2匹目
五時のチャイムが校庭に響き渡ります。
もうそろそろ、家に帰る時間です。お母さんが夕ご飯を作って待っています。キョーコはブランコの陰をこっそり抜け出し帰路に着こうとしたとき、はたっと中園先生の顔を思い出しました。眉を歪め、口を曲げ、額には筋が浮かんでいました。
『帰る前に、人間に戻らなくちゃ!』
中園先生が分からなかったのですから、もしかしたら、お母さんも自分のことが分からないかもしれません。中園先生と同じように、おっかない顔をするかもしれません。そう考えると、だんだん怖くなってきました。
『キョンを探さなくちゃ!』
考えている間にも、夕暮れ時の町は蜂蜜色に染まっていきます。キョーコは尻尾に火が付いたように、キョンと出会った場所へ急ぎました。
ところが、昼間の場所には大人がたくさん集まっているではありませんか。
これでは、キョンはとうてい近づけないでしょう。
それにしても、大人たちは、どうしてこんなにあつまっているのでしょうか。キョーコは耳を立て、息をひそめました。
「どうだ? 見つかったか?」
「ううん、神社にはいなかった」
「本当に、服だけ残してどこに行っちゃったんだろう?」
「まさか、誘拐?」
「かもしれないわ。どこに行ったのかしら、キョーコちゃん」
キョーコちゃん!
ぴんっと尻尾が立ちました。
『わたし、ここにいるよ!』
キョーコは泣きたくなりました。
力の限り叫んでみるのですが、やはりネコの言葉しか出てきません。
『もう……一生このままなのかな』
キョンが出てくる気配はありません。
キョーコは、しょんぼりと項垂れました。立派な尻尾がコンクリートの地面に情けなく垂れます。
「キョーコちゃん、どこにいったの?」
「キョーコちゃん、出ておいで!」
大人たちの中には、クルミ先生や中園先生の姿もありました。二人とも、懸命に声を張り上げています。何回も叫び続けたからでしょう。クルミ先生の「遠くまでよく通る」と自慢な声は、すっかり枯れ果てていました。
『……わたしは、ここにいるのに。』
中園先生はキョーコのことがわかりませんでした。
大好きなクルミ先生も、キョーコのことを「野良猫」と呼ぶかもしれません。
『もう、ずっと、このままなの?』
黄色い瞳に涙が浮かび上がります。うつむいていたら大粒の涙が零れ落ちそうで、頑張って上を向きました。
そのときでした。
「キョーコちゃん?」
はたり、と女の子と目が合いました。
アヤちゃんです。友だちのアヤちゃんは、きょとんとした目で黄色い瞳を見ていました。
『アヤちゃん、わたしだよ! キョーコだよ!!』
キョーコはダメもとで呼びかけてみます――が、やはり 出ることばは「にゃーにゃー」ばかり。人間のアヤちゃんに伝わっているはずがありません。
ところが――
「え、ほんとうに キョーコちゃんなの!? なんで、ネコになってるの?」
アヤちゃんは目を丸くして驚いています。
なんと、言葉が通じたのです!
『どうして言葉が分かるの? わたし、ネコなのに!』
「うん。なんとなくだけど……でも、どうして?」
アヤちゃんは不思議そうに尋ねてきました。
キョーコは洗いざらい話しました。白いキョンのこと、ネコにしてもらったこと、元に戻れなくて困っていること――アヤちゃんは、ふむふむと相槌を打ちながら、最期まで口を挟むことなく聞いてくれました。
「わかったよ。じゃあ、一緒に白いキョンを探そう!」
アヤちゃんはそう言うと、キョーコを優しく抱き上げてくれました。彼女の腕の中は柔らかく、お日さまの香りがします。硬かった気もちが徐々に解れ、息をこぼしました。
『白いキョンさんー!』
「キョンさん!」
二人は声をあわせて、蜜色の町を歩き回りました。
お寺の裏や神社の境内、物置の裏まで、ありとあらゆる場所を探しました。
しかし、キョンはどこにもいません。
西の空に顔を向ければ、気の早い星が輝き始めています。アヤちゃんの顔に焦りが見え始めました。
「絶対! 絶対の絶対、キョーコちゃんを女の子に戻してあげるから!」
とはいえ、町は隈なく探し終わってしまいました。
だれも「白いキョンをみた」と言う人はいません。
残された場所はただ一つ――学校裏の山だけでした。
『アヤちゃん……いいよ、わたしだけで』
アヤちゃんにも家族がいます。
きっと、今この瞬間にも彼女の帰りを待っていることでしょう。いつまでも、自分に付き合わせるわけにはいきません。
「だめ! だって、キョーコちゃんは友だちだもの!
