08 A棟二階の通路が「処女通り」と呼ばれる事になった理由
始業式の後に行われる、帰りのホームルームが終わった午前十一時過ぎ、身支度を整えて教室を出た神流を、教室の前で待ち構えている者達がいた。
「よう、マジメガ!」
いきなり、気楽な口調と態度で声をかけて来たのは、竜巻。そして竜巻の背後にいるのは、純一と音音。
「な、何よいきなり……って、ニャーコにノロイチも一緒なのか。体育館でも見たけど、あんた達……もうハジキンとつるんでるの?」
「まぁ、何となく押し流される感じで」
「ニャーコは、むしろ自分から進んでなのだ」
二人は、それぞれに似合う返事をする。
「今日、これから暇か? 暇だったら、お前も付き合えよ!」
「付き合うって、何処に?」
そう問いかけた神流は、竜巻に唇を耳元に寄せられ、それが人に聞かれたく無いだろう話を囁く為だと察していながら、照れて仄かに赤面する。
「ダマシヤ探し。この街で今、ムカシノジブンっていう危険な超常現象が起こってるかも知れないの、知ってるだろ?」
「そんなのは、都市伝説……ただの噂だ」
「でも、事実かも知れないじゃないか。この街は他の街より、都市伝説が事実である確率が高い、魔術的特異点である、顕幽市なんだから」
竜巻の言った内容は、顕幽市では昔から、言われている事である。顕れたり見えなくなったりという、何処か不思議な意味合いの名を持つ顕幽市では、昔から不思議な事件が多かった為、何時しか他の街より、都市伝説が事実である確率が高いと、言われる様になったのだ。
そういった場所を、魔術的特異点と呼ぶのだと、竜巻達に教えたのは、或魔である。
「事実だったら昔みたいに、ダマシヤが街に来てる筈だから、これからダマシヤが来てるかどうか、街中を探そうって訳よ。ダマシヤが来てるかどうかで、ムカシノジブンの話が事実なのかどうか、判別出来るだろ?」
神流は問いかけに返事をしないが、竜巻は構わずに囁き続ける。
「もしも、ダマシヤが来てないなら問題無いが、来ているならムカシノジブンを誰かが終わらせないと、犠牲者が出続ける事になるんだぜ。その役目は、この街を守る正義のヒーローだった、俺達が果たすべきだろ。違うか?」
「――何をガキみたいな事言ってるんだ。お前は高校生になってまで、正義のヒーローごっこを続けるつもりか?」
呆れた様に、神流は言葉を吐き捨てる。
「ごっこじゃないだろ、俺達の場合は。昔、本当に正義のヒーローとして……」
「知ってるか? 記憶なんていい加減なもので、実際には経験していない事を、実際に経験したと思い込んでいる事なんか、幾らでもあるんだよ」
諭す様な口調で、神流は竜巻に続ける。
「駄菓子屋の主人に、不思議な力を授けて貰って、正義のスーパーヒーローやスーパーヒロインになって、街を助けていたなんて記憶が、常識的に考えて事実だと思うか? 事実の訳が無いじゃない!」
「何言ってるんだよ、事実に決まってるじゃんか。常識的に考えて、有り得ない様な事くらい、世の中に幾らでも有るんだからさ」
竜巻の反論に、神流は首を横に振る。
「有り得ない! 幾ら何でも非現実的過ぎる! きっと私達、子供の頃に、自分達が特別な力を貰い、正義のスーパーヒーローやスーパーヒロインになって、活動してたつもりでいただけなんだって!」
自分の意見を自分に言い聞かせ、確信しているかの如く、神流の語気は強くなる。
「お前……真面目なのは変わって無いけど、随分と現実的な人間になったな。自分の記憶や経験より、常識なんて社会が押し付ける不明確な概念の方を、信じるのか?」
「当たり前でしょ! そんな事……何時までも子供じゃないんだから、普通なら分かりそうなものじゃない!」
(ん? 子供じゃない?)
目を見開き、竜巻は驚きの表情を浮かべる。微妙に強いショックを精神的に受けながら、竜巻は残念そうに、口を開く。
「――そうか、マジメガは子供じゃなくなったのか」
「そうよ、もう高校生なんだから、子供な訳が無いってば」
「大人になったのなら、仕方が無い……諦めるよ。ダマシヤは子供にしか見えないんだから、大人になったお前は、誘っても仕方が無いし」
「――え?」
何か、自分が妙な誤解をされつつある事に、神流は気付き始める。
「しかし、糞真面目で仲間内では一番、色気づくのが遅そうだったマジメガが、俺達より先に大人の階段を上り、処女を捨ててしまうとは……微妙にショックだよ」
「知らなかった……カンナちゃんニャーコと同じで、恋人とか出来た事無かった筈なのに」
音音に続き、純一も驚きの声を上げる。
「つまり、相手は行きずりの相手って訳か。学内の風紀についてはうるさい癖に、自分の私生活の風紀は、酷いもんだなマジメガ」
「ちょっと、あんた達……何の話してるのよ?」
話が訳の分からない方向に進み始めたので、神流は戸惑いながら、問いかける。
「だから、お前は子供じゃなくなって、ダマシヤが見えなくなったんだろ? 或魔が言ってたじゃん、ダマシヤや或魔が見えるのは、エッチな事をしてない子供の間だけだって」
「あ……」
神流の頭に、懐かしい記憶が蘇る。大人に近付くにつれ、子供の頃の偽りの記憶だと、思い込もうとしていた記憶の一部が、甦る。
「異性とエッチな事するような年頃になれば、あたしもダマシヤも見えなくなるよ。穢れていない人間……性的な意味では子供である人間にしか、知覚出来ない呪いが、あたしやダマシヤには、かけられているからね」
