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Ⅰ:Prelude in the Mist H

 [H]



 日の射す次の日の昼、電車にガタンゴトンと揺られながら僕は完全に心ここにあらずと言った感じだった。それでも午前中はちゃんと練習したのだけれど。水無月さんは明らかに意気消沈している僕を見て、だがしかし無駄な力が入っていないのか音程の落ち着いた音を出す様に対し非常に複雑な表情をしていた。喜んでいいのか悪いのか明らかに悩んでいる表情で、本当に申し訳なかった。


 『……ま、まあ今日もがっつり練習したし。気分が乗らないときに練習したってね……さ、街に行こうよ』

 『ん、そうするか……』


 そんな諦めにも似た言葉で練習は切り上げられたのだ。ああやだ。雲一つ無い青空が憎い。そもそも彼女と話題を合わせるために原作を少し読んだだけでアニメなどまるで観ていないのに知った振りをして意気投合した自分が悪いのだけれど。それにしたって、うちの妹が何だってまたこのタイミングで声優として出て来るんだ。先に言ってくれ。

 クラリネットの妖精クルルは昨晩から今朝にかけて『にわか乙なのね』と何かにつけて罵倒してくる。ぐうの音も出ない。やだなー営業モードの妹を目にするの。

 多分最初に言ったと思うが、僕の妹土屋涼花は役者だ。ただそれは彼女が役者と言う表現を好んで使っているからであり、彼女がここ数ヶ月で手を出すようになったジャンルはあまりにも多岐にわたる。声優や歌手もその内の一つだった。ついぞ最近まで素人だったくせに、ボイトレになんか通いだしたりしてめきめきと頭角を現している。そして上達ぶりが半端じゃない。某大型検索サイトにいくつもスレッドが立つほどだ。


 「なんかずっと上の空だけど……何かあった?」

 「何があったと思う?」

 「質問を質問で返してんじゃねぇよ」

 「……すみません」 


 怒られてしまった。そこそこすいているとは言え電車の中で。山口さ……ユキちゃんと双璧をなす学園のアイドルに。やばい興奮する。


 『ああもうこいつ駄目な気がするのね』

 「『うるせぇ黙ってろ』……でも、こんなとこでまでイベントやってくれるのね」

 「割と全国的に回ってるらしいよ。都心はいつものことだけど、今回は北海道や九州まで足を伸ばしてるんだってさ」

 「へぇー」


 今回僕らが参加するイベントは人気アニメ『Ensemble-Drop』(略してアンドロ)のOP曲のCDサイン会で、妹の参加している三人組JK声優ユニット『Katze』(ドイツ語で『猫』)はそれぞれアニメ内でメイン三人の声を当てている。

 余談だが、『カッツォじゃないのか』と零したら博学才穎の妹に回し蹴りを食らった事が……さて話を戻そうか。

 ちなみに、妹がイベントをやるみたいな話は聞いていたのだ。だがそれがアニメ絡みのイベントだと言う事は知らなかったし、まさか自分がそれに行く事も予想していなかった。と言うか根本的に、僕は妹を応援しているものの彼女の芸能活動を積極的に観戦したいとは思わないし、それ以上に妹は自分の芸能人としての姿を僕に見られる事をあまり好んでいない。


 「私、すーちゃんが一番好きなんだよね。よくぞうちの県に来てくれたって感じで」

 『すーちゃん? って誰なのね?』

 「『妹の事だ』……僕はヒナ派だなー、すーちゃんも可愛いけどもさ」

 「いやいや、土屋君は何もわかってない」


 これどうにかならないのかな。何だって実の妹を違和感ありありなニックネームで呼ばないといけないのか。

 そんな事をガタン、ゴトンと電車は不規則に揺れ、目的地に近づいていく。流れていく景色は次第に流れを止めていき、遂には停止した。

 駅の名前は『翠碧すいへき市駅前』、市内屈指のショッピングモール『翠碧通り』に最も隣接している駅だ。


 「さて、行きますか」

 「あのさ、もし水無月さんが危惧してる状況になったら、僕はどうしたらいい?」

 「代わりにぶった切られてくれると嬉しいな。多分土屋君の事は伏せられたまま、何故かすーちゃんが怪我した事になると思うから」

 「いや、それは若干洒落にならない……」



 ……そして色々終わって遅めの昼食、僕らはカウンター席でうどんを食べていた。一応五体満足で帰れました。水無月さんが初回版と通常版を両方買うガチ勢だったせいで無駄に僕も並ぶ羽目になってしまったが、何かあったときの為に妹へ連絡していたお陰で事なきを得た。明らかに僕のときだけサインを書き殴っていたのが気になったけど、この件に関しては掘り下げないほうがよさそうだ。にしても……


