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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

あなたは、誰?

作者: 白藍


 トラックに轢かれた訳でも、猫を助けてあげた訳でも無い。お決まりの魔法陣が現れた訳でも、況してや召喚された訳でも無い。

 特別な事など、何もしていない。夜道を歩いていただけ。アルバイトを終え、コンビニでコーンポタージュの温缶を買って帰っていた、ただの高校生だった。

 影に隠れて生きていく事しか知らない、不器用で狭量な、地味な私。そんな私が、誰かの特別になりたいだなんて、愛されたいだなんて、不相応な願いをしてしまったからだろうか。だから、こんな目に遭ってしまったのだろうか。

 唐突に現れて、誰何する事も、周囲に気づかれる事も無く私を拐った銀色の男は、私を此処に放り込んで、こう言った。


 条件はたった二つ。

 それさえ守れば、君は安全だ。

 一つは、此処から出ない事。

 もう一つはーーーー









「  」


 誰かが呼ぶ。

 夏に涼やかに響く風鈴のような、雪の降りしきる夜の静けさのような、この世のものとは思えない、まさに天上の音楽とも呼ぶべき声で。

 誰かが、誰かを呼んでいる。

 多分きっと、名前なんだろう。何度か聞いているはずなのに、一度も理解できないけれど。音の連なりとしては聞こえるのに、意味として形をなしていないけれど。

 解らないまま、けれどもそれが私を指しているらしいという事だけは知っている。

 ゆるりと緩慢な動きで振り向く。

 水底から見上げる太陽も、雲の切れ間から降り注ぐ光も敵わないような、恐ろしく美しい男が近づいてくる。

 樹々の葉一つ一つを描くよりも精緻な刺繍の施された着物の裾が汚れることにも頓着せず、膝をつき、私の髪を一房持ち上げる。するりと指先から逃げていく髪に口づけを落とし、恍惚とした笑みを浮かべる男。


「  。  。わーーーけーー、ーーい  」


 聞こえない音と雑音を組み合わせただけの、言葉にならない言葉を耳許で囁く。何を言われているのかは知らない、けれどもミルクと蜂蜜を煮詰めた飴よりも、砂糖につけた果実よりも甘い甘い声を吹き込み、耳朶を食む。柔らかな唇が耳の輪郭を這い、優しく吸われると、びくりと肩が跳ねる。


 ほんの僅かな時間、滞在し、男は去っていく。何故此処に来るのか、私は何故此処にいるのか、何も言わずに。ただ、愛玩人形を愛でるように触れて、言葉を掛けて、また居なくなる。

 その繰り返し。

 私に男の声がまともに聞こえないように、男にも私の声は理解出来ないようだった。いくら私が叫んでも、言葉を重ねても、男は困ったように首を傾げるばかりだったから。帰して、という言葉は一つも届く事は無かった。


 此処に連れてこられて、一体何日が経ったのだろう。見ず知らずの男に、頬を撫でられ、口づけを落とされる。

 嫌悪感が無い訳ではない。いくら姿形が芸術品のように端麗だとはいえ、面識のない男に好き勝手に触れられたいとは思わない。

 にもかかわらず、抵抗らしい抵抗が出来ないのは、なぜだろう。男が身動きする度、ふわりと漂う香りのせいか。男に触れられる度、身体に走る甘い電流のせいか。それとも、拒絶しようと思う度、鈍い痛みが心臓を襲うせいか。

 どれか一つである気もするし、その全てのような気もする。

 ならば、此処から逃げ出してしまえばいいとも思うけれど、そうはいかない。私の右足首には、見えない鎖が掛けられている。目には写らなくても、指でなぞれば感じる、細い細い戒め。そのくせ素手で千切る事は出来ない。

 その上、此の部屋の外は真っ暗で何も無い。音も光も空気でさえも、此処に連れてこられる前には在った何もかもが、ぽっかりと欠落している。


 ーーーー此処から出ない事。


 誘拐犯の意味不明なその忠告に逆らう事等、出来よう筈もない。当初こそ、守るつもりも無かったけれど、窓を開けた瞬間に、その気は失せている。命の一つも感じられない暗闇は、酷く恐ろしい。

