なぜ「家の外で見るゴキブリ」はさほど怖くないのに「家の中で見るゴキブリ」は怖いんだろう?
昼下がりのオフィス――
俺はいつものようにデスクワークをしていた。単調で、眠くなる仕事だ。俺にはもっと相応しい仕事があるんじゃ……なんて、大それたことまで考える。
すると、そんな眠気を消し飛ばすような悲鳴が起こる。
「きゃああああああああっ!!!」
同僚の女子社員の声だ。
「どうしたの?」と俺は声をかける。
「ゴキ……ゴキブリが出たんです!」
彼女が指差す方向を見ると、成虫のゴキブリが床を徘徊していた。
だいぶ古いビルだし、ゴキブリぐらい出るだろう。
こんなことで叫ぶなよ、と口に出したくなるのを我慢する。
俺は席を立ち、ゴキブリに近づいていく。
ゴキブリも人間の気配を感じ取ったのか、俺から逃げるようにカサカサと移動していく。
やがて、書類棚の後ろに入り込んでしまったので、俺は「もう出てくるなよ」という脅しを込めて床を靴で踏み鳴らした。
ゴキブリを追っ払った俺に、女子社員はこう言ってきた。
「ゴキブリが怖くないんですか?」
「別に刺してくるわけじゃないし、何も怖くないよ。同じ虫ならスズメバチなんかのがよっぽど怖い。ああそうそう、人間を一番殺してる動物って蚊らしいよ」
せっかくなのでネット受け売りの知識を披露する。
なんてことはない午後の一幕であった。
***
ある日の夜、俺は自宅にいた。
仕事から帰って、Tシャツジャージ姿でビールを飲みつつ、バラエティ番組を垂れ流す。
ある意味一番幸せといえるひと時かもしれない。
そんな幸福をぶち壊す出来事が起こる。
俺の視界の端に黒い影が映った。間違いない、ゴキブリだ。
「どぅあっ!?」
思わず、自分でも「俺はこんな声が出せるのか」と言いたくなる悲鳴が出た。
慌てて何か奴を叩ける道具はないかと探すが、こういう時に限って何もない。ぐずぐずしてると奴が逃げてしまうが、さすがに素手はキツイ。
ようやくもう読まないであろう雑誌を見つけ、それを丸めて武器にするが、ゴキブリはいなくなっていた。
取り逃がした――最悪の事態になった。
「どこいった!?」
俺のゴキブリ捜索が始まった。
家具をどかし、布団を蹴飛ばし、カーペットをひっくり返し――血眼になって探すも、ゴキブリは影も形もない。
「どこだ……どこいきやがったぁ!?」
脂汗まみれで叫ぶ俺。
バラエティ番組から笑い声が響いてきたが、俺はとても笑える心境ではなくなっていた。
その足でドラッグストアに駆け込み、いつまた奴が出てきてもいいようにスプレーの殺虫剤と、設置タイプの駆除剤を購入したのはいうまでもない。
しかし、ここでふと思う。
会社で見たゴキブリはそこまで怖くなかったのに、なぜ家の中で見たゴキブリはこんなに怖いんだろう、と――
***
数日後、俺は居酒屋にいた。同期の友人と一対一で酒を酌み交わすのもまた楽しいものだ。
世間話や仕事の話も落ち着いてきたところで、俺は先日のことを思い出す。
タイミングを見計らい、こう切り出した。
「お前ゴキブリ好き?」
「いや……好きじゃないけど。てか、好きな奴珍しいだろ」
「だよな」
「なんなんだよ、いきなり?」
本題に入る。
「いやさ俺、会社でゴキブリ見た時は全然怖くなかったのよ。だけど、こないだ家の中で久しぶりにゴキブリ見たらパニックになっちゃって……」
結局あれからゴキブリは見ていないが、苦々しい思い出である。
「家の外で見るゴキブリはさほど怖くないのに、家の中で見るゴキブリはなんで怖いんだろう?」
この問いに、友人はしばらく考えてから、答え始めた。
「まず、家で見るゴキブリから答えるけど、家で見るゴキブリって逃がしたら大変なことになるわけじゃん。例えば放置してたら、寝てる間に持ち物をはい回ったり、あるいは自分の体をはい回るなんてこともありえる」
「お、おい想像しちゃったじゃねえか」
「それに『ゴキブリは一匹見たら30匹はいる』なんて話もあるだろ。見なければ安心だったのに一匹見た時点で、家の中に30匹はいることを覚悟しなきゃならない」
自宅がゴキブリの巣窟になっている光景を思い浮かべ、冷や汗が出る。
「だから怖いんじゃないのかな。気持ち悪いのはもちろん、色々とゴキブリとの戦いを覚悟しなきゃいけないわけだよ」
