第三章 青いドラゴン
駅馬車に乗り込み、ダル王国の国境都市ヘムズに滞在したあと、一路エージス谷に向かっていた。
ヘムズはエージス谷と呼ばれる峡谷の、すぐそばにある都市であり、ダル王国とウェルペクド王国との国境に最も近い都市だ。
乾燥した大地にある都市だけども、国境都市だけあって交易は盛ん。必要な食料などを購入したあと、エージス谷へと向かう馬車に揺られる。
この町では、穀物を加工して乾燥した食べ物が多く売られていた。そのまま食べても良いらしいし、水やお湯で戻しても良いらしい。
町では最近、ドラゴンの話が話題になっているようで、何でも青い鱗の人食いドラゴンが現れるらしい。一応気をつけろとは言われたけど、何をどう気をつけるのかは分からない。
エージス谷の谷底には急流があり、天然の擁壁のようになっている。そこを超えるには一本の橋を渡るしかなく、当然そこに国境警備隊がいる。といっても、連合国の中の国境警備なので、それほど厳しい警備ではなかった。また、有翼種族には谷を越えるなど造作もない事らしく、不審者の取り締まりを目的とした意味合いが強いらしい。
有翼種族はごく一部を除いて、重い物を持ち運ぶ事ができず、ほとんどの場合バッグ一つを運ぶ程度が関の山。一応国境を越える際は地上に降りるよう言われているはずだけど、たいがい無視されているのが現状らしい。
物を運ぶ能力で例外的なのは、数は少ないがグリフィン族やドラゴン族と呼ばれる種族で、彼らは馬車一台分の荷物を持って飛ぶ事もできるらしい。
しかし、こちらは数が少なく、監視されやすいため、危険を冒して密輸などを行う者はほとんどいないとも聞く。大体、僕はドラゴンもグリフィンという種族も見た事ないし、当然どんな姿なのかも分からない。
だからこそ人食いドラゴンの話も、本当なのか分からなかった。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
「そろそろエージス谷ですね」
ロルベルトさんが、馬車に貼ってあった地図を見ていた。
すでに国境は越えたので、あとは橋を渡るだけ。馬車は比較的ゆっくりと進んでいる。
「メルサ、高い所は嫌いか?」
突然ペルの質問に、怖くないと答える。
「あの谷で、高い所が嫌いになる奴もいるからな。景色はいいが苦手な奴には辛い場所さ」
そう聞いて、どのような所か想像してみた。タルツーク王国では山はあったけど、峡谷と呼ばれるような場所は少なかった。
それに、鹿狩りで山に出かけたときに案内された谷も、確かに落ちれば死ぬのは確実だけど、怖いという程ではなかったと思う。
「ま、見りゃ分かるさ」
ペルはなんだか楽しそう。それが不気味に見える。
「ペル、そんなに怖がらせなくても良いではないですか。ちゃんと立派な吊り橋も架かってますし、安全ですよ」
それを聞いて少し安心。
いくら何でも、見た事がない場所を、いきなり怖がらせるような言い方をするペルは、今さらながら正直好きになれないタイプだ。
「ところで俺は見た事がないが、竜人族には空を飛べる奴がいるというのは本当か?」
「はい。少数ですがいます。俗に言う鳥人族と似たようなものです」
竜人族には本当に少数だけど、空を飛べる人もいる。別に隠すような事じゃないし、一通り本当の事を教えた。
「俺の知識不足かもしれんが、竜人族の王族ってのは翼がある奴だと思っていた」
「ペル、その話は……」
ロルベルトさんが話を止めようとする。
「一般論を聞いたまでだ。別におかしくはないだろう?」
ロルベルトさんは黙ってしまう。
「僕の知る限り、翼の有無は王族と関係ないですね。僕も王族とそれ以外の違いというのは知りません。強いて言えば、家系くらいだと思います」
考えてみれば、自分が王族だったのは、生まれが王族なだけ。別に何か特殊な能力があるわけではない。昔の王には魔法が使えない者がいたともいわれているし、特殊能力に関しても、僕は使えない。今は亡き父も、特殊能力と呼べるようなものは使えないはず。
「それと、竜人族とドラゴンは違う種族なのか?」
ペルさんの質問に言葉が詰まってしまう。
確かに似たような鱗もしているけど、そんな事を考えたこともなかった。
「意外と思われるかもしれませんが、僕はドラゴンを今まで見た事がありません。なので、僕たち竜人族とドラゴンにどう関係があるのかは分かりません」
しかし、ドラゴンと竜人族が、同じように見られる事も知っている。なぜそうなのかは分からない。
