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Ⅰ:Prelude in the Mist G

 [G]


 誰も嗅いでいない匂いは匂いではないのか。

 

 誰も聞いていない音は音ではないのか。


 ……誰にも見られていないお前は、本当に存在していると思っていいのだろうか。




「あ、土屋君だ。おはようございます」

 「あ、おはよう。山口さんっていつもここから乗ってたっけ?」


 次の日。何やかんやで高等部に入って5日目だ。初週最後の平日と言っても特に変わったことは無い、はずだったが、朝の日差しがさすほうからクラスでも一、二を争う美少女が乗車してくれば気分も高揚しようと言うものだ。

 山口雪姫、その艶めいた黒髪と漆黒の瞳、すっとした立ち振る舞い、それらを総合して誰が呼んだか高嶺の雪月花と言わしめる彼女。男女問わず高い人気を誇り、入学一週間経たずしてほぼ学園中にその名を轟かせているらしい。


 「えっとね。普段は一本後の便で行くんだけど、今日は早起きしたからちょっとだけ早く家を出てみたんだ」

 「そうなのか」

 「いつもこの電車に乗ってるの?」

 「まあ、朝起きるの早いし……あんまり人多いの好きじゃないんだよね」


 はにかんだ笑顔が眩しい。彼女の前ではどんな豪雪の封とて跡形も無く解けてしまうだろう。と言うか何で僕はこんな今日饒舌なんでしょう。思考駄々漏れなせいでクルルが笑い転げている。だがしかし気にしない。

 そう言えば……と、山口さんは手をぽんと打ち鳴らす。可愛いないちいち。


 「土屋君、吹奏楽部のオーディション受けるの?」

 「……うん、まあ。」

 「やっぱり。昨日オーディションの用紙に記入してたの見たから、まさかとは思ったんだ」

 「ちょっと、成り行きで」

 「ううん、すごい嬉しい。お互いオーディション頑張ろうね」


 山口さんは贔屓の野球チームが勝利したときのように胸を弾ませ(弾む胸が無いとは言えないけど)嬉々として話していた。参ったな、と思いながらも、こんな風に会話できるのは悪くない。


「山口さん、曲なんだった?」

 「私は仮面舞踏会の四楽章だよ。土屋君は?」

 「ストラヴィンスキーの『クラリネットのための三つの小品』」

 「ああ、あれかぁ。全楽章なんだよね?」

 「そりゃ、まあね」


 仮面舞踏会、CMでも使われたり世界的に有名な日本の選手がフィギュアスケートでも使っていたりする決行有名な曲、なんじゃないかと個人的には思う曲だ。タイトルは知らなくても、聞けば『これかぁ』と思う人も多いのではなかろうか。

 体育祭御用達の『剣の舞』(バレエ音楽『ガイーヌ』より)でも有名なハチャトゥリアン作曲の全五楽章からなる組曲で、ワルツ・ノクターン・マズルカ・ロマンス・ギャロップからなる。山口さんの課題曲はその四楽章、ロマンスだ。曲自体は簡単だが、この曲を課せられたということは今回彼女に求められているのは技巧ではない。

 確かにあの楽章はトランペットの長いソロがあるが、全曲丸ごとトランペットに吹かせると言うのはまた斬新な話だ。今までノリと勢いだけでトランペットを吹いてきた人間は絶対にオーディションを生き残れない。


 「土屋君なら別に大丈夫じゃない? ほら、あの時みたく音程とかある程度誤魔化せるしね」

 「それはまた耳の痛い話で……それなら山口さんだってあの時みたいに音色で純粋に勝負できるからやりがいあるんじゃない?」

 「そんなに練習してないけどね、正直私のレベルなら余裕だと思うし」


 あの時、と言うのは中学の全日ソロコンの話だ。結局最優秀賞を持っていったのは彼女だったのだが、僕の一つ前に演奏した彼女が僕の演奏を裏で聴いていても何も変な事はない。そうでなければ僕の演奏などわざわざ聴くこともないだろうし。

