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彼氏は命の恩人です

作者: 津島 結武

 私の彼氏は命の恩人だ。


 今、私はある警察病院の一室で白く清潔なベッドに横たわっている。

 病室で過ごす患者は私一人。ベッド脇にある棚の上には吊り下がった薄紅紫色の花が花瓶に生けられている。この少し不思議な花はイカリソウというらしく、彼氏がお見舞いに持ってきてくれたものだ。

 そして、傍にはその彼氏が椅子に座っている。

 職場がすぐ近くにあるため、仕事の合間に来てくれたのだ。



「具合はどう? サツキ」温かな手が私の手に触れる。

「うん、傷が浅かったのもあって、今はほとんど平気だよ。モトヤ」



 私がここにいるのは、何者かに腹を刺されたからだ。

 ある夜の帰り道、私は通り魔に襲われたのだ。ひと気の少ない狭いT字路で、横から走ってきた男にナイフで一突き。私は痛みのショックが強すぎて気を失ってしまった。

 幸いにも、モトヤが私の倒れているところを発見し、すぐに救助を呼んでくれたため、大事には至らなかった。

 現在、犯人はまだ捕まらないでいる。



「よかった。すぐに良くなるといいね」モトヤは私の手を強く握る。

「痛たっ。強く握りすぎだよ……」

「あ、ごめん。つい力が入っちゃった」彼は力を緩めた。



 トントントン。

 病室のドアがノックされる。



「はーい、どうぞー」私はドアに向かって伝える。



 静かな音を立ててドアが開くと、看護師さんが袋のようなものを持って入ってきた。



「失礼します。点滴を取り換えに来ました」明るく朗らかな声だ。表情も柔らかい。

「はーい、お願いします」



 看護師さんがモトヤと反対側に立って点滴を取り換える作業に移る。



「それじゃあ、仕事に戻るね」椅子から立ち上がってブリーフケースを手に取る。「明日は仕事終わりの夕方に来るから」

「うん、頑張ってね」



 モトヤは私に向かって軽く手を振り、病室を後にする。



「仕事の合間に来てくれるなんて、素敵な彼氏さんですね」看護師さんが私に語りかける。

「職場がすぐ近くなんですよ」

「あらぁ、彼氏さんがすぐ近くにいてくれるって思うと、安心しますよね」取り換えの作業を終え、私の顔が見える位置に移動する。



 看護師さんの言う通り、私は本当に安心している。入院したおかげで、以前よりも多くモトヤと会うことができるようになった。おかしな話だが、このような環境を提供してくれた通り魔に半ば感謝している自分がいる。

 しかし、たった一つ、気が気でないことがあった。



「ところで鈴木さん、具合はいかがですか?」看護師が私に尋ねる。



 それは、看護師の背後にいた。



「鈴木さん?」



 向かい側のベッドの横に。



「鈴木さん、聞こえますか?」



 ぼろぼろの白い服を着た、乱れた長髪の女性が。



「鈴木さん!」

「は、はい!」はっとして看護師さんに目線を戻す。



 そう、この病室には、女性の幽霊が憑りついているのだ。



「まだぼーっとすることがあるみたいですね」呆れとも安堵ともいえない表情で私を見つめる。「先生に相談してみますね」

「あ、ありがとうございます」

「それでは、しばらくしたらまた見にきますね」そう言って部屋のドアを開ける。「何かあったら、すぐに呼んでくださいね」

「わかりました」



 看護師が出ていく。

 さっき幽霊がいたところを見やると、そこには何もなかった。ごくごく普通のベッドなどがあるだけだ。しかし、見間違いでは断じてない。


 幽霊は入院したときからいた。初めに見たときは驚いて大声を上げてしまった。そのときは事件から少ししか経っていなかったため、錯乱状態にあると判断されたらしく、鎮静剤を打たれて強制的に眠らされた。

