第四話 悪夢
"それ"は、俺が今まで見たことのある生物とは、何もかもが違っていた。
人間のように二本の足で立ちながら、衣服を纏わないその皮膚は、光沢のない黒色に覆われていた。
頭髪のなどのない頭には禍々しい角。
背中からは、蝙蝠を彷彿させる一対の黒色の翼が生えていた。
悪魔、という単語が頭をよぎった。
全身を纏う盛り上がった凶悪な筋肉、両手の先から伸びた、鋭利な爪には血がこびりついて、こいつがアリアを襲ったのだろうことは、容易に推測出来た。
「しでかだきえねぱらだかい」
"それ"は再度、理解不能な言語のようなものを口にした。
意味不明、正体不明――――理解不能。
思わず一歩、後ずさる。
魔物に関する話は村で少しは聞いていたが、言語を解する魔物など、聞いたことが無かった。
魔物は俺を視界に入れると、ぺろりと舌なめずりをし、空に向かい口を開いた。
「――――――――ッ」
大気を揺るがす咆哮に身体がびりびりと震える。
「にげて。わたしが、きをひいておくから」
アリアは上体を起こしながら、痛みに顔をしかめていた。
「いや、逃げねぇよ」
彼女を連れて逃げるのは難しそうだな、と頭の冷静な部分で考えながら返事をする。
そして怪我をした彼女を見捨て、自分だけが助かることを、俺は許容できそうになかった。
そんなことをしたら、二度と"主人公"にはなれないと思った。
「きもちは、うれしいけど、ふたりとも、しぬことになる」
「そうとも限らないぜ」
軽口を叩く俺に、アリアは理解出来ないものでも見たような顔をする。
「はだえらすふか」
その時、魔物がこちらに近づいて来る気配がした。
「………っ」
ビクリと僅かに震えた彼女の前に、俺は歩み出る。柔らかい腐葉土に僅かに足が沈み込む。空から降る冷たい雨に、頭を冷やす。
「……ビビんな、俺」
息を吸う。葉や土や雨の匂いに混じり、背後の彼女から僅かな血の匂いと、そして正面の魔物から漂う猛烈な獣の臭いがした。
大丈夫。
大丈夫なはずだ。
俺に宿るのは剣神の加護。勇者の旅に指名されるほどのチート能力……そのはずだ。
相手が怖いと感じるのはきっと、ただ俺がビビってるだけだ。
しとしとと降る雨の中、さっき見つけておいた木の枝を両手に構える。
幾らか離れた距離で立ち止まった魔物を、じっと見つめる。
さっきと同じようにやればいい。突っ込んでくる相手に合わせて、カウンターで一太刀浴びせる。それで終わりだ。
見る。
魔物は動かない。心臓の鼓動がうるさい。
見る。
まだそこにいる。上がる呼吸を必死に抑える。
見る。
魔物はにたりと笑う。不気味な笑みに震えかけた足を鎮めようとする。
見―――― 視界の端に映る葉から、一滴の雫が滴り落ちたのが見えて。
「あ」
「さねなけ」
目の前に、魔物が居た。
刹那、目の前に迫った魔物は、その爪を俺に振り下ろす。
「――――ッ!!」
咄嗟に、横に跳ぶ。
魔物の一撃は、地面を削るだけに留まった。
初撃を回避したことに、安堵する間もなく、僅かに首を傾げた魔物の、もう片方の手の爪が俺を襲う。
「っ! ぉおおおおお!!」
俺は木の枝で迫りくる凶刃を受け止め、全神経を集中して受け流した。
「はからなら?」
魔物は、当惑したように大きく、首を傾げていた。
なぜ、こいつは死なないのか、と思っているのかもしれない。
俺は、大きく息を荒げながら、至近距離で、魔物を睨む。
大丈夫。反応出来てる。
俺は油断なく木の枝を構え、様子を伺う。
「さかまた」
首を傾げていた魔物の下半身が、一瞬、ブレた。
「ぐげ」
瞬間、視界が飛んでいた。
ゴムボールのように蹴り飛ばされたのだと、理解する間もなく、背中に酷い衝撃があって、身体が木に衝突したのだと分かる。
頭上から若葉が舞落ちる。
信じられないくらい身体が痛い。
遠くから、アリアの悲鳴が聞こえた気がした。
息が吸えない。
肺がおかしくなったのか、必死に息を吸おうとするも、酸素が回ってこない。
そうしていると胸元に込みあがってきたものがあって、思わずごぼりと吐き出す。
一部が手にかかり、ぬるりとした感触がした。
「………………」
手元の、綺麗な赤でなく黒ずんだ色をしたそれは、どう見ても血液だった。
「……は?」
思考が停止する。
血? 肺をやられたのか? どうして? 剣神の加護は?
魔物の攻撃が見えなかったのはどうしてだ。この加護は、チートじゃなかったのか?
チートを簡単に上回るような敵が、どうしてゲームで言えば序盤の森で出て来る?
