クラスター
日曜日、職場に出勤した。
高速道路の古賀サービスエリアで金額が高めのお菓子を買った。そのお土産を休憩室に置いていた。母の用事で帰るときは、いつもお土産には気を使っている。夫には「逆に福岡に帰ったのが、ばれない方がいいんじゃないの」って言われるけど、そんなことはないと思う。感謝の気持ちは形にしないとわからない。みんなに迷惑をかけているのだから、当然だ。
事務所に行って店長にあいさつした。チューブが取れたので、大きな病院にチューブを入れに受診しなければならないことを伝えた。受診日は今週の金曜日。移動日を含めて三日間。木、金、土。お休みのお願いだ。
「分かった。お父さんは大丈夫なの」
「会えてないからわからないですけど、一週間は大丈夫だと言われました」
「こっちは気にしなくていいから。親孝行してきなさい」
よかった。ほっとした。日曜日に出勤出来たから、嫌な顔もされなかった。
飛行機は昨日のうちにすでに予約をしていた。職場からダメと言われても、行かなきゃいけない。そんな非人道的なことを言われないだろうけど、嫌味の一つでも言われるかも、と思っていた。よかった。わたしは本当に周りに迷惑をかけている。
仕事から帰ってきたら、携帯に着信があったのに気付いた。家に帰ってくるのは夜の九時前。日曜日は稼ぎ時だ。わたしに電話してもつながらない。芳川病院だ。
次の朝電話した。病棟につないでもらう。
「金曜日の受診は大丈夫ですか? 」
父の担当の看護師が言った。
「大丈夫です。飛行機も予約してますし。休みも取れています。何か持っていくものはありますか? 」
「診察券もご準備ください。健康保険証とか」
「はいはい。母も当日行きますので。何時に行けばいいですか」
「予約が10時ですから、9時には来てください。病院には直接入らず病院の外のブザーを押して、そこでお待ちいただいて、受付の指示に従ってください。椛島さんがベッドのまま病室から降りてきて、そこで介護タクシーに乗せかえて新曽我病院に行く流れになります」
「わかりました。当日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、お願いします」
次の日また病院からの履歴があった。夜だから、次の日の朝再度電話する。
「金曜日は大丈夫ですか」
看護婦が言う。
「大丈夫ですけど」
「気を付けてきてください」
「ありがとうございます。あの? 父に何かあったんですか」
「椛島さんには、なにもありません」
電話を切った。なんなの、今の電話。何が言いたいの。
朝、出発当日。電話があった。芳川病院からだ。
「1月30日にクラスターが発生して、今芳川病院は閉鎖されています。通常の診察はやっていません。芳川病院から新曽我病院への受診はできません。うちの病棟は誰もコロナは発生していませんけど、他の病棟で患者様とスタッフからコロナが発生したんです」
1月30日日曜日。休暇が終わった次の日。休みをお願いした日だ。クラスター? 帰りに電話がかかってきて折り返したあの電話。クラスターが起こったのに、なんだったんだ、あの会話は。受診できないなら早めに言え。
「わたしは徳島にいるんですよ。今回休暇を取るのも、ものすごく苦労したんです。ほんとうに大変だったんです。クラスターが起こったのは日曜日。連絡が入って折り返ししました。二回ほど担当の看護師さんとお話ししました。でも、クラスターなんてわたしは一言も聞いていませんけど」
「すいません」
小声が聞こえた。聞こえねえんだよ、もっとしっかり言えよ。
落ち着いて話をしているが、心の中にはマグマが回っていた。
「久留米に住んでいたら情報は回ってきますよね。でも、わたしの所には何も届いていません。徳島ですから。あなたたちが言ったんですよ、母は立ち会えません、娘さんが来てくださいって。でも、情報は伝えませんってことですか。こんなことをされては困ります。わたしが久留米に行くことがどんなに大変なことか、あなたにはわかっているんですか。前日に連絡したからキャンセルは大丈夫とか思っていませんか。わたしは久留米に行くのに一日かかるんですよ。飛行機を当日キャンセルしろって今おっしゃっていますか」
返事は聞こえない。