 ところが幽霊は翌日にも現れた。その次の日にも。

 そして、去った後には必ずこう言うのだ。



「あなた…………から。……ころす」



 背中を毛虫が這うような感覚に襲われる。錆びた弦を弾いたような声だ。

 この声を聞く度に、この病院に入院したことを後悔する。



「あんなことなんて切り出さなければなぁ」私は誰もいない病室で一人つぶやく。



 通り魔に襲われる直前、私は駅近くのカフェでモトヤと会っていた。

 彼とのマンネリ化した日々に気持ちが冷めたので、別れ話を持ちかけたのだ。



 *



「……それだけで?」拍子抜けした顔でモトヤが問いかける。

「うん、正直、モトヤといるだけじゃ、パートナーっていうのが何なのかわからないままな気がするの」まるで毒にも薬にもならない話をしているような語調で言った。

「どういうことなんだ? 一緒に毎日を過ごして、互いに支えあう。それ以外にパートナーとは何たるかなんてあるのか?」

「わからない。けど、モトヤと過ごすだけじゃ本当の男性の魅力っていうのがわからない」



 モトヤは黙した。納得のいっていない顔だ。



 しばらく沈黙が流れ、ようやくモトヤが口を開いた。「それって傲慢じゃないか?」

「かもね。でも、別れたい気持ちは変わらない」自分でも驚くくらい冷徹な言い方だった。

「……わかったよ。もう行って」彼は私から目をそらして言った。

 私は「今までありがとう」と一言だけ残して去った。



 *



 そして例の事件が起こった。別れたはずのモトヤが助けてくれたのは、私の言い草にやはり筋が通らないと思った彼が追いかけてきたからだ。

 今はこうして以前よりも満たされた日々を送っているが、私が別れ話を切り出さなければ、通り魔に襲われることもなかっただろうし、モトヤを振り回すこともなかった。何よりも、あの幽霊を見ることもなかった。


 私は一つ深いため息をついて目を閉じた。ゆっくりと眠りに落ちていく。

 早くここを退院して、前と同じような毎日を過ごそう。優しい彼氏の傍で、ずっと。



 *



 翌日、警察が事情聴取にやってきた。小太りの男と、真面目そうな若い男性だ。



「宮城県警刑事部捜査第一課の磯部です」

「同じく、水谷です」



 二人の刑事がベッドの横になっている私に警察手帳を見せる。水谷という刑事は手帳の写真と変わりはなかったが、磯部という刑事の手帳には驚くほど痩せている男の写真が入っていた。多分別人だ。



「ドクターにはすでに許可はいただいていますが、一応お聞きしますね」磯部さんが手帳を厚い胸にしまう。「事件についてお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「はい、大丈夫です」

「よし、水谷」そう言って彼は後ろに下がる。



「はい、ではまず犯人の特徴についてお伺いします」水谷さんがメモ帳とペンを手にして前に出た。

「特徴、ですか」当時の記憶を呼び起こすよう、視線を天井に向ける。

「どんな些細なことでも結構です」落ち着いた声で捕捉する。「例えば、犯人の服装とか、身長とか」


「服は、スーツだったと思います。ネクタイを着けていたような気がするので」私は言った。「でも、上に何かを着ていたと思います。あまり明るい色は目にしませんでした」

「ネクタイを着け、アウターを着ていた……」メモにペンを走らせながらつぶやく。

「身長は170センチをいくかいかないかぐらいだと思います」

「なるほど、170……。男性の可能性が高い」


「顔はよく見えませんでした。多分、マスクか何かを着けていたんだと」目をつぶって細部まで思い出そうと努める。「髪は短髪……。頭部に意識がいかなかったので」

「マスク、計画的の可能性あり……。そして短髪」機械的に要点を口に出してメモに書き取る。


 これ以上思い出せないと判断し、私は目を開けた。「自力で思い出せるのはこれくらいです」

「眼鏡とかはかけていませんでしたか?」

「いいえ」

「犯人は何か言っていましたか?」

「記憶にはないです。すぐに気を失ってしまったので」



 私は、これらの情報が役に立つのだろうかと考えた。どの特徴もありきたりなものだし、どんな人にも当てはまりそうだ。モトヤでさえ、短髪という点を除けば当てはまる。モトヤは私を助けてくれた張本人だし、彼が犯人なわけはないのだが。



「……ありがとうございます。次に、鈴木さんの交流関係についてお伺いします」水谷さんはメモ帳をめくる。「鈴木さんの知人の中で、あなたに恨みや憎しみを持っているような人物はいますか?」

「恨み、ですか……」再び天井を見上げ、目を閉じる。



 自分の所属するコミュニティを一つ一つ取り出してみる。家族、親戚、中学・高校の頃の友人、大学の同期、バイト先の同僚、その他――。しかし、どこにも私に恨みや憎しみを持っていそうな人はいなかった。



