(三)争奪
境内はまるで火事場のようだった。
カァンカァンと打ち金の鳴る音が響き、そこかしこで二人の捜索が始まっていた。
だが二人は未だに見つかっていない。
彼らは煙幕を張った後、蔵の間近にある建物の縁下に隠れて追手の大半が散るのを待っていたからだ。その後も物陰に身を潜めつつ、建物から建物へと移動を繰り返し、追手の目を欺き続けることに成功している。
たった今も、二人に気付くことなく追っ手が眼前を走り抜けて行った。
「……ふむ。やはり、そなたの呪術は大したものだな」
感心したような八重の呟きに、源九朗はより声を潜めて答えた。
「呪術じゃなくて遁法だって。相手の虚を衝いているだけさ」
「やはり呪術ではないか。……まぁよい。ところで、私達は一体どこへ向かっているのだ? 見つからぬのはよいとして、門からはどんどん遠ざかるばかりだぞ」
「いや、門からは出れないよ。要所はいの一番に押さえられるからね。それでも大丈夫――ちゃんと考えはあるさ」
源九朗が向かう先は、本堂や庫裏といった建物のある辺りだ。
というのも補縛に大勢が駆り出されている現状では、本来最も人が詰めていたであろう場所の方が、むしろ手薄の可能性が高いからだ。当然、読みが外れれば飛んで火に入る夏の虫だが、八重に土塀を越えさせる手間暇を考えると、なるべくひとけない場所を選ぶほかないのだ。
もっとも、これにも問題はある。
鈍臭い八重のことだ。鉤縄で塀を越えるなど到底望むべくもない。最悪、力づくで外へ放り投げるしか無いが、受け身を取れないだろうから怪我をするおそれが――
と、そこで源九郎はかぶりを振った。
いや待て、何を考えている? この娘が怪我をしたらどうだというんだ。それが旅を続ける上で支障となるなら、見捨てて行けばよいだけだ。この娘はあくまで任務を円滑に済ますために、利用しているに過ぎないのだから。
「さて、そろそろ行こうか」
気を取り直して、再び闇の中を駆け抜ける。講堂の裏手を抜け庫裏へ到達。
どうやら読みは当たったようだ。ここには客人が泊まっているはずだが、まるでひとけがない。大勢が慌しく出て行ったことを示すように庫裏の木戸は開け放たれたまま。地面には多くの足跡が残され、玄関から弾き出されたと思しき草履も幾つか転がっている。
土塀を越えるならここが最適な場所だろう。なにしろ位置的に死角となるだけでなく、外には畑が広がっており、人や荷物を投げ落としたとして大きな損傷もないからだ。
だが、源九郎はしきりに鼻をひくつかせると険しい表情で八重に告げた。
「用心しろ」
開け放たれた板戸の奥から、抹香に混じって独特の香りを微かに感じたのだ。
鉄と臓物の入り混じった臭い――死臭である。源九郎は鯉口を切って感覚を研ぎ澄ませる。
その時、がたん、と建物内部から物音がした。反射的にそちらを向くと、
「きゃあっ!」
背後から悲鳴。しまったと振り返る。
そこには見上げるような巨躯の男がいた。身の丈は六尺を優に超えるだろうか。それを更に上回る長さの八角棒を持ち、全身はち切れんばかりに盛り上がった筋肉で覆われている。まるで仁王がごとき巨漢。八重はこいつに昏倒させられたらしく、華奢な身体をくの字に折って、男の丸太のごとき片腕に、木の枝に引っ掛った洗濯物、といった態で担がれている。
巨漢が低い声で叫ぶ。
「ふむ、無事に小狐丸を持ってきてくれたようだな。御苦労――もう死んでよいぞ」
すかさず源九郎は横に跳んだ。直後、背後から黒い塊が疾風のように駆け抜ける。
塊は源九郎の身体をかすめ巨漢の前に落下すると、やがてのそのそと起き上がり人の形をとった。それは童子と見まごう矮躯の男。