「母は年寄りですけど、ボケていません。この間はそうかもとか思ったけど違うって言われました。母が一人で立ち合うことを許可してくれますよね。確認して連絡してください。あ、13時前くらいまでは飛行機の中なので、それ以降でお願いします」
電話を切った。本当は嫌味をもっといっぱい言いたかったが我慢した。父が入院している病院だ。嫌がらせを受けたら困る。それをしたら、看護婦として失格だけど。父はしゃべれない、意識がない寝たきりだからされてもこっちはわからない。
逆に良かったのかもしれない。これで、母は受診に一人で立ち会える。ムリですとか言われないだろう。
介護タクシーにキャンセルの連絡をした。
「芳川病院がクラスターなのにキャンセルの電話が来ないから、おかしいと思ったんだよ」
タクシーの事務所の人は言う。
「有名なんですか」
「そりゃあ、情報は早いよ。新聞にも載っているしね」
徳島ではクラスターが発生しても名前を公表しない。場所だけ。医療機関や学校、老人ホームの名前なんか聞いたことない。隠してもバレるけど。
「わたしは徳島からくるんで、そこらへんは疎いんですよ。もし、また予約してそんなことがあれば教えてください」
「へえ、大変だね。わかったよ」
電話を切って、携帯で検索した。
[芳川病院、クラスター]
すぐに出た。
【1月30日久留米市は、芳川病院でクラスターが発生していることを公表しています。陽性患者21名(患者12名スタッフ9名)】
スクリーンショットをした。
下には久留米の感染状況が書いてある。老若男女すべて合わせて279人。三井郡は2人、筑後市2人小郡市1人、と別の市や町がいろいろ続いて最後に佐賀県2人。佐賀人?アイツらじゃないだろうね。新しい家具を見に行って、混雑した場所でホットドックでもかじって、二人とも感染。ありえる。
飛行機で福岡空港まで行って、高速バスで西鉄久留米駅に着いた。そのあと、レンタカーで八女に向かった。
伯母さんから家に来るように言われていた。団地に帰ってきたら、伯母さんの家についていくと言うだろう。そしてまた、戦いが始まる。もう、うんざり。母に伯母さんの家に行ったことは秘密だ。
伯母の家に行った。仏壇にお参りをしてお土産を置く。いつもの流れだ。
ソファーに座った後、マスクを取った。出されたお茶を飲んで一息ついた。
「和之に胃ろうをつけたの」
伯母は言った。胃ろうはまだついていない。つけれない。
「ついていないよ、体力がなくてまだ無理なんだって」
「つける必要あるの。あんな状態なのに」
新曽我で久しぶりに父の顔を見たとき、つぶらな瞳でわたしをずっと見ていた。わたしの事が分からないみたいだった。母はお父さんはわたしのことわかってくれたと言ったが、そう思いたいだけだと思う。
「命が危ないって言ってくれたあのとき、お見舞いにいったじゃない。わたしを見て和之は涙をいっぱいためて。二人で泣いたの。和之がかわいそうで」
それ、意識あるってことじゃないの。
「まあ、今は無理だけど。どうなるかはわからない」
「知り合いが胃ろうを付けたけど、寝たきりの意識のない状態で13年間、生き続けたんだよ。そんなことになったらどうするの」
父は延命治療をしないでくれって言っていた。ぽっくり死にたいって。でも、胃ろうを選択しないで父を殺す。命の選別にならないか。泣いたってことは、父の意識はまだあるってことでしょ。しゃべれないだけで、何もかもわかっているのかも。そんな父を殺すことにならないか。
「胃ろうをつけないってことは、死なせる選択をすることになるんだよ。わからないよ」
「そんなことにはならないわよ、延命治療をするってことはね、お父さんの年金を搾取してるってことになるのよ」
そんな考え方もあるのか。
「今はわからない。でもチューブは取らないよ。それこそ死んじゃう。それから、病院でクラスターが発生して、明日の受診はなしになったんだ」
「芳川病院でクラスターが発生したものね」
「知ってたの? 」
「ニュースでやってたわよ」
まじか。みんな知っている。
「わたしは知らなかった。今朝出発前に電話がかかってきて、受診できませんって。昨日今日のことじゃないよ、クラスターは日曜日だよ。ありえない。お母さんも知らなかったって」
