荷物のお引越し
15日。見積もりが終わった次の日。
仕事から帰った夜、ポストに不在票が入っていた。書留。差出人は妹。はやっ。見積もりの前に準備していたのだろう。13日、投函した。あの二人は、ひっこしの見積もりを最初からキャンセルするつもりはなかった。お金がもらえないのは困るから。
仕事が休みの19日火曜日に郵便局に取りに行った。印鑑と、免許証、不在票を持っていった。受け取ったのは白い市販の封筒。赤い速達の印に、切手がいっぱいはってある。速達。どんだけ早くお金を受け取りたいんだ。切手の金額の合計は674円。これはきっと、請求書に記載されているだろう。郵便局の追跡で、何度も「自宅不在で持ち帰り」をあの夫婦は見て、暴言をはいている様を想像した。
家に帰って封筒を開けた。中には、紙のたば。
中身は以前請求されたものと同じ様式の請求書が入っていた。エクセルで作ったのだろう票に日時、項目、金額が横に並んでいる。請求額は135,256円。振込先はセブン銀行、チューリップ支店。父の入院費、病院に渡したお菓子代、おしめ等の雑費、転院の時にかかった介護タクシー代。切手代は請求されていなかった。
病院に提出する身元保証人の書類も入っていた。一番は空欄。二番は妹の名前と住所、電話番号。住所は実家になっていた。住民票を佐賀から移したのだろう。空欄に自分の住所氏名電話番号を書いた。責任者の優先順位の一番はわたしだ。妹を介して情報が入るんじゃない。わたしが一番に情報をゲットできるのだ。同封された封筒に書類を入れた。切手もはった。
手紙も入っていた。
ワードで印刷された紙には、おむつなどの日用品の業者の請求先や、生命保険証、NHKの住所変更、お寺の檀家変更手続きなどを速やかにするように書いてあった。今まで保管していた領収書は言うほど多くはなかった。認識の違いだろう。
手書きで「わたしは他人ですが、あき子は妹ですからあまり感情的にならず、話してみてください」と、書いてあった。自分が妹のふりしてケンカを仕掛けていたのに。この人は、多分周りからいい人だと思われたいのだろう。妹の品位を下げ、自分をあげる作戦なのか。よく分からない。
封書のあて名を自筆で書いたのは妹。手紙の中身は旦那。なにか意味があるのか。
母に電話した。
請求金額を言った。母は、宮の里病院に保証金として、五万円預けている。雑費も一万くらい預けていて、そこから歯ブラシ代などを引かれていると話した。
「保証金はどうしたの? 請求金額から差し引かれてないの? あき子が受け取ったはずなんだよ」
母が言う。
「この紙には書いてない」
「請求金額から減らして振り込んでくれないかい」
「あき子は病院から受け取っていないかもしれないよ」
「じゃあ、病院に確認してくれないか」
宮の里病院に電話した。
確認したら、雑費も保証金もお返ししたとのことだった。雑費の金額を聞いたが、別管理でわからないとのこと。そこからマスクや、綿棒やティッシュ、リップクリームなどを購入しているらしい。大して残っていないんじゃないか、とのことだった。
「返したって」
母に電話した。
「雑費は金額が分からないんだから、あきらめて」
「じゃあ、保証金は差し引いてちょうだい。五万は渡す必要はないよ」
母は言った。
夫が仕事から帰って来てから、手紙を見せた。母と話したことも伝えた。
「請求金額に五万円載ってないなら、そのまま払えばいいんじゃない。また金が少ないとか言って、ぶちきれメールが来るよ」
「母は納得しないよ。お母さんのお金に、わたしのお金を五万足して送ろうか? 五万は新居おめでとう、って気持ちで。そんな気持ちないけど」
「それは違うんじゃない」
「そうだよね。じゃあ、お母さんの言う通り送るよ」
夫は黙っている。
「わたしたちが保証金のこと知らないと思って。ほんと、ふざけた男だよ。セブン銀行、チューリップ支店に振り込めって。チューリップだって。ハウステンボスかよ、まじでバカにしている」
「そんな名前の支店だってあるよ。あき子さんの病院は花畑にあるんだよね。チューリップでもおかしくないだろう」
