残害
「あいつ」の話を彼女は毒入りの餌を撒いてる時と同じくらい輝いた笑顔で語った。あいつは同じ学校のクラスメイトらしい。水泳部のくせに絵が上手いそうだ。美術の時間に二人一組で組めと言われ、あぶれていた彼女に「よかったら僕と組んでくれない?」と声を掛けてきたのが最初だったとかつまらない話をたくさん聞かされた。告白したいけど受け入れてくれるかどうかわからなくて恐い。とか。
ちなみに僕があいつのことをあいつと呼ぶのは単純に名前を覚えていないからだ。あいつと言うとなんとなく親しい感じがするがむしろ僕は敵意を込めてあいつをあいつと呼んでいる。彼女はそれにあまり気づいていないみたいだ。あいつのことを語るときだけ彼女の頬が薄赤く染まるのが僕は堪らなく気に食わなかった。
一度あいつの顔を見てみたかったが機会を得ないまま学期末テストが始まってしまった。僕は勉強は普段からコツコツやっているほうだからテスト前に焦る事はあまりない。彼女はそうではないらしく一度廊下ですれ違ったが疲れた目をしていた。
僕は次の日曜はどうするのかメールで訊ねた。勉強があんな状態だし行かないのかと思ったが彼女は「絶対に行く」と譲らなかった。僕は大賛成なのだけど、彼女も僕と同じ高校に行くはずだからもし卒業できなかったら……、なんて一抹の不安を抱かなくもない。
結局彼女は以前と同じように日曜に駅にやってきた。先週の時と同じように浮浪者は待合室を占拠していた。同じように電車に揺られ、バスに揺られる。寝不足なのか彼女はたまに降りて移動する時以外は目を閉じて背もたれに体を倒していた。僕はニンテンドーDSをしていた。彼女の遅刻対策に持ってきたものだ。結構簡単な部類に入るRPGなのにラストダンジョンが異様に面倒臭く、なかなかラスボスまで辿り着けない。ああ、また治療士が石化した。スイッチを切る。
目的のバス停に着いて彼女を起こすと不機嫌そうに瞼を擦ったあと「今日日曜じゃん。もっと寝かしてよ……」と言った。どこからつっこんでいいものか。ぐずってなかなか起きようとしない彼女の手を引いてバスを降り、……ようかとも思ったがそこまで強引な行動に出る勇気がないままバスは出発してしまった。僕としては彼女が隣にいればハッピーな訳だが、一つ過ぎたバス停でようやく目を覚まして、バスから降りた彼女に僕はこっぴどく怒られた。自分が寝ていたのに理不尽だと思う。だけどまあ怒った顔がとてもかわいかったので幸福以外の感情が沸いて来ない辺り、僕ってダメな気がする。歩いて向かうバス停一つ分と少し道のりはなかなか遠かった。
僕が汗を拭いながら少し深く息を吐くと彼女は「君のせいなのに疲れた顔するな……」と目を細めて睨んでくる。「ごめんごめん」と軽く流す。脛を蹴られた。かなり痛かった。
山に着いた時にはすっかり昼を回っていた。彼女は暑いのが苦手なのか涼しい山道に入ると少し歩調があがった。彼女の撒いた餌は多くがそのまま腐っていた。腐臭を発しているか蟻のような昆虫とその死骸の固まりができている。それらを横目に僕たちは奥へ奥へと入っていく。
「あ、あった!」
それを見つけたとき彼女は歓声を上げた。小走りに駆け寄っていく。僕は足が痛かったので走らなかった。彼女はそれの傍にしゃがみこむ。死んでいるのは兎のようだった。毛並みは白く汚れが少ない。どこかで飼われていたものが逃げ出してきたのかもしれない。やや腐敗が進んでいるようで虫も幾らか集っている。構わず彼女は素手で触れた。抱き上げて愛おしそうに撫で上げる。皮膚に包まれていない目玉は特別腐りやすいようで既に蛆のようなものの巣窟になっていた。グロい。
「君も撫でる?」
「いや、いいよ」
「遠慮せずに」
差し出してくる。気の弱い僕には断ることができなかった。前足と脇の間に手を入れて両手で抱く。近づけてみると匂いがひどい。目玉からぽろぽろと落ちる蛆の塊が絶望的に気持ち悪い。生前の面影を残した外側だけはかわいらしいのがまた一層に奇妙で髪の伸びる日本人形のような不気味さを煽る。
……よく見たらかわいいかもしれない、なんていう境地に僕は至りたくはなかった。彼女に返す。彼女は不満そうに受け取る。
「なんでわかってくれないかなぁ……」
いじけていた。「ねー」と兎の死骸に何かの同意を求めている。
しばらく兎と遊んだあと他の動物が死んでいないか確認して回ったが大きな獲物はあれだけのようだった。
「思ったより掛からないんだね」
それでも兎の収穫があったことを彼女はとても喜んでいるように見えた。
陽が沈みかけるまで探索を繰り返して、山を出る前に僕が持ってきたペットボトルの緑茶で腐臭のついた手を洗い流した。持ってきていなかったら帰りのバスをこのままで帰らなければいけないところだった。彼女はその辺りをまったく考えていなかったようだ。頭が悪い訳ではないと思う。ただ欲求に正直なだけだ。
疲れていたのか、疲れたのか彼女はバスの中でずっと眠っていた。駅に着いて起こし電車に乗り込んでからまた眠る。
その横顔を見つめていれば僕はただ幸せだった。他に何もいらないくらいに。偏執的な恋だ。ストーカーのそれに似ている。だけどそのうちに、あと一年かそこらで僕はきっと気づく。そんなものは一時の気の迷いに過ぎない。あとになってからあの頃はバカだったと笑いながら振り返る。
そんな思い出が僕には欲しくなかった。
降りる駅に着く。浮浪者が待合室にいない。けたたましい誰かの悲鳴が聞こえる。
「ねえ。おーい」
鼻を摘んでみた。彼女が頭を振る。それからまた首をしなだれる。
「誰かが死んだみたいだよ」
耳元でそっと呟くと重たそうな瞼を開いて「……見に行こう」と言った。もちろん僕に異論はなかった。
駅員さんが嘔吐している先にあの浮浪者は線路の錆と幾つかの肉片と汁になって横たわっていた。
浮浪者は何が辛かったのだろう?
想像してみる。みんなのゴミを見るような視線。切符を買う程度のお金に余裕はあるのだからホームレスになって日が浅かったのかもしれない。そんなに屈辱だっただろうか。死にたくなるほどに。元々人生なんて妥協と屈辱の塊のように僕は思うけれど。
「きれい……」
彼女が僕の隣で言った。うっとりした目だった。僕はいまにも彼女が線路に飛び降りるのではないかと不安になった。電車が止まっているのだから危険はほとんどないのだけど。復活した駅員さんに追い払われて僕らは駅を出る。
そのあと彼女はずっと無言だった。信号を越えてマンションに突き当たり僕は「駐車場を突っ切ったほうが早いよ」と言い彼女はそれに従った。
「いま何時?」
何気なく彼女が尋ねる。僕は携帯電話で時間を見る。
「七時三十一分」
「嘘? あー、門限過ぎちゃってる……」
目に見えて気分を落とす。とりあえず家の前まで彼女を送り、僕は帰ることにした。
あとで聞いた話によると彼女はそれから一晩を外で過ごしたそうだ。
僕は「夏場でよかったね」と言った。殴られた。




