(四)信じる者は
嵐のような巨漢の攻撃を前に、源九朗は防戦一方に追い込まれていた。
まず、圧倒的な打突範囲を前にして反撃は困難だ。だが間合いを詰めようにも、棒術は剣術に比して攻撃速度が数段速い。一撃をかわすと間を置かずして次の一撃がやってくる。かといって受太刀もできない。なにせあの出鱈目な威力のこと。刀は飛ばされるか、下手をすれば破壊されてしまうだろう。結局、回避するしかないわけだ。
打、突、払。流れるような連撃の数々を、源九郎は全てかわしきった。
回避に専念して以降、巨漢のありとあらゆる攻撃はかすりもしていない。これはこれで源九朗の身のこなしが相当の域に達している証だが、反撃できなければ勝目はない。敗北は時間の問題――既に呼吸は荒く、全身が滝のような汗でずぶ濡れだった。
一旦距離をとって仕切り直したいところだが、
「……ちっ!」
源九朗は舌打ちした。
「クカカカカッ、逃がすかよッ! この犬畜生がァ!」
そういった動きをみせた途端、小男の妨害に遭うのだ。
この男はどうやら巨漢の補佐役らしく、常に付かず離れずの間合いにいる。巨漢から距離を置こうとすると邪魔をし、逆に詰めようとしても必ず割って入ってくる。そのため巨漢は最適な間合いを保ったまま一方的に攻撃を続け、源九朗は反撃も離脱も許されぬまま、ただただ消耗させられるのだ。
「ブッ殺せ、さぁブッ殺せ! 犬追物は楽しいねぇ」
この状況を犬追物――竹矢来に囲まれた犬の狩りに見たてているわけだ。ならば窮地を脱するには、人ならではの力が必要ということか。
「ちっ!」
再び舌打ち。狩り場を逸脱した源九朗の背に、またもや小男の鉤爪が振るわれる。
「オラッ、逃げるんじゃねーよ、犬ぅ!」
「――ぐあっ!」
源九朗は呻き声を上げた。ふらふらとよろめいて無防備な身体をさらけ出す。その隙を、もちろん敵は見逃さない。
「好機!」
巨漢が得物を振りかぶって、とどめの一撃を加える。
狙いは正確。脳天直上。絶体絶命のその瞬間、源九朗にできることといったら、せいぜい「ちっ」と舌打ちするくらいだ。
八角棒が無情に打ち下ろされる。地面が爆発し、噴煙が立ち上った。
「直撃ィ――! 頭蓋もろとも粉砕したっ!」
嬌声を上げる小男をよそに、巨漢は既に次の動作に移行。得物を横薙ぎに払おうとして、
「ぬ、動かん?」
どうしたわけか、地に張り付いたかのように、八角棒は動かなくなっていた。
直後、「うっ」と呻き声を漏らす。忌々しげに視線を落とせば、厚い胸板には棒手裏剣が突き刺さり、そこから血が一筋流れていた。
「おのれ……投擲か」
収まりつつある砂塵の中には、棒の先端に片足を乗せたまま腕を振り切った格好の源九郎。
あの瞬間、彼は八角棒の軌道を見切った上で、棒手裏剣を投げたのだ。
そもそも小男の攻撃を受け、無防備となったところからして演技だった。そうすることで巨漢から読み易い一撃を引き出すと、八角棒を避けるのみならず、その先端を的確に踏みつけた。こうなってはいかに怪力の巨漢といえど、容易に得物を動かせない。その結果、反撃を封じたまま、近距離からの投擲が可能となったわけだ。
「大した素早さだな。いや、全て計算づくか」
感心したように呟く巨漢。だが、その平然とした態度の方が源九朗には驚きである。
棒手裏剣にさしたる威力はないが、さすがに至近距離で急所に当たれば致命傷と成り得る。だが、それが巨漢には通じていない。おそらく分厚い筋肉の鎧に阻まれ急所に達しなかったのだろう。
やはりこの男を倒すには、直に刀を刺すしかないようだ。しかし、今それを試みるのは自殺行為に等しい。棒から足を除けた途端、反撃に遭うからだ。
結局、源九郎はどうしたか?