また、一緒にボール遊びしたり、ブランコしたりしたいもん! 勉強も一緒にやりたいし、学校にも行きたい! とにかく、もっともっと一緒にいたいよ!」
ネコのままだと、人間の遊びはできません。勉強だってできません。ネコと人の子が一緒にいることはできないのです。
アヤはキョーコを抱きしめたまま、ずしずしと山の中に入っていきました。
山の中まで、夕日は差し込みません。
あたりは、もうすっかり夜の幕が降りてしまっています。ただ、幸いなことに、いまのキョーコは白ネコでした。キョーコの毛並みは暗闇の中でランプの白い光のように輝いていました。
がさりがさり、と山の落ち葉を踏みしめる音だけが、静かな夜の世界に木霊します。その音が、恐怖を腹の底から駆り立てるようです。
キョーコは怖さを吹き飛ばすように、大きな声で叫びます。
『白いキョンさん! 出てきてちょうだい!』
「ほーい」
背後の木から声が降ってきました。目をむけると、白いキョンは大木の幹にもたれかかっていました。トパーズ色の瞳はどことか意地悪く光り輝き、まるでアリスに出てくるチェシャ猫のようだと思ってしまいました。
「どうです、念願の願いがかなった感想は?」
『そんなことより、早く元に戻して!』
「そうだよ、キョーコちゃんを女の子にもどして!」
ですが、白いキョンは にやりと笑ったまま動こうとしません。
「一人の人が叶えることのできる願いは、たった一つだけです。
キョーコさんは既に『ネコになりたい』という願いを叶えてしまっています。これ以上の願いは叶えることができません」
『そんなっ!?』
なんということでしょう。
キョーコは絶望に叩き落とされてしまいました。
もう二度と、お母さんに甘えることもできず、友だちと遊ぶことも、お菓子を食べることもできないのです。ずっと我慢していた涙が、ぼろぼろと零れ落ちてしまいました。大粒の涙は、じんわりとアヤちゃんの腕を濡らしていきます。
アヤちゃんは、じっとキョーコを見下し、ふと――口を開きました。
「ねぇ、キョンさん。願いは、一人につき一つだけなのよね?」
キョンは身体を揺らしながら、ふむ……と考え込みます。
「そのとおりですよ、アヤちゃん」
「だったら、私の願いを聞いて」
アヤちゃんは、まっすぐキョンを見つめています。ものすごく怖いのか、腕越しに身体の震えが伝わってきました。
「かまいませんよ」
「わたし、キョーコちゃんを元に戻したい! キョーコちゃんを、願いが叶う前の状態にして!」
キョンは、じろじろアヤちゃんを見つめかえし、ややあってから、どこか億劫そうに口を開きました。
「……それが、あなたの願いですか?」
「うん。だって、私はキョーコちゃんの友だちだもの!」
「……わかりました」
キョンは身体を起こすと、ゆったりと首を揺らしながら歌い始めました。
「六本のひげは かわいいほっぺに
きいろのひとみは くりくりの目に
とがった耳は やわらかく」
キョーコは、再びポカポカした温かさに包まれ、心地よい気もちになりました。肉球が消え、白い毛がなくなり、すべすべの肌が現れます。
キョンの歌が最後の一節まで終わったとき、キョーコはもうすっかり元通りになっていました。脱いだはずの服まで纏っています。まるで、本当に時間が巻き戻ったかのようです。
「よかったー! ありがとう、アヤちゃん! ……あれ?」
しかし、アヤちゃんの姿がどこにもありません。
アヤちゃんがいたはずの場所は、ただただ静かな闇だけが広がっています。冷たい風がキョーコとキョンの間に吹きました。
「ねぇ、アヤちゃん! どこに行ったの?」
「それは願いがかなったからです。だから、消えてしまったのですよ」
キョンは静かに応えました。あたりは暗く、キョンのいるところだけが、白く不自然に浮き上がって見えました。
