はじまりは、おかあさん。
久留米にいる妹、あき子から、家電に電話がかかってきた。
わたしの住んでいる徳島に、母を連れてくるって言われた。母は受話器の奥で元気だ。あき子とその旦那、そして母の三人で今は過ごしている。居間でくつろいでいる雰囲気が 伝わってきた。時折笑い声と、テレビの音。
父と母が住んでいた実家はつい最近取り壊しをした。父は三か月ほど前から入院している。
実家の土地はだいたい百坪。そこに平屋を建てて一緒に三人で住むから、いいよね。と言われた。母の面倒をみてくれるという。今、家を建てるとかなりの減税が受けられて、お得らしいのだ。
父は寝たきり。入院していて、今年まで持つかどうかもわからない微妙な状態だった。こんな時に何言っているのだ、って感情はあった。でも、コロナで父と面会はできない。母はトイレが壊れた、お湯が出ないなど、ライフラインのことで、そばに住んでいる妹ではなく、わたしに何度も電話をかけてくる。うんざりしていた。それを考えると、感謝しかない。
妹は父が嫌いだった。新しい家には父の部屋がない。一時退院するときに泊まる和室が作られた。母がごねたからだ。
わたしの帰る家はもうない。家を建てるっていうことは二度と実家には戻れないっていうことだ。
「九月二十二日に車で。旦那が連れていく」
妹の突然の送迎宣言。しかも三日後。
カレンダーを見た。水曜日。その次の二十三日は木曜日で祝日。秋分の日だ。かき入れ時。仕事は絶対に休めない。
「いや、仕事だし。ムリだし」
「いいよ、送って行ってお姉ちゃんが家に帰ってくるまで、その辺グルグル車で回っとくし」
「わたしは夜九時前くらいに帰ってくるんだよ。それまで、外で回って待っている? 一度も来たことないのに。慣れないところで、外は真っ暗。ムリだって」
「いい、いい。行くから」
居間に夫とわたしの二人がいる。夫は座椅子に半分寄りかかったような、寝そべっているような、そんなだらしない状態でリモコンを持っていた。テレビのボリュームを下げてこっちを見ている。目が合った。受話器を軽く抑えて夫に、しあさって車で母を連れてくるって言っているって、小声で伝える。飛行機、飛行機。って、夫が言う。
「飛行機にしたら。車で連れて行くと手間も時間もお金もかかるし」
受話器の奥のあき子に伝える。
福岡は緊急事態宣言真っただ中。高速道路の割引だってない。
「空港に送っていくのも、徳島に行くのも大してかわんないから」
彼らは一歩も引かない。母が飛行機だとコロナ感染が怖いとごねたのか。母はわがままだ。ありうる。
送って行った次の日は仕事だろう。妹の旦那は確か、電気屋の下請け、修理などを行う会社に勤めていると聞いたことがあった。細かいことはしらない。
「飛行機は片道だから。高いって言っても往復の高速道路より安いんだよ。ガソリン代だってバカにならないから。今からでもチケットはすぐ取れるよ」
コロナ渦だ。飛行機はガラガラだとテレビのニュースで流れていた。それも、東京じゃなくて福岡。空きだらけのはず。
夫が携帯で航空券の値段を検索している。
「送ってくるから。大丈夫だから」
こっちが大丈夫じゃないんだよ。頭の中を怒りが走っていく。自分の都合ばかりだ。
「食事はいらないから。旦那はわたしの作った食事以外は食べないから。かまわなくていいから」
となりでは六十過ぎの夫が、必死にグーグルと格闘している。携帯のマイクに向かって言葉を発し、画面を覗いた。納得の結果が出ないのか、同じことを繰り返している。
「絶対にユウジは送っていくからね。お姉ちゃん、家が建つまで母さんの面倒みてもいいって言っていたよね。少しの間そっちにいるだけだから」
言ったよ。でも、旦那を家に入れるとは言っていない。