 『「それでは、土屋涼花さんをお呼びしたいと思います。皆さん拍手でお出迎え下さい!!」

 「おにーちゃーん!!!! 今日は私の為に来てくれてありがとーーっ!!!!」

 「うぉおおおおおーーーっ!!!!!!!」

 』


 ……つらかった。リアルおにーちゃーんが全力でファンに媚びる妹の姿を見せられると言うのははっきり言って拷問だ。世にはびこる妹需要は恐らく対岸の火事だからこそ楽しめるに違いないのだ。

 妹は髪型をツインテールにし、服も白地のセーラー服に短めの紺色スカートをはいて舞台に飛び出してきていた。いや可愛いとは思うのですよ。でも目の前に居るのはどこまで行ってもうちの妹なわけですよ。

 そう言えば、朝学園に来て練習しに来た時から今までずっと制服なのだが、誰か同じクラスの人とかにバレていないだろうか。水無月さんと一緒に制服デートみたいなうわさを立てられただけで一部男子は血の涙を流すだろうし、その行き先がアニメイベントとなると一部男子は全身に禍々しい紋様が浮かび上がるに違いない。まあどうでも良いか。勝手に人の限界を超えてくれ。


 「でも、何事もなくて良かったね。こうして美味しいうどんが食べられるのも、イベントを無事に乗り切ったからこそだよ」

 「うん、僕も水無月さん庇って殉死みたいな真似せずに済んでよかった」


 しかも妹の前で。両親と離れ離れにされて、兄まで目の前で大怪我なんて状況にはしたくない。自嘲気味に言ったが、最近物騒なので絶対に無いとも言えない。

 もし。変態がトチ狂ってお友達にでもなりにきたらどうするだろう。それはその時がくるまで分からない。反射的に前へ出るかもしれないし、足がすくんで動けないかもしれない。だが、それが普通なのだと思う。下手な正義感をかざすのも、賢明な判断を下すのもそれが机上の空論だからだ。

 人は、急な状況においても合理的に動けるとは限らないのである。僕なんていつだって不合理な動き方しかしていないのだし。

 水無月さんは早々にインド風カレーうどん(7辛、最高で5辛のはずなんだけど)を汁まで飲み干し、沢庵をポリポリと齧っていた。対する僕はプレーンのかけうどん(中)なのに半分以上残っている。あまり待たせると悪いので、歯を立てず啜り汁まで一気に飲み干した。


 「でも此処のうどん美味しいね。よく来んの?」

 「ううん、この前ネットで見つけて、美味しそうだったから誰かと行きたいなって思って……ねえ、土屋君」

 「……何?」


 喉から出掛かった何かを、出したいのに出せない。そんな顔をする彼女を見て、僕は正直わけが分からなかった。このタイミングで愛の告白などあるわけがないし(と言うか初デートでアニメ関係のイベントの後うどん屋に入って告白する相手だったらどんなに可愛くとも若干考えてしまう)、じゃあ何だと言われても女性経験など皆無の自分には想像もつかないわけで。

 ……若干の沈黙が流れ、僕が『言いたくないなら別に……』と切り出そうとした時。彼女はその口を開いた。


 「土屋君、山口さんと仲良い?」

 「えっ……いや、そんなでも無いけど」

 「そっか……いや、彼女も吹奏楽部に入りたいって言ってたから、仲良くなりたいなって思ってたんだけど……」


 どこかで聞いたような事を神妙な面持ちで言ってくる水無月さん。そう言えば山口さ、ユキちゃんも同じような事を言っていたような気がする。


 「何か問題が?」

 「いや……なんだか、避けられてる気がしてて。よく分からないんだけど、何となく……あれかな、オーディションが終わるまで仲良くしない方向なのかな」

 「でもユk……山口さんってトランペットでしょ? 水無月さんと関係ないんじゃない?」

 「いや、別にライバルを蹴落とすとかそう言う話じゃないよ? ほら、仲良くなったのに私は落ちて自分だけ受かったら気まずいからとかそう言うの」

 「それは……」


 言いよどんだ。彼女が僕と仲良くなろうとしてくれた事を。それは、僕なら余裕でオーディションをパス出来るが彼女はそれが出来るか分からないから仲良くしない、とかそう言うことなのだろうか。分からないが、過去にそんな事があったのなら。

