老女
十一月五日の昼〈シズク〉が無人小島に接岸した。
島は太平洋中央にある。地図には載っていない。シリン経由でレイに届いた紙片に緯度と経度だけが書かれていた。〈シズク〉でその座標へ向かうと地図にない島が現れた。
ミヤは舵を握ったまま、島の輪郭を確認する。
南北二百メートルほどの楕円形だ。岩肌が露出している。木はほとんど生えていない。痩せた草が岩の合間にわずかに見える。中央に小さな建物が一つ、それも岩と同じ色をしているため、近づかなければ気づかない。
ミヤは〈シズク〉を岩の桟橋に係留する。
桟橋は人工物ではない。岩がたまたま船を係留しやすい形に削れた、自然の桟橋だ。フユがこの島を選んだ理由が分かる気がする。地図にない上、桟橋らしい桟橋もない。誰も簡単には来られない場所だ。
ミヤとレイが上陸する。
岩の上を歩く。岩は固く、靴底に正確に伝わる。〈シズク〉の甲板の木の感触とは違う。陸地の硬さだ。
潮風が顔に当たる。
太平洋中央の十一月の風は冷たい。塩を多く含んでいる。ミヤは観測員として、太平洋の各海域の風の質を識別できる。この海域の風はミヤがあまり来ない種類だ。中央太平洋の特有の塩分濃度を持っている。
島は徒歩で一周できそうな大きさだ。
ミヤは中央の建物の方へ歩く。建物は小屋だ。木造ではなく、岩を組んで作られている。屋根だけが薄い金属板で覆われている。フユが自分で建てた、または別の誰かが建てた古い小屋をフユが使っている。
小屋は静かだ。
しかし、ミヤの能力が小屋の中に誰かがいることを伝える。シエラ・ディープで覚醒した「視る」能力が機器に触れなくても人の気配を捉えはじめている。今日感じるのは小屋の中に一人、長く動いていない人物の気配だ。
その人物は小屋の中ではない。
ミヤは島の北側へ視線を移す。
水際に一人の女が立っていた。
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レイはミヤより数歩後ろを歩いている。
岩の上を布で巻いた靴底で進む。台風の夜から十一日経った。レイの呼吸は通常に戻っている。共鳴感知も抑制を効かせた状態に戻っている。
しかし今日レイはまた抑制を少しだけ解く必要がある。
島の中にひとり、強い気配がある。
レイの共鳴感知はその気配の質を読み取る。レイがこれまでに感応した誰の気配とも違う。生きている人物だ。しかし、その人物の中には長い時間の蓄積がある。何十年もの。
レイは抑制を少しだけ解く。
気配がはっきりする。
女だ。年齢は推測できないが長く生きてきた人物だ。共鳴者の気配と似ているがレイ自身の気配ともミヤの気配とも違う。三人目の共鳴者がこの島にいる。
ミヤが島の北側を見ている。
レイもそちらに視線を向ける。
水際に女が立っている。
距離は五十メートルほど。女は二人の方に背を向けている。海を見ている。風で白い髪が後ろに流れている。痩せた背中に灰色の質素な服が掛かっている。
レイは抑制を戻す。
これ以上強く感応すれば、女に気づかれる。今はまだ近づくだけにする。
ミヤとレイは岩の上を歩く。女に近づく。
女は振り返らない。
レイの感覚では女は二人が島に上陸した瞬間から二人の存在を知っていた。しかし、女は自分から声をかけない。自分が見られる側ではなく、見る側として立っている。
ミヤとレイは女から十メートルほど手前で立ち止まる。
これ以上近づけば、無断で踏み込むことになる。シリンが場所を伝えたとはいえ、女自身が二人を招いたわけではない。二人は待つ。
女がゆっくり振り返る。
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女の顔をミヤは初めて見る。
痩せた顔と白い髪と青ざめた肌が夕方近い光に浮かぶ。年齢は六十代に見える。しかし、目は六十代の目ではない。もっと深い。長い疲労とそれを通り抜けた後の透明さがある。
女は何も言わない。
ただミヤとレイを見ている。
ミヤは観測員の習慣で女の細部を観察する。手は皺が深い。指は曲がっている。八十歳以上の手だ。しかし顔は六十代に見える。手と顔の年齢差が二十年近くある。
ミヤはそれを推測として頭に置く。共鳴の代償か、別の理由か、現時点では判断できない。
女がゆっくり口を開く。
「同じだ」
短く、それだけ言う。
ミヤは応答に迷う。
女が何を「同じ」と言っているのか、ミヤには分からない。自分とレイのことを「同じ」と言っているのかもしれない。または過去の誰かと「同じ」と言っているのかもしれない。
レイがミヤの隣でわずかに動く。レイの共鳴感知が女の言葉の意味を聴き取った、という動きだ。しかしレイは口にしない。
女がもう少し言葉を続ける。
「お前は観測する女お前は聴く男」
ミヤとレイをそれぞれ指して、女は静かに告げる。
ミヤはようやく分かる。女は二人の能力を知っている。タチバナがそうだったように見ただけで分かる人物がここにもいる。
「私は見てきた何度も」
女は続ける。
「お前たちと同じ二人を」
女の言葉は短い。しかし重みがある。「何度も」という言葉がミヤの中で意味を広げる。女は過去に複数回、ミヤとレイのような二人を見てきた。それは自分たちが最初ではない、ということだ。