「仕事があるから、急に言われても無理だって」
「そこは、大丈夫だよ。勝手にするから」
何を言っても無駄なんだ。もう、あの夫婦が決めたことなんだから。
「わかった。家を出たら電話して」
夫が「飛行機は」って言っているそばで電話を切った。
「もう譲らないんだよ。ムリだよ、あれは。飛行機って選択肢はなかったんだよ。車で送ってくるからね」
わたしたちは居間のテーブルで作戦会議を練っていた。テレビは消した。もう、それどころじゃない。
「なんで旦那も来るんだよ。普通は義理の姉の家になんて行きたくないはずだと思うけど。自分だったら、絶対送ってこないけどな。家だってそうだよ。あき子さんどうしたんだよ。五十で、家を建てるなんて普通だったら考えないことだよね。借金本当に返せるのかな。僕は絶対にしないけど」
「さあ。そんなことどうでもいいよ。それより旦那はやばい奴だよ。人の傷つくことを何でも言う。本当はパパに一生会わせたくなかった」
妹が再婚したのは、何年前だろう。五年くらい前か。七年くらいたったのか。
再婚同士だから結婚式はしない、って言っていた。なのに、一週間ほど結婚休暇が欲しいから、身内だけの結婚式を徳島で行って、そのまま新婚旅行も四国でするって虚偽の申請をした、と電話があった。みんなに渡すお土産がほしいって言われて、ネットで買うように促したが、お土産も結婚祝いのプレゼントに含めてくれ、と言われた。お菓子や、鳴門わかめ、鳴門金時を送った。院長先生夫婦から多額のお祝いをもらったから、高級なものを頼むと言われたときには、怒りしかなかった。くだらないウソに付き合っている自分にも腹が立っていたことを思い出した。
最近は実家に帰るのはわたしだけだから、夫は二度目の旦那に会ったことはない。
「子供たちに会わせたくもない」
子供は三人。長男の巧は二十八。東京で働いている。二十六の息子、樹は結婚して同じ県内にいる。末っ子の娘の晴は関東の大学生。家には夫婦二人で住んでいるから、部屋は空いている。母の住むスペースは十分にある。
「僕は大丈夫だよ」
夫は大丈夫かもしれないけど、子どもはまだ若い。次男は徳島にいる。世帯が別でよかった。会わせない。
「顔だって邪悪だし。心の中が透けて見えるような顔つきをしているんだから。その風貌で小太り低身長。いつも笑ってごまかしているけど、目が笑っているのを一度も見たことがないし」
思い出すだけで、鳥肌が立つ。
「それ悪口だよ」
「ごめん」
一応あやまった。気持ちはこもってないけど。
「かなりきれい好きで、うちの実家に来るとダニがいる、ダニがいるってうるさいの。大騒ぎ。一週間体調崩したって、前にすごく嫌味言われた。クソめんどうくさい小男なんだよ。大掃除する。あと、ご飯もあき子の作る料理か、出来合いのものしか食べないらしい。好き嫌いも多いんだって。小さな紙パックジュースと菓子パンを大量に買ったら、何かは、食べられるでしょう。床の拭き掃除もする。エアコン、トイレ、浴槽も磨く」
「今から? 」
「わたしは休みじゃないけどパパ、明日の日曜日予定ないじゃない。掃除して。わたしは、二十一日の火曜日の休みと二十二日の水曜日の出勤を本田さんに交代お願いしてもらう。たぶん大丈夫。どうせ、夕方ぐらいしかこっちに着かないだろうから、当日に掃除する。あの男は、樹の部屋に泊まらせて、ばあさんは、晴の部屋に泊まらせる。樹の部屋の掃除、お願いね」
わたしは福岡県久留米市出身だ。父と母。そして妹の四人家族。実家は郊外に父名義の家と土地がある。
妹のあき子は再婚している。二度目の結婚。最初の結婚相手とも、アイツとの間にも子どもはいない。出戻ったあと、かなりしばらくして再婚して、相手の方が椛島家に入ったから妹の苗字は変わらなかった。あき子の旦那も再婚。アイツにバツが何個ついているかは知らない。
