真実の母
二月二十日の朝〈シズク〉が波音号に接舷した。
漂泊団のネットワーク経由でミヤがカグラに連絡を入れたのは三日前だ。「会いに行きたい」とだけ伝えた。カグラからは「待っている」とだけ返ってきた。
波音号は南太平洋の特定の海域にいる。沈黙海域の境界からは離れている。波音号は来週には北東に向かう航路を続ける予定だった。ミヤが訪れる時間をカグラは保留していた。
ミヤは舫いを縛ってから波音号の甲板に上がる。レイは〈シズク〉に残った。今日のミヤとカグラの時間は二人だけの時間だ。レイもそれを理解している。
波音号の甲板の様子は前回とほぼ同じだ。漂泊団の若手が朝の作業をしている。マストの旗が二月の風に揺れている。塩の匂いと焼いた魚の匂い、漂泊団の朝の空気がそこにある。
カグラは甲板の中央に立っていた。革帯で覆った左目はそのままで右目だけがミヤを捉える。前回ミヤが訪れた十一月の時よりもカグラは少しだけ痩せて見える。
「来たな」
カグラは短く言う。
「行く前か」
「はい」
ミヤは短く答える。
カグラは何も訊かない。「どこへ」も「いつ戻る」も訊かない。カグラはミヤの「行く」が何を意味するかを察している。
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カグラは甲板の脇の階段を下りる。ミヤは続く。
船室の中はカグラの船室だ。前回ミヤが入った時と同じ配置の机と椅子がある。机の上に革表紙の本が置かれていた。前回はなかった本だ。
革表紙の色は深い茶色で縁が摩耗している。背に金属の留め金がついている。表紙には何も書かれていない。しかしミヤは一目で何の本かを察した。
「海星座号の航海日誌だ」
カグラは机の脇に座る。
ミヤも机を挟んで座る。
「お父さんが船長として記録したノート、お母さんが医療担当として記録したノート、二冊が一冊に綴じてある。あの時海星座号から私が引き上げたものの中に入っていた」
カグラは続ける。
「私はこれを十年保管した。お前に渡す時を待っていた。今日がその時だ」
ミヤは航海日誌に手を伸ばす。指先が革表紙に触れる。冷たい。十年の時間が革の中で固まっている。
ミヤは留め金を外す。表紙を開く。
最初のページは父の筆跡だ。漂泊団系の角張った字で航海の日付と海域が記録されている。海星座号が出航してから十年前のあの日まで父は毎日記録を続けていた。
ミヤはページを最後まで送る。
最後のページの直前で父の筆跡が途切れる。事故の前日の記録だ。「沈黙海域の境界に近づく。父の世代の観測の続きを確かめる」とだけ書かれている。
そしてその後に白紙のページが続く。
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ミヤは航海日誌の中ほどに視線を戻す。
途中から筆跡が変わる。母の筆跡だ。父の角張った字とは違い、丸みを帯びた字だ。医療担当としての記録が始まる。船員の健康状態、薬の在庫、応急処置の手順が几帳面に並ぶ。
ミヤは母の筆跡を一文字ずつ追う。十年間ほとんど忘れていた母の手の跡が今、ミヤの目の前にある。文字の形にミヤは少しずつ母の手を思い出す。ミヤを書いた時の母の指の動きペンを握る角度、紙との距離が文字の中に潜んでいる。
母の医療記録の中ほどにミヤの名前が出てくる。
「娘ミヤ、十八歳。健康良好。観測員見習いとして船首部に勤務」
そのページの余白に母の筆跡で別の言葉が書かれていた。記録ではない、独白に近い言葉だ。
「ミヤが生まれた日を私は思い出す。私は娘に観測者の名前を与えた。観察するという動詞のミヤ。娘が生まれる前から私はその名前を選んでいた。娘も観測者になるとは限らない。それでも私はその名前を娘に与えた。期待ではなく、贈与として」
ミヤは息を呑む。
母の筆跡が続く。
「もし娘がいつか、何かを観なければならない場面に立つことになれば、その時の娘に伝えたい言葉をここに記しておく」
ミヤはページを指で押さえる。
母の言葉が十年経って、今、ミヤに届いた。
「自由に、観なさい」
母の筆跡でその一行が書かれていた。