「いや、心当たりはないです」私は申し訳ない気持ちで答えた。

「そうですか」水谷さんは何ともない表情でこくこくとうなずく。



 事情聴取を受けているうちに、なんだか心細く感じてきた。

 早く終わらないだろうか。無性にモトヤに会いたい。



「それでは最後に」水谷さんが私を強い眼差しで見つめた。「彼氏さんに関してお伺いしてもよろしいですか?」

「え?」一瞬聞き間違いかと思った。どうしてモトヤについて話す必要があるのだろう。私は眉をひそめて問いかける。「もしかして、モトヤを疑っているんですか?」

「い、いや、そういうわけでなく――」


「恋人に関する質問はどの事件に対しても例外なくお聞きしているんです」水谷さんがたじろいでいると、これまでずっと話を聞いていただけの磯部さんがフォローした。「交際相手の交流関係からも手がかりが見つかることもあるのでね。決して鈴木さんの恋人を疑っているわけではないので安心してください」



 ほっとして胸をなでおろす。確かに冷静に考えれば警察の言う通りだ。考えが足りていなかったのは私のほうだったようだ。



「鈴木さん、よろしいでしょうか?」磯部さんが尋ねる。

「はい、失礼しました」



 私はモトヤの性格、エピソード、交流関係、一緒によく行くお店、趣味、その他知っていることを必要と思われる分だけ話した。少し話を盛ったところもあったが、刑事さんたちは興味深く聞いていた。モトヤの情報が役に立つのかわからないが、なんとなく、満たされた気持ちになった。



「では、これが本当の最後です。荒木さんにはあなたと付き合う以前に交際していた方はいらっしゃいましたか?」

「元カノということですか」私はこれまでモトヤと交わしてきた会話を思い起こす。しかし、彼の元カノに関連する話は思い出せなかった。「すみません、わかりません。でも、多分いなかったと思います」



 水谷さんは磯部さんに視線を向け、もう十分だろうとうなずきあう。



「ありがとうございました。聴取は以上になります」水谷さんがメモ帳をポケットにしまい、頭を下げる。「また話をお聞きすることになるかもしれませんが、そのときはよろしくお願いします」

「はい、こちらこそよろしくお願いします」



 *



 警察が去った後、私はしばらく天井をぼーっと眺めていた。最後の質問を投げかけられてから、もやもやが頭から離れないのだ。

 モトヤには元カノがいたのだろうか?