彼とは数年前実家で初めて会った。母と妹、そしてあき子の旦那。テーブルを囲んで、湯飲みには八女茶。そして徳島から持ってきた、お土産のキンチョウ饅頭。
「あなたがネクラなお姉さんですか」
開口一番そう言われた。湯飲みをつかんでいた手が一瞬とまった。
テーブルに、わたしが小学生の時に書いたまんがを広げられた。すぐに奪い取った。妹から笑いながら写真撮ったことを伝えられた。頭が真っ白になった。
「あら、上手だったから見せたとよ」
母の屈託のない笑顔。
「巧は携帯の待ち受けにしていたよ、な」
旦那と妹は大爆笑。腹を抱えていた。巧はわたしの長男だ。東京で働いている。出張で福岡に来たときは実家に顔を出していた。わたしが頼んだのだ。たまにはおじいちゃん、おばあちゃんに顔を見せてあげて、と。
父と母の孫はわたししか産んでいない。福岡から徳島までは遠い。それでも二人は車で八時間以上かけて家まできて、孫に一年に一度くらい会っていた。両親は孫がかわいかったと思う。その上、巧と父は顔も性格も少し似ている。
こいつらに会った話は知ってはいた。あき子の再婚した新しい旦那ってどんな人、って聞いたら、しらんって言われただけだ。
「巧、大うけしていた。聞いてない?」
妹の言葉に全身鳥肌が立った。
マンガは家に持って帰って捨てた。もちろん破り捨てた。
次、実家に帰った時に、はちあわせしないようにと注意していたのに、二人は家に顔を出していた。サイアクな気分だ。
「二度と会いたくないって言われた、あき子の旦那でーす」
旦那の言葉を聞いて、わたしは妹の顔を見た。妹は、にやにやと笑っていた。
そうか。そうなのか。そういう夫婦なのか。
九月二十二日水曜日の夜、九時くらいに母とあき子の旦那は家に着いた。
普通車の白い車だった。何度も、この車で父は徳島の家に来ていた。わたしが買った軽が気に入ったのか、買い替えたのは似たような車高の高い車。メーカーは違うけど。
あき子の旦那は父の買った車を使っている。父がアルツハイマーになって、家族みんなで車を乗らないように数年以上説得して、やっと取り上げた車だ。事故が起こる前でよかった。妹が自分の乗っている車をもうすぐ廃車にしなければならないって言ってからは、嘘のように早く取り上げられた。本気で説得してくれたおかげだ。車をあげることにはなったが、そんなことはどうでもいい。とにかく、助かった。
妹の車になると思っていたら、旦那の車になっていた。妹は旦那の車をもらったみたいだった。そのことは、母から聞いていた。
車のナビの中に、徳島の履歴が残っていた、それをたどってここまで来たのだ、と言っていた。
履歴を地点登録して、いつでも家に来られるようにしたのはわたしだ。父は新しい車になれるのが容易でなかったから、久留米の自宅を登録したのも、わたし。
「おじゃまします」
あき子の旦那が玄関に入った。母も中に入る。母の両手には段ボールと小さなバックが一つ。旦那も紙袋を一つ持ってきていた。荷物はそのままそこに置きっぱなしにするよう促して、中に案内した。
小さな廊下の奥にリビングがあって、そこに通す。六人用の大きなテーブルにこたつ。テレビが中央にあって、その横に大きなフェイクの観葉植物。部屋の横には人をダメにするビーズクッションが二つ。座椅子。
「夕食は食べましたか」
わたしの問いに、食べた、って返事が戻ってきた。
出されたものは飲まないって聞いていたが、お茶のペットボトルを出した。
夫も仕事から帰ってきた。手には缶ビールと大量のおつまみ。わたしは心の中でありがとう、を言った。
