やっぱり一緒に住みたくない
コロナの感染状況はすさまじかった。福岡だけでなく全国的に増加の一途をたどっていた。緊急事態宣言の真っただ中、入院患者との面会なんて、ありえない状況だった。
以前宮の里病院で見たガラス越しの父は、やせ細ってミイラみたいだった。あまりのショックに涙がでた。アルツハイマー。脳が縮んでいるようだとは聞いていた。が、あんなに痩せこけていたら、小さくなった脳はどうなっているのだろうか。もっと縮むのか。わたしとの記憶をつかさどっている部分はなくなっているのだろうか。
父に触りたい。話しかけたい。近くに行きたい。
母は父に会いたいといつも言っていた。面会は無理だ。でも、ガラス越しなら、見ることはできる。
ネットの旅行会社でチケットを取れば安く帰れる。JALの福岡便。帰らせたい。会わせてあげたい。一か月くらい早めに予約を取ると往復二万円台。安い宿泊を一泊つければ、この金額になる。有料だけど、キャンセルもできる。便利だ。
妹に仕事の都合を聞く必要があった。病院に連れて行ってほしい。いつなら都合がいいのか。
妹との連絡にはルールがあった。
急に電話をしてはいけない。いつ電話をするかラインで確認してからでないと、話ができない。ラインをしてから、妹からの返事がくるのは数日後。そのあと、指定の日時、時間に電話する。
妹の再婚後、なにげなくラインをしたとき、その場で強く怒鳴られたことがあった。家族の生き死に以外で連絡するなと、旦那が怒っている、どうしてくれるのよ、と。
それからはラインを通知オフにしてもらっていた。
【いつ電話したらいい? お母さん、お父さんに会いたいって言っているんだけど、そっちに一週間くらい滞在して、戻してくれたら。お金も無くなったから通帳ほしいみたいだし。あき子に借りていた病院代も払いたいって。十一月の中旬くらいとか、どうかな】
かなり遅めの日にち設定だった。これくらいなら職場での休み届けも出せられるだろう。
三日後。妹から罵倒電話がかかってきた。
「ギャー。勝手なこと言わないでよ。こっちは忙しいのよ。わたしは仕事して、家を建ててお母さんの食事を三食作らなければいけないわけ」
最初から最後まで、妹はヒステリーな叫び声をあげていた。突然電話がきて、怒鳴られた。心の準備が全くできていなかった。何が起こっているのかさえ理解できない。
「落ち着いて、落ち着いて。わかった。お母さんに伝えとく」
慌てて電話を切った。
なんだったんだ、今のは。
電話を切った後、目の前の母に伝えた。
「何言っているの、なんで帰れないわけ。追い出されたってことなの」
今度は母が叫んでいる。あき子とレベルが一緒だ。確かに二人の中には同じ遺伝子が存在する。
「知らないよ、わたしに聞かないでよ」
「ああ騙された。追い出された」
母がブツブツと言い出した。
「まってよ」
母の様子がおかしい。どこが、って言われたらこまるけど。目。そう、目だ。いっちゃっている。なんか、病んでるような、挙動のおかしい目。怖い。
「ほんの一週間。それくらいで帰るつもりだったのよ。荷物だって持ってきていない。お金だって用意していないし」
母ははっとした表情で、わたしを見た。
「通帳は大丈夫かしら。どうしましょう」
母の顔が怖い。
「何を言っているの、大丈夫に決まっているじゃない」
妹が通帳を盗むとでも思っているの? そんなわけがない。
母は興奮しながら、部屋の中をぐるぐる歩き回り始めた。
座椅子の周りをまわって、テーブルの先まできたら、また、座椅子のところに戻る、を不規則に動き回る。そのあと、廊下側のドアまで行って、ドアから座椅子まで戻って。
尋常じゃない。妹と話したら、母が壊れる。
「二人は仲良しじゃないの」
母が風呂に入って速攻、旦那の横に来た。あき子から電話があったことを伝えた。
「なぜか最初から、妹はブチ切れているわけよ」
「あき子さんは、いっぱいいっぱいなんじゃない」
旦那が老眼をかけてテーブルについて新聞を見ている。夜見る新聞って意味あるのか。情報が古いだろう、って思いながら横に座って手元を見ていた。
「仕事行って、帰ってきて買い物行って食事作って。旦那さん仕事してないのに、家ではリビングのモップ掛けしかしてないんでしょ。夜勤はきついと思うよ。家だって自分の名義でしょ。親の土地に家を建てるんだから、いろんな手続きがあって複雑なんじゃないかな。その申請だってあき子さん一人しかできないんじゃない」
「ご飯くらい旦那がやりゃーいいのに。おかしいと思わないのかな」
「さあ。思わないんだろうね」
