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ネット小説大賞用。設定の変更多少あり。(2017.01)
真宇は学校から帰宅するとまず裏庭へ向かう。
季節は初秋。折しも日没が早まった頃で、辺りは宵闇に沈み始めていた。
裏庭に面する居間の窓がよく見える位置へ足音を忍ばせて近づく。窓から漏れ出る室内灯の明かりがセーラー服に身を包んだ真宇の姿を煌々と照らした。
顎先で切り揃えた、つるりとした質感のおかっぱ頭が大人しそうな雰囲気の少女だった。重たい面髪の下、白いマスクとの間で、鳶色の双眸が迷うように揺れている。
真宇はいつものように室内の様子を磨硝子越しに窺おうとして、少し躊躇っていた。
毎日毎日飽きもせず続けている習慣をいい加減止めにすべきだ、と彼女自身頭では分かっていた。しかし――
(今日こそ両親の折り合いがついたかもしれない)
そんな微かな希望をどうしても捨てきれずにいる。
真宇は窓の明かりへ目を向けたまま通学鞄に手を這わせた。指先が金属の硬質な冷ややかさに触れる。彼女は指先に触れた金属を握りしめた。
その丸い形の金属は所々塗装の禿げた交通安全の御守鈴だった。真宇が小学校に入学したての頃から今まで、ずっと愛用し続けている代物だ。幾度となく雨に濡れたあと放置していたせいか、鈴自体は錆びて鳴らない。
勇気づけられたいときや、不安を感じたときなどに御守鈴を握る仕草はいつの間にか癖づいていたものだ。こうして鈴を握っていると気休め程度であれ心が安らぐ。
(今日だけ。そう、今日で最後だから……)
真宇は胸の裡でそう言い訳し、どうか両親が仲直りしていますようにと願いながら、室内の様子を磨硝子越しにこっそり窺った。御守鈴を握る手に自然と力が篭もり、指の関節が白く色を失う。
居間に影がふたつ、ぼんやりと見える。当初どちらの影も机を挟んで人形のように大人しく座っていた。
もしかして、と真宇の心に希望が芽生えかけた刹那、片方の影が机に身を乗り出すような動きをみせた。
そこからはいつも通りの展開が起こる。母が一方的に父へ詰め寄り、父が煩わしそうに逃げようとする。その滑稽な動きは恰も影絵の芝居劇でも上演されているかのようだった。
(なんだ、今日もか)
真宇は人知れず落胆の息を吐いた。淡い期待が砕け散り、御守鈴を握る拳の力もふっと抜けた。
この夫婦関係の拗れは六年と半年ほど前、母が実家へ金繰りを始めたことに端を発している。
母の実家は海端の町で農家をしており、近くの河から農業用の水を引いていた。だが、近年の海面上昇に伴い海水が河に逆流するようになって、母の実家が使っていた河の水も塩気を含むようになってしまったのだ。
従来の作物は塩害に弱く、河の水をそのまま使い続けることはできない。塩害に強い遺伝子組み換え作物は栽培は疎か輸入も国が承認しておらず、その承認さえいつになるか定かではない。
母の実家を始め、その河の水を使っていた農家は水路を新しく工事する必要に迫られた。この異常事態にあたり、農業振興課の役人から補助金が下りるという説明をされたらしいが、補助金は後払いが基本だそうで、最初に費用が払えなければ話にならなかった。
母の実家はその費用が捻出できず、現在に至るまで上水道を利用して場を凌いでいる。同じく費用を捻出できなかった農家の中には、これを機に廃農した家まである。
しかし母の実家は、うちの作物を楽しみにしている人たちが居る、と気持ちを奮い立たせ、新しい仕入れ先の開墾に奔走している。
それでも活路を見出せずにいる実家を助けるため、母はパートの時間を増やし仕送りを始めた。父はそれを快く思わず、度々母と衝突している。
