01 ムカシノジブン
「嫌だな……ムカシノジブンでも、出て来そうな感じで」
熟しきった柿の様な色に、夕日が染め上げた住宅街を歩きながら、カチューシャでセミロングの髪を飾っている少女は、不安げに目線を泳がせつつ、話を続ける。
「もう少し、ミナギヤで時間潰してた方が、良かったかも。ねぇ、マユ……一度ミナギヤに戻って、日が沈んでから帰ろうよ」
そう語り掛けられた、マユ……林麻友は、肩甲骨の辺りまで伸ばしている、艶のある黒髪を弄っていた手を止めて、楽しげに笑い出す。
「ミキってば、ムカシノジブンなんて話、信じてるの? それ、すっごく笑えるんだけど!」
傍らを歩く親友に嘲笑された、セミロングのミキ……早瀬美貴は、不満げに言い返す。
「だってマユ、もう五十人以上も変死してるんだよ、夕暮れ時……ムカシノジブンに出会った人達が!」
だが、美貴に反論されても、麻友の認識と態度は改まらない。
「確かに最近、変な死に方する人が多いみたいだけど、ニュースとかでは、殆どが自殺だって報道されてるよ。ミキ……ムカシノジブンなんてのは、ただの都市伝説なんだってば!」
夕暮れの住宅街にしては不自然な程、静かな街並みに響く、麻友の楽しげな声。
「お笑いタレントがネタ話にするレベルの都市伝説を、高二にもなって信じてるなんて! ほんと、ミキってば笑える!」
「――でも、顕幽高校に通ってる友達が言ってたんだよ、先週自殺した顕幽高校の一年生が、死ぬ前にムカシノジブンに会ったらしいって」
真剣な口調で、美貴は話を続ける。
「それで、ムカシノジブンに出会ったら、自殺したくなるんじゃないかって噂が、広まってるらしいの。だから、顕幽高校の生徒達、みんな夕暮れ時には外を出歩かないとか……」
美貴の話を、麻友は笑い飛ばす。
「それ、有り得ないっ! 昔の自分にそっくりな人間が目の前に現れたら、自殺したくなって死んじゃうなんていう都市伝説を信じて、高校生が夕暮れ時に家に引きこもるなんて、有り得ないよ!」
大声で断言する麻友の言葉に、美貴の反応は無い。言葉が返って来ないのを不思議に思い、美貴の方を向いた麻友の目に映ったのは、目を見開き、身を震わせている友人の姿。
「ミキ?」
訝しげに問いかける麻友に、美貴は掠れ気味の声で、返事をする。
「――駄目、前を見ちゃ駄目。そのまま……振り返って、逃げて!」
小学校の頃から付き合いがある親友の、必死の形相での訴えに、麻友は背筋に冷たい戦慄が走るのを感じる。本能が、親友の声と形相が「本気」であると、警鐘を鳴らす。
「前に……いるのよ、昔のマユにそっくりな女の子が。右斜め前の曲がり角から出て来て、こっちに近づいて来るの、ポニーテールにしてた、小学生の頃のマユが……。だから、前を見ないで、逃げて!」
美貴の言動に「本気」を感じ取っていながらも、自分が否定したばかりの都市伝説……ムカシノジブンが、自分の身に起こるなどという現実を、麻友の理性は認められなかった。
「嘘! からかってるんでしょ、ミキってば。あたしがミキの言ってる事を、笑ったからって」
「違うの! 本当に……いるのよ! 早く逃げないと、もうそこまで来てるのに!」
「止めてよ、ミキ。しつこい冗談は、笑えないってば」
冗談の筈、からかっているだけの筈だと思い込もうとする麻友は、最悪の選択肢を選ぶ。美貴の言動が嘘だと確認する為に、前を……向いてしまったのだ。
戦慄と悪寒が、衝撃に変わる。空間ごと自分の身体が、何者かに捻られ、歪めさせられる様な、異様過ぎる感覚。
そして、歪むオレンジ色の景色の中央だけが、歪まずに麻友の視界に捉えられる。現実の光景として、ポニーテールにデニムのミニスカート、小学生当時に流行った、丸々とした猫のキャラクター……ポメニャンのイラストがプリントされた、ピンク色のTシャツという出で立ちの少女が、麻友の目に映ったのだ。
