03 碇屋神流と土生音音
「昨日自殺した子、見てたらしいよ……ムカシノジブン」
ショートボブの少女が、目の前にいるツーテールの少女に、小声で語りかける。登校して来た生徒達が、次々と通り抜けて行く天津甕高校の校門前、午前八時を十分程過ぎた頃合である。
「え? あの……ミナギヤの屋上から、飛び降りた子? 警察の発表とかでは、そんな話出てなかったけど、誰がそんな事言ってるの?」
ツーテールの少女が、驚いた様に声のトーンを上げながら、問いかける。
「色々と学内の事情に詳しい、新聞部の友達。自殺した子がムカシノジブンを見た時に、親友の子と一緒だったんだって。その子がムカシノジブンの話を、警察とかにしたらしいんだけど、相手にされなかったとか……」
「――まぁ、確かに都市伝説の話なんて、警察がまともに取り合ってはくれないのかも。昔の自分にそっくりな人に出会ったら、自殺しちゃうなんていう都市伝説」
「とうとうウチの高校からも、ムカシノジブン関連で死者が出ちゃったね。新学期早々、怖いな」
不安げに身を竦めながら、ショートボブの少女は話を続ける。
「どうしよう、ムカシノジブンを見ちゃったりしたら?」
「あくまで都市伝説……噂でしかないんだから、そんなに気にしない方がいいと思うよ」
自分に言い聞かせるかの様な口ぶりで、ツーテールの少女は答える。
「でも……もう五十人以上も、ムカシノジブンに出会ったって噂されてる人が、自殺したり事故死したりしてるんだよ。顕幽市だけで、たった数ヶ月の間に」
目線を不安げに泳がせながら、ショートボブの少女は友人に訴える。
「流石に、ちょっとおかしくないかな? きっと何かが起こってるんだよ、私達の街で、私達の知らない何かが……」
二人の間に漂う空気が、張り詰める。二人の感じている不安が、そうさせているのだ。
「仙流、友達と雑談なんかしてないで、ちゃんと仕事しなさい! 風紀委員としての仕事を!」
鋭い叱責の声が、張り詰めた空気を吹き飛ばす。五メートル程離れた所で、風紀委員としての仕事……夏休み明け初日の今日、気が弛んでいるだろう登校して来た生徒達の、服装や髪型が校則の範囲内かどうかを、チェックする仕事をしていた少女の声である。
叱責されたツーテールの少女……碇屋仙流は、叱責の声に身を震わせながらも、不安と緊張感が吹き飛ばされた事に安堵し、返事をする。
「すいません、姉さん! すぐに仕事に戻ります!」
「風紀委員としての活動中は、姉さんと呼ばない! 碇屋先輩もしくは委員長と呼びなさいって、何時も言ってるでしょ!」
再び鋭い叱責の声が、仙流に飛んで来る。
「はい、碇屋先輩! つい……うっかりしてしまいましたッ!」
姿勢を正し、声が飛んで来た方向に向かって一礼すると、仙流は友人であるショートボブの少女と別れ、仕事を再開する。登校して来る生徒達の、服装と頭髪をチェックをする、風紀委員としての仕事を。
白い半袖のシャツやブラウスに、濃紺のズボンにスカートという、夏用制服に身を包んだ生徒達が、校門を通り抜けて行く。その中で、ネクタイを着けていなかった生徒を見かけ、仙流は声をかける。
「全く、あの子は……集中力無いんだから」
仙流を叱責した背の高い少女は、整ってはいるが、地味な顔立ちのアクセントになっている、オーバル型の銀縁眼鏡のフレームを弄りつつ、愚痴る。風紀委員会の委員長である少女は、二の腕に風紀委員である事を示す緑の腕章を、仙流同様に装着している。
長い髪は、後頭部で素っ気無く結われている。いわゆる、ポニーテールという髪型である。
「相変わらず厳しいね、碇屋君は」
微笑を浮かべつつ、縁無し眼鏡をかけた男性教師が、姉の方の碇屋……碇屋神流に話しかける。アースカラーのシャツにチノパンという出で立ちの、長身でスマートな三十前後に見える、昼ドラに出て来そうな感じの優男である。
「流石は鋼鉄の風紀委員長……鉄姫と呼ばれるだけの事はある。妹さん相手にも、容赦無しか」
「閏間先生」
神流は声をかけてきた教師……閏間春永の苗字を、口にする。
「別に、厳しいという程でも無いですよ。生徒達をチェックする立場の私達が、役目も果たさずに友達との噂話に興じている様では、チェックされる側の生徒達に示しがつきませんから、注意しただけの話です」