 狭くは無いけれど、広くも無い部屋にただ一人置いていかれて、話す相手も慰みになる物も無い状況はただただ苦痛だ。何日経ったのかも、昼なのか夜なのかも、何故此処にいるのかも解らない。

 寒い訳でも無いのに、身体が震える。足りていないのは人とのコミュニケーションだ。心細くて、淋しくて、苦しい。それは次第に増していって、気が狂いそうになる。

 会いに来てくれるなら、此処に居てくれるなら、誰でもいい。そう思ってしまうのは、誘拐犯の思惑通りだろうか。理性では分かっていても、それでも、思わずにはいられない。


「  」


「  。ほら、こーーにおーー。はやー、ーーーーてーーーーばいいーー」


 相変わらず、その音は空白だ。他の音だってチャンネルの合わないラジオのように、ざらざらと雑音が混じる。何を言っているかも解らない、名前も知らない、けれど姿は見える。触れられる。

 それはつまり、一人じゃないという事で。他人とのコミュニケーションに飢えた私は、少しずつ、少しずつ、男へ傾倒していった。

 溺れる者は藁をも掴むと言う。私はそんな状態だった。海の蒼さに魅せられたように、地上を歩きたいと願った人魚のように、ずぶずぶと溺れていく。

 そうなりたくはないのに、嫌だと思うのに、どうしようもなく、揺さぶられる。揺れる自分に苛立ち、淋しさに嘆き、その度浮かぶのは、どうして私だったの、という思い。

 容姿は普通。特技も特徴も無い。影に隠れるだけの、地味な私に、一体何を求めているのだろう。愛でるだけなら、もっと適任がいただろうに。閉じ込めるだけなら、帰して欲しかった。彼方には人がいて、声がして、酸いも甘いも満ちていた。誰にも見向きされなかったけれど、だからこそこんなに苦しむ事も無かったのに。


 日が沈む事も、月が昇る事も無い此処では、時間の経ち方さえ曖昧だけれど、今日もまた男がやって来る。足音は響かない。古びた戸の僅かな軋みを耳が拾って、私は思わず浮き足立つ。


「  」


 何度聞いても音は無いけれど、無いからこそ、もう気にならない。ただ、その後聞こえてくる声は違う。私が男に近づくにつれて、雑音は少しずつ抑えられて、段々話している内容が繋がるようになってきた。


「どうしーの、  。そーーー私にーーーかった?」


 くすりと笑って私の額にキスを落とす男。何となく、男が口にしている言葉が解るような気がする。ふわりと抱き上げられて、膝の上に乗せられ、きゅっと抱き締められると、どうしようもなく安心する私がいた。

 こんな状態で安堵する自分が可笑しいという考えも、恐ろしいと思う心さえも溶かされる。来ないで、私に触らないで、とは、言葉に成らずに消えていく。

 躊躇って、戸惑って、震える手が彼の腕に触れそうになるーーその瞬間、男はふいと身体を離した。

 あ、とすがるような声が唇の端から零れ落ちて、私はぱっと口を抑えた。

 今のはーーまるで、男が去るのを惜しんでいるみたいで。

 此処に居て欲しい。そう思う気持ちは確かに、どす黒い呪いのように根付いていて、それは分かっていたけれど、でも、望んだりしなかった。願ってはいけないと、本能的に悟っていた。傍に居て、と口にすれば全てが変わって、終わってしまうのに、何で。