「花畑っていうのはね、昔あそこに遊郭があったときの名残が残った地名なの。貧しくて苦しかった女たちが、売られてきた場所なのよ。あそこの地名には女の悲鳴や叫びが入っているの。軽々しく、チューリップとか言わないでくれる」
1月20日あき子の旦那からショートメールが来ていた。わたしが書留を受け取ったのを確認したのだろう。
『入院清算用その他費用の領収書』
『そちらに送れとのことですのでレターパックで送付しました』
『清算お願いします』
『だいたい渡す必要があるものは送りました』
夫に見せた。
「あなた方とは会うことも話すこともない、ニ度と関わりたくないって言ってたよね」
夫が言った。
「言ってた」
めずらしい。怒っているのか。
「男なのに、自分の言った言葉を簡単に覆してくるね」
「そうだね」
「恥ずかしい。関わることはないって男が言いきったんだ。プライドはないのか」
一貫性がないのは前からだ。
「そういう人なんでしょ」
プライドがあれば、そんなことしないと思う。うちの夫とあき子の旦那のプライドの種類はそもそも違うのだろう。
『これで、連絡最後です。ラインもブロックして、削除。電話番号も、近く廃止します』
『それでは。失礼します。返信いりません』
1月24日から29日まで休暇を取っていた。車で一人で帰る。軽。母の家の片づけをするのだ。母が県営に住みだした後、休暇申請をした。以前送った荷物の中に、安い食器棚もあった。ニトリで買ったものだ。忙しかったから、あの時は組み立てることもできなかった。
自分用の布団や毛布も持っていった。簡易的な椅子、新たに買った小さなテレビ、折りたたみの低いテーブル。押入れ収納ケース。必要だと思われるものは、スペースが許す限り詰め込んだ。小さな車は満杯。バックミラーには荷物。後ろが見えない。サイドミラーで後ろを確認。こわい。これで、高速道路を走るのだ。泣きたい。
母が腰が痛い、ベッドが欲しいと言ったので、引っ越し祝いとして買って配送してもらった。流しに付けるガス湯沸かし機もなかったので、久留米ガスに頼んだ。湯沸し器が見つからず、子会社を探してもらい何とか一台見つけて、つけてもらった。お金が高すぎると母がごねたから、これも引っ越し祝いにした。これからもっと寒くなる。湯沸し器は絶対必要だと思ったからだ。
実家が壊されるときに持っていくのを許された家具はタンス二つだけ。大と小。ベッドもテーブルも何もかも捨てられた。新居に引っ越したら必要なものは買ってと言われていた。あるのは段ボールがまあまあと詰め替えられたプラスチックのケース。布団。位牌。テレビ。同居するからテーブルも生活家電もいらなかったのだろうけど、今は必要なものだ。
多分、旦那は最初っから母を追い出そうと思っていたのだろう。妹はどう思っていたかは知らないけど。彼の思うようになった。ある意味、賢い。アイツのイメージ通りにコトは進んだ。
引っ越しは25日に決まった。妹が指定した日時。たまたま、帰省と日にちが被ってよかった。本当に母は運がいい。神様が守っているとしか思えない。山形の羽黒山は父と母を守っているのだろうか。
サカイとはあれから何度か連絡した。タンスの中に割れた食器が大量に入っていると妹に言われたらしい。最初概算で金額を聞いていたが、食器を箱に詰める作業があるので、作業員を増やすとのこと。最初の金額より値段が上がる。あんなにノリノリで話してくれた黒崎さんの話すトーンが変わっている。きっと、妹が母はボケているとか、こっちがひどい目にあわされているとか、いろんなことを言っているのだろう。どちらが本当のことを言っているのか彼にはわからない。態度が変わったとしても、それは当然だ。
サカイへの振込みは済ました。あとは引っ越しをするだけ。
母は西鉄久留米駅にバスで行って、タクシーで現場に向かう。帰りもタクシーに乗って西鉄久留米駅に行き、時間をつぶしてバスで帰る。つけられても、住んでいる場所を特定されないためだ。タクシーに、仮にどこから乗せたのか妹夫婦が聞いたとしても、運転手は分からない。