旦那は新聞をめくった。
「お母さん、家を壊すまで一人暮らしをしていたでしょ。一人でご飯食べて、庭に野菜を植えて。同居するまであき子は母親の食事なんて作ってなかったくせに、急に三食って。言っていること、おかしいだろ。お母さんが食事作れば、解決する話でしょうが」
「そうだね」
旦那の視線は新聞。こっちの話を聞いているのか。
「お母さんも、通帳、通帳って。あれ、年寄りの特徴かね。カネカネって言うやつ」
「しょうがないんじゃないの、お母さんもう八十くるんだから」
「ボケてきているのかな」
口に出して言うと、ほんとうにボケるみたいで怖い。
「そうかもね」
「やめてよ」
背中がゾクっとした。
「覚悟はした方がいいと思うよ」
母が不規則に動き回っていたのは言わなかった。知られるのは怖かった。同居してもいいって言ったのに。こんなこと、言えないよ。
風呂場のドアが開く音がした。あがったのだろう。これで、話は終了になった。
「お風呂、ありがとうございました」
母の声が聞こえた。
居間には母がいる。ここに来たばかりのときは、あんなに小さくなっていたのに、今は自分の家にいるような貫禄。いつもスカートで過ごしている。ラグの上に寝ころんだり、座椅子にねそべったり、大股開いたり。夫は母の太ももまで隠れるデカパンツを見たのかもしれない。ごめんね。心の中で謝った。
わたしが仕事のときは、妹と母は家の電話で連絡している。母は電話を取り上げられていて、携帯を持つことを許されなかった。必然的に連絡はこれしかない。でも、こちらから連絡するとキレるから、妹の連絡待ち。深夜の当直勤務があるから、気が立っているんだろうって認識でいた。通帳が欲しいと母から言っているようではあった。妹が送ってくる気配は全くないが。
平日、休みの日に妹にラインをした。
『お母さんが通帳がいると言っているから、送ってくれないか』
入力したら、すぐに返事が戻ってくる。今見ているのだろう。
『持っていたって徳島ではおろせないでしょ』って返事だった。
『そうだけど、渡して使えなくて、ほら使えないでしょで、いいんじゃない? 』
子供に諭すようなやり方だ。
『以前お母さんと話したけど、そんなニュアンスじゃなかった。敵意むき出しだったけど』
ほんとに二人はケンカばっかり。あきれる。
母が今横にいるから聞いた。
「通帳の話をあき子としたよね。どんな話をしたの」
「通帳の暗証番号を教えてって言われたから、教えたけど」
母の様子は、今は敵意むき出しじゃない。
「番号を教えたのは、まずかったかねぇ」
ため息をついてる。疑ってはいるみたいだ。
ずっと前から、送ってくれっとは言っているが忙しいからと、まだ現金を送ってくれてはいない。
『じゃあ、やっぱり通帳返してほしい。返したらなにも言わなくなるのに。あんたは年寄りと話しているんだよ』
ラインに返事をした。
「どんな風にお金をおろしているの」
母に聞いてみた。
「ATMだけど」
「通帳から? じゃあ、キャッシュカード作っているはずだね」
「なにそれ」
母は言った。
「カードは持っているよね」
「ない。通帳だけだよ。カードは作っていない」
「カード作らないと、通帳でATMから降ろすことは出来ないよ」
「作った覚えはないけどね。カードなんて持っていないよ」
まじか。なくしたのかな。持っていたら、多分コンビニでおろせたのに。筑邦銀行。パソコンを開いて支店を探したが、九州以外では東京しかなかった。
『私たちのこと泥棒だと思っているんでしょ』
返事が来た。まじか。考えが後ろ向きだ。何を言ってもお手上げ状態。マイナスにしか思わないようだ。
母だってお金はいるんだよ。
『こっちは父のパジャマだって買って持っていった。忙しいのに世話をしている。それなのにこの仕打ちか』
妹からは暴言しかない。ラインだとダイレクトに怖さが響く。
『感謝してます』
『口ばかりでふざけんな』
こわー。
母だって衣類も必要だ。暑い時期に来たから数枚の半そで、二枚の長袖ブラウスしか持ってきてない。これから寒くなる。母はわたしと違って太っているから、服を貸すこともできない。お金がないから、服を買うこともできない。それを伝えた。
『通帳を送る必要はない。荷物を送れば済むことじゃない』
返事はそんな言葉しかなかった。らちが明かないから終わらせた。
数日後、服は送ってくれた。下着やセーター、コート。もしかしたら入れてくれているかも、って思ったがお金も、もちろん通帳も入っていなかった。