 混乱する私を見て、男は笑みを深めた。


「だいーなじーでーたね。いいーー、  」


 すっかり怯え、首を振る私の頭の天辺に口付けが降ってくる。宥めるようにそっと繰り返されるそれは、酷く心地好くて、少しも嫌だとは思えなくて、怖い。

 男が僅かに離れる一瞬を見計らって部屋の隅に逃げ、身体を縮こまらせた。ぎゅっと強く目を瞑って、男の事を頭の中から追い出そうとする。

 考えちゃ駄目、と言い聞かせて、なのに、脳裏に浮かぶのは男の事ばかり。違う。私は此処にいたくなんてない。帰りたい。帰して欲しい。だから、赦しては駄目。


 気付けば、男はとっくに居なくなっていた。それでも、場所を動く気にはならなくて、やがて膝に顔を埋めたままで眠ってしまったらしい。

 夢は自由だ。彼方に居た頃に浸ることも、戻った事も想像することも、簡単に出来る。其処だけが私の領分で、目を醒ましている間は男に引きずられる。

 そうして痛くて優しい夢に揺られていたけれど、不意に場面が切り替わる。

 これは夢で、現実じゃないのに、信じられなくて、思わず目を見開いた。

 何故なら、今夢に出てきたのは、あの男だったから。

 夢の中で、彼は、笑っていた。とてもとても、幸せそうに。そして、その腕の中にいる私も。

 慈しむように何度も何度も繰り返されるキス。吐息を吹き込むように耳元で囁かれて、擽ったそう彼の胸に額を擦り付ける。柔らかく頭を撫でられれば、微温湯のような気持ち良さに、とろんと目が潤んだ。

 愛おしいのだと訴える、その夢は私の胸を酷く締め付ける。彼方に戻った所で、私があんなふうに愛される事は無いのだと、知らしめているようで。幼い頃から植え付けられて、けれどもう乗り越えたと思っていたそれが、じりじりと胸を焼く。

 私は誰の目にも留まらない、ちっぽけな人間だ。華やいだ容姿も、囀ずるような美しい声も、誰であろうと分け隔てなく接する優しさも、持ち合わせていない。私に出来るのは、誰の邪魔にもならない、迷惑も掛けない、特別になれるなんて勘違いしないように、地味に生きていく事だけ。

 帰ったって、何にも良い事なんて無い。きっと消えた事に気づいている人さえ居ないんだろう。

 分かっていた。分かっていたけれど、期待するのが恐ろしくて、喪うのが怖くて、見ない振りをしていた。だって、何も知らない振りをして、待っていれば、その間は苦しくても、きっと彼は来てくれるから。

 でも、きっと、もう限界なんだろう。次に男に会ったら、何とか押し止めていた天秤が振り切ってしまう。

 音もなく伝った涙が、夢だったのか、現だったのかは、分からない。ただ、もはや後戻りが出来ない所まで来てしまったのだと、私は悟ったのだった。


 それからの時間はひたすらに長かった。体感的にも、恐らく現実的にも、今度の訪れまでは、いつもより長く期間が空いていた。逃げ出したいような、待ちわびているような、相反する気持ちがひしめき合って、どきどきする。勿論、逃げる場所も隠れる場所も無いのだけれど。

 一日千秋の思いで待って、待って、耐えられくなりそうになった頃、ようやく男はやって来た。


「  」


 戸が開く気配。勢いよく顔を上げれば、嬉しそうな彼の顔が飛び込んでくる。ふらりと立ち上がって、無意識に腕を伸ばすと、ゆっくりと近づいて来た彼は、身を屈めて、私の腕を受け入れた。

 あやすように優しく抱き留められて、胸が一杯になった。愛おしさと切なさが溢れかえって、ぽろぽろと涙が零れる。

 堪えきれずに肩口に顔を埋めると、優しく耳を甘噛されて、とうとう膝が崩れた。長らく運動という運動をしていなかった足がすっかり弱っていたからだ。決して、ちろ、と嘗められた耳から甘い電流が走ったからではない……筈だ。

 男は為すがまま、私と一緒に崩れ落ちて、地べたに座り込んだ。折角綺麗な服を着ているのに、と一瞬思って、けれど、そんな余裕は、彼に見つめられたせいであっという間に弾け飛ぶ。

 こつん、と額を付き合わされると、彼の顔が視界一杯に写って、思わず顔に血が昇った。思いが変われば、認識も変わる。前はそうは思わなかったのに、今は何だか気恥ずかしい。