母には出発前に中止になったことを伝えた。すごく父を心配していた。栄養が取れなくて苦しくないのか、と。
「まあまあ、知らなかったの。じゃあ、今度は教えてあげるわね」
「お願いします」
みんなはわたしが徳島に住んでいることを知らないのか。
「あなたのお母さんはね、和之が入院してから強くなってね、いろいろなことを言うようになったのよ」
「へー」
お父さんが間に入らなくなってからだ。ありうる。
「二人で旅行をしたみたいね。総額一千万は使ったって言ってたわよ」
「ないない。そんなお金ありませんから」
そんな大金あるわけない。お母さん、そんなしょうもないマウントとるなよ。伯母さんは社長夫人だよ。カナダにオーロラ見に行ったりしたと聞いたことがあったし。そんな人と戦うなよ。
徳島によく来てたけど、あれも旅行の部類に入れているのだろうか。
「あき子が新しい家を建てるってときも、あき子と二人で来てね、浩二さんには家を建てたとき数百万お金を出しました。青峰の家はわたしの家ですって、すきにしますからって」
背中に寒気を感じた。なんてことを言うのだ。
「すみません。そんなことを言ったんですか」
「そうだよ。浩一は真っ青な顔になっていたよ」
「ごめんなさい」
「美帆を怒っているわけじゃないのよ」
あの場所に家を買ったのは祖母だ。土地は100坪。3LDKの平屋の分譲住宅だった。そこを壊して長男だった父が家を建てた。もちろん祖母と同居した。ローンは父が払ったことになっているが、母のパートのお金で返済していたようだ。父は生活の一切を引き受けていたから、それ以外のお金は母が出した。同じ世帯だからどっちが出したと考える必要はないと思うけど。
祖母は浩一叔父さんに何もしてあげれなかった。だから、お父さんにお前がしてくれ、お前には土地を渡したのだからと、お願いしたのだ。それで、お金を工面して父が渡した。
これはおばあちゃんの一番末っ子への愛だったのだ。土地の財産分与ではない。でも、母にはそれが分からなかった。
お母さんに対するマイナスの思いを伯母からたくさん受け取って、県営に帰った。心が重い。しんどい。辛い。悲しい。二人の関係は改善しないだろう。そうとう根深い。
母は無邪気な様子で唐揚げを作って待っていた。揚げ物は危ないから作らないでって言ったのに。わたしのお願いなんてきかない。この間火傷したでしょうが。
母は嫁で、伯母は小姑。この人間関係は崩れない。母は自由人だから、今この瞬間思っていることを何でも口に出す。そして、反感を買う。今までは父がそれを止めていた。父はみんなの間をうまく渡り歩けるように母を守っていたのだ。
父はそんなこと誰にも言わなかったから、知らなかった。これは、多分わたししか知らないことだ。ますます父が好きになった。父は怒りっぽいところはあったけど、すごい人だ。尊敬する。
わたしは父がしたように止めることは出来ない。それをしても、母に怒られるだけだから。
テーブルに付いて夕食を食べながら、父の話をした。
「お父さんはお母さんを守っていたんだよ。おばあちゃんとお母さんの間に入って、仲を取りもっていたんだよね」
唐揚げを食べながら母に伝えた。
「お父さんはいつもわたしに意見を押しつけるのよ。おばあちゃんにこんなこと言うなってわたしを怒る。おばあちゃんにはフジに優しくしろって言う。否定してばかり。そうだね、君の言う通りだねって言ってほしかった。辛かった。でも、今は自由。自分の思ったことが、なんでもできるの」
「ふーん」
そうでしょうね、と思った。それで、わたしは振り回されている。
当事者にはわからないモノなのか。お父さんもやり方もへたくそだ。
母が居間でテレビを見ている間に由紀子おばさんに電話した。裕子伯母さんから言われたことを言った。
「もう嫌だ。お母さんはひどすぎる。ムリ。助けることなんてできない」
「美帆。おばあちゃんを家で24時間介護したのは誰なの。お母さん以外で介護した人はいたかしら」
「そうだった」
「お母さんは椛島家をおばあさんを支えたのよ。そのことを忘れたらだめよ」