 『仲良くしたいんだけど~』の裏にそんな気持ちがあったのなら、それは申し訳ないことを言ったなと思う。ただ、これを水無月さんに言う訳にはいかない。言う価値がない。


 「どうなんだろ。でもほら、お互い入部出来ればきっと仲良くもなれるって」

 「そうかな……そうだよね。土屋君の演奏の方が好きだけど、山口さんの演奏も物凄かったし。最優秀賞は彼女だったしね」


 そう言えば水無月さんは山口さんの演奏も聴いていたんだった。『土屋君の演奏の方が好きだけど』なんて事をわざわざ言ってくれる辺りが何と言うかうれしい。彼女に負けたのは致し方ないとは思うけれど。

 さてと……と水無月さんはぽんぽんとスカートを払いカウンターを立ち上がろうとした。だが、次の瞬間。

 後ろを歩いていたお客さんとぶつかった。どんっ、と低い音が響き、そのお客さんはよろめく。倒れそうになる彼の手を僕は咄嗟に引いた。



 「ったっ!!!?」

 「すみませんっ……大丈夫ですか?」

 「すまない、私もぼーっとしていたみたいだ……」


 黒いスーツに身を包み、サングラスをかけ。肩までかかる黒髪をした紳士的なおっさんだった。彼は困ったような顔をして、近くにあった伝票用の紙とペンを手渡す。


 「非常に申し訳ないんだが……私は殆ど耳が聞こえないんだ。音が衝撃としてしか感じ取れないから、誰かがこちらへ向けて話していることは分かるんだが……」

 「あ、何かそう言うの聞いたことあります。この前テレビで言ってたような……」

 「ところで、君たちの制服は……翠蓮の子達かな?」


 水無月さんと違って僕はテレビをほとんど見ないので知らなかったが、そういった症状もあるらしい。僕はとりあえず紙にさらさらと字を書き殴る。『はい、僕が土屋享佑でこちらが水無月夏海と言います』と。


 「そうか、わざわざ済まないね……私は、そうさな。幽記家ゴーストライターと呼ばれているよ。楽器を持っているところを見ると、土屋君の方は吹奏楽部かな?」


 荷物の中から顔を覗かせていたクラリネットのケースに気付いたらしい紳士は、それを指差して言う。僕は紙に『彼女もです。ただ、まだ正式に入部できたわけではありませんが』と書いて手渡した。


 「私も音楽を嗜んでいてね……耳が聞こえなくなってからは作曲にも難儀するようになってしまったが」

 「難儀って、今でも作曲っ……『今でも作曲されているんですか?』」

 「ああ。確かに大変なんだが、周囲の評価としては今の方が良い作品が作れていると評判だよ。何と言うか、音が心に降って来るんだ。耳が聞こえていた頃は無かった感覚だよ」

 「『プロか何かですか? 僕も作曲を齧っているもので、少し気になります』」

 「いや、プロとして名を上げたことは無いよ。あくまで仲間内での小さな活動でね……そうだ、これを渡しておこう」


 紳士は名刺を僕と水無月さんに手渡した。名前の所が空白で結局本名を教えてくれるつもりはないようだが、下には連絡先が筆文字で小さく書かれていた。httpで始まっている、直接の連絡先ではないようだ。


 「連絡先と言うか、私が趣味でやっているWebページのURLだ。特に土屋君は同じ作曲仲間だし、一度は見に来てくれると嬉しい」

 「ありが……『ありがとうございます』」


 僕は紙にそう書いて紳士に手渡すと、彼は僕ら二人に一礼して店を出て行った。何だったのだろう、僕らは顔を見合わせる。ただ悪い人ではないだろう、あのまま一人でどこかへ行くのが少し心配だったが。


 「……さてと。そろそろ行こっ」

 「あれ、今から帰るんじゃないの?」


 この先の話を何も聞いていなかった僕は当然の疑問を口にする。彼女はちっちっちと指を振ると(こんな仕草する人間現実にいたのかと感嘆する)、自信のカバンをまさぐり始めた。

 鼻歌交じりに取り出されたそれは少しばかり湿気でくたびれていたが、版画展のチケットだった。それも萌え絵の。チケット自体は書店やアニメショップなどに行けば幾らでも手に入るものだが、これは確か宣伝の為に『これをお持ちのお客様に先着で○○プレゼント』みたいな特典がついていることが多い。客寄せパンダだ。


 「私の好きな絵師さんの新作が出るみたいだし、これ持って行くと缶バッジが貰えるみたいなの」

 「あーそすか」

 「その後、ちょっと下着買うのに付き合ってほしいな~と」

 「それは断る」



 結局家に帰り着いたのは9時過ぎだったのだけど、一つ分かったのは彼女の趣味や性癖やそういうものではなかったみたいだ。

 彼女が割と他人を振り回そうとするのは、何も音楽に限った話ではないらしい。

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