頭の中をぐるぐると回る疑問も、身体を走るじくじくとした痛みに中断させられる。
…………俺が持っていた、枝は。
必死に視線で探すと、根元からバキリと折れた木の枝が、遠く魔物の足元に落ちているのが見えた。
この森に降る雨が、徐々に身体から熱を奪っていく。
「だうわかなせは」
魔物ははっきりと嘲笑するような声を上げた。
「…………ッ!」
がちがちと。
雨の冷たさ故か恐怖によるものか、奥歯が鳴っていた。
森に再び入った時の決意は、とうにどこかに消し飛んでいた。
「何だよ、なんなんだよお前……!」
貴族を助けた時は誰も大きな怪我はしていなかった。勿論、俺も命の危険なんて感じなかった。
だけど今は明確に死の恐怖があった。
魔物は雨の中、ゆっくりと、俺の方に近付いて来る。
「――――ッ! ぃいいい!」
逃げないと。
そう思っても腰が抜けていたのか、立ち上がることも出来ず、必死に手足を使い地面を這うようにして距離を取ろうとする。だが、逃げられるはずもなく、背中に衝撃。
「ィッ、ァ、ァぁああああああ!?!?」
背中が燃え上がったのかと思った。
魔物に爪で抉られたのだと認識する余裕すらなかった。
感じたことのない痛みに地面をのたうち回り、雨でぬかるんだ土に塗れながら、泥だらけになった口から唾と共に絶えず悲鳴が零れる。
痛い、痛い痛い痛い痛いいたいいたいッ!
地獄の時間は続く。
魔物はその黒く硬い足で、俺の背中につけた傷口を踏みにじった。
ぐりぐりぐりぐり。
「あっ、アァアアアアアアアア!―――」
口から自分のものとは思えない絶叫が零れる。
この世のものとは思えない痛みに、心が壊れていく。
いつしか、無意識の防衛本能か、泣き叫ぶ身体から切り離され、俺は意識の中を漂っていた。
走馬灯というのだろうか、これまでの人生の記憶が頭を駆け抜ける。それは五年の日を過ごした今世の記憶と……否応なしに、前世の記憶も。
俺は前世じゃ、落ちこぼれだった。
何にもできなかった。
家族も居らず、児童養護施設でも友達は出来ず。その癖、勉強も運動も、他にも誇れるものなんて一つもなくて。いつか何か変わるんだって訳もなく信じて、何も行動せずにいた。
思う。
俺は異世界転生して、少し調子に乗ってたんだ。
ゲームみたいな、物語の中みたいな、そんな気分だった。
変われた気がしたんだ。弱い自分から。
でも、変わっていなかった。むしろ、勘違いして悪化した。
ただへらへらと自分に都合の良い夢を見て、危機に陥っても自分だけは大丈夫だと根拠なく信じていた。
だから傷つけられて簡単に折れた。ぽっきりと折れた。
気付けば、ほとんど肌が触れるくらいの距離に、魔物の息遣いを感じた。
雨に濡れて冷え切った身体に、かかる吐息の熱さだけが妙にリアルだった。
朦朧とした意識の中、魔物の額に、こつんと何かがぶつかったのが見えた。
「うきらわ?」
黒色の外骨格に跳ね返った物体は、血に濡れ泥に塗れた視界に入り込む。
ころころと転がって来たそれは、小さな石だった。
魔物は笑みを消し、それが飛んできた方向に顔を向けた。
――――アリアが、傍の木の幹にもたれるようにして、上体を起こしていた。
「………ばかなけものは、こっち」
木には、べったりと血痕がついていた。
身につけた衣服は端が千切れ、ぐしゃぐしゃの青い髪は雨を吸って胸元に垂れている。
右手を伸ばした、小石を投擲した姿勢のまま、口元を歪めた彼女を見て、
「ならまほしか」
魔物は僅かに苛立った様子で、俺の背中から足を退けた。
「…………ぅう」
彼女の助けに感謝する余裕もなく、俺はただうめき声を上げた。地獄の痛みは、時間にしてみれば数分の出来事だったかもしれないが、凄まじく老いたように感じる。
雨に濡れて視界にかかる前髪がどういう訳か、白くなっているのが見えた。
魔物は標的を変えたようだ。
散歩でもするかのように、ゆったりとした調子で俺から離れていく。
木の幹にもたれて、歯を食いしばるようにして痛みを堪える小さな女の子を見て、魔物は牙を剥き出しにして嗤っていた。
それでも彼女の瞳だけは未だ、爛々と輝く双眸は化け物を睨んでいたが……一瞬俺に向けられた、視線には、明確な意志が込められていた。
――――にげて。
……怖くないのか?
命の危機に際しても毅然とした姿を見て、俺は同じ魔物の犠牲者であるはずの彼女と自分との間に、埋めようのない差を感じた。
やはり、俺は凡人でしかない。
自らの意気地の無さに絶望しながらも、俺は激しく痛む体を引きずり、なんとか這うようにしてその場を離れ始めた。
数歩分移動した時点で、魔物が少女の傍にたどり着いた気配がした。
俺はそんな余裕などないし、見るべきでないと分かっていながらも、こらえきれず一度背後を振り返った。
雨に濡れる視界の奥。
木にもたれた彼女のすぐ目の前で、魔物が口を開いているのが見えた。
彼女の小さな体躯など、丸吞みにしそうなほど大きな口。唾液にまみれた牙が並んでいる。醜悪な笑みを浮かべた、魔物の吐く息が彼女の蒼い髪を揺らし――――。
「……なに。さっさと、ころせば?…………………………ぅ、ぅぅ」
最期まで気丈に魔物を睨んでいた少女の瞳に、はっきりと恐怖の影がちらついたのが見えて。
「………………。………………………………………ざ、けんな」
思わず、零れた。