トリビトたち_6
リザーグはその貧相な体躯に有り余る怒りを内在させていた。その怒りは地下に溜まった溶岩が競り上がり一気に外部へ爆発するような一時的な激しさを伴うものではなく、容量を超えた分の溶岩が火山口から溢れるような穏やかながら根深い要因によるものだった。
ツインが彼の雛をぞんざいに扱っていること。これは許し難いが、彼の雛が見慣れない生物であることを考慮すれば許さざるを得ない。他の鳥人に見つかればこうなるかもしれないと覚悟の上で木の洞へ雛を匿ったのだから、苦々しさは残るけれども溜飲を下げるしかないだろう。
リザーグが真に怒りの矛先を向けている相手は、共に集落へ帰ったはずのヤーシェだ。
ツインと共に居るヤーシェの姿を認めたとき、リザーグは煮え湯を飲まされたような思いに駆られた。
共に森を逍遥した時の記憶がまざまざと蘇る。
――分かった。
(そう答えたくせに! そこまで、嘘を吐くほど! 私は頼りにならないのか!)
――頼むから、そう自嘲してくれるな。
(俺から自信を根こそぎ奪ってくれる奴が慰めを口にするな!)
悔しくて、悲しくて、腹立たしい。
様々に入り乱れた悪感情が、潤いを取り戻そうとしていた心に毒を垂らし、ジワジワと広がろうとしている。
(呑まれるな。思い返せ。俺はヤーシェに何と言った? 信用してくれと頼んだんだ。信用と信頼は全くの別物だ――別の感情によるものなんだ)
あのとき、あの場で、ヤーシェはリザーグの言葉を信用して意見を退けた。だがあとから考え直して、本当に勘違いだったのか、本当に木の洞は巣にされていないのか、確かめたくなったのだろう。
信用は実績によるもの、過去に由来するもの。信頼は未来に起こる事柄に対する責任によるものだ。
ヤーシェはもしもの時、リザーグに責任を負わせたくなかったのだろう。
真綿で包むような優しさが為した行いだった。
その行為に若鳥なら嬉しさを感じただろう。しかしリザーグは成鳥だ。一人前を自負する彼が重責を任せられないと思われていると知って喜べるだろうか、否、到底できない。
リザーグがその残酷な真実に考え至る前に、ヤーシェが口を開く。
「リザーグ、お前が連れて来たのか。まったく、しょうがない奴だ」
抑え込もうとしていた怒りが遂に爆発した。
リザーグの意識が瞬時に激しい怒りに囚われ、目の前が真赤に染まる。
リザーグの次なる行動は早かった。
身体の重心を落とす。たわませた膝を用いて一気に地面を蹴り出し、ヤーシェの顔面目掛けて渾身の一撃を蹴り出そうとした。
しかしヤーシェの美しい体躯は見せかけではない。トンッと軽い調子でその場に跳躍し、リザーグの蹴りを脚を以て相殺した。
その鮮やかな手並みさえ、リザーグの劣等感を刺激するのだから、闘争は泥沼化していく。
*
唐突に、ヤーシェとリザーグによる喧嘩が勃発し、ツインは蚊帳の外に放り出される形となった。
(なにがなんでどうしてこうなった)
ポカンと呆けていたツインであったが、流石にこれは止めねばなるまいと焦りを見せる。
「おいおい! 何をやってるんだよ!」
ヤーシェは桁外れな巨躯を誇る雄鳥である。いくらリザーグが十年(六年)もの間を渡りの孤独に耐え忍び、独力で生き延びてきた知恵者であるとは言え、見てくれの通り貧弱な雄鳥であることに変わりはない。
この二羽が喧嘩を続ければ怪我どころか、下手を打てばリザーグは骨を折られてしまうだろう。
喧騒に当てられたのだろうか。ツインが捕まえている生物が暴れ出した。
真宇のことは最早どうでもいいと、ツインは考えていた。
噛む力がなく、鋭い爪もない。害にも毒にもなりそうはない生物だ。
逃げたければ逃げろと半ば投げやりに思いながら、ツインは真宇の脹脛から手を放した。地面に落とされて痛みに呻く奇怪な生物には目も暮れず、二羽の喧嘩を止めるべく近寄った。
ツインは冷静になるよう声掛ける。
「ヤーシェ。こんな訳の分からない喧嘩はよせ」
ヤーシェは喧嘩に巻き込まれぬよう遠巻きな位置に居るツインを一瞥して、素っ気ない返事をした。
「俺は喧嘩をしたくない」
(そうだった。そうだろうとも)
ツインは続いてリザーグを見た。
「リザーグ。こんな無謀な真似はよせって」
「俺とてこんな馬鹿な真似はしたくない」
「それなら止めろって」
「だが! あんな侮辱を受けて黙っていられるほど落魄れてはいない!」
「そうだよなあ。あそこで黙ってたら、雄が廃るってものだよな」
ツインの同意は口先だけのものである。そもそも二羽の間にあった問題を知らずして、どうしてリザーグの怒りの深層を見破れようか。
