。靴を脱いで土間の端に揃えて寄せるとき、兄愛用の青い運動靴が目についた。

 兄が珍しく実家に帰って来ている。

 そのことで真宇は嫌な予感を覚えた。

 靴箱の横に放置した通学鞄は散歩に出かける前と同じ状態でそこに在った。通学鞄を抱え上げ、交通安全の御守鈴を握り締める。

 忍び足で居間の前を通り過ぎようとしたときのことだ。横手にあった障子戸が勢いよく開いて、仏頂面の兄が驚き固まる真宇を手招いた。

 黒髪を短く刈り、顎髭を薄っすら生やした兄は不機嫌顔をするだけで威圧感が生まれる。

 真宇は嫌そうに歪めた顔を勘づかせないため、顔を気持ち俯かせた。

 兄に促されるまま居間に入り、卓袱台(ちゃぶだい)の傍に正座する。

 父母は不在だった。おそらく父は入浴中で、母は夕餉(ゆうげ)の支度をしているのだろう。

 扉を閉めた兄が卓袱台を挟んで向かい側に胡坐(あぐら)を掻いた。兄は腕組みをし、真宇を睨むように見据えている。


「今まで何処に行ってたんだ?」


 兄はきつい口調で問い質した。


「……タロウの散歩」


 真宇は卓袱台の端に視線を合わせ、兄のしかめ面を視界に入れないよう努めた。


「へえ、制服のまんまで散歩に行ったんだ。何で一度も部屋に寄ってねえの?」


 兄の言葉は詰問調のままだ。

 真宇はさらに顔を俯かせた。この年の離れた兄が苦手だった。どうして制服姿のままタロウの散歩に行ったのか、理由などとっくに察しているだろうに、彼女の口から直接言わせなければ気が済まないのだ。


「そんな気分だったから」


 真宇の返答は彼のお気に召すものではなかったのだろう。兄は腕組みを解き、卓上に手を乗せた。こつこつと指先が机を叩き、内心の苛立ちを露わにする。


「お前、今年で何歳よ?」

「十七歳」

「両親の喧嘩を止めようとか考えないわけ?」


 真宇は口を噤んだ。高校に上がる前ほどまでは喧嘩を止めていた覚えがある。尤も父母が真宇の姿を認めると気まずそうに口を噤むのであって、彼女自身が積極的に仲裁に入ったわけではない。それでも父母と積極的に触れ合うことで亀裂の修復を図っていたのだ。

 だが、そうした父母の気遣いも真宇が成長するにつれてなくなり、どうしようもできなくなった。

 母も父も何故衝突してまで我を通そうとするのか、真宇には理解できなかった。それだから掛けるべき言葉が何ひとつ頭に浮かばない。喧嘩の仲裁に入る以前の問題で真宇は躓いていたのだ。


(それを兄に言っても分かるまい)


 兄は一向に喋らない真宇の様子を見て、重い溜め息を吐いた。


「その逃避癖、いい加減に直せよ。いつか取り返しがつかないことに繋がるかもしれないぞ」

「うん」


 真宇は大人しく頷いたが、その実、心の裡は穏やかではなかった。


(兄さんこそ逃げたではないか)


 兄は父母の良き理解者であり、こじれた仲を取り持つ(かすがい)だった。

 それなのに六年前――高校を卒業してすぐ、兄は家を出て友人と暮らし始めた。実家に余り顔を出さず、酷い時は同じ町に住みながら一年も訪れがなかった。それ以来、父母の仲は悪化の一途を辿っている。

 六年前。当時十一歳の真宇は小学校に通う子供だった。食卓に父母が揃えば口論まで発展せずとも嫌味の応酬があった。真宇は兄のように気の利いた話題を提供できず、険悪な雰囲気を払拭できなかった。本来ならば親子三人揃い、団欒(だんらん)の場となるべき食事の時間は、とても憂鬱なものとして真宇の記憶に残っている。

 逆恨みだと頭では理解している。しかし家族を見捨て外へ逃げた兄を、恨みがましく思わずにいられなかった。

 真宇は仄暗い恨みの念を覆い隠すように笑みを作り、


「ところでさ、兄さんが家に来るの久し振りだよね。今日はどうしたの?」


 と、兄の帰宅を喜ぶ振りをして問うた。兄が帰宅するなんて余程の事情がない限り、在り得ないことだ。


「ああ。ほら、さ。もうそろそろ本格的に進路決める時期だろう。お前がさ、本当に大学へ進む気はないんかなって思って。もし行きたいなら、母さんたちの説得に力を貸すぞ?」


(そういうことか)


 真宇は兄が帰宅した理由を悟った。

 兄はずっと前、それこそ真宇が高校一年生のときから大学へ進学することを事あるごとに勧めていた。兄本人は大学への進学を望むも家計と親の理解に恵まれず、高校卒業してすぐ、港に在る宇宙船の精密部品を製造する工房に勤めている。

 何年か前の正月だったか。珍しく家で泥酔した兄が、愚痴を零した事がある。


 ――大学出てまともな職に就けず奨学金を返せないより、学歴なくても手に職を持った方がましだっていう父さんの考えは分かる。でもさあ、子供にまでその考えを押しつけないで欲しかった。俺は父さんじゃねえんだよ。俺の気持ちを少しでも汲み取って欲しかった。


 悲痛な響きのする告白だった。そのとき真宇は初めて兄の本音を聞いた気がした。

 人件費削減を推し進める社会的な動き、単純作業の機械化、外国人労働者の流入――悪い出来事が重なる世の中で職にあぶれることも珍しくない昨今、正規社員として工房に雇われた兄は勝ち組なのだろう。

 しかし兄は安定した生活より、知的好奇心を満たしたがっていた。工業系の大学に進み、機械工学について学びたかったのだと言う。たとえ借金の返済に追われる地獄(みらい)が待ち受けていようとも、一度きりの人生をやりたいことをして終わらせたいのだと夢を語っていた。

 高校生だった兄は大学進学に反対する頑固な父を説得するため母に助力を乞うたが、母は傍観を突き通し、遂に親の理解を得られなかったそうだ。社会に出た兄は深夜まで働くことがざらな現実に埋もれ、夢を諦めた様子だった。

 かたや真宇は借財を負ってまで冒険するより、手堅い職に就くことを目標に掲げている。そんな真宇にとって大学に夢見る兄の思いは只管に気を重くする、はた迷惑な押しつけに過ぎなかった。

 兄は真剣な表情で真宇の返事をじっと待っている。真宇は期待するような眼差しに耐えきれず、再び目線を卓袱台の端にまで下げた。


「……大学に進むつもりはないよ。私は就職しようと思う」

「母さんの意向を抜きにしてか?」

「……うん。自分で考えて決めた」


 真宇は嘘を吐いた。兄のように具体的な夢を持てない真宇は、新たに夢を探すよりか母が敷いた線路の上を歩く方が楽だから、とそんな理由で進学より就職を選んでいた。勿論、理由はそれ一つではない。何より強く母の期待に応えたい願望が根底にある。

 母を失望させるなぞ、想像するだけで寄る辺がなくなるような空恐ろしい気持ちを覚える。


「そっか……それならいいんだ」


 真宇の答えを聞いて、兄は落胆したようだった。父が父の考えを子供に押しつけたように、兄は兄で叶えられなかった夢を妹に託そうとしていたのかもしれないと、真宇は我が事のように落胆する兄の姿を見て思った。

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