「ちぃー、外しちまったぜーい」
だが、その声は明らかに大人の男のそれ。だらりと下げた両手の甲には、黒々と光る凶悪な鍵爪を生やしている。手甲鉤という忍器である。
「避けてんじゃねーよ、犬の分際でぇ。獲物を手に入れた以上、お前はもう用済みなんだよ」
「それは俺達を利用しようとしたってことか?」
「この状況見りゃ分かんだろ。なんせ獲物の真贋を判別できるのはそのガキだけだからな。ヘッ、しっかり後をつけさせてもらったよ」
得意げな様子の小男を、巨漢がギロリと睨めつけた。
「余計なことは喋らんでいい」
「ケッ、いいじゃねえか。こいつらだって、兄者が邪魔者の相手をしたからこそ、のんびり探し物ができたんだ。そこんとこを弁えてもらわにゃ――」
話が終わるのを待たず、源九郎は小男に斬りかかっていた。隙を突かれた小男は、何とか避けようするが間に合わない。
「ぐッ……がっァアア――ッ!」
横一線! 刃は胴を走り悲痛な叫びを上げさせる。傍目には胸を裂かれ、絶命したかに写ったが、
「痛ってーなー、こんちくしょう!」
なんと小男は叫びながらも鉤爪で反撃。源九郎はそれをひょいとかわすと、眉をしかめて刀を見やった。斬った瞬間、ギャリッと嫌な感触があり刃こぼれが気になったのだ。
どうやら小男は、衣の下に鎖帷子を着込んでいたらしい。鎖帷子は斬撃にこそ強いが刺突に弱い。仮にさきほどの攻撃が突きであれば容易に貫通しただろう。そうしなかったのは、その方が的に当てやすかったからだ。
「ツイてない。突いておくべきだった」
軽口を叩き、余裕を見せつつ挑発する。連中が何者にせよ、狙いが小狐丸であるのは明らかだ。この場で何とか撃退し、取り返さねばならない。
「野郎、ブッ殺してやる!」
いきり立った小男がやみくもに爪を振り回す。源九郎はそれを最小の動きでいなしつつ、巨漢の隙を伺った。
その時――どこかで叫び声がした。
「火事だ!」
なるほど、見れば夜空に火の粉が舞っている。
場所は本堂の辺りだろうか。おそらくこの二人組が撹乱目的で放火したのだ。これで寺の外は手薄になるが、この場は一刻も早く脱出しなければならない。
「潮時だ。引き上げるぞ」
「駄目だ! こいつを仕留めてからだ」
冷静に巨漢が告げるが、小男は納得しない。
「優先事項を間違えるなよ」
巨漢は抑揚のない声で言うと、棒の先端を小男の襟首に引っ掛け持ち上げた。
「てめえっ、オイ、コラ、このデカブツ! 一体何しやがるんだっ」
喚く小男を、そのまま塀の向こうへ放り投げる。
「動くなっ!」
続けて大声で威嚇。ビリビリと空気が震え、源九朗は刺突の体勢のまま硬直する。その刃先の寸毫先には八重の身体があった。
源九朗は歯噛みした。隙を突いて攻撃を仕掛けたが、八重を盾にされたのだ。
「そのままじっとしておれ。一歩でも動けばへし折るぞ」
そう言って、巨漢は八重の白い喉を撫でる。
へし折るどころで済むものか。あの巨大な手にかかっては、八重の細首など捻じ切られてしまうだろう。源九朗が動けずにいると、巨漢は八重を抱えて走り出し棒高跳びの要領で跳躍。見かけにそぐわず軽業師のような身のこなしで、宙を舞った巨体は土塀の上にひらりと着地した。それから源九郎を睨み、
「娘は人質に預かるぞ。いずれ解放するが追わば殺す……分かったな?」
嘲るような声音で言って、塀の向こうに姿を消した。
「いたぞ、捕らえろーっ!」
半鐘が打ち鳴らす音が迫る。
源九郎は急いで土塀を飛び越え、眼を皿にして辺りを見回した。
一体、奴らはどこへ行った?