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ミヤはページから視線を上げない。
母の声を直接聞いたことはミヤの中にはない。十年前の事故の前からミヤの記憶の中の母の声は曖昧だった。母の顔も母の手も断片しか残っていない。母の言葉もほとんどミヤの中に残っていなかった。
しかし母の筆跡は今、ミヤの目の前にある。
「自由に、観なさい」
ミヤは声に出して読まない。指でその一行をなぞる。革表紙のページの上に薄くなったインクの文字がある。母の手が動いた跡がそこに残っている。
「お母さんは観測者だったのか」
ミヤはカグラに訊く。
カグラは頷く。
「お前のお母さんは、医療担当の名目で乗船していた」
カグラは続ける。
「しかし実際は観測員でもあった。お父さんとお母さんは観測員の対だ。漂泊団系の伝統的な対の組み方だ」
ミヤは航海日誌を見続ける。
父と母が観測員の対だったということをミヤは今日初めて知る。観測する者として母も生きていた。母の名付けの理由がそこにある。
「お母さんは、私が観測者になることを知っていたのか」
ミヤは訊く。
「知らない。期待はしていた、と思う。お母さんはお前を観測者の素質で見たわけではない。お前を娘として愛していた。観測者になるかどうかは、お前の選択だと言っていた」
カグラの右目はミヤを見続ける。
「お母さんはお前の選択を信じていた。だから『自由に、観なさい』と書いた。お前が観測者になるなら自由に観なさい。観測者にならないなら、別の形で何かを観なさい。どちらでもお母さんはお前を支持していた」
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ミヤは航海日誌を閉じる。
革表紙を撫でる。母の指の跡がまだ残っているような気がする。
母の遺言はミヤが今深淵核に向かおうとしている瞬間に届いた。十年前、母は死ぬ前にこの言葉を残している。十年後の娘が装置の前に立つ瞬間を母は予測しなかった。それでも母は娘の選択を信じてこの言葉を残した。
「自由に、観なさい」
ミヤは小さく繰り返す。
これは命令ではない。期待でもない。許可だ。母がミヤに与えた、観測者としての完全な許可だ。何を観るかをミヤ自身が決めて良いという、母の最後の贈与だ。
ミヤは航海日誌を胸に抱く。革表紙の厚みが胸に伝わる。父と母の十年の記録が今、ミヤの腕の中にある。
ミヤは目を閉じる。母の声を聴こうとする。十年前に喪われた声はもうミヤの中にはない。それでも母の言葉の意味は文字を通じてミヤの中に届いている。声の代わりに文字の中の意志がミヤを支えている。
カグラは机の脇で動かない。十年間ミヤに渡す時を待っていたものがようやく渡された。カグラの役割は今、完了している。
「行ってこい、ミヤ」
カグラは静かに言う。
カグラの右目がミヤを見ている。前回ミヤが訪れた時の右目より今日の右目は深い。十年間ミヤを支え続けた者の最後の言葉がその右目から発せられている。
ミヤは航海日誌を抱いたまま立ち上がる。
カグラに頭を下げる。深く下げる。漂泊団の年長者への正式な挨拶だ。
カグラは立ち上がらない。座ったままミヤの礼を受ける。
ミヤは船室を出る。
甲板に上がる。〈シズク〉に戻る。レイが甲板から待っていた。ミヤが航海日誌を抱いているのを見てレイは何も訊かない。
二人は〈シズク〉を波音号から離す。
波音号の甲板の中央でカグラが立っている。両手を胸の前で組んでいる。漂泊団の見送りの姿勢だ。
ミヤは〈シズク〉の操舵桿を握りながら波音号を最後にもう一度見る。波音号の輪郭が二月の海の上で小さくなっていく。やがてマストの旗だけが見えるようになり、それも水平線の向こうに消える。
ミヤは航海日誌を船室の机に置く。机の上には他の六つの資料があった。航海日誌で七つになる。父の声、母の声、フユの声、シナの声、カゲの声、ハヤの声、シリンの声、そして母の最後の言葉がすべて机の上に集まっている。
「行ってこい、ミヤ」
カグラの声がもう一度ミヤの中で響く。