あき子の旦那はビールを受け取ると、うまそうに飲んだ。夫も夕食を食べながら、それをあてにして飲んでいた。母は小さくなってテーブルについていた。あき子の旦那の斜め横には夫がいる。
「巧くんがお父さんは怖いって言っていたからね、坂東さんには一度会いたかったんですよ。巧くんに殺すぞって、すごんで言ったことがあるんですよね」
アイツのおそろしい言葉が聞こえた。
わたしは手をとめた。思わず、顔を見た。
一瞬で部屋の空気が凍り付いた。そう思ったのはわたしだけだろうか。
この人は何を言っているのだろう。初対面でビールとおつまみを渡した夫に。
夫は笑顔を崩さなかった。顔も赤いままだった。
「そんなことあったかな。覚えてないけどな」
わたしはそう言うと空の缶を集めて、テーブルを拭いた。
長男とはいろいろあった。学校で禁止されているバイクも乗り回していたし、未成年のくせに夜遅くまで帰ってこなかったことも一度や二度ではない。親に対する態度も、投げつける言葉も、ナイフのように鋭利で、胸の奥に深く突き刺さった。
二人の間に挟まりながら、必死に怒っている夫から息子が殴られないように防御したのを思い出した。あの時だ。大惨事だった。忘れるわけがない。平気な顔をしてつっぱっていた息子。本当は怖かったのか。
「巧の勘違いじゃないかな」
へらへらしながら、キッチンに戻った。対面式のカウンターから、夫の顔色をそうっと覗く。
彼は機嫌よくビールを飲んでいるように見えた。
「そんなことも、ありましたね」
夫は認めた。どうして、こんな奴にそんなこと言うんだよ。
わたしは流しに缶を置いて、テーブルに戻った。
テーブルの端っこに母はいる。食卓椅子に深く座っていた。長時間のドライブで疲れたのか、何も話さない。
「おねえさんは昔、紙にシネシネシネって書いていたんだって。あき子がそれを見てびっくりしたって言っていましたけど。やばい奴っていうか」
にやにやしながら、わたしの顔を覗いている。
思考が停止した。
「あ、でも、文章を書く人って言うのは、ほら、なにかクリエイティブな発想で書きがちですよね」
あいつがまずいって思ったのか。たぶん今、必死にフォローしている。
「姉さん、書く文章って素晴らしいですよね。上手いし」
見たことなんて、ねえだろ。バカにされた漫画を思い出した。撮影されるほどの、汚点。
「うまくないですけど」
「賞に受かっていますよね」
「受かっていませんけど」
夫が徳島の文学賞の名前を言った。ああ、あれか。佳作ね。表彰も賞金も副賞もなかった、アレ。趣味でやっている人たちの文学賞。商業誌ではないやつ。読み直したら、文章ひどかった。あれか。
しばらくアイツのしゃべりが続いた。今住んでいる大家の悪口。そして、妹の悪口。
妹はバカで、どうしようもない女だけど、自分が更生してやったのだそうだ。離婚するぞ、というとなんでも言うことをきくらしい。
これはのろけなのか。妹の家族にこんなことを言う意図はなんだろう。妹はこの男になんの魅力があって結婚を継続しているのだろうか。
「いやあ、こっちに来るのは、大変でしたよ。岡山から香川に来るときの、瀬戸大橋。長くて強風で。恐怖しかありません。お姉さん、よくもまあ、久留米に一人で来られますね。僕は二度とあの橋は通りたくありませんけどね」
久留米には、高速道路を一人で運転してよく帰る。母は簡単に帰って来いって言う。八時間。体中痛い。とくに、腰にくる。でも、到着したあとの移動手段を確保するためには、この方法が手っ取り早い。
「すごいですね、尊敬します」
うそつくな。口から毒が出そうだったが、気力でとめた。
「お義母さんは引っ越しの荷物、ダンボール20箱までにしてくれって言ったのに、勝手に増やして、困りましたよ。業者には20箱で契約で、金額を指定していたのに。契約違反ですよ」
