転入とその騒動 Ⅲ
朝、目覚めると憂鬱だった。
「はぁぁ……」
重い溜息を吐き出す。
「姫? どうしたの?」
鏡に向かい、軽いナチュラルメイクを施している未散に声をかけられる。
高校の制服に身を包んでいる未散は、いつもよりもずっと大人っぽい。
制服自体も、英林のように凝ったものではなく、昔ながらのベーシックなブレザーだから、よりそんな印象が強いのかもしれない。
「んーん、なんでもないよ。ちょっと寝不足なだけ」
「ホントに? ただでさえ身体弱いんだから、睡眠ちゃんととらないとダメじゃん」
メイクが一段落したのか、未散は鏡台から立ち上がり、私のすぐ近くにくる。
そのまま、片手は自分の額に、もう一方を私の額に添えた。
「熱はないみたいね」
「だから大丈夫だってばー」
子ども扱いしないでよ、と私は未散を恨めしそうに見上げる。
未散はクスクス笑って、
「はいはい、子供扱いしてほしくなかったら、ぐっすり寝て大きくなりまちょうねー」
馬鹿にしたように言う。
だけど、そこに悪意はなくて、純粋に私を心配してくれてるんだって、知ってるよ。
「うー」
だから、私はワザとらしく口を窄めて、不満を示す。
私を見下ろし、大人ぶって私の頭を撫でる未散の脚を軽く蹴った。
「痛っ……もうっ、子供なんだから」
「子供じゃないってば!」
未散と同い年だよ。
未散がオネショしてる時から知ってるんだぞっ!
私は未散の手を振り払って立ち上がる。
その時――――
「……あ……れ?」
グラリと一瞬視界が揺れた。
最近は体調が安定して油断していたのかもしれない。
一晩徹夜したぐらいでって舐めてた。
「ちょ、ちょっと! 姫、大丈夫!?」
私が尻餅をつく前に、私は未散に支えられる。
そのまま抱えられて、ベッドに座らされた。
「ママ呼んでこようか? 学校休んだ方がいいよ」
心配そうに未散が言う。
私は小さく首を振った。
「ちょっと立ち眩みしただけだから……」
「新しい環境でストレスがあるんだって! 一日くらい休みなって!」
「……勉強ついていけなくなっちゃうから」
ただでさえ、私は勉強が遅れている。
毎晩、未散に勉強を見てもらい、未散にはただでさえ迷惑をかけているんだ。
こんな所で立ち止まる訳にはいかない。
私は改めて立ち上がる。
「うん! 大丈夫っ!」
今度は大丈夫だった。
立ち眩みも、眩暈もない。
私は笑って見せる。
でも、未散はそれでも心配そうで、
「もうっ、しょうがないな……分かった! でも条件があるから!」
「へっ?」
ある条件を理由に、今朝の事を見逃してくれたのだった。
「ほら、ちゃんと握って」
「わ、分かってるよ……」
登校時間。
梅雨も終わりが近づき、今日は久々に陽光が地面を照らしている。
地面にできた水たまりが、日差しを爛々と反射させ、目に眩しい。
カエルの鳴き声、湿った雨の匂い。
四季を感じさせる空気に、人々は額にうっすらと汗を浮かべ、歩いている。
英林中学までの道すがら、私はずっとつかさに監視されていた。
監視というのも、未散に指示された訳であるが、つかさは真剣にそれを受け止めている節がある。
私も今、未散に指示された通りに、つかさの服の裾をつかんでいる。
未散の目が離れたと同時に一度離したら、つかさに怒られてしまった。
曰く――――「倒れたのかと思った!」
らしい。
私としても、そう言われてしまえば、反論の余地はない。
善意のなんという輝かしい事だろうか。
つかさはシスコンの気があるから、忠実に指示に従っているのだろうが、もうちょっと柔軟性があってもいいと思うんだ。
なんて、現在進行形で迷惑をかけてる私が言えたことじゃないけどね。
ザワザワ……ザワザワ。
そんな風にある意味で余裕を持っていられたのも、数分前の話。
英林中学まであと数百メートルと迫り、人通りも多くって来ると、そうもいかないのだ。
ザワザワ……ザワザワ。
見られてる! 見られてるよっ!?