 あえて聞いていなかったのもあるが、モトヤから過去の恋愛話をされることはめったになかった。

 彼は高身長のほうであるはずだし、過去に誰とも付き合ったことがない可能性は限りなく低い。



「モトヤが来たら、聞いてみようかな」小さな声でそうつぶやく。


 今日モトヤは夕方に来てくれる。今はまだお昼前だ。



 *



 モトヤは約束通り夕方に来てくれた。空が綺麗な赤に染まった時間だ。



「おまたせ、寂しかった?」モトヤがベッドに歩み寄る。手には紙袋を持っている。

「寂しかったよ、でも平気」私はほほ笑んで彼を迎えた。「それは何?」

「これ?」紙袋を上げて問いかける。そして中身を取り出しながら答える。「これは旅行に行っていた同僚からもらったお土産だよ」



 紙袋から出てきたのは大きなバナナだった。鮮やかな黄色で美味しそうだ。



「俺には多すぎるから、二本サツキにあげるよ」モトヤは五本くらい束になっているバナナのうち二本をもいでイカリソウの横に置く。

「ありがとう」私はにっこりと笑った。



 モトヤも同じように笑い、ベッド横の椅子に腰を下ろす。



「そういえばさ、モトヤって私の前に付き合っていた人っているの?」私は昼間からずっと聞きたかったことを尋ねた。

「え? どうしてそんなことをいきなり?」彼は若干困惑しているようだった。確かに唐突すぎたかもしれない。

「今日警察が事情聴取に来てね、モトヤに元カノはいたかって聞かれたから、気になっちゃって」


「警察? どうして警察がサツキのところに?」どういうわけか、より一層困惑してしまう。

「そりゃ、私が被害者だからでしょう?」

「あ、そっか」彼は納得した。彼は元々こんなに天然だっただろうか。



 カラスがのんきな鳴き声を上げる。空も薄暗くなってきた。



「で、元カノはいたの?」

「まあ、いたね」モトヤはこの話をすることに消極的のようだ。「でもすぐに別れた。ある意味付き合ってないみたいなもんだよ」

「そうだったんだ、でもどうしてすぐ別れたの?」

「相手が浮気性だったんだ。すぐに他の男と絡むし、俺の悪口も散々言っていた」心なしか彼の語調が荒くなったような気がした。「もうこの話はいい?」

「あ、うん」




 それからはモトヤの仕事先での話や芸能人の話、音楽の話など、他愛のない会話を楽しんだ。気づいたら外は真っ暗になっていた。時間を忘れるくらい満たされた会話だった。




「そろそろ帰るよ」モトヤが立ち上がる。

「こんな時間までありがとうね」少し寂しい気持ちだが、帰らせないわけにもいかない。

「できるなら一日中ここにいたいけどね」彼は笑う。「それじゃあ、また明日」

「また明日ね」



 モトヤが病室を出ていく。――その直後だ。



「嘘を、ついたな……」



 あの女の声が聞こえてきた。それも、すぐ近くから聞こえる。

 私は病室を見回す。女はすぐそこにいた。私のすぐ横で、モトヤの持ってきたバナナを見つめている。



「あなた…………から。……ころす」



 私はとっさに布団を頭まで覆わせる。

 なんでこんな近くに! 嘘をついた? 私が? いったい私が何の嘘を? 事情聴取されてたときに話を盛ったのが悪かった? そんなバカな!



「……しん……て」



 何を言っているのかわからない。早くいなくなれ早くいなくなれ早くいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれ――。



 *



 次に私の目に入ってきたのは窓から差し込む翌日の朝日だった。淡い青と赤の混ざった遠い空が、健康的に起きる時間より少し早いことを語っている。

 あの幽霊は、夢だったのだろうか。そうだ、夢だったに違いない。


 ベッドに体を横にした状態で横の棚を見やる。バナナはモトヤが置いたときのままだ。近くのイカリソウは朝日に照らされて力強い輝きを放っている。

 無意識にこわばっていた全身の力が抜ける。何事もない一日の始まりだ。


 今日も看護師さんの診察があって、点滴が取り換えられて、薬をもらって、モトヤが来てくれる。――そして、幽霊が現れるのだ。だけど、幽霊が何かしてくることはない。今までもそうだった。昨日は少し驚かせてきただけだ。呪いをかけるようなことはされていない。


 私はそう信じた。しかし、今日のうちにすべてが変わった。





 昼の風が涼しく、穏やかな眠りに身を任せているとき、病室のドアが開く音が聞こえてきた。

 モトヤだろうか。少しモトヤの休憩時間には早いが、看護師さんによる診察はすでに終えているから、きっと早めに休憩をとることができたのだろう。それか、警察が早くも私を刺した犯人を逮捕することができたか。

 私はモトヤが来てくれたことを期待して目を開けた。



「うぃーすっ」



 しかし、扉の前にいたのは、私の予想した何者でもなかった。

 スーツの上によれよれのジャンパーを着た、特徴的な癖っ毛。クチャクチャと口の中でガムを噛むその男は、卑しそうな半目でこちらを見つめていた。



「……ジロウ?」

「へへっ、久しぶりだなぁ」




 ジロウは私の幼馴染である。小学生の頃から外見には無頓着で、ほぼ毎日同じジャージを着て過ごしていた。また、変わった趣味の持ち主で、夏に皆がカブトムシなどを捕まえようと奮闘している中、ジロウだけはセミが大合唱を奏でている前で三拍子の指揮をとっていた。




「どうしてジロウがここに?」私は体を起こして尋ねる。

「手短に話すと、母さんからサツキが入院したって聞いてね、たまたま近くまで仕事に来ていたから寄ってみたんだよ」ジロウはこちらに歩み寄る。

「ああ、おばさんネットワークか」


「そういうこったねぇー、ん」変わり者が何かに気づいた。「このバナナ食っていい?」

「バナナ? 彼氏がくれたやつだけど、一本だけならいいよ」

「はっはー、はひはほ(やったー、ありがと)」バナナはすでに食べられていた。「うっ!」

「そんな急いで食べようとするからだよ」私は呆れて目をそらす。


「ゲホッゲホッ、ゲホッ!」ジロウの咳は長く続く。

「……ねぇ、大丈夫?」さすがに心配になったので尋ねる。

「ゲホッゴホッ、ああ、なんとか……」

「本当にむせただけ?」

「……いや、違うな」やっと落ち着いてきたところでジロウは言った。「この病室、何かいるな?」

「っ! わかるのね!」




 ジロウにはもう一つ特徴的な一面を持っていた。彼は強い霊感の持ち主だったのである。墓場に足を運べば、いくつもの幽霊を目にするし、日常的に歩いていても様々な幽霊を見かけるのだという。