遠くで馬のいななき声がした。見れば月下に馬影が二つ、東の方へ走り去っていく。
源九郎も後を追うべく馬を探しに走る。その間、頭の中は自責の念で一杯だった。
あの時、どうして自分は動けなかったのか?
人質を取られた程度で、攻撃を止めるなど馬鹿げている。おかげで取り逃がすという大失態を招いてしまったではないか。
「くそっ!」
源九郎は悪態を吐くと、馬を調達しに手近な民家へ飛び込んだ。
土埃を蹴立てて走る裸馬の背に、源九朗は鬼気迫る表情でしがみついていた。
道なき道を真っ直ぐ東へ。雑草を踏み分け、段差を乗り越え、水溜りに突っこんで、それでも馬速は落とさない。村を出た時点で三人からは随分引き離されており、目で追うことは不可能な状況だった。
だが追跡はできている。
源九朗は地に耳を当て足音を聴くことで位置を把握できるのだ。定期的な調べから推察するに、おそらく連中の向かう先は東の大河。下野国を南北に流れる毛野川である。そこに逃走用の舟でも用意してあるのだろう。
そうと分かれば最短距離で先回りをするだけだ。こちらの方が身軽な分だけ馬速も出せる。
やがて――前方からざわざわと川のせせらぎが聴こえてきた。
川沿いの土手で馬を止める。眼下に広がる河原は手前に草木が生い茂り、その先が石の原。そして最奥では真っ黒な川面が月光を反射しきらきらと輝いていた。三人の姿は見当たらない。彼我の距離は大分詰まっていたはずだが、先回りに成功したかは微妙なところだ。
足音を確認するため、源九朗は馬を降りて地に伏した。
音は……
……しない?
いや違う!
不意に、木陰から黒い影が飛びかかってきた。すんでの所で跳んでかわすも、影はそのまま馬に衝突。たちまち馬が四分五裂し、五臓六腑を撒き散らす。
血と肉片が雨と降る様に、さしもの源九朗も戦慄を覚えた。
危うい所だった。爆散とでもいうか、あたかも大筒を撃ち込まれたがごとき破壊力だ。
土手に落下した源九朗はそのまま傾斜を転げ落ちると、起きるなり抜刀。背中の荷を放り捨て、土手の上を凝視する。視線の先では何かがもぞもぞと臓腑を掻き分け、肉塊の中から這い出てくるところだった。そいつは「ぷっ」と口から肉片らしき物を吐き出すと、臓物と血に塗れたまま事も無げに言ってのける。
「おいおい、追ってくんなってぇのによ。人質がどうなってもかまわねえのか?」
これは小男の声だ。ならば、さっきの攻撃も奴の手によるものか。
源九朗は努めて平静に返事をする。
「追わなくたって、どうなるか知れたもんじゃないだろう」
「おいおい、酷い言われようだな。ま、当たってるけどな」
余裕なのか揺さぶりをかけるつもりか、小男は殊更におどけてみせる。薄気味悪い相手だが、尋常の使い手でないのは確かだ。源九朗はひとまず探りを入れることにした。
「お前達は何者だ?」
「あン? そっちこそ何だよ。風魔か、それとも黒脛木か?」
風魔党に黒脛木組。いずれも大名お抱えの名だたる忍び衆である。
「……どういう意味だ。そんなに各地の忍びが出張っているのか?」
「知れた事よ。あの刀にゃ関八州と同等の価値があるんだ。狙う者なんて掃いて捨てるほどいるだろうが」
「関八州だと? 何を……馬鹿馬鹿しい」
いくら伝説の小狐丸とはいえ、そこまでの価値があるわけがない。
聞く所によれば、茶道具の中には一国に比肩する程の物もあるようだが、関東の八カ国相当とはあまりに途方もなさ過ぎる。これでは北条家そのものではないか。
