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(五)清月夜

 煌々と照る月の下、西に向けてひたすら歩く。

 新手との遭遇を避けんがため、河原から休まずの強行軍だ。それも気を失ったままの八重と、重い木箱を背負ってのこと。おかげで手足は鉛のように重く肩の傷も疼くばかり。引き換えに無事結城を抜け、そろそろ街道に出ようという所である。

 大きく息をついて源九朗は足を止めた。休憩というわけではなく、時折ずれ落ちそうになる荷物を背負い直さねばならないのだ。

「せぇの……よっ」

 左腕に力を込め、八重の身体を持ち上げ安定させる。と、

「う……うーん」

 背中でむにゃむにゃ声がした。

 いよいよ寝坊助のお目覚めか、と源九郎は身構える。

 なにしろ他人との接触を厭う潔癖娘が、よりにもよって汗まみれの男に背負われているのだ。激高は必至だろう。とはいえ、今はほんの少し肩に触れられただけで激痛が走る状況だ。背中で癇癪かんしゃくを起こされる前に、どうにかなだめねばならない。

「ここは……どこだ。私は一体どうなったのだ?」

 ぼうっとしながら八重は言って、はたと己が状況に気付くと、たちまち血相を変えた。

「仕方ないだろう? お前さんが起きないから、こうするしかなかったんだ」

 源九郎は即座に弁解したが、彼女の驚いたのはそんな理由ではなかったらしい。

「そっ、そなた怪我をしているではないか!」

「ああ――何だそんな事か」

 拍子抜けで返事をすると、途端に怒鳴り返される。

「ばっ、馬鹿者! そんな状態で私を背負うやつがあるかぁ! どうして無理矢理起こさなかった。このっ――大馬鹿者!」

「まぁ、背負った方が早いしな。それにお前さん位軽ければ、片腕で何とかなるし」

「アホ抜かすでない! とっ、とにかく、降ろせ降ろせ降ろせぇ~」

 言う通りにしてやると、八重は着地するや源九郎の右肩をびしっと指差し、

「ちゃんと手当はしたのか?」

「まぁ一応」

「確認する。見せよ」

 やれやれと源九郎は腰を下ろし、服をはだけて当て布を捲る。

 傷口は何とも悲惨な有様だった。出血がまだ収まっておらず、血止めの紫根しこんの粉末と血が混じり合って、ぐちょぐちょのドロドロ。その周辺は乾いた血で盛り上がり、てらてらと不気味に光っている。

「痛っ! 何してるんだ?」

 不意に、八重が肩に触れたのだ。だが源九朗の抗議にも彼女は取り合わず、

「いいからじっとしておれ! 手当てする」

 そのまま肩をさすりながら、厳かな声で呪文を唱えた。

「ちちんぷいぷい、痛いの痛いの――」

 思わず手を引き剥がす。

「む、なぜ止める?」

「よせよ……子供じゃあるまいし」

「これはれっきとした血止めのまじないだぞ? そなたは呪術を信じぬのか」

「そりゃ神罰なんて喰らったら全否定はできないな。けど、こんな気休めのまじないは――」

「何だ、分かっているではないか。そう、気休めだ。それが肝心なのだ」

 気休めとは否定的な意味で言ったのだが、八重はむしろ我が意を得たかのごとくに、

「穢れを祓い清めるとは、枯れた気を良めるということだ。先のまじないが気に食わぬなら、別のものに変えてもよい。とにかくここは私に任せよ。決して悪いようにはせぬ」

 言うだけ言って返事も聞かず、新たなまじないに取りかかる。半眼はんがん安座あんざで両手を組むと、

「さあ、心と身体を楽にして。私と共に唱和するのだ」

 身体を揺り動かしつつ呪文を唱える。

「ヒィフゥミィヨォイツムゥナナヤァコト。ヒィフゥミィヨォイツムゥナナヤァコト――」

 いや、これは単に数を数えているだけだろうか?