 彼は小学生の頃、同級生に自らの経験を怖い話としてしばしば語っていた。その話はあまりにもリアルすぎて、ジロウの傍にいると恐ろしい怪奇現象に襲われると噂されたこともあった。




「サツキも見えているのか?」青ざめた顔で私に尋ねる。

「うん、いつもじゃないけど……」

「僕には現在進行形で見える」彼の声はやや震えていた。「今は、サツキの目の前にいる」

「えっ」反射的に体に力が入る。

「動かないで」彼は私を手で制する。「こいつ、強い憎しみを抱いている。サツキ、何をしたんだ?」

「何もしていない……。私はあの幽霊なんて知らない!」心なしかベッドに押し付けられているように感じる。

「わかった、目を閉じるんだ」



 私は言われた通り目を閉じる。



「…………よし、もう目を開けていいぞ」

「何を、したの?」ジロウを見やると、左手に数珠を持っているのが見えた。

「一時的にサツキから離した」彼は数珠をジャンパーのポケットにしまう。「久々に強い霊力を使ったよ」

「幽霊は、今どこにいる?」病室を見回す。

「向かいのベッドの傍にいる」彼は一つ間を置いた。「どういうわけか、ずっと僕を見つめているけれど」

「どうしてジロウを?」

「幽霊の気持ちを読み取るほどの霊感はないよ」


「……ありがとう」私は呆然としながらも礼を言った。

「ああ、一応この部屋に塩を置いておこう」ジロウはティッシュ一枚を棚の上に敷き、カバンから食塩を取り出し、中身をすべてティッシュの上に出した。

「そんなに? 塩を置いとくとどうなるの?」

「この位置なら、少なくともサツキに近づくことはなくなると思う」ジロウは病室の時計を見やった。「もうこんな時間か」床に置いていたカバンを手に取る。


「……もう行くの?」私は一人になるのが怖かった。「そろそろ私の彼氏がお見舞いに来てくれるはずだから、それまでの間だけでも――」

「それだけ塩を盛っておけば、少なくとも明日の朝までは大丈夫だよ」

「じゃあ、最後に一つだけ聞いていい?」ドアに手をかけるジロウを見据えて言った。「どうして塩を持ち歩いているの?」

「……僕、調味料は塩しか受け付けないんだ」彼は真面目な顔で答える。「それじゃあ、また」




 ジロウは行ってしまった。最後まで変わり者だった。だが、そんな変わり者でも、今は傍にいてほしかった。

 彼の言葉が私の脳内で反響する。


「こいつ、強い憎しみを抱いている」


 あの幽霊はこれまで何もしてこなかったから、これからも何もしてこないと思っていた。けれど、あいつは強い憎しみを抱いている。そんな幽霊が何もしてこないわけがない。

 今まで何もされなかったのが奇跡のようなものだったのだろう。私があの幽霊に何をしたのかはわからない。だけど、いつかあいつは確実に襲ってくる。


 私は棚の上に置かれているものを見やる。花瓶に生けられたイカリソウ。モトヤからもらった二本の大きなバナナ。そのうち一本はジロウが食べたせいで無造作に皮だけが残っている。そして、ジロウの置いていったティッシュの上の盛り塩。