「別に竜人族の王だからって、何か特別な能力があるとか、力があるという話は聞いた事がありません。ドラゴンについては、僕は何も知らないに等しいです」
「その辺は、人間の王と同じなんですね」
ロルベルトも、ちょっと意外そうな顔をしている。
「人族なんて、一番ひ弱じゃないか。中には力が強い者もいるが、総合的には俺たち犬族よりも弱いし、魔力も低い。いや、魔力がある人族なんて滅多にいないな。大体、人族は他の種族から見ても一番ひ弱じゃないのか?」
ロルベルトをからかうように、ペルが言う。
「俺たち犬族は、遠くの音もある程度聞こえるが、人族は無理だろ? 走るのだって遅いし、嗅覚だって劣る。夜目も利かないし、人族の取り柄って何だ?」
ペルさんは、完全にロルベルトさんをからかっていた。
「強いて言えば、数だけでしょうか。他の種族をすべて集めても、人族の数には及ばないと聞いた事もありますから」
ロルベルトさんは、嫌みを微笑みで返していた。そのあたりはロルベルトさんが一枚上手みたいだ。
確かに人族には、これといって取り柄はない。
だからといって、人族が他の種族よりも、格段に劣っているとは思えなかった。
世の中の色々な発明品は、そのほとんどが人族のものと言われているからだ。
一説では能力が劣る分、知性が高いと聞いた事がある。本当にそうかは分からないけれども。
「人族は、知性が高いとか言うなよ。誰かさんを捕らえたのは、俺たち犬族が考えた作戦だ。実行したのも俺たちだしな」
ペルは笑っていた。
あれから三ヶ月――百二十日あまり。一年の三分の一を経過している。
昔の仲間たちはどうなったのかと思う。ヨルムド王国の王子が、王族は粛正されたと言っていた事を思いだし、涙が出そうになったけど、馬車の中で泣くわけにはいかないと思いこらえた。
きっと友人たちも、もうこの世にはいないかもしれないと思うと、世の中は非情だと思う。
僕は国のためと思い前線に出て助かり、家族や友人とは永遠に会えなくなってしまった。
父親である王は、恐怖政治を行っていたわけでもないし、むしろ善政だったとすら思っている。他の者も、知る限りおかしな事をしている者はいないはず。
友人たちも、良い者たちばかりだったと思う。納得のいかない事ばかりだ。
「……ルサ、メルサ」
肩を揺すられて、呼ばれている事に気がついた。すっかり考えに没頭していたみたい。
「馬車を降ります。早くしてください」
荷物を持つと、ロルベルトの後を追う。そこは駅馬車の溜まり場になっており、何台もの馬車がある。
「橋は歩いて渡るんだ。馬車用には出来ていないからな。小さな荷車程度なら通れるが、馬車は無理だ。さて、度胸試しといくか」
相変わらず、ペルは笑いながら嫌な事を言う。
衛兵の立つ見張り所の先に、橋の対岸が霞んではっきり見えない吊り橋があった。
確かに高い吊り橋で、谷底までは小さな山一つあると思える。別に検問はしていない。通行は自由のようだ。
「一番深い所で、底まで五百リールだ。なかなかの絶景だろう?」
一リールは人族の背丈の半分より、少し長いくらい。当然落ちたら死ぬ高さ。
こちらの周囲は荒野だが、橋の先に突然現れる谷は確かに絶景だ。それに谷の向こう側には森が見える。茶色い大地に突然現れる緑の大地。それは美しいの一言では表現できない光景。
「別名雨飲みの谷。なぜか雨雲がこの谷を越える事はないらしい。だからこちら側は荒れた大地で、向こうは森が広がっているんだ」
ペルさんその説明になるほどと思う。
それにしても、この様な場所に最初に橋を架けた人物が、どのような人なのか知りたくなった。これだけの巨大で美しい橋を造った人は、きっとすばらしい建築家に違いないと思う。だけどそれを表すような標識などはどこにも見あたらない。
タルツークでは、立派な建造物にば建築した者や設計した者の名前が、石版などに残る事がよくある。この地方では、必ずしもそうではないらしい。
そんな事を考えながら見張り所も通過し、いよいよ橋を渡り始める。
確かに高い所が怖いとなれば、この高さは尋常ではない。底が霞んで見えない。それでも一歩ずつ踏み板を踏みしめるように歩き出す。
それにしても立派な橋だ。吊り橋だが、吊っているロープの太さは僕の腕よりも太い。それが何本もあり、橋本体を支えている。
手すりのロープも、吊っているロープと同じ太さで、しかも三本が三つ編み状になっている。簡単には切れないだろう。