お弁当代も別封筒に入れて渡すように言った。出すのと出さないのとでは、作業員のモチベーションが違う。こっちは、住所を特定されたくない。これで、しっかりやってくれたら安いものだ。大きな引っ越し会社は受け取らないだろうから、無理やりごねて封筒を押し付けろ、とアドバイスした。
こっちは家に待機して荷物の搬入を受ける。母からタンスの場所はどこにするか聞いていたから、指示をするだけ。待っているだけ。ドキドキする。
わたしの携帯に着信。取った。サカイだ。母に電話したがつながらないと言う。母の携帯。周りを見渡す。ない。軽く探したが見つからない。
「引っ越しの場所が分からないので、聞こうと思ったんですけど」
若い男性の声。
「見積もりしに来た人に聞いてください」
母に聞いても説明は無理だろう。
「もう、母はついていると思います。おばあさんが引っ越し先の家の前で立っていると思います」
見積もりした人と、荷物を取りに行く人が違うのか。あそこは入りくんでいて、わかりにくい。
電話を切った。タクシーの人も場所が分からなかったりして。いや、まて。母は無事に引っ越し先の家に着いたのか。
母の携帯に電話しても、着信音は聞こえない。家にはない。なくしたのか? 妹が持っていたらどうする。本当に神様は見守っているのか。
引っ越しの開始時間は11時から12時。12時過ぎたが音沙汰なし。1時すぎに、母が帰ってきた。トラックより先だ。
「なんですぐに帰ってきたの。西鉄周辺をぶらぶらしてって言ったじゃない」
「大丈夫、大丈夫。バレやしないよ、バスで帰ってきたし」
わかってない。住所がばれて怒鳴りこまれるのは母だ。わたしじゃない。なんで、打ち合わせ通りにしないのだ。
「携帯はどうしたの」
「困ったね、なくしちゃった」
集中力がなさすぎる。いろいろ考えることがありすぎて、パンクしたのだろうけど。
県営の玄関の前、階段の踊り場に立って駐車場を見ていた。いつ、トラックがつくか。
佐賀は隣の県だけど、久留米は県境だから、福岡市より佐賀の方が近かったりする。トラックが来るのに、かなりの時間がかかっている。バスに乗った母が着くのが先なんて、普通では考えられない。
トラックが着いた。一人が階段の前に直角に誘導して停めた。大量の作業員が家の中に流れ込んだ。
手際よく、玄関、柱にクッション材を巻き付けていく。ボロボロの県営住宅。ぶつかったところで、バレやしないだろうけど、丁寧だった。
「まあ、どうしよう。最初に引っ越しの手伝いをしてくれた人が誰もいない」
母が言う。
「え」
意味が分からなかった。
「お弁当代渡したの、少しだけ。でも、こんなに人がいるとは思わなかった。どうしよう。これじゃ、人数分の弁当なんて買えない」
「しょうがないよ、おやつ代って認識でいいんじゃない」
「そうだね、しょうがないもんね」
あっという間だった。大量の作業員が手際よく荷物を運んで、すぐに終わってしまった。トラックはきっと最初のものとは違うのだろう。乗せ換えて、作業員も総入れ替え。時間が短縮するように、人を増やした。場所を特定される危険を少しでも減らすように、考えてくれたのだ。
「タンスに入っていた割れた食器って、どこですか」
「入っていませんでした」
そりゃあ、そうか。本当にそれをやったら、人格を疑われるのはあっちだ。
「お弁当代、ありがとうございました」
若い、ここの責任者みたいな人が言った。
「すいません。足りなかったでしょう」
母が申し訳なさそうに言う。
「そんなことないですよ」
笑顔だ。
「あっちはもう引っ越したんでしょうか」
「まだです。後日の引っ越しになると思います」
黒崎さんの言ったとおりだ。同じ日にちにすると家の場所がバレるから。
「本当にありがとうございました。もし、引っ越しをするなら次もサカイにします」
わたしはそう言った。
今度引っ越しするのは、妹。彼らは大きな新しい家に住む。夫婦二人だけだ。引越し業者が大きい家に引っ越した時、どう思うだろう。こちらの言い分と、あちらの言い分。どっちが正しいと思うのだろうか。
二人で荷物を片づけた。母の携帯にもう一度電話をしたら、知らないおじさんが出た。携帯はタクシー会社の事務所に保管しているらしい。妹に渡ってなくて良かった。すぐに取りに行って、今日休みだろう妹に道端であって場所を特定されたら困る。夕方取りに行くことにした。妹は新居を見に行く可能性もあるし、わたしたちの居場所を探すかもしれない。
