(三)ケガラワシイっ!
既に雨は止み、夜の帳も落ちていた。
一寸先も見通せぬ黒一色の闇の中、知覚できるのは――土のぬかるみ、下草の感触、濃密な土と樹木の匂い。枝葉に溜まった雨水が、大粒の雫となってばちばちと叩きつける音。
ああ寒い。体が芯から凍えてしまいそう。なのに右手だけは熱を持ったまま。掌に篭もる汗と体温がじっとりとして気持ち悪い。
「ちっ」
と、前方から不快な音が聴こえてきた。
まただ。また、あの舌打ちだ。八重は溜息をこぼしてしまう。
一体、どうしてこんな事になったのか。二人は社を出ると、八重の仲間と合流するべく廃村へ向かうことにした。だがその際、源九郎は裏手の森を通って行くと主張したのだ。
「灯りも無しでどうやって?」
八重は当然反対したが、源九朗は「夜目が利くから平気」とかで、さっさと先に行ってしまった。「いっそ、おぶってやろうか?」などと言われたが――冗談では無い!
とはいえ、先導してもらわねば歩くこともままならず、こうして手を繋ぐ羽目に陥っているわけだ。ああ、何ともケガワラシイ。その上、結局は何度も蹴躓き、身体中が打ち身だらけだ。これはもしや嫌がらせではあるまいか?
それまで黙々と歩いていたが、そろそろ忍耐も限界だった。
「そなた、まだ怒っているのか?」
「ん?」
「さっきの事だ。再び穴に落とした件は、悪かったと謝ったであろう」
先刻、服を脱ぐよう言われたのは、八重の白衣はくえがあまりに目立つから、源九郎の持ち合わせの服に着替えろという意味だった。まぁ、それ自体は真っ当な提案なのだろうが、
(この男が言葉足らずな上に、急に袖を掴んだりするから!)
すっかり動揺してしまい……咄嗟に突き飛ばした結果、またもや床下へと落としてしまった。
もちろん悪かったとは思う。だから丁重に謝罪だってしたし、向こうもそれを受け入れた。にも関わらず、この陰険な仕打ちはなんだ! と、八重は立腹しているのだ。
ところが源九郎は、そんな事は忘れていたかのような口振りで、
「いや別に、全然怒ってないよ」
ふん、と八重は鼻を鳴らした。言いよるわ。ぬけぬけと言いよるわ、この男。
「そうか? その割に、ずっと不機嫌そうではないか」
「不機嫌って……ああ、舌打ちしてるから? これはちょっとした癖というか、まじないみたいなものさ。別に苛々してるわけじゃないよ。さっきの事は、本当に気にしなくていいんだ。多少服が汚れたけれど、どこも怪我はしてないし」
「では、どうしてこんな森を通るのだ?」
「念の為さ。地面がぬかるんでいたからね。普通に道を歩いたら、足跡を辿られてしまうだろう? その点、森の中なら大丈夫だし、奴らも娘が一人でこんな所に逃げ込むとは思わない」
「ほほう!」
感心したそぶりの八重に、源九郎は得意気に語り出す。
「他にも色々工夫があるんだぞ」
話によれば八重の着替え中も、追っ手をあさっての方向へ誘導するよう、足跡の偽装などをしていたらしい。
「とまぁ――そんな感じでね。逃げる際は虚実を交えて、いかに相手の目を誤魔化すかが肝要なのさ」
「ふむ、そういう事か。そなたも呪術を使うのか」
「呪術? いや、遁法は技術だな」
「トンポーなる呪術か。ふむ……」
「まぁ……いいけどね」
それからしばし歩き続けると、八重は疲労で動けなくなった。
当然の帰結ではあった。源九朗は夜目が利くとしても彼女は違う。かかる負担がまるで違うし、体力的にも差があり過ぎたのだ。やむなく休憩を取るが、八重はぜぇぜぇと息を切らして立ち直りそうにない。
「やっぱり、おぶってやろうか?」
見兼ねた源九郎の再提案も、やはり拒絶されてしまう。
「ならん。手を繋ぐのも堪えているのだ。そんなケガラワシイ真似できようか!」
「穢らわしいとは参ったな」
苦笑いしつつも、源九郎は密かに苛立っていた。大人しく言う事をきいてくれれば、こんな森さっさと抜けられたはずなのだ。それに怖がられるならまだしも、穢らわしいはないだろう。
そんな胸の内など知るよしもなく、八重はなおも神経質に言い募る。
「ほっ、本来ならばっ! 男とは会話はおろか姿を晒すのもよろしくない。手を握るなどもっての他だ! それも死穢を帯びた者などと」
「あれは、お前さんを守る為にやったことだぞ?」
「分かっている! だが、穢れは穢れ。気安く触れてもらっては困る!」
源九郎は思わず舌打ちしそうになり、ぐっと我慢する。
この娘は最近まで物忌みをしていたのだ。少々過敏になっても仕方あるまい。
それにしても驚いたのは、清廉潔白な巫女なる者が実在したことである。
というのも、巫女と名乗る者には胡散臭い連中が多い。いかさま占い師や真偽不明の勧進比丘尼、最近では『傾き踊り』だのをやっているような芸人紛いの連中もいる。よしんば神社にいる者でさえ、ほとんどが神主の囲う情婦や娼婦のようなもの。いずれにせよ清廉潔白とは程遠いのが実情だ。
