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第3話:【瞬間ー履歴書(レジュメ)重ねてー】

ルイーダの酒場の二階、微かにエールの香りが漂う自室で、縁子は一人、使い慣れた魔法のペンを弄んでいた。窓の外には異世界の月が二つ、冷ややかな光を投げかけている。  先ほどぴろゆきに問われた言葉が、澱のように胸の底に溜まっていた。 「あなた、一体何者なんすか?」


 彼女がかつていた世界。そこは、剣も魔法もない代わりに、数字と論理という名の、より残酷な武器が支配する戦場だった。


 縁子が「合理的市場主義」という宗教を信奉するようになったのは、自らの生い立ちに端を発する。  彼女の実家は、地方で三代続いた小さな町工場だった。職人気質の父は、「良いものを作れば、客は必ずついてくる」という古い美学に生きていた。しかし、縁子が十歳の冬、その美学は無慈悲な「市場」によって粉砕される。


 主要取引先だった大企業が、コスト削減を理由に海外の安い部品へと切り替えた。父が心血を注いだ製品は、性能で勝りながらも、わずか数円の価格差によって「不要」の烙印を押された。  父の仕事仲間だった職人たちは、次々と去っていった。借金取りの罵声、母の啜り泣き、そして何より、あれほど誇り高かった父が、最後には取引先の若造に土下座をしてまでも仕事を乞う姿。


 その時、幼い縁子の心に刻まれたのは、正義や美学の無力さだった。 (お父さんは、間違っていた。感情なんて何の価値もない。この世界で生き残るには、誰よりも早く世界のルールを理解し、自分を市場の頂点に置くしかないんだ)


 それからの彼女は、自らを精密機械へと作り替えた。  大学では統計学と行動経済学を修め、卒業後は都心の高層ビルに本社を構える大手人材紹介会社へ入社した。彼女の履歴書には、輝かしい成約実績と、何百もの人生をデータに基づいて「最適化」してきた自負が刻まれていった。


 三年前。縁子はトップエージェントとして、ある大規模な「案件」を任される。  経営不振に陥った中堅IT企業のリストラを伴う再編計画。縁子はコンサルタントとして、その会社の「不要なパーツ」を切り分け、再就職先という名の廃棄場所へ送り出す役割を担った。


 そこで出会ったのが、一人の老プログラマーだった。  彼は最新の技術には疎かったが、システムの根幹を守る泥臭い作業を四半世紀も続けてきた、その会社の良心のような人物だった。かつての父と同じ、不器用な職人。  だが、縁子の目は曇らなかった。彼女は冷徹なデータに基づき、彼に能力不足による勧奨退職を突きつけた。


「君の言う通りかもしれないな。私はもう、この時代の速度にはついていけない」  老人は力なく笑い、縁子が用意した退職合意書にサインした。  縁子が彼に斡旋したのは、データ上、彼の年齢と市場価値で導き出せる最適解――過酷な労働環境で知られる物流倉庫の深夜勤務だった。


 数ヶ月後。その老人が、勤務中の事故で帰らぬ人となったことをニュースで知った。  深夜の豪雨。疲れ果てた体で、彼は自分の価値を証明しようと無理な作業を続けていたのだという。


 その直後だった。縁子が心血を注いで再編したはずのIT企業は、彼女が非効率として切り捨てた古参社員たちが持っていたノウハウを失い、システムトラブルを連発して倒産した。  跡地を買収したのは、縁子の会社の親会社である投資ファンドだった。


 全ては最初から仕組まれていた。  縁子が論理的と信じて進めた人員整理も、老人の死も、蓄積された文化の破壊も。それは巨大な資本を持つ権力者が、その土地と利権を安く買い叩くための掃除に過ぎなかった。


「私は……何を最適化していたの?」


 オフィスビルの屋上で、降りしきる雨に打たれながら、縁子は自分の手のひらを見つめた。  そこにあるのは、誰かの人生を数値化し、切り刻み、ゴミ箱へと放り込んできた人殺しの手だった。  どれだけ数字を積み上げても、頂点に立つ者の強欲という不合理な一撃で、個人の尊厳も生活も、一瞬で更地にされる。


 その絶望の果てに、彼女の意識は途切れた。  過労による心不全。それが、彼女がかつての世界に残した最後のデータだった。


 魔法のペンを置き、縁子は夜空を見上げる。  あの老人が死の直前に見た雨の夜と、この静かな異世界の夜は、どこか似ていた。


 今の彼女を動かしているのは、純粋な正義感ではない。もっと暗く、粘り強い復讐心に近い。  不合理な力で誰かの価値が踏みにじられる、この世界の構造そのものへの、逆襲。  

「私はもう、誰も使い捨てにさせない」


 たとえ、そのために自分がこの世界の裏側に潜む最悪の支配者になったとしても。

 縁子の履歴書には、もう誰にも見えない血痕と、それ以上に深い覚悟が、消えないインクで刻まれていた。

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