母は79歳だ。どこから見てもおばあちゃん。妹の家では一回だけ犬の散歩をしに外に出ただけだった。そのあとは外に出ることを許されず、住所も教えてもらえなかった。
母は、外出して場所がわからなくなったら、タクシーに乗って住所を伝えたら戻れると思っていた。でも、家の住所を教えてもらえなかったから、それすらもできなかった。
リビングにいることを許されず、いつもあてがわれた部屋に閉じこもって、妹夫婦の犬にまで気を使っていた。テレビの音で犬が興奮して吠えたら困ると、テレビさえも見れなかったらしい。キッチンで洗い物をするのも、許されなかった、と聞いていた。
我の強い母を黙らせたかったのかもしれないけど。これは軟禁だ。
だからか、わたしが買い物に行くときは必ずついてきていた。わたしは休みの日に買いだめをする。だから、いつも母と一緒。スーパーも薬局も、全部。
お留守番を頼むと、アンタもわたしが邪魔なんだねって言う。知能犯だ。あなどれない。だから、いつも買い物は一緒。一人きりの時間なんてない。
大好きなゆめタウン。父も久留米のゆめタウンは大好きだった。
ゆめタウンは、車で十分ほど。土日は仕事だから、出かけるのは平日。身支度を整えて、戸締りをする。母を助手席に乗せて、車を運転した。
ショッピングモールの一階にメインの長い通路。靴下屋に寄る。
「母さん、五本指の靴下いいよ。あれ履いてから、わたしさ、何もないところでつまづかなくなった」
バケツの中にかわいディスプレイされた中から、靴下を取り出した。つり提げてある棚の靴下も物色する。
「あんた、若いのにつまづいてるの」
若いって。五十過ぎてますけど。
「母さんもあまり歩けないんだから、五本指買いなよ」
母親は拒否ったが、選んだ靴下の中に五本指を二足入れてお会計。通路を歩いた。
「コーヒー豆、もうすぐ切れそうだから買わなきゃいけないんだよね」
いつものお店で200gの豆のまま、3袋。量り売りしてもらって、エコバックに入れた。そして、エレベーターに乗った。
二階に行って、歩いていたら母親が地図と日記を買いたいって言った。本屋に連れて行った。簡単な脳トレと地図を買った。コーナーの片隅ある日記は気に入らなかったらしい。一階に戻って、ロフトで物色。きれいなデザインの手帳を見つけた。これに何か書くらしい。お会計をする。
「わたし、下着を買いたいんだけど。二階に行こう」
わたしの目的は薄手のインナーを買うことなのだ。
「まだ歩くの」
母が言う。まだ、たいして歩いてないっつうの。
「ソファーに座って待っててよ。買って戻ってくるから」
行きたいのは二階。手帳を優先して一階に降りたけど、本当はそのままショップに寄りたかった。メインの通路の中央にはソファーがずらっと並んでいる。でも、平日のわりに人が座っていた。
「いやだ」
「じゃあ、車の中で座って待ってて」
「いや」
幼児か。イヤイヤ期か。
一緒に二階に行った。母はずっと、帰りたい、帰りたいと言っていた。お店の前のソファーには座らず、やっぱりショップに入ってきた。簡単にいろいろな商品を見て回っていたが、結局横に来て、私が選んでいるのをじっと見ている。やりずらい。
じっくり選べなかった。これからの季節、温かいインナーが必要になるけど、色なんて外から見えないし、なんでもいいかって結論に達した。母はババシャツが送られてきていたから、興味はなさそう。一応聞いた。やっぱり。いらないそうだ。
エスカレーターに降りる間、母は疲れた、疲れたを連呼。無視した。
「パンでも買おうか」
お昼にカレーパンが食べたいかも。ここのは肉がごろっと入っていておいしい。
「まだ、買い物するの」
パン屋に寄るのはやめた。めんどくさ。
妹は母を寝たきりにしようと思っていたとしか思えない。軟禁のせいだ。体力がなさすぎる。こんな距離も歩けないなんて。
薬局にも行きたかったがやめた。仕事の帰りに洗剤は買おう。
これじゃあ、徳島の観光名所の鳴門の渦潮や、うだつの街並みとか、二人でお出かけすることもできない。車で通るだけならできるかも。でも、そんな観光イヤだ。歩きたい。
まじで体力がなさすぎる。
わたしの仕事は昼前から夜遅くまでだ。だから、午前中早い時間に母と散歩をすることにした。近所のサイクリングロードをいっしょに歩く。初めは100メートルくらいから始める。目標の距離を徐々に長くしていく予定。
「母さん、まずあの土手まで行って帰ろうか」
家から往復して、たぶんこのくらいが100メートルの長さ。年寄りは足が命だ。何もしないと、すぐに歩けなくなる。
案の定、疲れたを連呼。よくもまあ、ゆめタウンに行けたな。
一週間くらいは、この距離で歩いていこう。
