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トリの花嫁  作者: あきざね
第一章 其処ではない何処か
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トリビトたち_3

「この子がいい」


 でんぐり返る秋田犬の子供を硝子越しに指差して、真宇は母親の注意を引こうと空いた手で花柄のワンピースの裾を掴んだ。母親は困ったように眉を顰めて、傍らに立つ父親へ顔を向ける。


「秋田犬は結構大きくなるのよね?」

「ああ。確か、秋田犬より柴犬の方が小さめだったはず」


 職人気質の父親が言葉少なめに説いた。ショーウィンドウに顔を向け直した母親は真宇と同じ目線に屈み、秋田犬の隣の檻で眠っている柴犬をそれとなく薦める。

 新しい転居先は木造の、古い公営住宅であり、隣接する公道の街灯に防犯カメラが取り付けられているとは言え、防犯対策は他より明らかに劣っている。故に防犯対策の一環として外飼いの番犬に限り動物を飼うことが許されていた。

 母親が頻りに柴犬を薦める理由は今になって推測すると、経済的な面を鑑みて秋田犬より餌代の掛からない柴犬の方がいいと考えたからではないか。しかし、当時の幼かった真宇が大人の事情を理解できるはずもなく、真宇は首を横に振るばかりだった。


「嫌だよ。こっちの子の方が可愛いもん」

「でもねえ。この子はとっても大きくなるから、お世話が大変になるのよ」

「大丈夫だよ。マウがちゃんとお世話するから」


 そう真宇は胸を張ったが、母親の表情は晴れなかった。大方、すぐに犬の世話を投げ出すと思われたのだろう。そうすると最も害を被るのは家事を一手に担う母親なのだ。朝餉の支度に弁当の準備、父親と息子娘を見送った後は洗濯物を回す。部屋の掃除をして、洗濯が終わった洗い物を干して、近くのスーパーに買い物に出掛けて――主婦も何かと忙しいのだ。

 母親の実家は鼠捕り用の半野良な猫しか飼っていなかったので、大型犬と中型犬の差異なぞ家族揃ってとんと想像もつかなかった。ただ、ゴールデンレトリバーのような大人の腰ほどもある犬の世話まで引き受けるなんて冗談ではないと、母親は考えていたことだろう。

 根気強く真宇を説得しようと試みるが、真宇は既にサービス精神旺盛な秋田犬の子供に心を奪われたようで意志は頑なだった。「この子がいいの」と、地団太を踏む真宇から埒が明かないとばかりに母親の視線が逸れる。