「それはすいません」
一応あやまる。
「汚いタンスを家に入れるって言うんです。和室に。引き出しはガムテープで張っていて、ボロボロ。このタンスを入れるか、離婚するかで夫婦は話し合いました。仕方ないから、こっちが折れましたけど。まあ、お義母さんはわがままで。勝手なことをして困っているんです」
「あのタンスは、お父さんが気に入ったタンスだ。思い出のタンスなんだ。捨てないよ、絶対」
母は言った。
「聞いてくださいよ。一週間前にお義母さんの弟さんが叫びながら、取り壊している家にやってきたんです。コロナが蔓延しているこのご時世に、マスクなしで。信じられないですよ。それも、酔っ払った状態で怒鳴って、叫んでいるんですよ。お陰で一週間体調不良で寝込んでいました。どうしてくれるんですか、お姉さん」
母の顔を見た。泣きそうな顔をしている。
「マスクしないんだよね。困るよね」
母の言葉が、か細い。
「そのせいでほんとうに体調が悪いんです。寝て起きて、をしばらく繰り返していました。気分もサイアクです。コロナにかかったかもしれない。本当に信じられない」
「すいませんでした」
わたしは謝った。理不尽でも、あやまってすむなら、いくらでも謝る。
母は山形出身だ。父と神奈川で出会って、父は母を九州に連れて帰った。わたしが結婚してしばらくたったころ、母の弟は商売で莫大な借金をしてそれを返せず、兄弟全員にお金の肩代りをさせた。住む所もなく、居場所もない康雄叔父を引き取ったのは父だ。
借金返済後、県営に住まいをうつすまで面倒をみるなんて、尊敬しかない。自分に、はたしてできるだろうか。
母は六人兄弟の三番目。叔父は下から二番目。親戚は北関東と東北にしかいない。一番遠いところに住んでいた父。それなのに自立できるまで、衣食住を支え移動手段のバイクを与えた。私が実家に帰ったときは、家の二階に住んでいたが、居間に下りてきて話すことはなかった。わたしも上に上がることはない。階段には見えないボーダーラインがあった。働いてはいたらしいが、年寄りの引きこもりのようなものだ。同じ家にいても、交わることはない。
「よくもまあ、あんなクズ。どうしようもない」
アイツの吐きつけるような言い方。母の前で、よく言えるな。
母は、そっぽを向いている。わたしはテレビの音をあげた。
「警察を呼んで、連れて行ってもらったんですよ」
康雄叔父さんの心のよりどころは久留米に住んでいる母だけだ。姉に会いに来るのは当然だと思ったが、何も言わなかった。
「マスクもしないで叫んで、どんなに怖かったかわかりますか。ボケたふりをして、酔っ払って叫んで。そのあと勝手にこけたら、素に戻ったんですよ。ほんと、人間のすることじゃないですよ」
怒りがよみがえってきたのか、声が荒い。
「大変でしたね」
「警察もみんな、変な目で見ていましたしね」
それは、アンタの怒鳴り声で驚いていただけだよ。のどの奥に言葉が引っかかったけど、その言葉を発することはなかった。
母はまだ小さくなっていた。
一週間も体調が悪いなんて、よくもまあそんなに仕事をやすめたな。どんだけ、良い職場にいるんだよ。
コロナにかかっているかもしれないから、姉夫婦に病気をうつそうとしているのだろうか。母を送るのが目的じゃなく、姉夫婦をコロナにするのが目的。だから、来たのか。
「お義母さんは、医療費の領収書もマイナンバーの書類もかたづけないんです。なくなった大事な書類がたくさんあって。本当に困りますよ」
母の横なのに悪口がとまらない。こんな状態で本当に新居に同居できるのだろうか。