父は母の実家が農家を続けていることを、廃農する機会を逸してしまって意固地になっているんだろう、と辛辣に分析していた。
母の言い分と父の言い分。どちらも正しくて、どちらも相応に身勝手だ、と真宇は思う。
(お母さんは家庭を蔑ろにしているし、お父さんはお母さんの気持ちを無視している)
真宇は御守鈴から手を放し、玄関先へ踵を返した。
玄関先には犬小屋があって、年老いた番犬タロウが暇そうに伏せっていた。目を瞑って本格的に寝ているようだったが、タロウは近づく人の気配を敏感に察したのか、のそりと顔を上げた。
タロウの円らな黒瞳が真宇を捉える。相手が真宇だと分かるや否やタロウは犬小屋から這い出し、尻尾を千切れんばかりに振った。
真宇は立てた人差し指をマスクに当て、
「ちょっと待って。いい? 鳴いちゃ駄目だよ」
と、タロウに言い聞かせた。するとタロウはお座りをして、待ての姿勢を取った。
「いい子」
タロウの利口な態度に満足した真宇は、目元を綻ばせタロウを褒めた。
真宇は玄関の引き戸を静かに開けて、身を滑り込ませた。通学鞄を靴箱の横に置き、家の中の様子を窺う。
父母の言い争う声が欹てた耳に漏れ聞こえた。こうなれば喧嘩が終わったあとも暫らくの間は気が立っていることだろう。
真宇は開けっ放しにしておいた引き戸から外へ避難した。犬小屋の近くにしゃがみ、杭に繋いだタロウの綱を解く。
「おいで」
そう小声で呼び掛ければ、タロウは嬉しそうに尻尾を振って真宇の後ろをついて来た。
母と父が喧嘩をする度、真宇がタロウを散歩に連れ出し、適当な時間を潰すことは最早日課と化していた。
真宇の家の隣近所には自宅と全く同じ外観をした、時代を感じさせる平屋建ての木造住宅が建っている。
ここら一帯に塊る同形の住宅は父が産まれる前――宙港の誘致に成功した町が移住者層のために建設した貸家だ。そのため家屋自体が古く、外壁内観ともに草臥れた印象が強い。
平屋建て、築年数が古いときて、さらに市街地から遠いという立地条件の悪さが加わり、家賃の安さの割に入居者はあまりいない。少なくとも真宇の家族が住む角の家、そこを囲む三方の住宅は空き家だ。
すると、どうしても近所付き合いが希薄になってしまい、両親は色々と難儀しているようだった。
しかし逆に真宇は、両親の仲に難があることをあれこれ噂されずに済むため、今の環境を有り難く思っている。
真宇はタロウを従え、家の隣を通る公道に出た。摩天楼が連なる街中と海端、それぞれに続いている丁字路を迷わず海端の方向へと進んだ。
公道では一般的な電灯ではなく、橙色の明かりを点すナトリウム灯が街灯として起用されている。
その洒落た橙色の光の真下で真宇は不意に立ち止まり、元来た道を振り返った。暗がりに沈む家々に囲まれて、街灯より白白とした光を窓から漏らす家が一軒、悄然と佇んでいる様子が目を惹いた。
街灯の明かりへ集った虫がバチバチとぶつかる嫌な音が車通りのない郊外の道路で響く。
(お祖母ちゃんたちが家を訪ねてくるのは、いつも虫がいない時期だった)
母方の祖母は農閑期に一回は孫の顔を見に来ていた。
優しい祖母だった。長年農作業をしていた手はゴツゴツとしており、節も太くて、男の人の手とまるで変わらなかった。真宇はその手を引いて散歩に付き合うことが好きだった。
その祖母も七年前に亡くなり、祖母と共に顔を見に来ていた祖父は水路が使えなくなってから訪れが途絶えた。父方の祖父母は真宇が生まれる前に他界している。
世間から孤立しているのは家だけではないのかもしれない。
そう考えたとき、真宇の胸が締めつけられるように痛んだ。両親が近所づきあいを欲している理由はもしかしたら今の真宇と同じで、漠然とした不安を拭い去りたいからなのかもしれない。
素足にフワフワした毛の感触と温もりが触れる。