 母親が少し離れた位置に佇む兄へ声を掛けた。


「お兄ちゃんは?」

「俺はこいつがいい。シベリアン・ハスキーだって。狼みたいでかっこいいんだ」


 そう兄は屈託なく笑った。

 母親が兄の隣に移った。値札を確認していた母親の目が驚愕したように見開かれる。


「あ。やっぱりこっち」と、心変わりした兄が斜め下の檻を指差した。家で良く使うソースに描かれた犬と全く同じ犬貌をした子犬が団子みたいに引っ付き合って眠っていた。


「いいんじゃないかしら」

「そう思う?」


 母親が賛同の声を上げると、兄は笑顔ながらも困ったように訊き返した。

 真宇はこのままでは我が家に来るのは頬肉が垂れた小父ちゃんのようなあの犬になってしまうと焦り、父親に縋り付いた。


「お父さん! ねえ、あの子がいいよ。だって人懐っこいんだもん」

「そうだなあ」


 ひとつ頷いて、父親は黙考する。真宇は期待を込めて父親をじっと見上げていた。


「うん。母さん、この子にしようか」


 父親がそう告げるや否や、母親は不服そうに顔を歪めた。


「お兄ちゃんの意見は無視ですか?」

「そうだなあ。流也(りゅうや)もこっちに来て、この子を見てご覧」


 兄がショーウィンドウの真ん前を再び陣取った真宇の隣に立つ。じっと子犬を眺める兄の背中へ、少し時間を置いて父親が問うた。


「どうだ? 仲良くやれそうか」

「うん。こいつなら大丈夫そうだ」


 そう兄の返答を聞くや否や「すみません」と、父親が店員を呼ぶ。「何で男親って娘には変に甘いのかしら」と、文句を零して母親が父親と店員とのやり取りに加わる。

 両親が店員と売約を交わす間、兄は真宇のつむじを見下ろしながら訊ねた。


「こいつに何て名前を付けんの?」


 真宇は兄の顔を見上げ、にっこりと満面の笑みを浮かべた。


「タロウ!」


 昨日観た実写映画に出演していたヒーロー犬の名前をそのまま告げられ、兄は呆れて諭すように言葉を返した。


「お前なあ、名前は一生もんだぞ。もっと考えてつけてやれよ」

「いいの。この子はタロウだもん。ね、タロウ」


 円らな黒い瞳を真直ぐ見つめて呼び掛ければ、子犬は一声甲高く鳴いた。己の名はタロウだと分かっているような物知り様子が可笑しくて、兄と妹は一緒になって笑った。

 何故笑われているのかなと、子犬はそう言わんばかりに硝子越しに小首を傾げた。タロウが硝子を前脚で引っ掻く。真宇は子犬の手と手を合わせようと腕を伸ばした。







 夢と現実の躰が連動する。


「痛っ」


 体勢を崩した真宇は側頭部を壁へぶつけてしまい鈍痛に悶えた。

 急激に冴えた眼で辺りの様子を窺う。薄暗い木の洞がくっきりと視界に映った。全ては夢ではなかったのだと悟り、真宇は胸の内に溜まる鬱屈とした思いを吐き出すかのように、重い息を吐いた。

 ストレスの解消法は暴食にはしったり、カラオケで騒いだりと人によるものだ。真宇の場合、ストレスが溜まると眠りに逃げる。一度眠りに就けば頭は真っ白なまま、辛いことも悲しいことも感じずに済む。緩やかな時の流れがいつの間にか、草臥れた心の傷を塞いでくれるのだ。


(懐かしい夢だったなあ)


 真宇は夢、否、昔日に思いを馳せ、ふと微笑んだ。

 祖母が生きており、母がまだ優しかった頃。父と兄の間に軋轢も生じず、家族間を漂う空気は柔らかで、真宇は新しくて刺激的なことばかりに目移りし、生き生きと瞳を輝かせていた。

 ジワリと郷愁の念が心に滲み出す。異常な事態に在るからこそ家族の夢を見たのだろう。しかし元気になるどころか、悲しくて切なくて、淋しい思いが心を締め上げる。


「幸せな夢なんて見たくなかった」


 立てた膝の間に頭を埋め、真宇はそう呟いた。

 頭を埋めたまま動かずに居ると、潮騒のような心音が聞こえ始めた。また眠ってしまおうかと、真宇は投げやり気味に考えた。

 だが、眠ろうとするほど眠気は遠ざかっていく。真宇は仕方なく現実へと考えを巡らせ始めた。

 彼女が去ってから、どれ程の時間が経ったのだろう。眠りは浅く、夢は短かった気がするので、時間はそれほど経っていないように思えた。尤も森の中を歩き回り疲れ果てた躰の感覚は宛にならないだろうが。

 真宇は怖々とおよび腰で木の洞の入り口から顔の上半分だけを覗かせた。外には先ほどと変わらない仄暗い森の景色が広がる。当前のことなのだが、やはり気分は落ち込んでしまう。

 時間を知るには空を見た方が早いだろうと、真宇は更に顔を出そうとした。そのとき彼女の耳が微かな葉擦れの音を捉えた。真宇の動きが一瞬止まる。

 音の主に怯え、真宇は急いで顔を引っ込めた。


(怖い)


 一体、何が近づいてきているのだろうか。先ほどの大蛇のような生物か、はたまた平原を闊歩していた恐竜のような生物か。

 鳥人の女が戻って来たのかもしれないが、よく鳴く彼女のことだ。鳥声が細やかながら漏れ聞こえても良さそうなものだ。


(怖いよ)


 もし叶うことならば、自室のベッドの上で毛布に包まりたいと真宇は願った。(すべか)らく外部からの刺激を拒絶し、(いわお)のように動かず全てが落ち着くまでじっとしていたい。

 そう願ったところで居心地のいい自室も、温かいベッドも此処にはない。真宇は洞の最奥部で膝を抱えて縮こまった。

 葉擦れの音は徐々に大きくなり、何かが近づきつつあることが窺えた。恐怖の高まりと共に真宇の心臓の鼓動が激しくなる。


(心臓の音、外に漏れないよね)