「受け入ーて」


 随分雑音の減った音で囁かれて、理解する間もなく、唇が重なった。驚きのあまり身動ぎするも、柔らかく唇を食まれれば、直ぐに力は抜けた。

 角度を変えて何度も啄まれ、意図せず開いた唇の間に、何かが入り込んでくる。


「……ん、ふう……っ」


 男の体温は低めだ。私の方が高いからひんやり感じるけれど、キスを続けるうち、体温が融け合って気にならなくなった。

 柔らかな舌が私のそれに絡み付き、歯列をなぞる。口腔を嘗め上げられ、甘ささえ感じる彼の唾液がとろりと流れ込む。息を継ぐのが精一杯で、キスの合間にそれを飲み込むと、びくりと身体が震えた。

 かっと身体の奥に熱が宿り、頭がくらくらする。されるがまま、キスを繰り返していると、ようやく彼は唇を離した。

 大丈夫、と問われ、こくこくと頷き、気づく。

 声が、聞こえる。

 ざー、という番組のないテレビのような雑音が、すっかり消え去って、クリアに聞こえる。


「ちゃんと聞こえてるんだね。良かった」


「どう……して」


「馴染んだからだよ」


 返事があったという事さえ、私には驚きだった。今までは何を言っても伝わらなくて、だから離すのを止めていたのに。


「君が此方に来てくれて嬉しいよ、  」


 花が綻ぶように、乾きの地に恵みの雨が降るように、本当に嬉しそうに微笑まれて、私の心もじんわりと温かくなった。

 ーーーーその後に続く、言葉さえ、なければ。


「…………え?」


 聞き間違いだ。だって、彼が口にしたのは。愛おしそうに告げたのは。



 僕の、可愛い可愛い、紅絹葉(もみじ)



 どん、と男を押しやり、後ずさる。かち、と噛み合わない歯が音を立て、急に寒さを感じる肩を震える手でかき抱いた。


「……違う。それは、私の名前じゃない」


 だって、それは、その名前は。



「紅絹葉はーーーーお姉ちゃんの名前だもの!」



 そう、紅絹葉は姉の名前だ。私の、双子の姉。

 さらりと風に揺れる髪と、感情豊かな瞳が美しい少女だった。外見に違わず、誰にでも優しく手を差し伸べ、一緒に悩み、笑う、心まで綺麗な人。 親に愛され、友だちに恵まれ、何時だって姉の周りは輝いていた。

 対し、私は顔も頭も平凡で、要領も悪かった。私に近づくのは姉と仲良くなりたい人ばかりで、心底顧みてくれる人なんて居ない。

 それが酷く惨めで、辛くて、家族からも距離を取った。結局、そうなっても誰一人として気づかず、一層空しかった。

 双子のくせに、此方は。幼い頃からそう言われ続けて、私の心はすっかり磨り減ってしまった。ある日を境に、その痛みさえ麻痺して、もう長らくこんな思いを感じる事は無かったのに。

 思い出してしまった。彼が、あんまり優しかったから。親からも受けられなかった愛情をくれたから。なのにーーーーなのに。

 姉の名前を、呼ぶから。手酷い裏切りに、心が千切れそうだ。

 私の悲鳴じみた訴えに、男は戸惑いを浮かべた。


「何を言っているんだ。君は紅絹葉だろう」


「違う、違う違う! 私は、私の名前は、木綿花(ゆうか)よ! その名前で呼ばないで!」


 激しく頭を振る私に、宥めるような声。仕方ないな、というような声は、全然信じていない。大体、こんなにも似ていないのに、どうして間違えられるのだろう。


「そんな筈はない。紅絹葉の魂の形は知っている」


「……魂の、形?」


「そう、魂の形は一人一人違う。だから、間違える筈なんてあり得ない」


「……何を、言っているの。あなたは、一体、何を見てるのっ?」


 男の話していることが分からない。口にする言葉の全てが聞き取れるようになったのに、頭が理解を拒否する。

 魂が見える人間なんているだろうか。思い返せばぞっとするほど冷たい体温も、光の一片さえない闇を越えて来る事も。この世の物とは思えない程美しい容貌も、頭の芯を痺れさせる甘ったるい香りも。