男子の裾を掴んだ女子などという、甘酸っぱいシュチュエーションを中学生諸氏が逃す訳もなく、私たちは注目の的になっている。
つかさは私に集中していて、気づいていないのか、様子はまったく変わらない。
ただ、ひたすら私に心配そうな視線を向けている。
こういう所は鈍感なんだよね……悪い気はしないけどさ。
つかさの美点と言ってもいいだろう。
しかし、まずい! と思う気持ちも私の胸中の大部分を占めている。
中川さんたちは、いつも時間ぎりぎりだから、鉢合う事はないはずだけど、間違いなく、朝の様子は人づてに伝わるだろう。
その時になって、どう言い訳をしたものか考えると、また眩暈に襲われそうだ。
まだ少し時間あるし……何か考えておかないとね。
その時の事だった。
「おっはよー!」
「ひっ!」
私の背中に飛び乗ってくる人物がいた。
両腕で私の身体を抱きすくめ、耳元で私だけに聞こえるように囁かれる。
「……何してんの?」
「――――っ」
その冷たい声色に、私は反射的につかさの制服の裾を離す。
引っ張られる力がなくなり、つかさが振り返った。
そして、私の背後の存在へと、声をかける。
「……なんだ、中川さんか。今日は二人と一緒じゃないの?」
「つかさくん……おはよ。由紀子と由奈は今日は別だよ」
私の耳元から空気を伝う声は、中川さんに他ならない。
その事実に、私は冷や汗が止まらなかった。
なんで!? なんでこの時間帯にいるの!?
そりゃ、私と中川さんの関係なんて、一月にも満たない。
けれど、なんで今日に限って……。
「へぇ。珍しいね」
「それがさー、聞いてよ。私今日提出の宿題忘れちゃってー。おかげで早起きしなきゃならなかったのっ!」
「ははは、何やってんだか」
「恥ずかしいから笑わないでよー」
和やかに会話が進んでいる。
容赦なく体重をかけてくる中川さんを背負いながら、私は気分の悪さに襲われる。
「ん?」
私の顔色が悪くなっていることにつかさは目敏く気づいてくれたようだ。
「ああ、悪い中川さん。姫さ、今日は体調そんなよくないらしいんだ」
「そなの?」
中川さんの声のトーンが下がったのは、私の気のせいではないはず。
「なんか体調悪くなってるっぽいし、保健室連れていくよ。もし遅れたら、先生に行っておいてくれないかな?」
「…………」
私を抱きすくめる両腕の圧力が強くなる。
私はそれを、顔を伏せて必死に耐えた。
「それじゃあさ、私が連れてくよ。女同士の方が姫ちゃんも気楽だろうし!」
中川さんの発言に、全身がビクッと震える。
顔を上げて、つかさの顔を何かを訴えかけるように見るものの、つかさはそれを私の体調が悪いせいだと思ったみたいで、
「え、いいの?」
「もちろん。私達お友達だしっ!」
あっさりと了承してしまう。
つかさは靴箱まで私達と同行し、中川さんに感謝の言葉を述べて、教室に向かった。
「じゃあ、行こうか?」
「…………うん」
私は吐き気を堪えながら、中川さんに伴われて、保健室に向かった。
不運な事に、保健室には、まだ先生はいなかった。
それを好機と中川さんは受け止めたのか、態度を急変させた。
「っ!」
私はベッドに突き飛ばされる。
その際に、ベッドのパイプに膝を打ち付け、悶絶する。
「~~!!」
中川さんは悶絶する私を気にした風もなく、冷徹に言った。
「あんたさぁ? 私の事舐めてるの?」
爪先で背中を小突かれる。
私はベッドにもたれ掛り、震えるしかできない。
今日ばかりは、自分が情けなくてしかたがなかった。
反論しようにも、声が出ないのだ。
「私はつかさくんの事好きだって言ったよね? 協力してくれるって言ったよね? なんで皆の注目集めるようなことしてるの? 私に対するあてつけのつもりなの?」
中川さんは私の首筋を掴み、ギリッと握る。
声にならない激痛が走るものの、首根っこを掴まれた猫のように私は抵抗の一つもできない。
やだ……。私、なんで……こんなっ。
恐怖で身がすくむ。
中川さんは私の耳元で疑問の羅列を並べ立てる。
「つかさくんの裾掴んで恋人ごっこですかぁー? 皆にアピールしていい気になってた訳? ふざけんなっつーのっ!」
ダンッ!