 早くモトヤ来ないかな。私は天井に視線を移してため息をついた。


 一人の時間がこれほど嫌に感じるのはいつぶりだろう。思春期真っ盛りの高校生の頃だろうか。

 これは、私がモトヤに別れ話を切り出した罰なのだろう。彼から遠ざかろうとしていたかつての私は、今、彼を無性に求めている。


 私は、目をつぶり、彼を待った。



 *



 しかし、日が暮れてもモトヤは来なかった。


 どうしたのだろうか。仕事が長引いているのだろうか。だけど、もしそうなら連絡を入れてくれるはずだ。心配だ。事故にでもあったのかもしれない。



「今日は彼氏さん来ませんでしたね」と病室の整理をしている看護師さんが言った。「忙しいんですかね?」

「どうでしょう……。何か事故にでもあっていなければいいのですが」自身の声に元気がないことが自分でも感じられた。

「まあ、こういう日もありますよ。毎日仕事してお見舞いに来るなんて、相当疲れますし」

「そ、そうですよね……」



 確かに看護師さんの言う通りかもしれない。モトヤも今日はあまり動きたくない日だったのかもしれない。そう考えることにしよう。今日モトヤは自分を癒したい日なのだと。



「それでは、消灯しますねー」看護師さんが病室の照明を落とす。「おやすみなさい」

「はい、おやすみなさい」




 暗くなった病室。見える光は窓から差し込む街の明かりと月明かりのみ。

 私は不安でなかなか眠れなかった。

 あの幽霊、今日は現れていない。


 私がここに入院してからは、毎日あの幽霊が姿を見せていた。しかし、今日はまだ見ていない。

 そういえば、今日来たジロウにはあの幽霊が見えていたらしい。もしかしてあいつは、普段は姿を見せないだけで、ずっとこの病室に滞在しているのかもしれない。


 私はそう考えるだけで背筋に悪寒が走るのを感じた。

 今日も布団を頭まで被って眠ろうか――。



 そのようなことを考えていると、廊下から誰かが歩いてくる音が聞こえてきた。

 コツコツという革靴の音だ。看護師さんはいつもナースサンダルを履いているから違う。警備員さんだろうか。いや、警備員さんなら懐中電灯で辺りを照らしながら歩く。しかし扉のすりガラスからは光が入ってこない。だから警備員さんでもないだろう。


 じゃあ、誰なんだ?


 足音がこの病室の前で止まる。ドアに手をかける音がした。


 誰かがここに入ろうとしている! 私はナースコールを鳴らす機器に手を伸ばす。


 病室のドアが開かれる。


 入ってきた――!



「……モトヤ?」私は薄暗闇の中でもはっきりとわかった。「どうして……!」

「サツキ……」彼が私のベッドに歩み寄る。「俺、見ちゃったんだよ」



 いつもの様子と違う。表情はうつろで、温かみがない。



「見ちゃったって、もしかしてモトヤにも!?」私はモトヤにも幽霊が見えたのだと思った。

「俺にも? 何を言っているんだ?」彼はイラついた顔をする。



 幽霊を見たわけではない? じゃあ何を?