「キョーコちゃん、あなたは願いの代償を考えたことはなかったのですか?」
「だいしょう?」
それは、キョーコの知らない言葉でした。
キョーコがこわごわ聞き返すと、キョンはやれやれと肩を落としました。
「あなた、ただで願いが叶うと思っていたのですか?」
キョンのガラスのような目が、怯えるキョーコを映していました。
「お菓子を買うとき、何を払いますか?」
「お金?」
「そうですね。
それと同じです。願いを叶えるときも、それと同じ分の対価を支払うのです。
たとえば、あなたの場合は人間の身体と寿命を頂き、ネコの寿命と身体を渡しました。
アヤちゃんは、キョーコちゃんを戻したい、と願いました。それは時間の逆行・事象の編纂……とてもではありませんが人間の寿命程度では払いきれません。
ですので、アヤちゃんのすべてを貰いました」
「そんな……どうして、そんな大切なことを最初に言ってくれなかったの?」
キョーコはキョンにつめよりました。
代償があるなら、最初から願いなんてかなえてもらいませんでした。きっと、今頃家で温かな夕食を食べていたことでしょう。アヤちゃんだって、消えなくて済んだはずです。
それに対し、キョンは理解できないという顔をしていました。
「聞かれませんでしたから」
「……え?」
「聞かれませんでしたので答えませんでした。
そもそも、あなたがた最近の子は『どうして?』と、聞かないのでしょうか。
『なぜ?』と、自分から考えないのでしょう」
「それは……」
「これは、あなたの起こしたできごとです。さあ、早く帰りなさい。あなたの母親は、娘の帰還に喜ぶことでしょう」
「……アヤちゃんは、どこに行ったの?」
「だから、消えたのです。闇に包まれた夜の森に」
キョンは淡々と答えました。
キョーコは山奥に視線を向けました。ここから先は、えたいのしれない洞窟のようでした。耳をすますと、闇から闇を渡る風が、ごうごうと怖い音をならしています。
この山の奥に――そのどこかに、アヤちゃんがいます。
ひとりぼっちになってしまった、アヤちゃん。アヤちゃんは、いまどんな気もちなのだろうか……と、考えれば考えるほど、キョーコはいてもたってもいられなくなりました。
「ねぇ、どうしたらいいの? どうしたら、アヤちゃんを助けることができるの?」
「……しかたありませんね。疑問には答えます」
キョンは背を向けかけていましたが、足を止め、こちらに振りかえりました。
「イノチノユリを見つけるのです。それに願えば、アヤちゃんは戻ってきます。
それ以上はお答えできません、申し訳ありませんが」
キョンはそれだけ答えると、急いでいるのでしょうか。
深い闇の中へ駆け出しました。
「ま、まって!!」
キョーコは慌てて追いかけました。
ですが、人間の足はネコだったときに比べ、ずっとずっと重く、キョンとの距離はどんどん離れていってしまいます。キョンは白い光の線のようでした。線は、だんだんと点になり、闇の中に吸い込まれるように消えていきます。
「ひとりにしないで!」
キョンの姿がすっかり消えたとき、キョーコは四方闇の中に取り残されてしまいました。
電灯もなく、懐中電灯もありません。どこもかしこも黒い闇が広がっています。
キョーコは途方に暮れてしまいました。もう進むことも、戻ることもできません。吐く息も荒く、足も痛くてたまりませんでした。
「アヤちゃん、キョン、どこにいるの?
わたし、どうしたらいいの?」
道は見えず、イノチノユリもさっぱり分かりません。
ただ、立ち止まっていはいけないことだけは分かりました。
「アヤちゃん、どこ? イノチノユリ、どこにあるの?」
ぐすりぐすりとしゃくり声を上げながら、キョーコは闇の世界を進み始めました。
そんなキョーコを黄色い目玉が二つ、見据えていることに気づかないまま。