 何のつもりか分からないが、こうなっては仕方がない。源九朗は気の済むまでやらせておくことにした。

 正直、悪い気はしない。

 血は穢れの最たるもの。触れるなど、この潔癖娘からすれば本来あってはならぬことのはず。にもかかわらず、その白魚のような腕を血で汚してまでも、まじないをしようというのだから。

 しばし経って「終わったぞ」との声とともに、八重がおずおずと身を乗り出してくる。

「で、どうだ? 具合の方は」

 どうだと言われても、もちろんどうもこうもあるわけない。

 少なくとも痛みが引いたとか、出血が止まったとか、そんな変化は存在しない。だが、期待と不安に満ち満ちている娘に、わざわざ本当の事を言う必要もないだろう。

「そうだな。心なしか痛みが和らいだ気もするよ」

「そうか……それはよかった」

 八重は張り詰めていた表情をふっと緩ませ、その場にへたり込んでしまう。

 その様子は、源九朗にどこか懐かしさを感じさせるものだった。

 そう――ずっと以前のことだが、似たようなやりとりがあったのだ。

 

「あにさん、あにさん、だいじょうぶか? おっきなたんこぶができているぞ」

「昨日、仕事でヘマしてね。ちょいと、ぶつけちまったのさ」

「まったくこまったあにさんだ。では、アヤコがおまじないをかけてあげます!」

「へぇ、そいつは凄い! アヤコは物知りだな。よし、一つ頼もうか」

「えっへへ、まかせるのだっ! ちちんぷいぷい、いたいのいたいのとんでゆけー」

「いてっ! もっと優しくさすってくれよ――って、なんでアヤコが泣くんだ?」

「ぐすっ……あにさん。これにこりたら、もうケガなどしてはいけないぞ! あにさんとアヤコは、ふたりっきりのかぞくだ。あにさんになにかあったら、アヤコは……アヤコは……」

「分かった分かった、気を付ける! だからもう泣き止んでくれよ」

「アヤコはないてなどいません!」

「あぁもう、分かったってば!」

 

「――なあ源九朗。聞いているのか?」

 耳元の声に我に返る。どうやら八重が何事か話していたらしい。

「ああ、何の話をしてたっけな?」

「うむ、だから……さっきはその……な」

 八重は幾分はにかみながら、俯き加減でささやくように言った。

「助けてくれてありがとう」

「雇い主を守るのは当然だ」

 何でもないように応える源九郎。対照的に、八重は徐々に泣き声になると、

「――確かに私は言った。自分の命より呪具を優先するように、とな。だが情けないことに、いざとなると怖かったのだ。だから……ありがとう。助けてくれて、嬉しかった」

 遂には源九郎の背にもたれかかって、押し殺すようにむせび泣く。

 この状況を一体どうしたものやら、源九朗には分からない。忍びとなってこのかた、悲惨な出来事など数えきれぬほど見てきた。だから、今の自分は多少の事では動じない――そう思っていたのだが、

(相変わらず泣く子にゃ弱い、か)

 結局、どうすることもできず、されるがままに。八重はしばらくの間ぐすぐすとべそを掻いていたが、突然「うぐっ」と呻き身を剥がし、

「そなたはっ、相変わらず臭いなっ!」

 鼻をヒクヒクさせながら、いつもの調子で不遜な言葉を吐いた。

「宿に着いたら、きっと湯浴みをするのだぞ。それから着物もだ。お互いもっとましなものに変えねばな」

「残念ながら、手持ちにそんな余裕はございません」

「うわぁあぁん! この貧乏人!」

「そりゃ牢人だし」

 源九朗はほっと胸を撫で下ろす。これでようやく、いつもの調子で返事ができる。

 そう思って油断した。

「しかし――妙なこともあるものだ」

 八重はもう一度鼻をヒクヒクさせると、不思議そうな声を出す。

「そなたの匂い、今ではそれほど不快でもない気がするぞ」

「へっ――ああ……そう」

 しどろもどろになる源九朗の面前で、八重は無邪気な笑みを浮かべている。

 何ともいえないばつの悪さに堪えかねて天を仰げば、満天の星空には白銀の月が一際輝いていた。闇夜を照らす月明かりは、闇に生きる者にとって邪魔なもの。煩わしく、疎ましい。月を見るときはいつでも、そんな気分になるものだ。

 だが、今この時は違う。

 綺麗なものだ。素直にそう思えたのだった。

●補足、及び元ネタなどの解説


・ちちんぷいぷい、は日本のまじない用語である。

 語源は『知仁武勇御代御宝ちじんぶゆうはみよのおんたから』や『血鎮不意不意』などと考えられている。

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