禁煙時の代用品だというココアシガレットを、煙草の様に指に挟みながら、寂しげに呟いた大人の女性。派手に整った魅力的な顔立ちが印象的な、何時も黒い服ばかりを着ていた、本物の魔女である或魔の姿を、神流は思い出す。
そして、どんな誤解を自分がされたのか気付いた神流は、慌てて弁解を始める。
「いや、私……そういう経験無いから。子供じゃないっていうのは、そういう意味合いじゃなくて、子供みたいな幼稚な思考や言動からは卒業して、大人としての……」
しどろもどろになって神流は弁解するが、竜巻達は聞いていない。竜巻を中心として、好き勝手に囁き合う。
「まぁ、考えてみれば俺達より一つ年上だし、マジメガが俺達より先に大人になるのは、仕方が無いのかも……」
物分りの良い意見を純一が述べれば、竜巻は残念そうに呟く。
「ヒーローチームは五人組が基本だと思うんだけど、これでマジメガの脱退が確定したから、バクチカが戻っても四人組か。それと……行きずりで処女捨てる様な奴は、既にマジメガじゃねえな。ビッチなメガネ……略してビチメガにしよう、神流のこれからの徒名は」
「ビッチって、どういう意味なのだ?」
「商売女とか、まぁ軽い女の事だよ……性的な意味で」
話を聞かず、好き勝手な話を続ける竜巻達を見て、心の中で何かが切れてしまった神流は、大声で三人を怒鳴りつける。
「お前ら人の話を聞け! 私は処女だッ! 処女の私を、ビッチ呼ばわりするんじゃないッ!」
二年一組の前……二年の教室が並ぶ、校舎二階の通路に、神流の怒鳴り声が響き渡る。四人が話していた通路には、他にも帰宅の為に教室を後にした生徒達や、部活動や委員会活動に向かう為、廊下を歩いていた者達、友人達と雑談していた者達など、百名程の生徒達がいた。
竜巻達は当然、通路にいた他の生徒達だけでなく、大声で処女宣言をしてしまった神流自身も、呆然としてしまう。程なく、呆然としていた他の生徒達はざわめき始め、神流自身は自分がしてしまった行為の恥ずかしさのせいで、林檎の様な色に頬を染める。
そんな神流に歩み寄り、くんくんと音音は鼻を鳴らす。匂いを嗅いでいるのである。
「ホオズキの匂いはしないから、カンナちゃんの言ってる事は本当なのだ」
「――だったら、ビチメガ……じゃなくてマジメガも、ダマシヤ探そうぜ! お前にも、まだダマシヤ見えるんだろうからさ!」
何処か安堵した様な顔つきで、竜巻は再び神流を誘う。
「ふ、ふざけるなッ! 誰がお前の誘いになんて乗るかッ! 昔から今に至るまで、お前に関わると碌な目に遭わない!」
恥ずかしさの余り、既に冷静さを完全に失ってしまった神流は、自分が恥ずかしい真似をする羽目になった、主要原因である相手……竜巻を指差し、怒鳴り散らす。
「これから私は、風紀委員としての仕事がある! お前の遊びになんて関わっている暇も無ければ、関わる気も皆無だッ! ダマシヤを探したければ、勝手に探してろ!」
「つれないなー! そんな事言わないで、付き合えよー!」
竜巻の「付き合えよ」という強請りの言葉を耳にして、神流の頭の中に、嫌な記憶が甦る。不快な記憶と共に、記憶が脳に刻まれた際、同時に脳に刻まれた、激しい怒りの感情も、活火山の噴火の如く甦る。
「ふざけるな! そもそも貴様とは三年前の三月に、絶交しただろうが! 忘れたのか? 絶交した相手と、付き合う方がどうかしてるわッ!」
(三年前の三月っていうと、俺が顕幽市を引っ越す直前か)
記憶を辿り、竜巻は神流の言う絶交の事実を、思い出す。
「忘れてたぜ。そう言えば引っ越す前、俺……マジメガに一方的に絶交されたんだっけ、理由も分からないまま」
「理由が分からないだと! 貴様という奴は、あんなふざけた真似をしておきながら、忘れたっていうのか! 貴様の様な女の敵は、バキュームカーにでも突っ込まれて、糞尿に塗れて、死に腐れッ!」
そう言い切ると、神流は踵を返し、怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にしたまま、歩き去って行く。廊下を走るのは校則違反なので、早足でズカズカと。
神流の凄まじい剣幕に気圧され、相当に図太い部類に入る竜巻も、流石に神流の後を追い、誘い続ける気分にはなれなかった。竜巻は純一や音音と共に、呆然と去り行く神流を見送るしか無かったのである。
「前から気になってたんだが、お前……マジメガに何やらかしたんだ?」
「ニャーコも興味有るのだ。あの絶交の原因、カンナちゃんに訊いても、全然話してくれないし」
純一と音音に尋ねられた竜巻は、首を横に振る。
「ホント、全く何にも心当たり無いのよ。あの頃は引越し準備に入ってたから、悪戯とかする暇も無かったし」
結局、神流を誘い損なった竜巻達は、取り敢えず三人だけで、ダマシヤを探す事にした。携帯電話などの必要な物を取りに家に帰り、昼食を終えた後、顕幽駅の西口前にある広場で、午後一時半に集合しようと取り決めた上で、三人はそれぞれの家路につく。
ちなみに、神流が大声で処女宣言を行った事件は、鉄の風紀委員長……鉄姫処女宣言事件として、その後の天津甕高校で語り継がれる伝説となる。そして、二年生の教室前の通路……A棟二階の通路は、「処女通り」と呼ばれる事になった。