兎に角、ツインはこの場を穏便に済ませられるよう、この年少の雄鳥に掛けるべき言葉を必死に模索した。この際、事情を聴くのは後回しだ。
しかし、ヤーシェがツインの努力を水の泡に帰した。
あろうことか彼は「いつ俺がお前を侮辱した?」とのたまったのだ。
鳥人の顔に表情筋が生きていたならば、リザーグの眉間には青筋が立ったことだろう。
まるで大顎鰐を前にしたかの如く羽根を膨らませたリザーグを目の当たりにして、ツインは思わず叫んだ。
「一生口を鎖してろ、馬鹿野郎!」
もうどうしようもないとばかりにツインは天を仰いだ。
天に助けを願ったわけではない。神という概念を持ち合わせていない鳥人は祈る行為を知らない。
しかし、靄の向こう側に在る天は気前が良いようで、ツインは強力な助っ人を得た。リザーグに置いてけぼられたミナが漸く合流したのである。
「ミナ……」
ツインは息を呑んだ。雌鳥の信頼厚い、日向の主がまさか時宣よく現れるとは思わなかったのである。
ミナの身体を覆う鶯色の羽根は先に向かうにつれ、明るい色調の鶸色に染まり、狩りにおける彼の腕の確かさを周囲に知らしめる。所々に交じった白い羽毛は永い時を生き抜いてきた証だ。ヤーシェやリザーグ、ツインがその証を得るためにはあと三十二(二十)年は生き永らえなければならないだろう。
ミナは首を巡らせ、辺りの状況を一通り眺めた。翠玉色の縁取りがなされた冠羽こそ戦がせないが、金色の双眸を細めて彼は不機嫌顔である。
ミナが息を吸い込み、背中を反らせる形で胸部を張り出す。劈くような鳥声が乱立する幹で反響し、繁った枝葉を震わせ、森の奥まで木霊した。
三羽はビクリと身体を緊張させ、鳥声の主を怖々ながら窺う。
息を吐き出し萎んだ胸部はけれども、密集する羽毛は膨らんだままであり、その様子は獅子の鬣に似ていた。
「終いだ」
ミナの仲裁は鶴声の役割を果たす。それは彼が強いからではない。強さで言うならば、ヤーシェこそ最たる猛者だろう。
彼らが穏和に彼の仲裁を受け入れる理由は一つ。雄鳥たちの中で、否、三羽が知る限りミナが最も長く生き永らえている雄鳥だからだ。
リザーグとヤーシェは互いに三歩退き空間を開けた。そこへミナが進み出る。
「それで。この騒ぎの元凶は何だ?」
ミナは三羽の顔を順繰りに見渡した。
厳しい視線に震え、反応を示したのは傍観者である筈のツインだった。梅鼠色の雄鳥は日陰に巣を構え、ミナと殆んど面識がない。
ミナは喧嘩に携わっていないツインに視線を合わせ、
「ツイン。お前は此処に居てもしょうがないだろう」
と、やんわり退去を告げた。
元々蚊帳の外に居たツインだけれども、憧れを抱くミナが二羽をどう諌めるのか見届けたかった。
ここに居残る理由として考えついたのは、捨て置いた生物のことだ。
(そう言えば、あれは逃げちまったか?)
ツインは首だけを回して背後を振り向いた。ミナもつられて視線をそちらへ移す。
ミナは雛が倒れているのかと思ったらしく、動揺も露わに冠羽を開閉させた。しかし刹那が過ぎると、それは雛と似た色彩を纏いながら羽毛が生えていない、全く異なる生物であることに気がついたのだろう。
ミナは誰ともなく問う。
「あれは何だ? ピクリとも動かないが、死んでいるのか?」
「分からない」ツインが答える。「ヤーシェが木の洞に隠れているところを見つけた」
その問答を受けて、憮然とした態度のリザーグと、悄然と項垂れていたヤーシェもそちらを振り返る。
リザーグは雛の無残な姿を捉え、その大きな目を限界まで開き切った。
「ああ!」
リザーグは駆け出した。彼の大切な雛の傍らに跪き、性急ながら労わりのある手つきで雛を抱き起こす。
雛は意識がなく、リザーグの腕にくたりと軽い体を預ける。黄みを帯びた顔の鱗(肌)は青白く変色し、故に頭部から流れる血が憎らしいほど鮮やかに映えた。
頭から地面に落ちた際、真宇は頭部に軽い裂傷を負っていたらしい。
リザーグは動転した。まだ息はあるか確かめようにも早鐘を打つ血潮の音が邪魔をして上手く聞き取れない。
それから彼はみぞおちに片手を添えた。内臓を肋骨のみで保護する人間とは異なり、鳥人の胸部は更に板のような竜骨で保護されている。息をしているか確かめるため、みぞおちに手を添えることは自然なことだった。はたして、そこは上下に動いていた。
「息がある……良かった……」
リザーグは安堵した。それと同時に狭まっていた視界や感覚が徐々に平時の状態に戻り始めた。
そうして真っ先に思ったことが――柔らかい、というものだった。
真宇のみぞおちに添えたリザーグの手の側面は乳房に当たっていた。
人間的な倫理観からしてみれば、このような状況において不謹慎だと咎められそうなことだが生憎、リザーグは鳥人である。