ぼんやりとした面持ちのまま、真宇は足元へ視線を向けた。タロウの小首を傾げる姿がちょうど目に入った。
大丈夫、と訊かれたような気がした。
真宇は大丈夫だと言葉にする代わりに、タロウの耳の後ろを掻いた。
「ごめんね、行こっか」
真宇は自宅に背を向け、足早に海端へ歩を進めた。
ひとつ、またひとつと街灯の下を通り過ぎていけば、磯の香りが強さを増して鼻腔をくすぐった。
海端への道すがら公道から脇道へ逸れ、その先に在る法面の階段を登った。
すると、目の前に広い河が横たわる。
真宇は土手道を河口に向かって歩いた。やがて海が見え、水平線近い海面に光の道筋を描く、赤い月を眺めた。
(今日も黄砂が酷いんだ)
既に高く昇っている月が赤い絵の具を垂らしたように不気味な色をしている理由は大陸から飛んでくる黄砂のせいだ、と真宇は習った。タクラマカン砂漠やゴビ砂漠、黄土高原などの中国大陸内部に在る砂漠の侵食を止めない限り、黄砂の被害は酷さを増す一方だとも。
これは深刻な問題なのだと教師は熱弁を奮ったけれども、海向こうの国の問題を身近に考えることはできなかった。
今もそうだ。砂漠化がどうこうなんて壮大な事柄よりも、黄砂やそれに紛れて飛来する有害物質のことが気に掛かっている。
黄砂や有害物質は恐ろしいものだ。健常者が対策を怠った結果、気管支や肺が侵され病気になった事例が他の世界地域で――対策の遅れていた昔なら日本でも、幾つも報告されている。最悪の場合は病が悪化し死に至っている。
そのことを思い返し、真宇は怖ろしくなって顔とマスクの隙間を改めて埋めるように手を当てた。
弛んでいた筈のタロウの綱が不意にピンと張り詰め、
――ウオウ!
興奮したような犬の吠え声が辺りに響く。
真宇は何かあったのかと思い、タロウの向かう先へ顔を向けた。タロウが後ろ脚立ちになって進もうとする先には九十歳を超える老年の男性と、彼に連れられた犬の姿が在った。
此方に向かって歩いていた老年の男性は真宇に気づいたようで、にこにこと調子の良い声を上げた。
「こんばんは。今日も偉いねえ」
「こんばんは。犬の散歩は気分転換にちょうどいいですから」
そう飼い主たちが挨拶を交わし合う最中、犬たちも飼い主の足元でお尻の臭いを嗅ぎ合い挨拶を交わしていた。
一人と一匹は真宇がほぼ毎日河口へ通う内に知り合い、自然と会話をするようになった、云わば犬の散歩仲間だった。
老年の男性は曾孫と年近い真宇と話せることを楽しんでいる節があり、呂律が上手く回らないながらも口数多く話をする。いつぞやの話では彼の連れ合いが既に他界し、今は息子夫婦と同居していると身の上を語っていた。
今日もまた、老年の男性は身内にするような気安い話をする。滑舌の悪い喋り方は聞き取りづらいけれども、話の大筋を掴み、他の細かなところを聞き流してしまえば然程苦にならないものだ。
長々と話をする間に老眼鏡のレンズがマスクの上部から漏れた息で曇り、老年の男性は老眼鏡を一旦外して服の端で軽く拭ってから掛け直した。
「おや」
老年の男性が空に何かを見つけたのか、頭を後方に仰け反らす。
その視線を追って真宇も河向こうの空へ顔を向けた。銀色に輝く物体が火を噴き、白煙の尾を引きながら宙を昇っていく。あれは町の郊外に在る宙港から発射された船だ。
「もう六時なんですね」
真宇は呟いた。
船は毎日定時にしか発射されない。それ故に町民や近隣市町村の人間は時間の目安として船を用いていた。
「昔は鴉が山に帰れば、ちょうど家に帰る時間だと言ったんだけどねえ。今じゃ鴉の代わりに船だ。時代の流れかねえ。世の中の変化があんまりにも速いもんで、置いていかれそうだよ」
老年の男性はしみじみと言葉を零した。厚いレンズ越しの眼差しは遠くを茫洋と見据えている。