「家を壊すのに、二百五十万かかりました。花畑でマンションを買うより高くつきました。コロナで資材が高騰しているんです。ローンは楽天銀行に二千八百万借りるんですよ。お母さんが住むスペースを作るのに余分に六百万かかりました。マンションなら六百万安くできたのに。大損ですよ。感謝してもらわないと、困ります」
父の家を壊して父の土地の上に平屋を建てる。ほぼ百坪の土地にでかい平屋が立つ。平屋をよその土地に建てるとしたら、どれだけの土地代がかかると思っているんだ。二百五十万で、久留米にそんな土地が買えるか。
花畑は地名。西鉄久留米駅の隣で、駅周辺の立地だ。むかしのごちゃごちゃした街並みはなくなり、舗装されてきれいでおしゃれな街に生まれ変わっている。あの立地で、六百万引いて二千二百万?どこにそんなマンション売っているんだよ、教えろよ。
「そうなんですか」
とりあえず笑顔を作った。母の顔を見た。テレビを見ていた。
母には娘の部屋を使うように言った。
アイツには次男、樹の部屋を使わせた。マットレスとベッドパットの間にはダニ吸着シートを挟み、シーツは洗ったばかりの綿素材を使った。部屋に空気清浄機をセットして、床は雑巾できれいに拭き上げた。エアコンの中まできれいにして、開けても視界には汚れが見えないようにした。
体調が悪いなんて、気持ちの問題だろう。見た目が古かったり汚かったりすると、気分が悪くなり体調も悪くなる、そういう性格なのだ、たぶん。マスクしていないから、コロナだと思って体調不良になる。もし、コロナにかかっていたのなら、同居している妹が平然と看護師の仕事をやり続けているのはおかしいんじゃないのか。ツッコミどころ満載だ。
実家は古い。見た目もきれいではない。でも、掃除はしている。母は床を拭き上げる。片づけは苦手だが掃除は好きだ。洗濯だって、細かい。わたしよりきれい好きだ。
二人が部屋に入ってから、夫とともに寝室に入った。
八畳の部屋にシングルベッドが二つ並んでいるだけの部屋だ。いつもは、布団が脱ぎっぱなしの乱れた状態。でも今日は、誰かが入っても大丈夫なように、意識してきれい整えた。
夫はクローゼットのドアを閉めた。明日のジャージの準備だろう。
「思い出したことがある。いままで、忘れていたこと自体が不思議なんだけど」
「なに」
夫の声。
夫は、自分のベッドに入る前に、立ったまま振り返った。
「わたし、お母さんのことずっと嫌いだった。いつも、ケンカしていた。ひどいこと言われて、早く家を出ていきたかったんだった。それで、十代で家を出た」
涙が出てきた。手で顔を拭いた。隣の部屋の母親に気づかれないように声を殺した。
顔が見えないように電気を消した。
すると、夫が抱きしめた。
「わかった。わかったから」
「よくノートに書いていた。かあさんの悪口。あの時は、自分を保つために、あれが必要だった」
「うん、うん」
夫がうなずきながら、髪をなでた。
「油断するなよ。気を引き締めて。明日もあるから」
夫は布団に入ると、すぐに寝息をたてはじめた。目が見開いたまま、天井がぼんやりと見えた。しばらく、寝つけなかった。
朝。今日は祝日だ。わたしは仕事で夫は休み。アイツはすぐに帰るという。
昨日買ってきていた菓子パン。アンパンにウインナーパン、チョコレートに明太子、メロンパン。ペットボトル飲料と紙パックにはコーヒーにお茶、イチゴミルクジュース。好みが分からないから、いろんなものがテーブルの上にのっている。家族四人分が三日分くらい生きていけるだけのの食糧の量。まるで非常食だ。
アイツは潔癖症。信用したもの以外は、無理だそうだ。どうぞ、どうぞ。ご勝手に。
二人は昨日座ったところに座っている。アイツにテーブルの上のパンを勧めて、残ったものを取ろうとした。アゲアンパンがない。夫に聞いたら昨日寝る前に食べたらしい。いつの間に。