乳房という機能を持ち合わせない彼からして、軽く押せば掌を押し返す弾力と、三本の指で掴めるほどの脂肪のつき具合は驚嘆に値した。
その膨らみが二つ、まるで丘のように並んでいる。胸部の守りはそれだけ。
(ああ。本当に柔な生き物なんだな。俺が守らないとすぐに死んでしまいそうになる。雛はか弱いんだ、それなのに俺は……ごめんな)
リザーグは心の中で謝った。
雛が怪我を負った以上、安静で居られる場所、つまりリザーグの巣へ連れ帰る必要性がある。
「リザーグ」
ミナは、見慣れない生物を横抱きにしたリザーグを咎めるかの如く目を細めて凝視した。
「まさかとは思うが、お前が見てもらいたいものとはそれのことか?」
「そう。いつもの狩り場で蟒蛇に襲われかけていたところを偶然、雛だと思って助けたんだ。ミナなら見掛けたことがあるんじゃないかと思ったんだけど、その様子じゃなさそうだね」
「私も初めて見る。それをどうするつもりだ?」
この問い掛けに対する答えはリザーグの他、三羽が知りたがっているものである。
三羽の視線を一身に受けながらも、リザーグは毅然とした面持ちで真直ぐミナを見据えて答えた。
「巣に連れて帰る。怪我をしているんだ。ゆっくりと休養できる場所が必要だろう」
「俺は反対だ」
ヤーシェが声を上げた。
「得体の知れないものを巣に持ち帰るなど正気ではない」
ヤーシェの言う事は尤もであった。その証拠にツインも「その通り」と肯く。
「確かに得体は知れないけど、害のある生物ではないよ。爪も牙も、躰自体も柔な作りなんだ。他の巣や雛に近づかせなければ、大した迷惑も掛からないだろう」
「だが、毒があるかもしれない。液体を噴き出していた」
その言葉を受けて、リザーグは腕の中に収まる雛を見下ろした。真宇の涙は血と混ざるか渇き、ヤーシェが言う液体とやらは見る影もない。
雛は相変わらず意識を戻さない。弱った姿に愛おしさが湧く。
「それでも」とリザーグは面を上げた。「怪我が治るまでは俺の巣に居させる。雛からは片時も目を離さない」
「リザーグ」
ヤーシェは困り果てたように冠羽を寝かせた。ツインはミナへ顔を向けた。
誰よりも長生きし経験を積んだ、賢い雄鳥は口を開き、
「いいだろう」
そう一言だけ漏らした。
リザーグは嬉しさに胸を膨らませ、ヤーシェとツインは冠羽を寝かせた。
ミナの判断は二つの観点から下された。
「今まで見掛けなかった生物の雛が現れたと言うことはだ、何処からか新しい生物の集団が移り住んだ可能性があると言うことだ。この得体の知れない生物の習性について少なからず知っておくべきだ。そう考えれば、迷った雛を先に見つけられたのは幸いと取っておくべきだろう」
「一理あるな」
「ヤーシェ、ツイン。これの習性を知るため、お前たちにも目を光らせていてもらいたい」
ミナの要請を受けて、ヤーシェとツインは肯いた。
ミナが言葉には決してしない、もう一つの理由。それはリザーグの父鳥としての資質の成長を願う、元父鳥としての愛情故にだ。
ミナがツインに得体の知れない生物について尋ねるまで、リザーグはヤーシェに気を取られ、あろうことか雛から目を離していた。それではいけない。
雌鳥は満足に動けるようになった雛を巣立たせ、雄鳥に託す。雛を託された雄鳥は身体が出来上がらない雛を同伴し、狩りや散策と言った常と変わらない生活を送る。雄鳥自身と行動を共にすることにより、生きる知恵を頭や体に叩き込むためだ。
その際、雄鳥を囲む環境は大きく変わる。雛を虎視眈々と狙う敵が彼らの周りをうろうろと徘徊し始めるのである。戦う力を持った雄鳥にとって鬱陶しいだけに過ぎない環境はけれども、雛にとっては命に係わる脅威である。
雄鳥がほんの一瞬目を離した隙に、雛が襲われることは多い。そうして鳥人と言う種は淘汰されている。
リザーグは若い。頭にカッと血が昇ると、すぐに冷静さを失くす。
得体のしれない生物でも構わない。何かをずっと気に掛ける集中力と、何が起こっても冷静でいられる平常心を身につけてもらいたい。
リザーグの事ばかりに傾倒しているかのように見受けられるミナだが、無論、雌鳥の信頼を裏切るような真似はしない。
ミナはリザーグに脅しとも取れる念押しをする。
「但しだ、リザーグ。それが何か事を起こしたとき、此処にお前の居場所があると思うなよ」
それは十年(六年)の歳月を経て、漸く手に入れた安寧を手放させることを暗に示唆していた。
「分かっているよ、ミナ」
一拍の間を置いて、リザーグは力強く頷いた。
その一拍の間にリザーグは保身と哀憫の情で葛藤し、雛を選び取ったのだった。