 私の体温が高いだけなのだと思っていた。ライトか何かがあるのかと、思い込んでいた。けれど、灯りなんて隠せる場所は無かったし、これは香水の香りでもない。霞がかっていた頭に、此処に連れてこられた頃の疑問が次から次へと沸いてくる。

 だから。だから、訊いてしまう。血の気の失せた唇を戦慄かせながら、口にしてしまう。

 満杯のコップに注がれた水が溢れるように、地の底で煮えていた溶岩が流れ出るように、胸の奥から突き上げてくる衝動を止められなくて。

 誘拐犯に止められていた、あの言葉を。それさえ言わなければ安全だ、と口止めされていた言葉を。





「ーーーーあなたは(・・・・)一体誰なの(・・・・・)!?」





 言って、しまった。遂に。

 瞬間、どろりと男の姿が崩れた。まるで、水飴が溶けるように、砂の城が水を被ったように、あっという間に形を喪った。


「っいやあああぁぁぁぁぁ!!」


 一拍おいて、悲鳴が飛び出した。

 人でも、生き物ですらもなかったそれは、まさに闇そのものだったから。それも、私が怯えていた、此処の外にあった、命という命を感じられない闇。

 崩れ、水溜まりのようになったそれは、形を無くして尚動いていた。ずるりずるりとこちらに近づいてくる闇に、腰が抜けた。

 這いつくばって懸命に距離を取ろうとするも、此処はそれほど広い場所ではない。


「ひ……っ」


 力の入らない足は、空を蹴るばかりで、少しも進まない。いや、と声にならない音を繰り返しながら、必死に首を振る。此れは現実なんかじゃない。全て悪い夢なのだと思いたくて。

 ドミノ倒しのようにぱたぱたと消えてゆく部屋も、薄れていく床も、何も見たくなかった。けれど、目を瞑る事も出来なくて、ずるずると寄ってくる闇をただただ見ていた。

 不意に足首にかかっていた重みが抜けて、あの見えない戒めから解き放たれた事を知る。咄嗟に立ち上がろうとして、けれど虫食いのように所々が欠けた床に足を取られた。黒抜きのようなそれは、質感が全く失せていて、池でバランスを崩した時のように、ぐらりと身体が傾いだ。

 落ちる。何でもいいから、掴む物を。そうして伸ばした手に、かつて男の形をしていた闇が、先とは比べ物にならないスピードで飛びかかってきてーーーー


 ばしゃん、と海に沈んだ音の後、其処にはもはや何も無かった。古びた引き戸も、仄かな灯りも、流麗な男も、木綿花という名前の少女も。全てが溶けて、消えてしまっていた。









「あーあ。だから、言ったのに」 


 何も無い、闇の中に、ぽつんと佇む銀色。全てを飲み込む闇に、けれど融ける事なく存在する者。


「折角忠告してあげたのに。守っていれば、きっと幸せになれたのに」


 闇の中で異質なそれが、くすくす嗤う。


「可哀想な、可哀想な木綿花ちゃん。大嫌いな姉の振りをしていれば、愛されてるって勘違いし続けられたのに」


 まるで謳うように、囀ずるように、酷く愉しそうに言って、手のひらの中の小さな紙を握り潰した。

 乾いて、歪んで、散り散りになったその紙は、かつて少女の祈った願い事が記してあったもの。

 "誰かの特別になりたい。姉のように愛されたい。"

 そんな些細な願い事を歪に叶えて、壊れるのを見て、満足そうに唇を吊り上げる彼は。

 この世の全てを憎むような、悪意の在る笑みを満面に浮かべて、けたけたと嗤った。


「次は、どんな願いを叶えようか」


 裏切りに哭く絶望よりも、月の無い朔の夜よりも、昏く昏い笑みを張り付けて、彼はふっと姿を眩ませた。

 後に残るは闇ばかり。有無の概念さえ持たない、ただひたすらの闇だけが、何事も無かったかのように、在るばかりなのだった。




ありがとうございました。

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