仕方ないからクリームパンを取った。ジュースを勧めた。何も受け取らない。食べたいものがないのかもしれない。それとも、買ったものさえも信用できないのかも。
我が家の朝は、コーヒーを入れることから始まる。コーヒーにヨーグルトにバナナ、そして食パン。でも、今朝は菓子パンデー。
夫がキッチンに入る。わたしはテーブルから、夫を見た。
コーヒー豆から、専用のミキサーで粗挽きにした。それをフィルターに入れたら、ドリップ用のケトルで、お湯をまわし入れる。いいにおいが部屋中に広がった。最高。いい感じ。ティーサーバーには、時間をかけながら、なみなみにコーヒーが入っていく。四人分くらい。
夫の朝イチの仕事。わたしはだいたい毎朝二杯は飲む。
夫が、いれたてのコーヒーをカップにそそぐ。
母も飲みたいと言ったから、そのカップを渡した。
「久しぶりに飲んだら、おいしいね」と、母。
入院している父はコーヒーが好きだった。よくドリップしていた。
「ぼくも毎朝コーヒーを入れるんですよ」
アイツが言った。
「そうなんですか」
わたしは、紙パックのコーヒーを渡した。ブラック。
「朝はコーヒーしか飲まないんです」
「そうなんですね」
じゃあ、朝食は食べなくていいんだな。
「いれたてのコーヒー、もらっていいですか」
アイツが言う。えっ。人が作ったものは飲めないし、食べられないんじゃなかったっけ。
「どうぞ」
夫が、使っていないカップにコーヒーを注いで、言った。
わたしはこれから出勤する。アイツはその前に帰る、と言った。
アイツはコーヒーを飲んだ後、持ってきた紙袋を持って、玄関を出た。夫とわたしは外に出た。エンジン音が鳴る。二人で車が出ていくまで手を振って見送った。
「あき子さんの旦那さんきれい好きだって言ってたらしいけど、車汚かったね」
「そうだっけ」
「車体は汚れてるしバンパーは錆だらけ。大事に使ってないんだね」
居間に戻ると、母が小さくなって言った。
「ほんとうに、いいの。わたしがココにいて迷惑じゃないの」
「は? 迷惑なわけがないじゃない」
出勤前に、何を言っているんだか。母の顔を見たら、泣きそうな顔をしている。
「あーあ。土地を取られたな」
夫がぽつりと言った。
もうなんなの、この二人は。言いたかったが、やめた。めんどくさ。
仕事が終わって、家に帰ってきたら母と夫がいた。リビングに入ってバックを座椅子の横に置くと、母が小さくなって座椅子に座っている。夫はテーブルについていた。そうか。これからしばらくは母がいる生活なんだ。
「わたしがいて、いいの。迷惑じゃないの」
母がまた、わたしに言った。
「迷惑じゃないですよ、いてください」
夫が言う。
「そうだよ。何言っているの」
母に言うと、ごめんね、って返事が戻ってきた。
風呂に入っていた夫はすぐに二階に上がった。
母もお風呂に入ってから歯を磨いた。二人で二階に上がって、わたしたちのとなりにある昨日使った晴の部屋に連れていった。ここが母の部屋になる。しばらくここを使ってほしいと説明した。
寝室に戻って、夫と話した。
「お母さん、どうだった」
「なんか、気を使っていたよ。小さくなってあやまってばかりだった」
「変だね」
そう言っていたら、夫の寝息が聞こえてきた。相当気を使ったんだろう。
母は、家に来てからは、流しのものはすべて洗っていた。とても楽になった。気が付くと、くつろいでテレビを見ている自分に気づく。
「別に洗い物なんてしなくていいよ。そんなことをしなくたって、家を追い出したりしないよ」
座椅子に座って、後ろを振り返る。カウンター越しに、母の顔が見える。
「いいのよ。あき子の家では何もさせてもらえなかったから。動くのってこんなに楽しいのに」
