第1話「椎名の脱退」
スタジオの空気は乾いている。さっき湿度計を見た時は30%ぐらいだった。月白はギターボーカルのくせにこんな乾燥した空気で大丈夫なのだろうか?
月白の方を見ると、ギブソン・レスポールを膝の上に置いて、ペットボトルの水を一口飲む。ボトルを置くと、再びマホガニーのネックを握り直した。
「もう一回、最初から始めてみよう」
「おう」
俺は、中古で買っていまだに愛用してる傷だらけのプレベの四弦を軽く弾いて音程を確認する。椎名がハイハットの上でスティックで「1、2、3、4」とカウントを刻む。
結成10年目、高校の時のコピーバンドから始まった俺たちのスリーピースバンド「スピーシーズ」は、月白のルックスと時代の流行りに乗り、あれよあれよとライブハウスの中堅バンドに上り詰めた。
思い返してみると、高校の時に一つ上の先輩の椎名から俺と月白が勧誘されて始めたバンド活動だったが、今では300人ぐらいのハコでの対バン出演を出来るぐらいには成長している。
メジャーデビューはまだまだこれからだけど、最近は事務所の人に認めてもらえた。これから何度か大きなライブに参加したら、いずれはスピーシーズもフェスに参加できるかもなというのは、飲み会のいつもの話題だった。
椎名はスネアとタムにミュートパッドを付けて、音が出ないようにリズムの練習をしている。生活を確保するためのハードワークな土木作業員の仕事をやりつつも、椎名はいつもバンドの練習には参加してくれる。
月白はギターのボリュームを落とす。アンプからノイズが消えた。そして手をパンパンと叩いた。
「おう、あつまれよ」
椎名と俺は各自のベースとドラムスの音を止めて、少し顔を見合わせて、立ち上がった。
「どした?」
「……」
月白は集まった俺と椎名の顔を見渡して、少し眉間に皺を寄せて話し始める。
「今度の対バンなんだけどさ、外部のメンバー入れる」
俺は月白の顔を見た。今までも女性ボーカルなどのメンバーを入れたこともあったし、今回もその延長線上だろう。しかし、月白の表情は真剣に何かを考えているようだった。
そして、月白は何かを悩んだ末に言葉を発した。
「そして……これは椎名とは前から話してたことなんだが……椎名はスピーシーズを抜けることになった」
「……は?」
間抜けな声が出てしまう。全然聞いてない。
「なんでだよ!? 俺は初耳だぞ!?」
二人とも何も答えない。隣のブースからは別のバンドのツインペダルの連打の音が壁越しに聞こえる。
椎名は真剣な表情で一歩歩み出る。
「コバには言ってなかったけどさ、俺の彼女、妊娠しちゃったんだよ。これまで以上に働かないと食わせてやれないし、バンドなんかやってる暇がなくなった」
椎名の表情には悔しさとも情けなさともつかないような色が浮かんでいる。
「だからさ、俺は抜ける。あとはお前たち二人で……」
思わず俺は大声を出した。
「ふざけんな!! なんでそんな大事なこと二人だけで決めてんだよ!! 折角、前のライブの時に事務所の人にも認めてもらえただろ!? これからって時に椎名が抜けたら誰入れてもまとまるはずないだろ!!」
「……すまん」
椎名は深く頭を下げる。俺はそんな椎名の前に立ち、胸ぐらを掴んだ。月白はそんな二人の間に割ってはいる。
「やめろコバ、これは椎名の人生のことだろ? お前が誰よりもスピーシーズのことを考えているのはわかるが、椎名の幸せのためにも見送ってやろうぜ」
俺は真剣な月白の表情を見て、椎名を突き飛ばす。そしてそのままの勢いでスタジオのドアを蹴倒す勢いで開けて、外に出た。
繁華街の空気は生ぬるく、夏場の熱帯夜の空気をはらんでいた。
そんな街をなすすべもなく俺は人混みを歩く。
舌打ちをして、近くの自販機の前に立つ。持っていたスマホを使い、缶コーヒーを買った。
雑居ビルの階段には誰もいなかったので座り込んだ。怒りを通り越して沈み込んできた。
缶コーヒーのプルタブを引く。コーヒーはどこまでも甘ったるかった。
どうしてこうなったんだろうな? 俺たちの夢というのはこんなものだったのか?
いつまでも夢を見る時期は終わったのだろう。ただ、長く続いていく甘さの余韻が、俺たちの過去のように残っていた。