実際に俺はドラッグストアまで行ったわけだし、まあ納得できる。友人は続ける。
「でも外で見るゴキブリってのはさ、他人事なわけ」
「え、どういうこと?」俺は聞き返す。
「会社でゴキブリが出たとして、仮に逃がしちゃったとしても、さっきみたいに寝てる間にどうこうされることはないわけじゃん。ビルにゴキブリがたくさんいるとしても、広いし、別にそこまで怖くはない。自分で駆除する必要も義務もないしな。そこらへんの屋外ならなおさらだ。道路でゴキブリ見たところで『あ、ゴキブリだ』てなもんだろ。せいぜいちょっとギョッとするぐらいだ」
つまり、こういうことか。
家で見るゴキブリはまさに自分に降りかかっている災難だから怖いが、外で見るゴキブリは自分がどうこうする必要もない存在だからさして怖くない、と。
酔ってるせいもあり、頭の中で色々な思考が駆け巡る。
俺は自分の災難には情けなくすくみ上がり、他人の災難は冷めた目つきで見つめる、軟弱さと冷酷さを併せ持った人間だったというのか。
俺は心の芯が燃え上がるような感覚を抱いた。
「このままじゃダメだ!」
「え!?」
「俺は……俺は! 家で見るゴキブリには怯えず、外で見るゴキブリにも他人事じゃなく、自分のことのように立ち向かえる人間にならなきゃいけないんだ!」
「お、おい……」
困惑している友人を置いてきぼりにする迫力で、俺は宣言した。
「俺の辞書に『対岸の火事』はない! 俺は色んな人を助ける!」
こうして俺の挑戦は始まった。
***
俺は人助けに奔走した。
道路のゴミ拾いから始まり、お年寄りや妊婦さんには必ず席を譲り、町で困ってそうな人を見かけたらすかさず話しかけ、親身になって助ける。
孤独な人がいたら、話し相手になってあげた。介護に疲れてる人がいれば、サポートしてあげた。
チンピラに絡まれている人を救ったこともある。
もちろん、いいことばかりではない。
煙たがられることもあったし、文句を言われることもあった。「偽善者」と罵声を投げつけられたこともあった。
しかし、俺は人助けをやり続けた。
やればやるほど、俺の中の「困ってる人を助けたい欲」のようなものは増幅していった。一度開けたら止まらない水道の蛇口をひねったような感覚だった。
やがて、俺は会社を辞めた。
休みの日の活動だけでは限界があると気づいたためだ。
元々「俺の居場所はここじゃないのでは」なんて思ってたし、後悔はなかった。
それからというもの、俺はますます活動の幅を広げた。
東西南北どこへでも駆けつけ、困ってる人を助ける。
まさに雨にも負けないような活躍だった。
収入源は日雇い労働だったが、そのうち、俺を支援してくれる人も現れるようになった。おかげで大掛かりな活動もできるようになった。
ある地域で災害が起きた時は、俺はそれまでに培った知識や人脈をフル稼働させ、大勢の力になることができた。ニュースで報道されたりもした。
そして、俺は海外に進出した。
海外の紛争地帯に向かい、泥沼の紛争を食い止めるために死力を尽くした。
理論を固め、感情を揺さぶり、我が身一つで争う人々に「戦うのをやめろ」と訴えた。
文字通り命懸けの説得が功を奏し、俺は永久に続くと思われた紛争の数々を次々に終わらせることに成功した。
俺の名は大国の指導者より有名になった。
俺はついに「ノーベル平和賞」を受賞することになった。
もちろん賞のために頑張ってきたわけではないが、自分のやってきたことが評価されるのは嬉しかった。
授賞式で俺は「これからも人助けを続けます」と述べ、歓声と拍手をもらった。
今までの人生で出会った人から祝福を贈られ、俺は人生の絶頂を迎えたのである。
***
俺は自宅に戻っていた。
俺はもう昔の自分とは違う。
比べ物にならないほど成長した。
世界中のどんな災難にも立ち向かい、対処することができるだろう。
さて、たまには昔のようにビールでも飲みながらバラエティ番組でも見るとしようか。
その時、俺の平穏をあざ笑うような出来事が起こった。
俺の視界の端に黒い影が映った。間違いない、ゴキブリだ。
「どぅあっ!?」
俺はあの時と全く同じ悲鳴を上げた。
いくら人助けをしようと、ノーベル賞を取ろうと、怖いものはやっぱり怖いのだ。
完
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