「立ち合いどうだった。あき子に怒鳴られた? 」
一番気になるところだ。聞いてみた。
「怒鳴られたよ。アンタのせいだとか、お父さんにほっぺを叩かれたとか、そんなことをずっと言ってた。文句ばっかり」
30年以上も前のことを、まだ言ってる。しつこい。
「で。お母さんはなんて言ったの」
「なにも言ってない。黙って聞いてた」
「すごいじゃない。怒鳴らなかったの、頑張ったね」
信じられない。母が我慢してる。
「あき子が怒って荷物を返してくれなかったら困るじゃない」
なるほど。
「わたしのことも怒ってた? 」
「怒ってた」
「なんて言ってた」
「忘れた。でも、文句言ってたから、美帆は体重が7キロもやせたって言ったら、黙った」
「へえ」
「おばあちゃんがかわいそうだ、お母さんがお父さんと結婚したからおばあちゃんは苦労したとか言ってた。だから、おばあちゃんはわたしを心配して今そばにいる。あき子にやられるから、気をつけなさいって、って言ってるって。そしたら、怒鳴るのをピタッとやめた」
「やめた? 」
「やめた」
霊的なことなんて信じないと思うけど。信じたのだろうか。
「あき子の旦那は? 」
「いなかったよ。どこかに行ってた」
引っ越し用のトラックを見張っていたのかもしれない。バレなきゃいいけど。
箱は全部開けた。アルバムはなかった。祖父母の若いころの写真も保管していたと言っていたがない。食器も大部分捨てられていた。切手もない、かわいいフックもない、とのことだった。そうだ。そうか。送ってきた封筒に貼ってあったあの切手はもともと母のものだったのだ。だから、請求書に載ってなかった。母の持っていたもので気に入ったものは妹がもらった。自分たちがいらない物は捨てた。それだけだ。わたしが買ってあげた、マスクの箱も荷物の中にはない。彼らのものになったのだ。
それでも、わたしが抗議した後に捨てていたものはないと思う。食器は家にあった量の半分もなかったが、父の湯飲みやコーヒーカップは捨てられていなかった。
「これは、お父さんが気に入っていた湯飲みなの。美帆がプレゼントしたやつ」
母が手に取った。
私が中学生のとき修学旅行で山口に行ったとき買ってきた萩焼の湯飲み。お土産だ。
「へえ」
見るからに安物。これを大事にしていたんだ。これでお茶を飲んでいたのは知っていた。でも、家にはもっときれいな湯飲みがいくつかあったのに。
「おばあちゃんが買った高い湯飲みより、こっちを使っていたのよね。ガラがいいのよ」
それは違う。親だから。わたしが限られたおこづかいの一部で買ってきたことがうれしかったのだ。子供のわたしにはそんなことは分からなかったけど、今ならわかる。
こうやってわたしは大人になって、今度は子供たちが大人になっていくんだ。
母は気持ちよりモノを優先するタイプ。気に入らなかったら、いらないと言う。今も同じ。だから、ベッドを買うときは苦労した。実際にお店に行ってもらって、欲しいものを特定してもらった。気に入らなかったら普通に怒られる。父とは性格が違う。
荷物を片づけている間に、タクシーの営業所に行って携帯を取り戻した。家に戻って、片づけの続き。
疲れて一息ついた。買ってきたお弁当を一緒に食べた。書留で送られてきた封筒を見せて、金額を母に確認してもらった。母が払った医療費を二重に請求されていないかの確認だ。金額はすべて領収書と照らし合わせていた。金額の差異はない。
「大丈夫だよ」
母は書類の片づけが苦手だから、100均のファイルを買って、わたしがまとめていた。生活全般用、電化製品の取説と保証書、お父さんの医療関係請求兼領収書。3冊。そこに綴じる。
食器棚はなんとか組み立てた。母はテーブルとレンジ台も買っていた。前買って送った簡易的な折りたたみテーブルはお気に召さなかったらしい。母の家だ。好きなものをそろえたらいい。
引っ越しが終わるまで、母に金額の確認をするまでお金は入金しない。でも、取り戻すべき荷物は取り返した。印鑑はなかった。母は文句を言っていたが、それでも納得していた。