「俺は見たんだよ」彼の語調がじりじりと荒々しくなっていく。「いったい、あいつは誰なんだよ」

「ゆ、幽霊のことだよね?」何のことかわからない。「私にもあの幽霊が何者なのかわからない! だけど、あれは強い憎しみを――」

「何とぼけたこと言っているんだーっ!」モトヤが怒りの声を上げた。「幽霊? 俺が見たのはそんなバカげたものじゃない」

 体がびくっと跳ねたせいでナースコールから手を放してしまう。「じゃあ、何を見たっていうの?」私の声は恐怖で震えていた。こんなモトヤ、見たことない。



「俺が見たのは」彼は一つ間を置いた。「お前の浮気現場だ! サツキ!」



 浮気! そんなことはありえない!「私は浮気なんてしていない!」私はきっぱりと否定する。

「いいや、俺は確かに見た。今日のお昼、お前は別の男と会っていた!」鋭く人差し指を私に向ける。「やつは俺がお前にやったバナナを食べていた。汚らしい食べ方でなぁ!」

「それは――」ジロウのことだ。「ただの幼馴染だよ!」

「関係ない!」彼は背中をかくような素振りを見せる。「仕事以外で俺以外の男と話をするのは浮気だ!」




 私は、この夜初めて気づいた。

 モトヤは、危険な男だった。普段は温厚で優しい男性だが、独占欲が尋常でないほど強く、それが満たされなければ狂人と化してしまう毒男だったのだ。




 モトヤが腰からナイフを取り出す。「やっぱり殺しておくべきだった」

「そのナイフ、まさか……」形状があの夜私を刺したナイフに似ている。いや、同じだ。

「そのまさかだよ」彼はにやりと嫌な笑みを浮かべた。「俺から離れようとする女は殺すことにしているんだ」



 ナイフをこちらに向けたモトヤが近づいてくる。

 私はナースコールを再び取ろうと手を振り回す。しかし、暗いせいでどこに機器があるのかわからない。


 殺人鬼はどんどん近づいてきている。

 私はふと棚の上を見やる。イカリソウ、盛り塩、一本のバナナ。皮だけのバナナは看護師さんが捨ててくれたのかなくなっている。


 私はバナナを手に取り、それをモトヤに投げつけた。

 彼は片手で払いのける。

 今度はイカリソウを花瓶ごと投げつける。

 花瓶は運よくモトヤの片目に直撃した。



「くっ……、この男たらしがぁ!」血が花瓶の当たったところから流れ出ている。それが目の中に入ったのか、モトヤは片目しか開いていない。



 ナースコールはまだ見つからない。どこに行ってしまったんだ。

 そして、時間を稼ぐものも残っていない。相撲取りが散らす塩の量ならまだしも、この程度の塩の量では何の時間稼ぎにもならない。


 彼はもう私の傍らだ。ナイフの刃先を下に向けて振り上げる。

 今度は腹ではなく、胸に突き刺すつもりだ!


 私は目をぎっと閉じた。

 もうおしまいだ。初めから間違っていたんだ。この男と付き合った時点で、私は最悪な結末にたどり着くことは決定していたんだ。




「あなた…………から。……ころす」あの幽霊の声が聞こえてきた。




 こんなときに? いいや、私はどちらにせよ殺されるんだ。幽霊に殺されようが、殺人鬼に殺されようが、そんなの卵が先か鶏が先かの問題だ。


 しかし、この言葉はもう一度聞こえてきた。今度は、今までもはっきりと聞き取れた。そして、私はこの言葉の本当の意味を知った。




「……あなたを、守るから。あいつを殺す」




 私を、守る――?



 声が聞こえてきた直後、塩などを置いていた棚が勝手にモトヤに突っ込んでいった。

 ポルターガイストだ。


 棚は見事モトヤをよろめかせ、私から遠ざける。



「な、なんだ!」モトヤは片目しか見えていない上、暗闇の中のため、なかなかバランスを取り戻せない。




「安心、して」




 今度は私のベッドが動いた。私の正面に移動していたモトヤに向かって猛突進する。



「うわぁ!」

「ぐあぁ!」



 私も相手も状況を完全に把握できていない。

 モトヤは衝撃でナイフを床に落としてしまう。



「くそっ!」彼はふらふらし続けている。



 それからは一瞬のことだった。モトヤは足を滑らせたのか、私の視界から消えた。そして、馴染みはないが、記憶に新しい音が聞こえてきた。


 私が刺されたときに聞いた音。だが、今さっき聞いた音は、私のときよりも深みがあった。

 まさか――。


 私は体を起こして消えたモトヤを探した。彼はすぐそこにいた。しかし、彼の魂はそこになかった。

 彼は丸い赤のラグの上で仰向けになっていた。暗くてよく見えないが、目の瞳孔は開いているようだ。



「死ん、でいる?」無意識のうちにぽつりとつぶやく。

 彼は反応しなかった。



 *



「宮城県警刑事部捜査第一課の磯部です」

「同じく水谷です」



 恋人だった殺人鬼が動かなくなってから警察はすぐに来てくれた。騒ぎを聞きつけた警備員さんが通報してくれたのだ。



「先日に引き続き、度重なる災難、ご愁傷さまです」と磯部さんが静かな語調で言った。

「あの、モトヤはもう……」私は何から話すべきかわからず、無意識のうちに彼氏のことについて尋ねていた。

「はい、死亡しました」水谷さんが簡潔に答える。「現場の状況から、バナナの皮で足を滑らせ、転倒した際にナイフが背中に突き刺さったのが死因だと思われます」


「しかし、この病室の荒れ様……」磯部さんは床の割れた花瓶や窓付近に飛ばされたもう一本のバナナを見る。「あなたは激しく抵抗できないはずなのに、どうして?」

「それは……」信じてくれるはずがない。あんな非科学的なこと。だけど、別にどう答えればいいのかもわからない。私は放心したまま正直に答えた。「勝手に動いたんです。ポルターガイストというやつです」

