(二)神宮の巫女
社の片隅に座り込んだまま、娘は事態を把握できていなかった。
自分を社の中に引きずり込んだ何者かから、ここでじっとしているよう指示されたのだ。
聞こえてくる声や物音の状況からすると、両者は争っているようだが……あの男、果たして敵か味方か。
ようやく目が慣れてきて、おぼろげながら周囲が見えるようになる。社の中は二間四方程の広さで、床の真ん中には大きな穴が開いていた。自分以外の者は、皆この下に行ってしまったわけだ。深さは大人の背丈以上はあろう。ならば戻って来るのは表の階段からになる。
娘は懐中から守り刀を取り出すと、切っ先を入り口の方へと向けた。
「よう、大事ないか?」
「――――ひっ!」
予想に反し、声をかけられたのは背後からだった。驚いて振り返れば、件の男がモグラのように穴からひょいと顔を覗かせている。
緊張を和らげるためか、男は柔和な声で語りかけてきた。
「ここって、案外簡単に登れるんだよ。積み重なった板が丁度足場になっててね。ま、何でそれを知ってるかというと、ここの床下は既に経験済みだからだけど」
つまり、この男も野盗と同様、一度は穴に落ちていたのだろうか?
と、男が床を這い上がり、そのまま娘へと近付いて来た。
「寄るな!」
我に返った娘は、短刀を突き付け牽制する。だが、その手は震えていた。心臓が早鐘を打つ。呼吸も荒く小刻みだ。
「おっと……そんなに構えなさんな。別に取って食いやしないさ。むしろ、お前さんを助けてやったわけで――」
なだめようと猫撫で声になる男を、娘が威嚇し続けていると、
「へぇ……なかなか、いい拵えだね」
不意に男は感心したように呟いた。
「鍔の細工は緻密だし、柄糸は絹の蛇腹巻だ。これ、高いんだよなぁ。手入れも中々まめにしてるね。鋼の質感が実にいい」
この男、一体何を言っているのだ?
娘は困惑したが、すぐに呟きの内容に思い当たる。それは、まさか、ひょっとすると……。
恐る恐る手の中を確認すると、そこにあったのはただの棒切れだった。
「嘘っ?」
ぎょっとして落とした棒切れが、カラカラと板の間を転がっていく。
いつの間にすり替えられていたのだろう。全く気付かなかったことに驚愕する。
そんな娘をそっちのけで、男は短刀に夢中になっている。
「も少し明るい所でちゃんと見ないとアレだが、結構いい値が付きそうだな。正直、ちょっと欲しいかも……」
聞き捨てならない言葉だった。
いけない、盗られる! そう思った時には、娘の体は動いていた。
「返せ、返せぇ!」
後先など考えず、男目がけて突進だ。
「あっ?」と男が声を上げるのに、「うん?」と、娘が応じた時には――
どがらがっしゃん!
派手な音を立て、男は床下へ落ちていった。
再び床下からよじ登ってきた男は、改めて自分は暴漢から守ってやっただけで、たまたま居合わせた旅人なのだと説明すると、しばしむっつりと衣の汚れを払っていたが、
「その……すまぬ」
ばつが悪そうに謝る娘の様子に、
「まぁ、いいさ。こっちも誤解させるような真似したしな」
短刀を返して自嘲気味に言った。
「悪い癖だ。いい物を見ると、ついつい値踏みしたくなってね」
「……そなたは商人か?」
「いや、しがない牢人さ。もっとも、糊口を凌ぐ為には何でもするけど」
乾いた笑みを浮かべつつ、男は頭をかきかき自己紹介する。
「これでも大和源九郎、って立派な名があるんだけどなぁ」
「ほぅ? ……義経公と同名とはまた大層な」
かの源義経は通称を九郎という。したがって、源九朗で同名となるわけだ。
なお、本名の義経とは――使用を避けるべき〝忌み名〟である。
古来、名とは霊的人格に強く結び付くと信じられてきた。誰かに名を付けたり誰かの名を知ることは、相手の魂を掌握したに等しい。それゆえ高貴な人物は、家族や主君以外には本名を呼ばせず、日常においては通称や官職名を用いたのである。
娘は何やら考え込んでいたが、やがて自分の名乗りがまだであることに気付いたようだ。
「まずは助けていただいたことありがたく、この通り礼を申す。私は鹿島神宮の巫女で、名をヤエという」
「へぇ! 鹿島神宮の」
さも驚いたといった風に、源九郎は相槌を打つ。
関東随一の社格を誇る鹿島神宮。その祭神、鹿島大明神ことタケミカヅチは、神話『出雲の国譲り』での活躍が名高い武神であり、古来、武士から広く崇敬を集めているのだ。
「ヤエさんか。良い名だな」
「うん?」
「八を重ねるって書くんだろう? とても良い名じゃないか」
「――でもないがな」
八重はぼそりと呟くが、さすがに無礼と思ったか慌てて言い訳をする。
「あ……いや、失礼。最近まで物忌みしていたゆえ、人と話すのも久しぶりでな」
物忌みとは穢れを忌み、引き籠ることである。
「そいつは難儀だね」
今度は納得といった風に、源九朗は相槌を打つ。
「で……鹿島の巫女さんが、こんな所で何を?」
「旅の途中、この先の廃村で雨宿りをしていたのだが」
「野盗に襲われ逃げてきた、と。旅ねぇ……こんな辺鄙な所を。まさか一人ってわけじゃないだろ?」
「無論、供連れに決まっている。いずれも腕に覚えのある者達だが……どうも嫌な予感がしたのでな。私は争いの場を抜け出してきたのだ」
もっとも、しっかりとつけられていたようだがな、と八重は苦々しく付け加え、
「ところで大和殿、聞きそびれていたが――あの追っ手共を一体どうした?」
明確にするまでもなく、床下からは血の臭いが立ち昇ってきている。
「始末したよ」
すると、八重は露骨に身体を遠ざける。源九朗は困ったなという風に、
「俺が怖いかい?」
「いや……そういう事ではない。腕が立つのは良いことだ」
こほん、と咳払いをすると、八重は改まった口調になって、
「大和殿、そなたは雇い主を探しているのだろう。ならば私に付いて来ぬか? 助けて貰った礼をしたい。その気があるなら鹿島家に口を利いてもよいぞ」
鹿島家。正しくは鹿島惣大行事家――神宮を実質的に支配する武家である。
一門から高名な剣豪を輩出したことで知られるが、内紛続きでその勢力も大幅に縮小、現在は北条家庇護下で再興の途上にあった。仕官先としては、あまり魅力的とは言い難いが、
「それは願ってもない話! どうぞよしなに」
慇懃に返事をする源九郎に、八重は満足気な様子。
「ではそろそろ、出発しようか。いつまた追っ手が来るかもしれない」
「うむ、どのみちこんな所に長居は御免だ」
すぐさま社を出ようとする八重を、「待った待った」と、源九郎は袖を掴んで引き留め、
「服を脱いでくれ!」
しばしの沈黙。そして次の瞬間――
「けっ、ケガラワシイっ!」
どがらがっしゃん! 豪快な音を響かせて、男は再び床下へ落下したのだった。
●補足、及び元ネタなどの解説
・鹿島神宮の最高職は、祭祀氏族中臣氏の末裔である鹿島大宮司家が務めているが、この当時は実権の無いただのお飾りである。
ちなみに、実権を握っている武家の鹿島氏は平氏の末裔。