あろうことか、そのまま八角棒の上を駆け登った。確かに武器そのものの上にいれば、追撃を封じたままの接近も可能ではあるが、
「っこの……痴れ者がっ!」
激怒した巨漢は、得物を持つ手の幅を広げ、そのまま一気に振り上げた。すると源九郎の身体は、上空高々に投げ出されてしまう。続いて小男が巨漢を足場に跳躍。身動きの取れない空中で、追い打ちをかけるつもりなのだ。
「カカカッ、くたばれりやがれ――――ってこら、飛び過ぎだろ!」
言った通りの状況で、鉤爪は虚しく空を切った。間抜けにも巨漢が飛ばし過ぎたわけではない。棒を振り上げる瞬間に、源九朗が自分の力を上乗せして跳んだのだ。
間合いの外へと離脱すると、源九朗は腰袋から焙烙玉を掴み出す。これが最後の一発だ。さっそく点火しようとして、妙な動きに手を止める。
巨漢が振りかぶった八角棒の先端に、何かが蜻蛉のように止まっていたのだ。よく見ればそれは小男、どうやら鉤爪を八角棒に引っ掛けてしがみついているようだが……。
(一体何を企んでいる?)
嫌な予感がした。
「……まさか?」
勢いよく振り抜かれた棒の先から、小男が弾丸のように飛来。前方回転しながらの体当たりを敢行した。
何とか直撃を逃れるべく、源九郎はその場に倒れ込む。
「――ッ!」
だが、わずかに触れた爪先に右肩を引き裂かれる。
痛いというよりも熱い。
立ち上がると、流血が腕を伝ってぽたぽたと垂れ落ちた。それなりに深手だが、右腕が使えないというほどではないようだ。口惜しいことに焙烙玉は器が砕けてしまい、もはや使い物にならなかった。
小男の着地点を見ると、抉れて窪地となっていた。
どうやら、これが馬を爆散させた攻撃の正体のようだ。
「ちっ、化物め」
思わず吐いた悪態に、小男は険のある声で反応した。
「――おい。今、何つった」
身体の土埃を払う手を止め、声を震わせ絞り出すように叫ぶ。
「化物とかッ! 言ったよなァ!」
「だったらどうした?」
「――犬がァ! ブッ殺してやる、ブッ殺してやるぜェ!」
どうやら逆鱗に触れたらしい。顔を真っ赤にした小男は、半狂乱で鉤爪を振り回す。
「この犬がっ、犬が犬が、犬がぁっ! 死ねっ、死ねっ、死ね死ね死ねえっ!」
迫力だけはやたらとあるが、あまり実の無い攻撃だ。小さな身体でやたらと跳ね回る為、反撃には手こずるが、所詮それだけのこと。
難無くかわしつつ、源九朗は考える。
やはり戦闘時におけるこの男の価値は、あくまで巨漢の補佐にあるのだ。実際、その戦いぶりは、過激な言動とは裏腹で、常に一歩引いた堅実なものだった。
それが現状はどうだ?