手すりのロープと橋板は、五十エスクくらいの間隔で、指のサイズほどのロープで繋がれている。
橋板も定期的に交換しているのか、新しい物も所々にあるようだ。橋板を踏んでも音一つしないのは、板を何枚か重ねているのかもしれない。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。まあ、初めての人は皆そうなりますけどね」
「まあ、誰だって怖いさ。俺だって今でも怖い」
そうは言いつつ、ペルは怖がっていないと思う。それでも二人の言葉に何となく安心し、下を気にしないようにしながら先に進む事だけを考える事にする。
半分程橋を渡ったところで、突然ペルが足を止めた。何事かと思って先をよく見ると、人溜まりが出来ている。
「何かあったのか?」
ペルが警戒するように周囲を見渡す。といっても、後方は今まで渡ってきた橋、左右は手すりのロープに守られているとはいえ、断崖絶壁でしかない。
先の方で何か声がして、人が何人か戻ってきている。戻ってくる人はだんだん増えていた。それもなんだか慌てた様子だけど、僕らの後ろにも人がだいぶ集まってきていて、橋の上は混乱し始めていた。
「嫌な予感がするな」
確かにペルさんの言うとおりだった。ロルベルトさんはすでに、腰の剣に手をかけている。僕も腰の剣に手をかけた。
「ここでは迂回できないですしね。先に進むしかないのに、困った事にならなければよいのですが」
ロルベルトはそう言いながら、その『困った事』に備えようとしている。
「何があったんだ?」
ペルが戻ってきた全身が灰色の熊族の男性に聞いた。背丈が二リールを優に超えているし、体つきもがっしりしているので先がよく見えない。
「さあ。誰かが何か見たらしくて、俺も分からん。戻った方が良さそうだ。先を急いでいるのに困った」
先を見ようとしてみたけど、戻って来る人が多すぎて、何が起きているのか分からない。かといって、下手に武器を取り出すわけにもいかず、まして戻るわけにもいかず困った事になった。
しばらく様子を見ると、前後が進む人と戻る人で混乱し、文字通り身動きが取れない。知らない場所で、しかも安全とは言い切れない場所で身動きが取れない事が、だんだん怖くなってくる。
そんな時、突然吊り橋が下から突き上げられ大きく揺れる。多くの、そして大きな悲鳴と共に、何人かが谷底に落ちるのが見えた。
必死に近くのロープに摑まり、周囲を見る。二人も同じようにロープに摑まっていた。
「な、何が起きたんですか!」
さすがのロルベルトさんも、状況が見えていないようだ。
やっと揺れが収まってきたと思ったとき、再び吊り橋が大きく揺れる。先ほどよりも大きな悲鳴と共に、またしても何人かが落ちてゆくのが見えた。
「ドラゴンだ、人食いドラゴンが出た!」
また吊り橋が再度大きく上下する。
体が一瞬宙に浮くのが分かった。
次々と手すりとなるロープに摑まれなかった人々が、谷底へ悲鳴と共に落ちてゆく。
後ろにいた人たちは、大きく揺れる橋に掴まりながらも、少しずつ後ろに行こうとしていた。だけど、大きく揺れる橋にほとんど身動きが取れていない。
「くそっ、ここからじゃ戻るにも距離がありすぎる!」
ペルがロープを摑みながら必死の形相だ。
あまりの大きな揺れのため、武器を取り出す事も出来ず、取り出したところで、ドラゴン相手では生半可な攻撃は通用しないはず。
何度か大きく揺れ、吊り橋の上に残った人数が数える程になって、やっと揺れが収まった。
目の前にいたはずの熊族の男性の姿はもう無い。後ろにいた人たちは、どうにか戻る事が出来たのか、それとも下に落ちてしまったのか、こちらも人数はまばら。前も同様。
その前方には、体長十リールを優に超える青いドラゴンが、吊り橋の上で羽ばたいている。
腹は白いくすんだ色。いつの間にか足で器用に吊り橋の一番太いロープをつかんでいるのが見えた。それに口元が笑っている。
口元には、橋から落ちた人なのか、腕が垂れ下がっている。ドラゴンはそれをすするように口に入れて噛み砕いた。
ドラゴンは体長と同じくらいの、片翼が巨大な白い膜の翼を大きく広げて、足で掴んだロープは今にもまた吊り橋を揺らしそうな構えだ。足だけでも、僕の身長より大きい。そのうえ、僕の腕ほどもありそうな爪。
「残りは八人か。安心しろ、お前たちもすぐに後を追わせてやる」
ドラゴンが言うと、近くでロープにしがみついていた猫族の男が剣を取り出す。