鏡に映った姿や、写真などに映った姿として、良く見知っている姿。生意気そうに、上目遣いの笑みを浮かべる癖があった、小学生時代の自分が、麻友の目の前にいたのである。
麻友は確信する、都市伝説であるムカシノジブン……夕暮れ時、昔の自分にそっくりな人間に出会った人間は、程なく死んでしまうという、初夏を過ぎた頃から、顕幽市で広まりつつある都市伝説に、自分が遭遇してしまった事を。
「死ぬの……あたし?」
そう呟いた麻友の頭の中に湧き上がる、ネガティブなイメージ。ネガティブな思考とイメージの暴走に、麻友の理性が吹き飛ぶ。身を震わせながら頭を抱え込み、その場に力なくへたり込んでしまう。
「マユ!」
親友の身を案じる美貴の声が、耳に届く。顔を上げて美貴の顔を見ようとした麻友の顔を、小学校高学年くらいの麻友と同じ外見の少女が、覗き込む。
ネガティブなイメージが湧き上がる直前、麻友の右腕を掴んだ少女だ。
「――もっと思い出させてあげるよ、色々な……思い出したくないことを」
冷たい……嫌な笑みを浮かべ、抑揚の無い声で呟く少女に、麻友は抱き付かれる。恐怖の余り、身動きが出来ない麻友は、逃げる事など出来ない。
少女に抱き付かれた麻友の頭の中に、更にネガティブな罪の記憶が蘇り、溢れる。不思議と、これまで忘れ去っていた……いや、自分が故意に消し去った筈の、これまでの人生で犯して来た、様々な罪のイメージが、頭の中に溢れ出して来る。
ここで、更に驚くべき事態が起こる。少女の身体が麻友の身体の中に、溶け込み始めたのだ。まるで、麻友の中に小さな頃の麻友が、戻って行くかの様に。
少女の身体が溶け込んで来るにつれて、麻友の心の中で暴走する、罪の意識とネガティブなイメージ。耐えられぬ精神的苦痛から逃れる為の方法として、心の中に浮かんで来る、自殺という名の避け難い誘惑。
混乱する心の状態に耐えられず、麻友は悲痛な叫び声を上げる。熟した果実の様な色に染まる、顕幽市の上に広がる空に、少女の叫び声が響き渡る。
空の半分は街並みと同じ色合いであるが、空の半分は既に夜の闇に侵食されつつある。夕方から夜に切り替わる時間帯……黄昏時は、逢魔時ともいう。
魔物と総称される、人智を超えた存在達の力が増し、人々が魔物の様な不可思議な存在と、逢い易くなる時間帯……。だからこそ、この時間帯は逢魔時と呼ばれているのだ。
麻友の叫び声は、顕幽市の何処かにある建物の、屋上にも届く。夕暮れの中、蠢く二つの人影の内、若い女と思われる方の人影が、抱き合っている、細身の男性の人影の耳元で、囁く。
「今の絶叫、女の子かしら。出会ってしまったみたいね、昔……自分が捨てた自分に」
「そうみたいだな」
特に気にも留めないといった感じで、細身の男は言葉を返す。
「可哀想に、今の子……死ぬわよ」
「だろうね、ムカシノジブンに出会ったのなら、死ぬだろうさ」
「――他人事みたいに言うのね、私達のせいで、死ぬっていうのに」
物憂げに、声が聞こえて来た方向から、目線を男の方に移しながら、女は続ける。
「心が痛んだり、しない訳?」
「痛まないよ、今更……命を奪う人間の数が、何人増えようが。僕が今まで、何人の命を奪って来たと思っている?」
男は女の耳元に唇を寄せ、囁く。
「人を一人殺して抱く感情など、僕にとっては、本で埋め尽くされている書斎に、また本が一冊増えた程度のものでしかないのさ」
そして、男は唇を移動させ、女と唇を合わせる。軽く、触れるように重ねられた唇が離れる。
「悪い人……」
女が吐息の後に、そう言葉を漏らしてから、男は再び女と唇を重ねる。今度は深く、舌を絡ませ合う様な接吻を、二人は交わす。
夕暮れの中、他には人気の無い屋上で、二つの人影が絡み合う。血の色の様に赤い夕日が染め上げる景色の中、抱き合う二人からは、愛よりも強い、罪の香りが漂い過ぎていた。