 あとさ……と彼女は口を補足して言う。


 「山口さん、って硬いから、ユキちゃんとかで良いよ。中学の頃からそう呼ばれてるし」

 「良いの? でも何かきまずいな……」

 「じゃあ、私と二人で居るときだけでも良いからさ」

 「おいおい慣れていく。よろしくお願いします、ユキちゃん」


 言ってから顔が真っ赤になってしまった。基本的に女子相手には呼び捨てかさん付けなのだ。今自分は未知の領域に足を踏み入れている気がしている。

 場所が電車の中でなければ小躍りしそうな笑顔で、ユキちゃんは微笑んでいた。


 「でも、やまぐ……ユキちゃんがそう呼ばれてるの聞いた事ないんだけど」

 「そりゃそうだよ、同じ部活に入る人にしか言わないもん」

 「そりゃあまた過大評価してくれてるみたいで嬉しいけどさ。でも、水無月さんはユキちゃんの事山口さんって呼んでたけど?」

 「あんまりあの子と話してないんだよね、仲良くしたいなとは思ってるんだけど……」

 「じゃあ今度取り次ごうか?」

 「ああいいよ、そう言うのは自分でやるもんでしょ?」


 そんな事を話している間にガタゴトとした揺れが次第に大きくなり、それもじきにやんでいく。終点だ、すなわち目的地に着いた事になる。僕らは席を立ち、改札をくぐる。彼女は僕より少しだけ前へ早足で歩くと、唐突に振り返った。僕も歩く足を止める。


 「ねえ、水無月さんの事、どれくらい知ってる?」

 「え? ええと、そんなに知らないけど……今日から、一緒に練習する事にしてる」

 「そっか……うちのクラスの希望者が、みんな入部できると良いね」


 彼女はそれだけ言って走っていった。笑顔だった表情が一瞬だけ、少しばかりマジになった気がしたのは気のせいだろうか。まあこれは笑顔でする話じゃないのかもしれない。彼女みたいに寝てても通るような実力者ばかりではないのだ、僕を筆頭に。マジな表情で優しい言葉をかけてくれたのは彼女なりの優しさなのかもしれない。


 「よし、頑張るか」


 僕も彼女を追うように、人の波を縫ってその走るスピードを速めた。




 「土屋君その音高いっ!!!!」

 「ごっ、ごめん!! でもしょうがないじゃん! さっきのB♭がちゃんと合うように管抜いてんだから!!」

 「それ審査の先輩の前でも言ってれば!?」


 僕は何も変わっていない。そりゃそうだ、まだ一日目なのだから。音程は悪いままだし、リズムもよく崩れる。しかし、前よりも演奏に打ち込めるようになった気がしていた。きっとこのフルート奏者、僕の対面でぷんすかしている水無月夏海のお陰だろう。

 フルートとクラリネットは音域に1オクターブ(厳密にはフルートとクラの音域幅は違うため正しい表現ではない)の差があるため、一緒にロングトーンをする際片方に極端な負担を強いない場合は必然的にオクターブで平行に重なるような形になる。

 僕は基礎練でよく彼女に怒られる。クラ冷えるじゃんと言ってもフルートだって冷えるでしょと返されては立つ瀬がない。木製なめんなと言いたいが、それを言うと『じゃあ全部の音が基準音より等しく低くなってから言って』とか言われるのだ。嫌になってくる。

 ただ、彼女が変な気を遣ってこないお陰で此方も特に遠慮することは無かった。というかもう無茶苦茶やった。彼女の課題曲はヴィットーリオ・モンティ作曲の『チャールダーシュ』、多分クラシックを知らない人でも一度は聞いたことがあるだろう名曲である。最初の遅いテンポのメロディを、途中から急速なテンポで演奏し、また急激にブレーキをかけ、また(基本的に更に速いテンポで)加速し駆け抜ける曲だ。確かに早いが、慣れれば大したことは無いはずだ。それに元々は同じinCの楽器マンドリン(ギターっぽいがギターより民族楽器っぽい。また、ヴァイオリンとは異なり弓ではなくピックを使う)用に書かれた曲なのだからその辺は頑張ってくれよとも思う。



 「だからっ!!! 絶対このパッセージ抜けた後のこの箇所は音色もろに見られるんだから、気ぃ抜いちゃ駄目だっての!!!!」

 「そういうアテツケで叱るの駄目だと思う!!!!」

 「うるせぇ僕は聖人じゃない未成年だ!!」

 「わけが分からないよ!!」


 ……とまあ怒声が飛び交いながらも息の合っためおとトークで一息つく暇もなく練習に明け暮れていた。正直彼女は上手い。と言うか彼女の音基準でオクターブ下の僕が合わせにかかっているのが情けないところではあるのだけれど。

 ちなみに水無月夏海さん、基礎練習だからこそ分かるが物凄く上手い。本来僕なんかが指導する位置に甘んじていてはいけないはずなのだ。本当に勿体無い、これ程までに基礎を徹底して身に着けている高校生が日本にどれだけ居るだろうか。