「フユ」
ミヤがようやく女の名前を呼ぶ。
シリンの紙片に「フユ」とだけ書かれていた。それがこの女の名前のはずだ。
フユは小さく頷く。
しかしフユはそれ以上、自分の名を確認する言葉を発さない。
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レイは黙ったままフユを見ている。
フユの共鳴感知の気配がレイの中に流れ込んでくる。レイは抑制を強めに効かせている。しかしそれでもフユの中の何かがわずかに伝わる。
長い孤独だ。
七十年か、もっと長いあるいはそれ以上の孤独だ。フユは長く独りで生きてきた。誰にも語らずにある現象を見続けてきた。
そして、希望と諦めが共存している。
レイの共鳴感知がフユの中で見つけたのは二つの感情の混在だ。希望は薄いしかし消えていない。諦めは深いが決定的ではない。フユは何十年もその二つの間で揺れてきた。
そして今、フユは二人を見てもう一度希望が浮かびそうになっている。
しかし同時に諦めも強くなっている。
レイにはその構造が分かる。フユは過去に複数回、自分と同じような二人を見てきた。その二人たちは結局、消えた。だからフユは諦めている。しかし、ミヤとレイを見てもう一度希望が動きそうになっている。
レイは抑制を少しだけ深くする。
これ以上聴くとフユの感情に踏み込みすぎる。フユが自分から語る前にレイがそれを聴いてしまえばフユとの関係は最初から壊れる。
レイはフユから視線を逸らさない。しかし、共鳴感知の方は抑える。
フユがレイの方をまっすぐに見る。
「お前は聴いているな」
フユが静かに言う。
レイはわずかに頷く。
「抑えているな」
フユが続ける。
「分かる。私もそうしていた」
フユは自分の左の手を右の手で軽く包む。それは共鳴感知を抑える時の身体動作らしい。フユにも同じ癖がある。
レイは口を開かない。
しかし、フユが「私も」と言ったことがレイの中で確認される。フユも聴く側だったのかもしれない。または観測する側でしかし聴く側の人物と共に生きていたのかもしれない。
フユは二人にもう少し近づく。
「お前たちも消えるのか」
フユが訊く。
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ミヤは即座には答えない。
レイも答えない。
フユの問いは答えを求めていない。フユ自身、答えを知らない。過去に何度も似た二人を見てきて、彼らがどう消えたかをフユは知っている。しかしミヤとレイがどう消えるか、まだ分からない。
問いはフユの祈りに近い。
「消えるな」と願う祈りを「消えるのか」という疑問形で投げかけている。
レイはそれを共鳴感知で読み取る。
しかし、口に出さない。フユの祈りを言葉にすればフユ自身が崩れる。レイは聴いた、しかし聴いたことを返さない。それがフユへの礼儀だ。
フユは答えを待たない。
レイの顔をまっすぐに見てそれから視線を逸らす。海の方を見る。フユの目に映る海はフユが何十年も見てきた海だ。ミヤとレイにとっての海とは違う海かもしれない。
「今日はここまでだ」
フユが静かに言う。
「明日また来なさい」
フユは小屋の方へ歩き始める。
ミヤがフユに何かを訊こうとする気配を見せる。レイの共鳴感知がミヤの口が動こうとするのを察知する。
しかしフユが手で止める。
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フユがミヤに手をかざして、口を止める。
「待て」
フユは小さく言う。
「…まだ語る時ではない」
フユの目は深い。長く生きてきた者の目だ。ミヤは観測員としてその目に逆らえない。タチバナの目とは違う種類の深さだ。タチバナは知識の深さ、フユは経験の深さを持っている。
ミヤは口を閉じる。
フユは満足したようにわずかに頷く。
「今日はお前たちを見るだけだ」
フユは続ける。
「明日私が語る」
フユはそれだけ言って、二人に背を向ける。
灰色の質素な服の背中が岩の上を小屋の方へ歩いていく。痩せた背中だ。しかし足取りは確かだ。長く歩いてきた人物の歩き方だ。
ミヤとレイは島に残る。
小屋の扉が閉まる。フユは中に入った。
ミヤは岩の上に座る。レイも隣に座る。
夕方の光が島の岩を金色に染めはじめている。〈シズク〉は桟橋に係留されている。今夜は島の岸辺で過ごすことになる。フユが招き入れなかった以上、二人は外で待つしかない。
ミヤは観測員としてフユの言葉を頭の中で並べる。
「同じだ」
「私は見てきた何度も」
「お前たちも消えるのか」
「待て。…まだ、語る時、ではない」
四つの短い言葉がミヤの中で一つの構造を作りはじめる。フユは過去の継承者で何度も自分たちのような二人を見てきてそしてまだミヤたちには語らない。
レイがミヤの方を見ない。海の方を見ている。
ミヤもレイの方を見ない。
二人は並んでフユが入った小屋の方をたまに見ながら明日を待つ。
夕日が水平線に近づきはじめている。
「待て。…まだ、語る時、ではない」
フユの言葉がミヤの中で繰り返される。フユは二人に背を向けた。