食器を洗う音が聞こえる。泡まみれで、食器用洗剤を使いすぎのような気がするが、洗ってもらっている立場だから、それについては何も言わない。
「洗い物を? 」
「うん。洗い物だけじゃないよ。冷蔵庫も流しもレンジも。触らせてもらえないの。飲みたいときは、あき子が冷蔵庫を開けて、麦茶を渡してくれる」
「いないときは」
「飲まない」
「なに、それ」
立ち上がって、母の横についた。
母は楽しそうに、水を流し始めた。泡が排水溝に流れていく。
「あき子の旦那がいないときに、勝手に飲んだらいいじゃない」
わたしは洗い終わった食器を受け取って、食器乾燥機の中に並べて置いていった。
「いつもいるのよ、仕事してないから。わたしはほとんど部屋にこもっているし」
「仕事、してないの」
「やってない。家を建てるまでは、働かないんだって」
「まじで」
なんなの。それ。借金の二千八百万。どうするんだよ。
洗い物が終わると、母は手を拭いて、テーブルについた。ジュースをグラスに入れて渡すと、ありがとうって言われた。
「冷蔵庫も、母さん専用の冷蔵庫買うようになっているのよ。だから、大丈夫」
余計に心配だ。
「夕食もすべてあき子がするのよ。仕事して、買い物して帰ってきて、夕食して。疲れているのに、大変よね。かあさんは洗い物も料理もしてはいけないから、ヒマで、ヒマで。夕食作るよって言ったんだけど、ダメだって」
「母さん、いつも何していたの」
「自分の部屋で編み物しているだけ」
ジュースを一口飲んだ。
「しょうがないじゃない。ユウジくん何かって言うと、ここは僕の家ですから、っていうんだもん」
「僕の家? そんな人たちと一緒に、ホントに住めるの」
「大丈夫よ、何とかなるよ」
そんな言葉生まれてから一度も言ったことないし、言われたことない。
アイツらはわかっているのか。住むのは父の土地の上に建つ家なのだと。
「最近、土地を取られたってひとりごとのように言っているけど、あれなに」
居間でNHKのスポーツニュースを見ている夫に話しかけた。最近はだらしなく座椅子に寄りかかることはなくなった。
「そんなこと、言っていたかな」
夫は画面から目を離さない。
「一日に二回は言っていますけど」
言わないときもあるけど、五回くらい言っているときもある。無意識って怖い。
あんなに口癖のように言っているのに、母が気づいていないのも、不思議。
母が風呂に入っているときが、唯一の夫婦の会話の時間になっている。聞かれたくない話はこの時がチャンスだ。他でも、話すときはあるけど。そのときは主に寝室。
「ふつうに考えたらわかるでしょう。義理の姉の家に、妹抜きで来る。普通は来ないよね、そんなところに。あれは、うちを見に来たんだよ。広さとか、雰囲気とか。お義母さんを一生面倒みられるかどうか。大丈夫だと思ったんじゃない」
「うちを見に来たの」
「そうだよ。子供たちは巣立っているし、二人しか生活していないからね。スペースは十分にある」
「そうなの」
衝撃で体がのけぞった。
「もしかしたら、一生久留米に戻さないとか」
「可能性はある。でも、その方がいいと思うよ。同居して虐待されたらどうする。暴力って意味じゃないよ。冷蔵庫も開けられない。キッチンにいることを許してくれないだろうし。あの旦那は、おかしい。自分の都合ばっかり口にして、人のことを思いやる気持ちは持ち合わせていない。そんな家で同居したら、それこそおかしくなるよ」
「じゃあ」
夫の顔を見た。
「お母さんと同居してもいいの」
「いいよ」
「ありがとう」
わたしは夫に抱きついた。やめろよって言ったけど、嫌そうな顔をしていないから、そのまましがみついていたら、お風呂場からドアが開く音がした。慌てて、夫から離れた。