偏食
トウキの目は朝から充血していた。荒い息を吐いて、寝床から体を起こそうとしない。私がゆさぶっても目を細めるだけだった。細い体には熱が篭っているのに手足は異様に冷たい。薬がいる。私は父母がいろんなものを床下の収納庫に隠すことを知っていた。そこの扉はまだ重くて私には開けられないからだ。きっと薬もそこにある。
二人が仕事に行っているうちに私は収納庫の扉を開けようとしてみた。けれど私の力ではどうやっても開くことはなかった。少し考えて私は包丁を差し込んで柄の部分を思い切り押し込めば開くのではないかと思いついた。テコの原理とかいうやつだと前に父母が見ているテレビでやっていた。私は包丁を持ち出して、地下の扉に差し込もうとした。
丁度、ドアの開く音がした。何かを呟きながらお母さんが部屋に入ってくる。私は咄嗟に包丁を持ったまま押入れの中に逃げた。収納子の扉に触っているのを見つかればお父さんとお母さんはすごく怒る。
お父さんとお母さんは仲がいい。以前はそれほどでもなかった。仲が良くなったのはトウキのことを蹴り始めてからだ。トウキはそれをキョーツーの敵を持っているからだ、と言っていた。「敵ってなあに?」私が聞くと「僕のことだよ」と笑っていた。私にはその意味は難しくてよくわからなかった。押入れに戻る。トウキが荒い呼吸を続けていて私は耳を塞ぎたくなる。私は包丁を置いて、トウキの頬に触れる。トウキが微笑む。それはきっと私を安心させるために無理をしていて、私は却って不安になる。
不意にがらりと押入れが開いた。お母さんが襖を開けた。お母さんはとても怒った顔をしていた。私が置いた包丁を見つけてトウキの頭を思いきり蹴りつけた。獣みたいな吼え声で要領を得なかったけど多分「そんなものを持ち出してどうするつもりだったんだ」と言った。違う。それを持ち出したのはトウキではなくて私なのだ。怒るんなら私を怒って欲しい。
伝えようとしたけれど言葉にならなくて、トウキは数度蹴られて鼻血を出していた。お母さんは更にトウキを踏みつけようとしている。私はお母さんの足にしがみついた。どうすればいいのかわからなかった。急に足を掴まれたお母さんがつんのめってバランスを崩す。柱に頭を打ち付けてよろめく。トウキが立ち上がった。ひどく尖った目をしていた。熱と空腹で朦朧とした意識の中で、大きく口を開けて、お母さんの首筋に噛み付いた。ぶちりと太い何かが切れる音がした。赤黒い何かが床に落ちた。最初私はそれをトウキの鼻血だと思った。だけど違った。
鼻血にしては随分量が多かった。ごとんとお母さんの頭が床の上に落ちた。お母さんには喉の肉がなかった。トウキが何かを噛んでいた。にちゃにちゃと嫌な音がする。ごくんと唾と一緒に口の中のモノを飲み込んで「美味しい」と言った。トウキの目から涙の粒が頬を伝った。それは泣くほど美味しかったみただった。トウキは大きく口を開いて、お母さんの首筋の大きな傷口に口をつけた。じゅるるるるる。ぐちゃぐちゃぐちゃ。トウキは夢中になってそれを食べていた。お母さんは口から泡を噴いている。蟹みたいだ、と私は思った。思い出したかのようにトウキは立ち上がり、包丁をとった。お母さんの胸に思い切り突き立てた。浅かったので踵で踏みつけて、それはようやく深くまで刺さった。満足して、もう一度首筋の傷に口をつけた。
それから一通りお母さんを食べつくしてトウキは体を起こした。右手の甲で自分の口を拭う。けれど手の甲にも赤い色がついただけだった。トウキは洗面台で入念に自分の口の周りと手を洗う。だけど赤いのはなかなか落ちない。
「フユミ、一緒にこの家を出よう。いまなら鍵も開いてる」
いつもは厳重に内側からも鍵を掛けるお母さんが、入ってきてすぐにトウキに怒ったから鍵を掛け忘れている。
私はトウキとお母さん、それから玄関の扉を交互にみた。
蟹になったお母さん、口元が真っ赤なトウキ、外の世界。
私にはどれも恐かった。そしてその中でも一番恐かったのは、他ならないトウキだった。私はそのことに戸惑った。手を伸ばしたトウキから後ずさった。トウキが小さく息を吸い込む。口元が歪む。
「そっか、フユミはそうするんだね」
目を伏せたトウキは何も言わず玄関の扉を開けて独りで出て行った。トウキがいなくなったらどうすればいいんだろう。代わりに私が蹴られるのだろうか。私はそれに耐えられるのだろうか。蟹になったお母さんと私が狭い部屋の中に取り残される。私はいつものように夕飯の支度をすることにした。少なくともそれが出来ていないと怒られるのは間違いないはずだから。
夜になってお父さんが帰ってきた。