「この人殺しドラゴンめ。この場で退治してくれる!」
「人殺しドラゴンか。よくもまあ言えたものだな。最初に手を出したのは貴様らだろうが。そうか、お前もあいつらの手先か。それなら相手になってやる」
ドラゴンの声はとても低くて、なんだか悲しげにも聞こえた。
男はドラゴンの話を無視して突進する。ドラゴンはそれを見ながら、ゆっくりと吊り橋の上に降りると、男が近づくのを待っていた。
男がドラゴンのすぐ近くで剣を振り上げ、その腹に向け剣が振り下ろされる。
鋭い金属音が峡谷に響く音と共に、剣が弾かれていた。ドラゴンの鱗には傷一つ付いてないようだ。当然血のような物も出ていない。
一番弱いと思われる腹に剣が当たったはずなのに、ドラゴンは笑っていた。もちろん、竜人族と体の構造が同じで、ドラゴンも腹が弱点ならだけど。
次の瞬間、ドラゴンの左腕が素早く動き、男を鷲づかみする。男は体勢を立て直せないまま、ドラゴンにあっさり捕まってしまう。
「左手でも捕まえられる程遅いな。もう少し楽しませてくれないか?」
ドラゴンの左手が次第に強く握られてゆくのが、ここからでも分かる。
「くぅ、は、放せ!」
「そう言われて放す程、馬鹿ではない。私に立ち向かおうとした勇気は褒めてやる。どちらか選べ、このまま握りつぶされるか、私の糧になるか」
その間もドラゴンの手は、男を締め上げているようで、苦痛にうめく声がここからも聞こえる。
「き、貴様など……」
何かを言おうとした直後、周囲に悲鳴が響き渡った。男の方からミシミシという音が聞こえ、足が動かなくなる。
「おお、すまんな。腰を砕いてしまったようだ。少し小指に力を入れすぎたかな」
男は喘ぐように悲鳴を上げていた。
「それで、答えはどちらだ?」
ドラゴンの非情とも言える問いに、男はただ首を横に振りながら悲鳴を上げるだけ。そもそも、答えられるとは正直思えない。
「聞こえんな。そうか、私の糧になりたいか。良い心がけだ」
ドラゴンは空いている右手の爪で、男の持っている剣をはじいた。
剣は弧を描きながら僕のすぐ近くに突き刺さる。その剣には、男の手がちぎれた形で残っていた。
思わず悲鳴を上げる。手首から先を失った男も、悲鳴を上げていた。
「ふん、この程度で立ち向かうとは恥知らずだな」
ドラゴンは悲鳴を上げる男を、味を確かめるようにひと舐めし、左手をさらに強く握ったようだった。
男はもはや悲鳴すら出す事も出来ない状態のようであり、僕はおぞましいものから目をそらす事が出来ずにいると、次の瞬間ドラゴンは男を口に放り込む。
一瞬悲鳴のようなものが聞こえた後、男が噛み砕かれる音が谷にこだました。青いドラゴンの口から、赤い血が流れ落ちるのが分かる。
僕は思わず目をそらした。男を食べ終わったのか、ドラゴンは口の周りに付いた血を舌で舐めると、こちらを見据えている。
「不味いですね。速く逃げないと」
「だが、ここは吊り橋のちょうど真ん中だ。どちらへ行くにしても距離がありすぎる。それに、また揺らされたら、何も出来ない」
二人の言う事はどちらも正しく聞こえ、僕は目の前にある男の手がついたままの剣を見て、足が震えてしまう。とてもここから逃げ出せる状況ではなさそうだったし、泣き出したい思いだ。
「さて、次に私の血や肉となりたい者はいないか? 申し出れば先ほどの男とは違い、苦しまずにすむぞ」
ドラゴンの言葉に震えが止まらない。
「ほう、仲間がいるではないか。どうだ、私と一緒に狩りを楽しまないか?」
ドラゴンが何の事を言っているのか分からず震えていると、周囲の人々が僕を見ていた。
「恐怖で我を失ったのかな? それなら私が鍛え直してやろう」
直後、また吊り橋が大きく揺れる。そこら中に悲鳴がこだまし、目の前の剣が谷底へ落ちていった。
「しがみついているのがやっとか。いつまで耐えられるかな?」
ドラゴンはまた吊り橋を揺らす。必死に近くのロープにしがみつくが、すでに握力の限界に近い。
「そろそろか?」
ドラゴンがその直後、瞬時に僕の目の前に移動してきた。巨体に似合わぬ素早さ。そして僕を右手で先ほどの男と同じように鷲づかみする。
「た、助けて!」
必死に叫んだけど、周囲の人々は恐怖で顔が引きつっている。
「ふふ、さあ、私と一緒に来るのだ」
ドラゴンが大きく羽ばたく。必死にロープにしがみついたけど、それ虚しくあっという間に空にいた。
下の方で僕を呼ぶ声が聞こえたけど、それも次第に聞こえなくなり、僕は恐怖のあまり気をが動転して……