補佐役としての務めを放棄し、自ら前に出てしまっているではないか。おかげで同士討ちを恐れてか、巨漢が攻撃を躊躇する始末。ならば、このまま連携を断っての各個撃破が得策だ。
だが、そんな目論見などお見通しと言わんばかりに、巨漢が野太い声で小男を一喝する。
「落ち着け!」
「兄者……そうは言うがこれが落ち着いていられるか? こん畜生は俺を化物呼ばわりしやがったんだぜ」
「いいから戻れ。お前がそこに居ては邪魔になる」
その言葉で我に返った小男は、足早に後退を始めた。だが朱に染まったその顔は、明らかに狂気を燻らせたまま。
すかさず火に油を注ぐ。
「似てない兄弟だな。鬼と猿か」
「こ、今度は猿だとォ? てめぇ……言うに事欠いて猿だとぉ」
元々それらしい外見の上に赤ら顔とくれば誰でも連想することだ。いたく気にしていたようで、小男は頭を掻きむしって悔しがる。
「なあ……おい。訂正するなら今の内にしとけ。でないとおりゃあ、もう、本気で許さねぇ。許せねぇ! 早くっ、謝れ、今、すぐにっ!」
「ああ、猿と言ったら猿に悪いか。すまんすまん」
挑発を上積み。にっこり笑って感情を逆撫でする。
「犬がァ! このドブ臭え犬如きが吠えるかァ! よぉし決めたッ。お前は細切れにして犬に食わせてやる。犬の糞にしてやるぜ。ざまぁみやがれェ! 糞が、糞が、糞が、糞、糞、糞糞糞糞――」
再び激高した小男が源九朗に飛びかかる。
が――突如がくんと静止。そのまま空中でじたばた足掻く。またもや巨漢が襟首に棒を引っ掛け宙吊りにしたのだ。
「もうよいわ。お前は頭が冷えるまで退いておれ」
巨漢は疲れ切った声を出し、そのまま小男を背後へと放り投げた。
「さしずめ、あんたは猿回しかい?」
「何とでも言うがいい。下らぬ舌戦に付き合う気はないぞ」
つれない返事に苦笑して、源九郎は剣先をゆっくりと巨漢に向けた。
ずきり、と右肩に痛みが走る。手傷を負ってからも、散々刀を振り回していたため傷口は開くばかりだ。これ以上、戦いが長引けば命取りとなるだろう。
いよいよ背水の陣か。背後が川という状況にかけ内心で自嘲する。ぺろりと唇を舐め、ぐっと引き結び――そして源九郎は覚悟を決めた。
ここで引く手は無い。小狐丸だけは何としても奪還せねばならない。
速攻でけりを付けよう。一時であれ連携は封じた。邪魔者のいぬ間に今度こそ仕留めるのだ。
巨漢が八角棒を大きく斜めに振りかぶった。だが、これは明らかに間合いの外である。いぶかしみ、巨漢の眼を見ると――その目はこう告げていた。
『飛び道具とはやってくれたな。ならば貴様は、こいつをどうする?』
直後、振り下ろされた棒が地面を薙ぎ払う。同時に源九朗も横に跳躍。
ざあっ、と雨あられのごとく石つぶてが飛来。川面に無数の水しぶきが上がる。
「ちっ!」
源九郎は舌打ちした。
なるほど。周囲に味方がいないからこその無差別攻撃というわけだ。
立て続けに巨漢がつぶてを乱れ撃つ。棒が地を薙ぐ度に土煙がもうもうと舞い上がり、やがて両者の間には濃密な煙幕が形成された。そんな中から数多のつぶてが飛来するのだ。いつまでもかわしきれるものではない。
既に源九郎の身には、幾つもの裂傷ができていた。
いずれも深手でこそないが、このままではじわじわと機動力を削がれてしまう。かといって、迂闊に前へ出れば八角棒の餌食となるのみ。
せめて間合いを詰める間だけでも、何とか動きを止められないか。
そう思っていたところで、不意につぶてが止んだ。
(今だ!)
