(一)遭魔が刻
娘は走る、ひた走る、泥だらけの道の中を。
暗がりでなお一際目立つその姿は、被衣も着物も白一色。はだけた衣から覗く手足も、とてもか細く色白い。一体、どこへ向かうのか。泥塗れの身体を引きずるように、脇目も振らず走りに走る。
荒れた田畑を横切ったその先には、真っ暗な森が広がっていた。
轟――と、横殴りの突風に頬を張られ、よろけた娘が足を停めると、鬱蒼と茂る森の木々が待ちかねたとばかりに騒ぎ立てる。
ざざざ、ざざざ、ざわりざわり。あたかも哀れな娘を嘲弄するかのよう。
負けじとばかりに森を睨み返した娘は、森の淵に小さな社があることに気が付いた。
廃屋同然ではあるが、風雨をしのぐ位はできようか。
「おうぃ、見付けたぞ!」
野太い男の声に、娘ははっと振り返る。
何てこと。やはり追われていたのだ。どうしよう……いっそ森へ逃げ込もうか?
そう思い、再び森へと向き直る。視線の先では、木々が闇から不気味に枝葉を伸ばし、誘うように揺れ動いていた。
いや無理だ、ありえない。あんな暗くては歩けやしない。
こうなったら社で籠城しよう。粘っていれば、そのうち助けがくるはずだ。
腐りかけの階段を登り、慌てて社に駆け込もうとするが、
「嘘っ!」
扉は硬く閉ざされ容易に開きそうもない。
その様子に気付いたか、背後から男共の下卑た笑いが聴こえてくる。
「娘っ子、逃げても無駄だぁ。こんなボロ屋にゃ神さんも居ねえよ」
追っ手の一人がはしゃぎながら階段を登ってきた。雷光が閃きその愉悦の表情を照らし出す。
娘の背に悪寒が走る。迫る魔の手に、思わずぎゅっと目を瞑る。
だが――しばし待てど、何も起こりはしなかった。
娘は恐る恐る目を開ける。すると、なぜか追っ手は階段の途中で棒立ちになっている。
再び雷光。追っ手の胸元で、ギラリと何かが煌めいた。
――白刃だ。
その元を辿れば、僅かに開いた社の扉。その隙間から刃が突き出されており、それは娘の見ている前で、するすると暗がりへと引っ込んでいった。
直後、棒立ちの追っ手が音を立て階段を転げ落ちる。
「ひっ!」
今更のように娘の喉から声が出た。
と、不意に扉が開け放たれ、中からぬっと手が伸びてくる。
娘は反射的に逃げようとするが、足腰が立たなくなっていた。
「きゃああああっ!」
妖しの手は彼女の腕を取ると、一気に中へと引きずり込んだ。
社を囲む追っ手の残り、野盗三名は混乱していた。彼らが見た光景といえば、急に仲間が倒れ、娘が社の中に引きずり込まれた、ということだけ。
これは……神仏の助けか、はたまた物の怪が出たか?
折しも今は黄昏時、いわゆる遭魔が刻である。加えていかにもなオンボロ社にこの天候ときては、そんな想像をしてしまうのも無理からぬことだろう。
そこへ突然、バンッ! と派手な音を立て、社から扉が吹っ飛んできた。
度肝を抜かれ身構えていると、社の中に人影が現れる。一同、ごくりと喉を鳴らすが、
「どうした? かかって来ないのか」
人影が話しかけてきたことで、ほっと胸をなでおろす。
何だ人間だったのか。きっとどこぞの馬の骨が雨宿りをしていたのだろう。不意打ちでやられこそしたが、この人数相手に何を調子に乗っているのか。
得体の知れないものが理解できるものに変わった安堵感か、はたまた仲間同士の連帯感か。
抜刀した一同は、死ねやっ、とばかりに猪突猛進。そのまま室内になだれ込む。
――が、その先に床は無かった。
哀れ間抜けな一同は闇の中。訳も分からぬ床下に落下して、全身をしたたかに打ち付けた。一体、どうしてこんな事になったのか? 打身の痛みを堪えつつ一同は首を傾げる。
これは妙だ。あの男は確かに――床に立っていたはずなのだ。
すると野盗達の頭上に、呵々大笑が降ってきた。
「こりゃあ、見事にハマったもんだね。猪狩りでも中々こうはいかない」
ああっ、と呻く野盗達。格子窓から差し込んだ雷光で分かった。男は梁に布を巻きつけて、宙にぶら下がっていたのだ。
「やっぱさ、こんなボロ屋に入る時は足場の確認をすべきだよ。無事なのは部屋の隅っこだけなんだよね――ここ」
なるほど。どうりで床下一面に、木っ端らしき物が散乱しているわけだ。
ともかく、急ぎこの場を脱出しなければ。得物もどこかに落としてしまったし、そもそも上から長柄の武器で突かれでもしたら、たまったものではない。だが、またも訳の分からない事態が起こる。宙ぶらりん男は「ちっちっ」と舌打ちすると、穴の中へ降りてきたのだ。
あまりのことに一同は呆気にとられてしまう。
馬鹿な奴め。せっかくの機会をふいにして、わざわざ悪条件に飛び込んでくるとは。直に攻撃するつもりなのだろうが、こんな障害物だらけの闇の中で、そうそう当たるものではない。うまく隙を突けば、こちらの反撃だって可能だろう。
だが、その考えはすぐに誤りだと判明する。
「ぐふっ!」
突如、闇の中に呻き声が上がり、辺りに濃厚な血の匂いが漂った。
「ど、どうした?」
たまらず誰かが声を上げるが、直後にそれも悲鳴に変わる。
残された野盗は戦慄した。信じがたいことにあの男は、この状況下で仲間を二人も仕留めてしまったのだ。彼はすぐさま息を潜め、腹這いになりほふく前進を始めた。何も見えない状況下で、二人がやられた原因を考えた上での行動だ。
一人目はまぐれ当たりか何かだとして、二人目がやられたのは迂闊にも声を出したからだろう。ならば身を縮めて極力音も立てなければ、そう簡単にやられはすまいというわけだ。
悶え苦しむ仲間達から遠ざかるように、密かに一歩、また一歩進む。もう少しで、床下から外に這い出ることができそうだ。
やや離れた場所で舌打ちの音がした。
あの男も苛立っているのだろう――つまり、まだ自分は見付かっていない。ああよかった、これで村に帰れる。もう、こんな危ない真似はせず、大人しく畑仕事にせいを出そう。
生きて戻れる喜びを噛み締めたその時、背後で「ちっ」と舌打ちの音。
そして、彼は村に帰らなかった。