「へっ? まさかお前、何も知らないってんじゃねーよな?」
「俺が知っているのは、やたら価値ある名刀って事だけだ」
「ふん……てぇ事は、少なくとも刀狩衆ではないわけか」
「刀狩衆?」
「それも知らない、と。こりゃ、どっかから半端に話が漏れてるのかね? まぁいいさ。お前が単なるこそ泥だってんなら、ここらで手を引くんだな。わざわざ追ってきた情に免じて、今なら人質共々見逃してやるよ。こちとら野良犬に構うほど暇じゃないんでね」
「いいだろう。俺の連れはどこにいる」
「ほれ、そこにいるだろ?」
と、土手の中腹を指差す小男。だが、源九朗はそちらを見ずに大きく後方へと跳躍する。
衝撃――もうもうと砂塵が舞った。
左方から現れた巨漢が、八角棒で地面を強打したのだ。
源九朗は砂煙を見据えながら後退。十分な間合いを確保の後、正眼の構えを取った。
次の瞬間、ボッと風切り音がして横薙ぎに砂煙が割れる。
右腕に違和感を覚え確認すると、皮製の小手がパックリと裂けていた。視界不良の中、巨漢が牽制の為に棒を横薙ぎに払ったのだろうが、それが十分に取ったはずの間合いを超え、源九郎まで達していたのだ。
もしも、あと一歩下がっていなかったら――想像するだに、額にびっしりと玉の汗が浮く。
砂煙が落ち着くと巨漢が姿を現した。既に八重は抱えておらず、八角棒を握る両腕には子供の頭程もある力こぶが盛り上がっている。
なるほど、改めて見れば棒の長さは八尺以上もある。これを抜群に恵まれた体躯の持ち主が振るうのだ。尋常ではない打突距離が実現してもおかしくはない。
これでは少々の間合いなど無意味。源九郎はより動き易い八相の構えに切り替えた。そこへ巨漢の両腕が天を頂き、猛烈な勢いで振り下ろされる。
これを源九郎は最小の動きで回避。再び砂塵が舞う中、一気に間合いを詰めるべく全力疾走。
だが、間に合わず!
巨漢が素早く得物を横に薙ぐ。側面からの攻撃に、源九朗はとっさに身をかがめて滑り込む。八角棒が唸りを上げて頭上ギリギリを通過。その威力たるや風圧で身体が傾くほどだ。
当たらば命を砕く一撃を前に、源九郎の命は正に風前の灯火だった。
だが、どうにかしのいだことで、股抜きから背後へ回り込むことに成功。すぐさま反転、がら空きの背中めがけ渾身の突きを繰り出した。この時点で巨漢は腕を振り切ったまま硬直中。真後ろへ即応できない。
鎖帷子を貫く必殺の刺突は――だが、背中には達しなかった。
「カカッ、残念!」
二人の間に割って入った小男が、両手の鉤爪で刀を挟み込んでいたのだ。そしていやらしい笑みを浮かべながら、両腕に万力を込めていく。
刀身がたわみ悲鳴を上げる。
このままへし折られてはたまらんと、慌てて引き抜こうとするが、がっちりと捕捉された刀はビクともしない。こんなことをしている間にも、巨漢は体勢を整えつつある。
(引いて駄目なら押してみろ、だ)
渾身の力を込め小男の腹を蹴り飛ばす。
「げっ!」
呻き声こそ発したものの、敵もさるもの倒れはしない。だが、わずかに腕の力が緩んだ隙に、源九朗は一気に刀を引き抜いて――勢い余ってひっくり返る。
その身体の上をなぞるように八角棒が突き出される。その差はまさに紙一重。偶然のけぞったことでかわせた格好だ。そして、上体を起こしながら源九郎は見た。棒の先端の石突が、木の幹に弾痕のようにめり込むのを。
●補足、及び元ネタなどの解説
・毛野川の現在の呼び名は鬼怒川。