 真宇はそう杞憂した。静まれと心臓に命じたけれども、鼓動は聊かも落ち着かない。そのことがさらに真宇の不安を煽る。

 逃げ場のない木の洞をさっさと捨てて、違う場所へ逃げるべきなのかもしれない。真宇が一向にそうしない理由は、彼女がわざわざ選んでくれた隠れ家だという信頼からではなく、得体の知れない相手が恐ろしくて動けずにいるからだった。

 葉擦れの音に小枝が折れる軽い音が混じる。小枝を踏んで鳴っただろう音はすぐ近くで聞こえた。

 やがて全ての音が止まった。

 真宇は息を殺した。木の洞のすぐ外で音が止まった。そのことは何かが、顔を覗かせれば姿を窺えるほど近くに居る状況を表していた。

 音の主は何を欲して、そこに留まるのか。相手の目的は考えても分からない。

 ただ只管に相手が真宇の存在に気づかず立ち去ってくれることを祈ることしか、真宇にはできない。

 シーンと静寂の音が脳内に反響する中、それは唐突に起こった。木の洞の入口、比較的浅い部分の地面に棒状の何かが突き刺さったのだ。


「ひっ」


 引き攣った悲鳴が殺していた息と共に漏れる。


「やはり何か居るのか」と外で待ち構える相手が鳴いた。


 鳥人の鳴き方のように思えたが、声は彼女より低い。

 棒、否、先端を鋭利に削った槍のような枝がより深い部分に刺さる。真宇は木の洞の最奥に背中を押し付け、震える身体を抱き締めた。数度同じ行為を繰り返し、漸く枝の槍が木の洞の外へと取り除かれた。


「何を遊んでいるんだ、ヤーシェ」


 先程聞こえた鳴き声と比べて調子の高い声がした。


「この(うろ)の中に何かが隠れているんだが、素直に枝に食いついてくれなくて、上手く追い出せない」

「とっ捕まえりゃいいだろう」

「よせ、ツイン。何が隠れているのか分からないのに素手は危険だ」

「警戒しすぎだって、ヤーシェ。気の早い毳蛙(けばかわず)でも迷い込んだんだろうさ。ちゃちゃっと捕まえて、群れの近くに放してやろうぜ」


 二種類の鳴き声は互い違いに囀り合った。その間なんの動きもなかったものだから、漸く諦めたのかと真宇は身体の強張りを解いた。

 だが、動悸が収まる前に三本指の腕が洞の中に侵入してきて、油断していた真宇の脛を掴んだ。腕は指と掌以外が羽根に覆われた鳥人のものだった。暗がりのせいで色が識別できないけれども、真宇は彼女の腕ではないと根拠のない確信を持った。


「捕まえた!」


 木の洞の外でひと際大きく鳥声が響いた。

 真宇は咄嗟に地面の突起に手を掛け、外へ引き寄せる力に抗った。力こそあるが、脛を握りつぶすような真似は決してせず、それは乱暴な類のものではないようだった。


「勘弁してくれよ」

「どうした?」

「相当、踏ん張ってる。この力の強さは――あいつか。手え出すなよ、ヤーシェ。雄の象徴を抜かれること数知れず。今回こそ俺が勝つ!」

「……そうか。頑張れ」


 引っ張る力が強くなる。真宇は両手で地面の突起を掴み、入り口付近の幹を足場にして踏ん張りを効かせた。


「……だめか。しょうがねえなあ」


 フッと脛を引っ張る力がなくなった。

 どうしたことかと真宇は視線を足元に向け「うそ」と言葉を漏らした。視線の先では腕がもう一本、入口から伸びてきていた。

 真宇は両手と片足を駆使して、相手の腕一本の力に抗えていた。腕二本の力に対し、抗えるとは到底思えなかった。

 顔面を蒼白にさせ、真宇は辺りに視線を巡らす。武器になるようなものはないかと探すが、そのような代物は石でさえ見当たらなかった。

 身を守る手段を選ぶ時間も、躊躇いを感じる(いとま)もない。

 もう一本の手が脛へ掛かる前に、脛を掴んだままの手首を真宇は思いっきり噛んだ。

 悲鳴のような甲高い声が上がる。


「ヤーシェ! 道具を寄越せ! 中に居るのは毳蛙じゃない!」

「退け、ツイン」


 枝の槍が腕と入口の間を擦り抜け、突き入れられる。鋭利な先端が真宇の肩口を掠め、熱いような痛いような不思議な感覚がじわりと広がる。恐怖と痛みが脳を支配し、命じられるがまま真宇の声帯は我が身を可能な限り震わせた。

※雄の象徴=冠羽のこと

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