源九郎は懐から三つ又の鎖分銅を取り出すと、中心の輪を持って回転させた。ある程度勢い付いてからは、頭上で更に加速させる。
微塵――投擲によって相手を絡め捕る隠し武器だ。物騒な名が示す通り、分銅が当たれば骨をも砕く威力がある。いずれにせよ、当たりさえすれば現状を打破することができるだろう。
問題は、どうやって当てるかだ。
視界が土煙で遮られた現状、巨漢の姿はまるで見えない。
一方その頃。小男は――何と空中にいた。
土煙を隠れ蓑に、巨漢の手で打ち上げられていたのだ。もとよりつぶての乱れ撃ちは、煙幕を張る為の布石。二人組みの真の狙いは上空からの奇襲にあった。
それも背後の川からだ。そんな所からの攻撃を、予測できる者などおるいまい。
小男は空中で大風呂敷を展開しムササビのように滑空。源九朗の背後へと旋回する。
巨漢がつぶてを止めたのは、誤って撃墜してしまわないためだ。
源九朗は背後の危機に未だ気付かず、微塵を回しながら舌打ちをしている。
そこへムササビが音も無く迫る。
微塵が邪魔する頭上を避け、狙うはがら空きの背中。風呂敷から手を放す。もちろん声には出さないが、死ねッ! と狂喜の笑みを浮かべて。
それはカワセミのような急降下攻撃だった。
たちまち肉がひしゃげ骨が砕けた。直後に、どうっと人が倒れる音が響く。
「ゲフッ、ゴフッ」
荒い息を吐き、地をのたうち回るのは――小男だった。
どうしてこんな結果になったのか、まるで見当もつかなかった。隠密の急降下攻撃があっさりかわされた上、微塵で打ち据えられるおまけ付きだ。避けるだけならまだしも、反撃まで加えるなど偶然にできることではない。
そう、見えてでもいない限り。
「てめぇ……後ろに目でも……付いてんのか?」
呻くように小男は言った。
小男の戦闘不能を確認し、源九郎は再び微塵を回転させる。
今度こそ巨漢の動きを封じるつもりなのだ。
だが、視界は依然として不良のまま。一体、どうやって当てるというのか?
「ちっ!」
源九朗は舌打ちした。
次の瞬間――彼は周囲の状況を把握していた。
大まかな地面の起伏や、視界の範囲外の小男の姿、はては土煙の中にいる巨漢の正確な居場所まで。おぼろげながらも頭の中に像が構築されていく。あたかも自己を中心に、周囲を箱庭化するかのように。
これは反響定位と呼ばれる、音の反響を利用した空間認識能力である。
例えば蝙蝠が暗闇の中でも飛ぶことができるのは、視えているからではない。自らの発した超音波の反響を聴いて、周囲の状況を判断しているのだ。その要訣は微細な音の聞き分けにある。元の音が反響時にいかに変化したか――具体的には反響音の大小や性質の差異――によって、周囲の物体の位置、形状、材質に至るまでを瞬時に識別するのだ。
このような能力は、あくまで一部の動物に生来備わる特殊感覚に過ぎないが、極稀に習得に至る人間もいるという。それは周囲の認識を、視覚ではなく聴覚によって行うことを日常とする者。つまり盲人である。
もちろん、源九朗は視力を失っていない。
では、なぜこんな能力を身に付けているのかと言えば、そこにはこんな事情があるのだ。
彼の故郷には生まれ付き弱視の者が多く、また若い内は視えていても後天的に失明する場合がほとんどだった。ゆえに、一族は代々視力に頼らず生きる技術を模索し、幼少から厳しい特訓を施されてきたのだ。この能力はそうした環境下で育まれた技術の、一つの極地である。
先刻の小男の問い、「後ろに目でも付いてんのか?」に源九郎が答えたならば、きっとこう答えただろう。「目なら八方に付いている」と。
『八方眼』――それが、この術の名であった。
源九朗が微塵を投げ放つ。
三又の鎖はあやまたず巨漢の元へ、両足と八角棒を一瞬にして縛り上げる。