だから、この娘はああいった連中とは別物と考えるべきなのだろう。良家の箱入娘のようなものと思えば、多少の居丈高な態度も止むを得ないというものだ。
だったら、こちらも姫君にかしずく従者よろしく接しなければなるまい。
「分かった悪うございました。今後はなるべく触れないよう気を付ける。それでいいね?」
「分かればよい。それに……私も少々言い過ぎた」
「いいさ。それより疲れているだろう? このまま夜明けまで休もう。少なくとも追っ手の気配はないし、お前さんのお供もきっと待ってくれるだろうしさ」
そんなわけで、そのまま仮眠を取ることになった。
鳥の鳴声を目覚めの合図に、二人はいまだ薄暗い森を移動する。
たっぷりの日差しを浴びたのは、ようやく森を抜けてから。つまりお互いの姿が明らかとなったのは、この時が初めてなのだが……改めて八重の姿を見た源九郎は、思わず「ほう」と声を漏らした。
朝露に濡れた肢体はまさに輝かんばかり。彼女はさながら白磁のように、儚げな美しさを湛えた娘であった。まず目を引くのは透き通るように白い肌。対照的に膝まで達する髪はぬばたま。小柄で痩身、細い手足。これまた小さな頭部には作り物めいて端正な顔。線が細過ぎるのを別とすれば、都の姫君もかくやと思われた。
――ただし子供時代限定で。
「ううう……何と無様な格好だ。早く元の服に戻らねばっ!」
その小娘が端正な顔をぐにゃりと歪め、全身全霊でぷんすかと不快感をだだ漏らす。
ちなみに森を通った必然的結果として、二人の衣服には草や葉っぱが大量に付着し、足元は泥にまみれていたが、特に彼女は華奢な見かけにそぐわぬぶかぶかの野良着姿が気に入らないらしく、くわっと口を大開きにして源九郎をせっついてくる。
「大和殿っ、服っ、服を! 私の白衣を返してくれっ!」
源九郎は驚いて言葉もなかった。
おそらく年の頃は十代前半だろうが、同年代の子らと比べあまりにあどけない。
声だけ聞いていた分には、もう少し大人びた気品を感じたものだが……改めて相対してみると随分印象が違うというか、
(まさか、こんなちんちくりんだったとは!)
何だか騙された気分である。
ちなみに、源九朗自身は十代後半の青年だ。服は薄墨色の小袖と軽杉袴。小柄だが引き締まった体付き。総髪で髭がないせいかさほど武張った雰囲気はない、どころか常に柔和な微笑を浮かべてさえいる。牢人と自称する割に二本差しではなく、腰には鞘も拵えも真っ黒の打刀が一本きりで、太刀らしきものは鞘袋に入れたまま背負っていた。
「聞いているのか大和殿っ! 私の服を返してくれ。すぐに着替えたいのだっ!」
と、八重が背中の雑嚢を揺さぶってきた。源九郎は微笑を浮かべて応対する。
「泥が跳ねるから、後にした方がいいんじゃないか?」
「それは困る。何故なら今しがた、重大な事実に気が付いた」
彼女は鼻をひくひくさせると眉根を寄せ、
「この服は……臭い!」
ずずいと身を乗り出し、きっぱりと断言した。
「社も森も、匂いが強くて気付かなかったが、この服はとても酸っぱい匂いがする。一体、いつ洗ったのだ?」
いつ洗ったか、と訊かれても源九朗は旅人なのだ。下着ならまだしも、上着などいちいち洗っておれない。少々ためらいはしたもの、「さあ?」と答えるしかなかった。
すると、八重はしばしあんぐりと口を開けたまま固まって、
「ケッ、ケガラワシイっ!」
大音声に驚いて、鳥が一斉に羽ばたいた。
「ひっ、ひどいではないかっ! そんな物を着せおってぇ」
語尾はほとんど涙声で、源九朗は何とも困惑させられた。
そもそも、旅人というものは着たきり雀と相場が決まっており、着替えなど準備している方が珍しいのだ。どちらかといえば、身づくろいには気を遣っているとの自負があった位なのだが、八重の基準では話にならないらしいので、ここは一応詫びておくことにした。
「あー、すまない。でもまぁ、非常事ってことで堪えてくれよ。あと少しの辛抱だから」
だが、八重は話を聞いていない。またも鼻をひくひくさせると渋面を作り、
「そなた……もしやと思うが、身を清める位はしているだろうな?」
旅の垢を落とすとすれば、宿場で蒸し風呂に入るか川で水浴びするかだが、ゆとりの無い源九朗の道中に、そういった機会は訪れなかった。
だが、これに関しては問題あるまい。今度は自信たっぷりに答えてみせる。
「大丈夫さ。昨日、雨に打たれたからね。いやぁ、水浴びなんて何日ぶりだか、実にさっぱりしたよ。はっはっはっ」
「ぎゃああああっ――――!」
八重は叫びながら一目散に走り去った。
一体、今のは何が悪かったのだろう?
素朴な疑問を胸に、源九朗は慌てて後を追うのだった。