祖母はガンになった。病院にいたくないと言ったので、退院して家で面倒をみていた。24時間介護したのは母だ。床ずれは苦しいから、夜も何度も何度も起きて寝る方向を変えていた。祖母の部屋にいて、そこで寝て、可能な限りずっと同じ部屋にいた。おしめも入浴もすべて母だ。父も手伝っていたけど、メインは母。父は母に感謝していた。そばでどんなに大変なことをしているのか、父は知っていたから。介護は何年も続いた。
ダイヤの指輪をもらったのは母。祖母の遺言だ。祖母が持っていた貴金属の中で一番高いと思う。祖母も母に感謝していたのだ。妹が借金していた時、勝手に部屋に忍び込まれて、気づいたときには質流れしたらしいけど。取り返せなかった。間に合わなかった。これは死んでも伯母には言えない。それ以外にも母が父からもらった婚約指輪も何もかも、流れた。だから母を許してくれって言ったところでムリだろうけど。
どんな高価なモノだって、大した価値なんてない。モノの価値は、人の気持ちがどれだけこもっているのかで決まるのだ。あの指輪には祖母の感謝が入っていたから価値があった。妹が質に入れてなくなったところで、その価値もなくなる。そんな気がした。
わたしは父のように母を守れない。母の思うように過ごしてあげることしかできない。本人が納得しやらせることが、わたしのすべきこと。そして、母を守るためには椛島家の親戚と母を会わせないことだ。
妹は親戚と縁を切りたかったから、母にひどいことを言わせたのか。
次の日、母の引っ越しの片づけを手伝っていた。父は受診するはずだったから、わたしが久留米にくることはあの夫婦にバレているだろう。でも、妹夫婦は佐賀県で発症したコロナ感染者だという気がしていた。外に出れない。出くわす可能性がないと思ったら気が楽だ。サイコー。自由だ。どこにでも行ける。
「お母さん、法務局に行きたいんだけど」
母に言った。
「土地が誰の土地か確認してもいい? 」
「お母さんはどうでもいいよ。知りたくないし」
「わたしは知りたい」
「行ってもいいよ」
母と二人、久留米の法務局に行った。
正方形っぽいグレーの建物の中に入った。二階に上がって小さなテーブルみたいな台にある用紙に実家の地番を記入した。土地の所有者の名前。父だ。請求者は母。母は疲れた様子でソファーに座っている。カウンターの女性に渡す。
少しして名前を呼ばれた。
「椛島さん」
「はい」
返事をする。
「所有者は、椛島和之さんではありません」
心臓が跳ね上がった。急にドキドキしだした。ヤバい、吐きそう。
やられた。
アイツらをなめてた。そうはいっても、そんなことはしないと思っていた。疑っていたけど、でも信じてた。犯罪なんて犯さないと思っていた。
【妹さんはもともと、そういう性格だったんじゃない。それを、あなたが知らなかっただけでしょ】
白おばさんが言った言葉が頭の中をグルグル回った。
「大丈夫ですか」
女性がわたしの顔を見る。
「お母さん、やられた。お父さんのものじゃないって」
その場から母の方に声をかけた。
母の顔が引きつっている。
「所有者は椛島あき子ですか? 」
手が震えていた。わたしのメンタル弱すぎる。
「証明書の発行にかかる金額は同じなので、このすべてにチェックを入れますか? 今お渡しするのより細かく出ますよ」
女性の職員がわたしの出した紙の項目を指さして言った。
「はい、お願いします。土地だけではなく、家、あと古い家をつぶした証明書も出してください」
となりのカウンターで印紙を買って、女の人に渡した。
渡された証明書を見た。
閉鎖事項証明書。古い家は取り壊したことが載っている。家の全部事項証明書。現在の建っている家の権利が発生したのは2月3日。もちろん妹のもの、旦那ではなかった。土地の全部事項証明書。土地も妹のものになっていた。
欲しいとは思っていなかった土地だった。だけど、怒りがどんどん湧いてきた。
あき子は父の病院の保証人の名前を変更してわたしにした。うれしかった。これから父の情報はわたしに入る。握りつぶされることはない。妹のウソは入りこめない。母にも伝えられる。
でも。こんなのおかしい。
父がいらなくなったのだ。土地を手に入れたから。父は不要。捨てたのだ。
父の財産。唯一のあの土地をあの夫婦は父から剥がし取った。父は無一文。体だけが残った。父はもうじき亡くなるだろう。父が何も言えなくなってから、これを狙って家を建てた。あいつらは人間なのか。これは人間のすることなのか。