「ぬおっ?」
動きを封じられ戸惑う巨漢。既に結果を確信していた源九朗は、一直線に刀を構えて走り出している。
「おぉおぉおっ!」
両者同時に叫ぶ。目前の刃をかわすべく、巨漢が必死に身体をよじる。
だが、刃は届いていた。ぱたぱたと血の滴る音とともに、脇腹を押さえた巨漢が崩れ落ちる。源九郎はすかさず巨漢を組み敷くと、背に馬乗りになって喉元に刃を押し当て――
「おいっ、こっちを見ろォ!」
大声に手を止め振り返れば、小男が土手の中腹で喚いていた。そしてその足元には、ぐったりとした様子で身体を横たえる八重。
源九朗は舌打ちした。微塵の直撃を受けてなお動けるとは予想外だった。
「今すぐ刀を引っ込めろっ! こいつがどうなってもかまわねえのかっ?」
小男は叫びながら、八重の喉元に鉤爪を突き付けた。未だ意識が戻らないのか、彼女は微動だにしていない。
「その言葉、そっくりそのまま返そうか」
「分かってら! だからここは一つ、人質交換といこうじゃねえか」
だが、その提案は検討する間もなかった。
「――馬鹿め。お前は一体……何を考えている」
ごぷっと血を吐きながらも、巨漢が口を挟んだのだ。
「この状況で、どうしてそんな事が言える。役立たずとなった仲間を助け、己の手札をみすみす捨てるつもりか? 俺は……お前を甘やかし過ぎたのかも知れん。この調子では俺がいなくなった後、一人では生きられまい」
「あ、兄者?」
「弟よ、俺を想うならこの機に一人立ちすることだ。しかと心得よ……それだけがお前にできる供養なのだ」
その言葉に源九郎は不穏な意図を察知。
「おいっ、喋るな!」
言いつつ、慌てて刃を喉元から引き抜くが――
間に合わず。巨漢は自ら刃に喉を押し付け、血溜りの中に沈んでいった。
「うあぁあぁあぁ――っ、兄者――――っ!」
河原に小男の狂ったような絶叫が響く。こうなってはこの先、どう転ぶか分からない。ならば速攻で勝負をつけるのみと、源九郎は全速で土手を駆け上がる。
「っ――動くんじゃねぇえっ!」
そこへ鉤爪が投げ付けられた。皮一枚で回避するが、体勢が崩れ足が止まった。
「畜生めェ、よくも兄者をォ!」
憤怒の炎に身を焦がしていたと思いきや、小男は突如ぼたぼたと大粒の涙を零して、
「……だけどよぉ、ちゃんと供養してやらなきゃだよなぁ。その為には、ちゃんと、やる事やんなきゃ駄目だよなぁ」
冷静さを取り戻し取引を持ちかけてきた。小狐丸さえ諦めれば、人質は川を渡ったところで解放するとのことだ。
さて、どうしたものか――などと考える必要はない。
「残念だが、そんな取引には応じられない」
「何だとっ」
源九郎はためらうことなく告げ、そのままゆっくりと足を踏み出す。
「何があっても呪具を優先しろ、とその子に命じられているのでね。主命が撤回されない限りは、言われた通りにするまでさ」
「はぁっ? ふざけんなこの野郎!」
ぱんっ、と乾いた音が響く。小男が平手で八重の頬を張ったのだ。
「おい起きろ! 泣き喚け! 今すぐ奴に命乞いをしろ!」
耳をつかんで怒鳴り、幾度も頬を張る。それでも起きぬと見るや、鉤爪を首に押し付ける。柔肌に爪先が食い込んで、幾つもの血の玉ができた。
「うぐっ!」
とうとう、八重は呻き声を漏らした。
「ヒヒッ、痛えだろ辛えだろ? さあ、助けてくれと懇願しろォ!」
苦痛に顔を歪めながら、八重は薄く目蓋を開いた。
「ふ……ふふ」
そして、おかしそうに笑う。この状況を前にしても、源九朗は澄まし顔で歩みを止めることはなかったのだ。
「そうだ――それでいい。大和殿、我が身は案ずるに及ばず。呪具を守るが優先だ」
そして八重は目を閉じると、覚悟を決めたように叫ぶ。
「斬れっ! 私に構わずこやつを斬ってしまえ」