凛とした口調で、神流は話を続ける。
「今みたいに、他の生徒達をチェックしたり指導したりする場面でなければ、風紀委員が噂話に興じていても、一向に構わない訳ですし」
「噂話ねぇ……通りすがりに耳に入ってしまったんだけど、碇屋君は気にならないのかい? 皆が噂話してる、ムカシノジブンとかいう都市伝説」
「噂話だの都市伝説だの、根拠の無い非現実的な話は信じない性質なので、興味は有りません。それに、先生相手とはいえ、仕事中の雑談は控えたいので、失礼します」
にべも無く言い放つと、軽く頭を下げ、神流は生徒達の服装と頭髪のチェックを、再開する。
「真面目だねぇ、碇屋君は。邪魔して悪かった」
謝罪の言葉を口にすると、春永は踵を返し、校舎に向かって歩き始める。
「真面目で悪いかよ」
ぼそっと……誰にも聞こえない程の小声で、神流は言葉を吐き捨てる。だが、その小声を聞き取った者がいた。
「別に真面目なのは悪く無いけど、カンナちゃんは少し厳し過ぎる時があると、ニャーコは思うのだな」
何時の間にか隣に現れた、馴れ馴れしい口調の女子生徒が、神流に声をかけて来る。登校して来たばかりの、舌足らずで子供っぽい喋り方と不釣合いな、一メートル八十センチに達する長身の少女である。
神流も並の男子生徒より背が高いのだが、そんな神流が小さく見える程に、姿を現した少女は背が高い。その背の高さにも関わらず、しなやかな可愛さを感じさせる、不思議な印象の少女である。
動物に例えるなら、大柄な猫といった感じだろうか。ショートヘアーの合間から飛び出した、黒い二束の癖毛は、まるで猫の耳の様に見える。
「ニャーコ……何時からいたのよ! また気配消して、人の話を盗み聞きしてたのね?」
驚いたのだろう、突然姿を現した一つ年下の幼馴染に、神流は声を上擦らせつつ、問いかける。
「閏間先生と話し始めた頃から」
大柄な身体ではあるが、運動神経抜群で機敏なニャーコこと土生音音は、猫の様に足音を立てず、気配を消して歩く特技があったり、猫耳っぽく見える髪の癖毛具合のせいで、子供の頃からニャーコという、猫の様な徒名で呼ばれているのだ。
ちなみに、大量の猫グッズをコレクションしている程の、大の猫好きである音音にとっては、お気に入りの徒名である。
「カンナちゃんはムカシノジブンの噂、信じてないの?」
溜息を吐き、神流は呆れた様に答える。
「信じる訳無いでしょ、そんな胡散臭い噂話や都市伝説」
「んー、カンナちゃんは嘘を吐いてるのだ。ニャーコには分かるよ」
くんくんと、音音は餌を目の前にした猫の様に、神流の匂いを嗅ぐ素振りを見せる。
「嘘を吐く人からは、甘苦いホオズキの匂いがするのだ。今のカンナちゃんからは、ホオズキの匂いがしまくりなのだな」
「――止めなさいって、その特技を友達相手に使うのは。友達が吐いてる嘘は、見逃してあげるのが、優しさってものなのよ」
神流は顔を顰め、人並み外れた嗅覚を持ち、人が嘘を吐いているかどうかを、ホオズキの匂いがするかどうかで判別出来る特技を持つ音音を、窘める(ちなみに、ホオズキの花言葉は「偽り」)。
「とにかく、今は風紀委員の仕事中だから、ニャーコの話に付き合っている暇は……」
神流が話している途中で、猫の様に気まぐれな音音の興味が、別の対象に移る。
「ん? 何か……懐かしい匂いがする」
確認するかの様に、音音は顔を上げ、大きく鼻から息を吸い込む。強い風に乗って流されて来た空気に仄かに混ざる、深く記憶に刻まれた匂いが、音音の心を捉える。
「やっぱり、この匂いは……西門の方からだっ!」
匂いを確認した音音の目が、嬉しげに煌く。そして、音音は獲物の匂いを嗅ぎ取った猫科の猛獣の様に、校門を通り抜けて、西門に向かって猛然と駆け出す。
神流のいる正門は、天津甕高校の南側にある。音音が向かった西門とは、校庭を挟んで二百メートル程離れた場所にある、もう一つの正式な門なのだ。
「あ、ちょっとニャーコ!」
神流は声をかけつつ、音音の後を追うかどうか少しだけ迷い、止める。自分には正門での風紀委員としての仕事があるし、脚の速い体力バカの音音を追いかけても、追いつく筈が無いと考えたが故である。
ため息を吐いて、肩をすくめてから、神流は風紀委員としての仕事を再開する。