 別に嫌がらせやあてつけではない。僕が持っている糞みたいな才覚だって、彼女が身につければ僕以上に輝かせられるのだ。僕のやり方と同じである必要はないが、僕にはこういったやり方しかできない。

 時に心が痛むこともあるけれど、彼女と一緒に居ればその痛みは少しだが和らいでいた。彼女と一緒なら、きっと音楽ができる。音が苦になり諦めた僕が、もう一度音を楽しめるために。


 「じゃあ、そろそろ時間だし」

 「合わせるのは初めてだけど、やろっか」


 二台の譜面台に広げる五枚の楽譜。曲名は『Engage』、恥ずかしながら僕が作った曲をクラリネットとフルートの二重奏に書き換えたものだ。セルフ編曲である。昨日の夜にデータで送って、今日初めて合わせるのだから二人ともほとんど練習をしていない。

 銀の髪をなびかせた皇女が、黒衣の牧師に愛する人、今はもうこの世に居ない彼への想いを告げる。牧師は淡々と業務的に言葉をかける。皇女は次第に声を荒げ、最後には牧師に掴み掛かる。その瞬間黄泉の門が開き皇女は墜ちる。そこは全てが腐り切った世界で、皇女は死を以て穢れた愛を取り戻す。


 僕らは一心不乱に楽譜を追った。フルートは狂おしいばかりの愛を、クラリネットは何を受けても動じない淡々とした暖かい音色を歌う。二人の欠点を浮き彫りにする、ある意味罰ゲームのような曲だった。正直作りたくはなかった。

 そして最後、一度だけクラリネットがfffの音量で牙を向く。短三度の半音階で底まで一気に下り、クラリネットの不協和音を誘うトリル、そしてフルートの弱奏。それは嗚咽と喜びの溜息。


 ……………

 

 「「っっっはぁあああっ!!!!!!」」


 最後の何小節かは全く息を取る場所がない。特に最低音付近でピアノ音量で演奏するフルートにとって此処は地獄だ。二人は同時に酸欠の魚のように息を大きく吸い込んだ。


 「駄目だ、難しすぎる……初見じゃこんなもんか」

 「でも、何か想いを込めて演奏するってのがこんな感じってのは掴めたかも……土屋君のリードのお陰かも」

 「そう思ってくれると嬉しいけど」


 この曲、フルートが一人で盛り上がって発狂する曲ではないのだ。牧師の冷淡ながらも的確な煽りがあってこそ自然にフルートを昂ぶらせていく。そう言う風に作ったのだから当然なのだけれど、それをちゃんと分かって貰えるというのは作曲者としては嬉しい限りである。


 キーンコーンカーンコーン……鎮魂の響きが夕風に乗って反響する。夕焼けが眩しい。僕は日陰に場所を移し楽器を片付け始めた。木管楽器はこの辺が大変なのだ。


 「金曜日、終わっちゃったね」

 「明日と明後日は休みか……そういや、休日って学園内で練習したりできるんだろうか?」

 「出来るらしいよ。でも渡利先生が明日の午後から出張らしいから、明日の午前中しか此処は使えないみたい」


 何とも間の悪い……とも思ったが、休日にまで遠方へ駆り出される不幸を思えば我慢せざるを得ない。そもそもどうしてあの先生が屋上の鍵に限って管理できているのかは甚だ謎なのだが。


 「あのさ、土屋君。明日朝から練習した後に、付き合って欲しいとこがあるって言ったら、困る?」

 「え……いや、全然、全ッ然困らないけども、何かあるん?」

 「必死すぎるよ土屋君……ええとね、これに一緒に行って欲しいんだ」


 テンションにブーストがかかったのを隠そうともしない僕に、彼女は苦笑しながら二つ折りされた一枚の紙をくれた。流石水無月さんだ、折り方が綺麗です。

何かアニメのイベントらしい。OPのCDを歌っているグループの一人が来てサイン会をやってくれるみたいだ。水無月さんこう言うの好きなんだな~、と。視線をスクロールさせて。


 凍り付いた。


 「この作品のファン、マナー悪いしキモいしで有名だからさ。土屋君、前にこの作品好きだって言ってたし」

 「……あ、ああうん。よし、じゃあ明日はとりあえず朝から練習して、午後はこれに行こう」


 口の中をカラカラに渇かせて生返事する僕。流石にこの場では言えない……




 このイベントに来るのが、僕の妹だなどとは。

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