「何だとォ、こいつ正気か?」
焦って喚き出す小男と対照的に、八重は達観しているようだった。
「ふふ……大和殿、報酬には私の守り刀をくれてやる。だから、後のことはどうか頼んだ」
こう言い添えて、ふっと小さく息を吐くと、そのまま最期の時を待つ。
八重には音だけが届いていた。
さわさわと吹き抜ける風の音、川の流れ、小男の荒い息。そして心臓の鼓動。
これが停まる時が現世の終わりか。ふと、そんな事を思うと、たちまち胸の内が後悔と疑念で満たされていく。
(いけない、これは穢れだ)
すぐに思い直そうとする。この状況に至ったは、よくよく覚悟の上のはず。現世はしょせん憂世に過ぎぬ、終わって悲しいことなど何も無い、と。
けれど、やはり悲しいものは悲しい。理屈ではないのだ。八重にはその感情を誤魔化すことはできなかった。
今更、どうしてこんな思いを抱くのだろう。そう、どうして私は――
「なあ、お前さんの神様は、随分と薄情じゃないか?」
不意に、源九朗の声がした。
「信者が苦しんでいるってのに、助けちゃくれないのかい?」
ことここに至ってこの男は、一体何の話をするつもりか? 若干の苛立ちを覚えつつも、八重は目を閉じたまま静かに答えた。
「助けてくれない、のではない。私がそれを望まないのだ」
「そりゃまたどうして?」
「……大和殿。神というものは本来超然の存在なのだ。ゆえに安易に現世への関与を求めてはならぬ。幽世の存在は鎮まっていればそれでよしとすべきもの。たかだか一個人の生死のために、力を借りるものではない」
源九郎は、ふうんと嘆息すると、頭を掻きつつさらりと言う。
「そうかな? 神さんだってそんなケチじゃないと思うがね。もっとも、いかに神仏といえど、助かる気がない者までは助けられやしまいがな」
それから、やや真剣味を帯びた口調になると、
「いいかい。お前さんに助かる気があるなら、きっと救いはあるはずだ。神罰の一つや二つ、仇に食らわしてくれるはずさ」
「へっ……何言い出すかと思えば、バッカじゃねーの?」
傍観していた小男が呆れ声でくさすのに、源九郎ははっきり断言してみせる。
「いいや、必ず神罰は下るさ――そうだろ八重?」
今……〝お前さん〟ではなく〝八重〟と言ったか?
それで何となく、八重は目蓋をもたげてみる気になった。ぼんやりとした視界が徐々に像を結ぶ。源九郎と目が合った。それも凝視。射すくめんばかりの視線に飲まれ、そのまま見つめ合うことしばし――不意に視線が逸れた。
つられて八重も視線を追って、そして全てを理解した。
(なるほど……そういうことか)
必死に身体を捻って足を伸ばす。つま先が硬い物に触れると、撫でるようにまさぐる。
「なーにやってんだ、お前?」
小男が呆気に取られた声を出した。
まさにその時――
バリバリッ! 紫電が迸り閃光が辺りを照らした。
電流は八重の体内を抜けて、鉤爪伝いに小男に到達。二人もろとも感電させる。
「うあああああっ!」「きゃああああっ!」
両者の叫び声と同時。源九朗はひとっ飛びに駆け寄ると、無造作に刀を振った。
ひうっと笛鳴りのような音がして、ぱっと草木が深紅に染まる。小男は目をかっと見開き、両手で喉を押さえたが、それで溢れ出る血が止められはずもなく――やがて脱力し果てた。
八重の足元には呪具の箱があったのだ。そして、その防衛機能は二人だけが知る秘密。
源九朗はその状況を利用して、小男を倒す隙を作ろうとしたのだが、それには八重の協力が欠かせなかった。つまり薄情に見えた行動の全ても計算されたものだったのだ。刃の届く間合いまで近付き、かつ、八重を起こさせる為に。
全てを悟った八重は、急速に意識が遠のくのを感じた。夢現に聞いたのは、こんな自嘲気味の呟きだった。
「神罰必中――か」