「美帆、一緒に行かなくても大丈夫だよ。夕方一人で歩くから。アンタ、家のこともあるし」
「まじで。助かるけど。大丈夫なの」
「大丈夫だよ」
ほんとかなあ。人間は楽な方に流れていくものだ。歩くの、面倒くさくなってないだろうね。
「さぼっちゃだめだよ」
「わかってるよ」
本心では助かった。朝、夕食の用意してるから忙しかったんだ。よかった。
それにしても、あき子め。何を考えているんだ。父親が寝たきりなのに母親まで寝たきりにされてたまるか。お前看護師だからそれくらいわかるだろ。そうなったら、わがままな母親を、誰が面倒みるんだよ。
数日して、妹から電話があった。
「夫が母との同居を嫌がっている、離婚させる気か」
怒号ってこういう声なんだろうか。思わず、携帯を耳から遠ざけた。
「落ち着いて。わかった、わかった。一回電話切るから」
電話を切った。いったい何だったんだ、今のは。
母に伝えたら、母は納得しなかった。
「あき子がそんなこと、言うわけない。わたしの部屋の壁紙も屋根の色も二人で見に行って、どうするか決めたんやけん。ウソだ」
そんなこと言ったって。でも。そう言われると自信がない。でも言った。絶対言った。
母は電話を持っていない。でも、母に代わることはできたはずだ。あき子、家電で母と直接話して、言えよ、そんな大事なこと。わたしに言うなよ。わたしを使うな。
同居しないってどういうことだ。住んでいた家を壊して、追い出して、で、住まない。でも、自分たちはそこに住む。ふざけるな。あき子にそんなことを決める選択肢はない。決めるのはこっちだ。同居しないって決めるのはこっちの権利だ。お前らじゃない。
妹が初めて結婚した時の結婚相手は借金大魔王だった。妹は夫婦二人でパチンコ三昧。借金してそれが二百万に膨れ上がった。それを返したのは両親だ。そのあとも、秘密にしていた借金が出てきて再度弁護士に相談に行って、父と母はそれも肩代りした。妹がわたしにお金を貸してくれ、このことは親には秘密にしてくれって懇願してきたことがある。そのあと実家の状況を知って、両親が妹の借金を肩代わりするって話を聞いたとき、夫は反対した。借金する癖は治らない。破産宣告をした方がいい。本人に責任を取らせたべきだ、と。その言葉をかき消したのはわたしだ。お父さんの決めたことに口を出さないで。これはうちの問題で、あなたには関係ない話だと。
その借金のせいで最初の夫とは離婚した。父は妹を看護師の専門学校に入れて、独り立ちできるように准看、そして正看の資格を取らせた。親に助けられていたことに、妹は気づいているのだろうか。
妹を自己中心的な性格に作り上げたのは父であり母だ。間違った成功体験を経験させたのだ。何か絶望的なことが起こったとしても、誰かが助けてくれる。そう学習したに違いない。本人が希望していなかったとしても、誰かが手を差し伸べてくれると。そのことに、あの時わたしは気づかなかった。間違っていた。いまさら後悔しても遅いけど。
夜は寝られなかった。考えないようにしようと思ったのに、そんなこと不可能だった。旦那の寝息を聞いていたら、悪態をつく元気もなくなった。夜って長い。こんなこと考えるなんて今までなかった。時計を見る。五分もたっていない。大学生の娘のことを考えた。いっしょに浦和にランチに行きたい。やっぱりチキンがいいな。長男のことも考える。今もどこかに出張しているのだろうか。前送ってくれた札幌の風景はよかった。また、ホテルからの景色送ってくれないかな。次男はいま寝ているのかな。あの夫婦は仲良く過ごしているのだろうか。優しい嫁でほんとうによかった。あの子は幸せ者だ。
はあ。眠れない。
時計を見た。まだ、一時。
目をつむる。まぶたの裏が見える。暗くて黒くて白い。手元の目覚まし時計に手を伸ばして、やめた。どうせ、時間なんか進んでいない。
父親のことを考えたら涙が出てきた。母に幸せにするって言って、山形から九州に連れてきたんだろ。好きな女を最後まで守りきろよ。病気なんかになるなよ。
これからは父の代わりにわたしが母を幸せにしなければならない。
長い夜を過ごして、朝、夫より早く部屋を出た。階段を下りる。五時。母が下りてきた。早い。いつも、こんなに早く起きているのか。
「おはよう、眠れた? 」
「ぐっすり」
笑顔で答えてくれた。
「だいすき」
抱きついた。よかった。気にしていないみたい。
夫はいつも早く起きる。五時半前くらいに。彼が起きないとコーヒーができないから、朝食の準備だけしよう。頭がふらついた。ピザトーストでも作ろう。