真宇はその姿に闇夜へ溶け込んでしまいそうな儚い風情を見て取り、思わず目を瞠った。ほんの一瞬、老年の男性に祖父の姿が重なって見えた。
――お母さんのお墓参りに行くから、お父さんを呼んできて、といつかの母の声が耳の奥で聞こえた。
真宇の意識がお盆の日に巻き戻る。
蝉が喧しい音を立てていた。真宇は母に頼まれ、祖父を捜しに家中を見て回っている。
果たして祖父はうだるような暑さの中、日当たりの良い縁側に腰掛けていた。祖父が正面に向き合う庭先では、祖母の愛した山百合の花が繚乱と咲き誇っていた。
真夏の陽光が溢れる白昼の光景が眩しくて、真宇は思わず目を細めた。狭まった視界の先で白いワイシャツを着た、寂しげで儚げな祖父の背中が光に溶けて消える――そんな白昼夢を見た。
あれが何を表していたのか、真宇には分からない。ただ、悲しみと淋しさだけを齎す筈の幻が父母の言い争う姿を思えばこそ、ほっとする気持ちをも生み出した。
あのときの嫌に生々しい気持ちを思い出し、心臓の裏側がざわついた。
(……こんなことを思い出すなんて最悪だ)
真宇は隣人に気取られないよう、細く長く息を吐き出した。沈み込んだ気分を持ち直すため、敢えて顔を持ち上げ空を仰いだ。
真宇と老年の男性は宙へ昇る船を静かに見送った。
「初めて船が宙に昇るところを見たとき、私には龍が滝を昇っているように見えたんだよ」
老年の男性が沈黙を破り、唐突にそんな事を言った。
「龍ですか?」
「そう。鯉のぼりが青空に靡いていたからかなあ。鯉のぼりの背景に見えた、天に昇る飛行機雲が龍に見えたんだよ。ほら、鯉が滝を昇れば龍に成るっていうからねえ」
「ああ。 ……小学校で習いました」
真宇は遥か彼方を目指す船と夜空に浮かぶ白煙の軌跡を眺めた。長い胴体。風に引き伸ばされた腕と脚。煌めく船はさながら龍の瞳か。
「確かに似てますね」
真宇はそう答えた。
喩えを肯定されたとき、老年の男性は嬉しそうに目元を綻ばせた。
真宇は老年の男性と別れた帰り道、先ほど宇宙船を龍に喩えた言い回しのことについて考えを巡らせていた。
(龍かあ)
飛行機を大きな鳥だと例える人は数多くいるけれども、宇宙船を龍に喩える人はあの老年の男性くらいだろう。しかし、上手い喩えだと思う。
――龍が天を支配し、鳥が空から姿を消した。
小説の一文のような文句がふっと閃いた。
真宇の住む町には祖父が暮らす田舎と比べて極端に見掛けないものがある。それは鳥の姿だ。
田舎では鴉や鳶などの比較的馴染み深い鳥たちの姿を見掛ける他にも、雀や白鶺鴒の姿もあり、鶯や鵯の声を聞ける。それだと言うのに郊外に宙港を有し、宇宙船の精密部品を作る工房などが犇めく現代的な町ではとんと見かけない。
(鳥たちにとってこの町は住みよい場所じゃないんだろうな)
真っ赤な月。風向きにより昼間も白や黄色に濁る大気。宇宙船を打ち上げる都度に発生するガス。
(ここの空気が汚いせいだ)
真宇はふと、炭鉱の金糸雀の話を思い出した。
それは、メタンや一酸化炭素といった窒息ガスや、毒ガスがしばしば発生する炭鉱で飼われていた金糸雀のことを指す言葉だ。人間の身体には害のないような僅かな量の有毒ガスにも反応し騒いだり、気絶したりする金糸雀の性質を利用し、逸早い危機察知のために彼らは利用されていたと本で読んだ。なんでも鳥類は空を飛ぶため呼吸器官を著しく発達させた結果、空気汚染に酷く弱い身体の構造をしているらしい。
この町に鳥の影がない理由は人体には無害な量だけれども、余所より空気中の毒素が多いせいなのかもしれない。
(そう考えれば白煙は龍の胴体ではなくて、息吹なのかもしれない)
――龍の吐く毒が鳥を墜とした。
言い得て妙な気がした。