「ポルターガイスト?」磯部さんは怪訝そうな眼差しを向けてくる。「お言葉ですが、そんなことが起きるはずが――」

「いいえ磯部さん、彼女は本当のことを言っています」



 疑いの目を向ける磯部さんを水谷さんが落ち着いて制止した。



「だが水谷、さすがに怪奇現象を信じるわけにはいかないだろう」

「ええ、私にもにわかに信じがたいことです」水谷さんが言った。「ですが、彼女は嘘を言っていません。やや呆然としていますが、意識ははっきりしているし、嘘をつく際に表れる独特の動揺も見られません」

「……わかった。受け入れがたいが、今は被害者の言うことを信じてみよう」磯部さんが私に向き直る。「それでは鈴木さん、差し支えがなければ、事件の詳細を聞かせてくれませんでしょうか?」

「はい、モトヤがやってきたのは――」



 私は事件の詳細を抜け目なく語った。幽霊のことは話さなかったが、棚やベッドが勝手に動いたということ、殺人鬼が言ったことなど、物理的な事実はすべて伝えた。




「ありがとうございました」と水谷さんが言った。

「水谷、お前の言った通りだったな」磯部さんは著名人を前にしたかのような表情で自分の部下に目を向ける。

「ええ、しかし、残念ながら被疑者は亡くなってしまいましたね」水谷さんは病室に出来た赤い水たまりを見やる。


「あの、いったい何の話ですか?」

「ああ、先日鈴木さんが通り魔に襲われた事件がありましたよね」磯部さんが答える。「あの被疑者が判明したんです」

「でも、被疑者は死亡したって……やっぱり」

「はい、ご察しの通り」今度は水谷さんが答えた。「被疑者は荒木モトヤです」



 死傷事件の内容は思っていたより簡単だった。

 私たちが別れ話をした日の帰宅中、激高したモトヤが通り魔を装って私を襲ったのである。

 しかし、モトヤは私を殺すつもりはなかったらしい。わざと傷を浅くし、自ら救急車を呼び、救世主をかたったのである。



「でも、どうしてそれがわかったんですか?」

「実は、以前にも似たような事件があったんです」水谷さんが語った。



 私とモトヤが出会う二年前、ある女性が私と同じように通り魔に襲われたらしい。そして、被害者の恋人だった男性が偶然発見し、通報した。ここまでは私と同じ境遇だが、異なるのは、搬送された先で被害者はなくなってしまったという点だ。


 調べによると、被害者の女性は殺害された当日、恋人とは別の男性と飲みに行っていたらしい。そして、被害者の恋人だった人物がモトヤだった。


 水谷さんは以上の点を踏まえ、モトヤ怪しいと睨んだらしい。



「そう、だったんですか」私はほっとしたのか、やるせないのかわからない気持ちで小さく言った。

「……別れ話さえ切り出さなければ、とか考えないようにしてくださいね」少し間を開けて水谷さんが慰めの言葉をかけてくれた。「たとえあなたが一途に思っていたとしても、遅かれ早かれ、あの男は何かしらの誤解をし、今回のような事件を起こしていたでしょう」



 朝日が昇りつつある。徐々に光が窓から入ってきた。

 誰かのポケットから携帯電話の陽気な着信音が鳴る。磯部さんが胸ポケットから電話を取り出したところを見ると、鳴っていた電話の持ち主は磯部さんのようだ。磯部さんは電話を耳に当て、自分の名前を名乗りながら病室から出て行った。



「昨夜、被疑者が犯行に及んだのは、昨日の昼に幼馴染と会っていたのを浮気と勘違いしたからだとおっしゃっていましたね」水谷さんは粛々と語る。「被疑者が以前交際していた被害者の女性も、別の男性と浮気していたというわけではなく、同僚から相談を受けていただけでした」


 私は黙していた。出すべき言葉が見当たらない。モトヤは妄執が激しく、衝動性も強かった。私を含め、被害者は何も悪いことをしていなかった。モトヤはどんな条件にあろうとも、いずれ殺人を犯していただろう。



 水谷さんは背後に上司がいないことを確かめる。そして私のほうに向き直った。



「ここだけの話ですが」上半身をこちらに傾け、小声でささやきかけてくる。「前回の被害者の女性の搬送先は、この病院でした」

 私は目を大きく開いた。

「もし、あなたの言うポルターガイストが本当にあったとしたら」若い刑事さんは一呼吸作った。「彼女が守ってくれたのかもしれませんね」

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