「しょうがないね」
すべての食器を覚えてはいないだろうけど、それでも自分の使っていたものに囲まれるのはうれしいのだろう。食器棚の前でにやにやしている。
「これ、いらないから。持って帰って」
わたしの家から持ってきて、しばらく使っていた食器はいらないそうだ。
「はいはい」
箱に詰めた。
機嫌がいい。荷物なんてどうでもいいと思っていたけど、取り返してよかった。
その日は段ボールの山で寝た。母が一緒に寝なさいと言ったので同じ場所で寝た。母はベッド、わたしは畳。母のイビキはなかった。
寝室に大きなタンスを置いている。寝室には何も置かない方がいいよ、と言ったが聞き入れなかった。それで、足りない物を買うときに耐震用のタンスのつっかえ棒も買った。足りなかった電気のカサも追加で買った。キッチンの横の窓にレールを付けて、持ってきたカーテンをつけた。
どんどん家らしくなっている。
今回の目的は引っ越し、包括支援センターに母の支援のお願い。お父さんの姉、おばさんに会いにきなさいと言われているから、会う約束もしていた。
他にも担当地区の民生委員にも電話していた。時間をおいて二回電話したがつながらなかったから頼むのをやめた。忙しいのだろう。忙しい人に頼んだところで、目が行き届かない可能性の方が高い。母には家を見に来てくれる世話好きの友達がいて、作ったおかずをちょくちょく持ってきてくれる。その人がいれば大丈夫だろう。
包括支援センターで、母の担当になった三好さんが家に直接きてくれた。以前、包括センターに電話して母の支援を頼んでいたのだ。母が家から追い出されて、あの家に住めないことは伝えていた。そのとき、住民票はまだ実家だった。あそこに行くと、怒鳴られるだけだ。ゼッタイに行かないでくれと、言っていた。
この間きた書留に、第一生命がカレンダーを持ってきたときも迷惑だったと、書いてあった。普通に断ればいい。そこまで、迷惑か?
「お久しぶりです、椛島さん」
三好さんの言葉に、母は首をかしげている。
「わたしは旦那さんも担当していて、よくおうちにもお邪魔したんですよ」
「そうでしたか」
わたしはそう答えた。母を見た。母は覚えていないみたい。
「入院するまでの間ですけどね」
三好さんが笑う。
「広い家でしょう。一人でここに住むことができました」
母は嬉しそうに言う。それを三好さんは複雑な表情で「はい」と返事した。
三好さんは実家の広さを知っている。前の家の半分どころかその半分、四分の一の広さくらいしかない。
母親には、ひとりで住むには広すぎるね、とか掃除するのにちょうどいい広さだねとか、前向きな言葉をかけ続けていた。最初怒り心頭な母親も、今はこの家に大満足だ。これも、一種の洗脳だろう。
母がトイレで席を立った。いないうちに言うことがある。
「最近特にわがままで、急に怒鳴ったり声を荒げたりするんです。妹と話すとよくそうなります。ボケているんじゃないかって、心配なんです」
「大丈夫ですよ。年相応ですね。話してみた限りでは、おかしくありません。年寄りはそういうものなんです。心配ですよね、でも大丈夫です」
「そうなんですか」
「頑固になるんですよ。もしおかしいと感じたら、電話でお知らせしますから」
「お願いします」
申込用紙に記入した。母が戻ってきた。
「ボケ防止の体操とか市の催し物に参加してほしいんです。母は一人でここに住むので。いつまでも元気じゃないと困ります」
「久留米は独自の支援があります。介護認定がなくても支援制度があります。それに記入して問診票に記入してください。認定されれば、デイサービスが受けられます」
「デイサービス? 」
思っているのと違う。
「楽しそうだね。わたしも参加したいよ」
ウソ。まじで。あれ、参加したい人っているの? 夫のお母さんは嫌がっていた。父も。
記入した。母は参加したいらしい。地域でやっているヨガも続けたい。でも、今はコロナで中止されているみたいだ。
「ヨガもいいですよね。ぜひ、どんどん参加してください」
三好さんが笑顔で言った。この人が担当でよかった。