苛立ち交じりに中川さんは自らの脚を地面に打ち付ける。
鈍い音が保健室内に響き、私は竦みあがった。
そんな私の態度に中川さんはさらに苛立ちを募らせたのか、決定的な一言を放った。
「てかさぁ? 何のためにあんたと『お友達』してあげてると思ってる訳?」
「……えっ?」
中川さんの乾ききった声。
私は続く言葉を予期しながら、現実に慄いた。
「つかさくんの親戚だっていうから仲良くしてあげたんでしょ? それがなかったら、誰があんたみたいな奴と……そんくらいさぁ……あんたも分かってたでしょ?」
分かっていなかった……といえば、嘘になる。
つかさの件で協力を要求された時に、それぐらいの事は気づいてた。
でも、でも……。
そんなの気づきたくなかったよっ!
私がダメな人間なんて事は私が一番よく分かってる。
迷惑ばかりかけて、扱いにくくて、面倒で、そんなの理解してるよ!
それでも! 友達欲しいと思うじゃんかぁ……。
たとえ利用されていると分かってても、いつかは友情が本物になるんじゃないかって思っちゃったんだもん。
でも、それもすべて、もう終わった。
ガラッと保健室のドアが開く。
保健の先生かという淡い期待は、その顔を見た瞬間に砕け散る。
――――田宮 由紀子。
目の端から涙を零し、震える私を見て、入ってきた瞬間こそ面食らっていたが、すぐ傍で私を見下ろす中川さんの姿を視界に入れた途端に嗜虐的な笑みを浮かべる。
田宮さんについて、短い期間で私が得た情報は、粗暴で強引で適当な少女だという事。
なんだ、特にいい思い出ないじゃん。
そりゃそうか。
だって、私は彼女たちの求めるままに動いて、彼女たち言う事に頷いていただけ。
会話が続くようになっても、そういった大元の部分は変わっていなかったんだ。
「こいつなんかしたの?」
「メールした通りよ」
「それはそれはご愁傷様……」
田宮さんは、中川さんと二三言話した後、ベッドまでやってくる。
田宮さんは水泳部というだけあって、均整の取れた体つきをしている。
それだけではなく、力も強いし、体格もいい。
「っ!」
私の身体は田宮さんの影で覆われる。
私はじりじりとベッドの上で後退した。
そんな私の反応に気をよくしたのか、田宮さんはニンマリ笑って私の髪を無造作に掴んだ。
「痛っ! やめ!?」
力任せに髪を引っ張られ、私は短く悲鳴を上げた。
強引に上を向かせられ、私の喉が晒される。
苦しくて歪む私の顔に、田宮さんは自分の顔をズイッと寄せる。
「なぁ? つかさとこいつの関係が心配ならさー。こいつを適当な男と付き合わせたらいいじゃね?」
え? なに、言ってるの?
田宮さんの言っている意味が分からず、困惑する。
それは中川さんも同様だったようで――――
「どういう意味?」
中川さんは問い返す。
すると、田宮さんは悪意を丸出しの表情で言うのだ。
「こいつを……そうやなぁ……立浪辺りと付き合わせるんや。こいつが彼氏持ちになれば、椿も安心やし、つかさも変な気おこさんやろ?」
「…………」
田宮さんが訳の分からない――――否、分かりたくない発言をして、中川さんは考慮するように腕を組んだ。
そして――――
「いい考え……かもね」
中川さんは田宮さんに微笑んだ。
田宮さんは「やろ?」と短く頷いた。
「姫ちゃん?」
猫なで声で、中川さんは田宮さんに囚われたままの私に近づく。
そして、言うのだ。
「私たちのお願い聞いてくれるよね? 聞いてくれたら、これからも『お友達』でいてあげるからさ……」
その時の中川さんの表情は、決して友達に向けるものではないと断言できる。
口元を歪ませ、私を鋭く睨み付ける見下した瞳。
そのどれもが、悪魔のそれだった。
私は屈したのだ。
う~ん、展開早いなぁ……。
でも、ここでgdgdするのもな~。