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Ⅰ:Prelude in the Mist F

 [F]


 5限の数学、6限の現代社会を乗り越え半分死んだような状態の僕は、半分ではなく全部死んだような格好で机に突っ伏していた。担任の渡利先生は基本的に帰りのホームルームに定時で来る事がない。それでいて朝のホームルームは時間前にやって来て少しでも遅刻した生徒を容赦なく断罪するから酷いものだ。ブラック企業此処に極まれりである。

 雨は漸く止んでくれたみたいで、植物の葉にから落ちる雫がキラキラと輝いていた。病んでいた僕の心も多少は癒されると言うものだ。

 それでもじめじめとした空気は相変わらずで、そこまで気温は高くないがどこもかしこも下敷きやらノートやらで仰いでいる様が見られた。


 「なあ土屋氏」

 「どうした火野氏」

 「先生遅くね?」

 「いつもの事じゃね?」


 ぐうの音も出なくなる陽介。僕は心底どうでもいいといった様子で突っ伏したまま彼の絡みを回避すると、じめじめとした空気と同化せんばかりのネガティブさでどこまでもメンタルを地に沈めさせていた。そんな所に、何重もの雑音に紛れてカツカツとした足音が教室の外から近づいてきた。足音は途中で止まり、すっと扉が開く。


 「いやぁ申し訳ないっ、所用で少し遅れてな~……と言う事でホームルーム始めるけど、何か連絡ある人……はい、じゃあ終わり、と言いたいとこなんだが、俺の方から一点連絡だ」


 他のクラスのホームルームを実際に見たことがないので何とも言えないが、頻繁に遅刻する一方でこの先生のホームルームは極めて短いらしい。クラスによっては担任教師の有難い()話が数十分続いたりする所もあるそうで、それに比べれば先生が来るまで比較的自由が利きしかもすぐにホームルームが終わると言ううちのクラスはそんなに悪いわけでもないのかもしれない。

 ただそれを言うと先生を調子に乗せるので誰も基本的に言わないようにしている。


 「吹奏楽部に入部予定の奴に連絡なんだけどな、今日までに勅使河原先生の所に入部希望届けを持っていくようにと言うことだ。用紙はこの封筒に入れとく。その際にオーディションの楽譜が配られるらしい、オーディションの内容は詳しく聞いてないから勅使河原先生に訊いてくれ。それじゃあ、ホームルームを終わりますっ」


 起立礼着席のルーチンワークが終わり、クラスメイト達はまばらに散っていく。僕もその中に混じって帰ろうとしたとき、その足を渡利先生が止めた。僕の名を呼び、僕が振り返ると手招きをしている。

 人の波をすり抜け、僕は彼の元へと歩み寄った。


 「何でしょう」

 「お前、結局部活どうするつもりなん?」


 彼はあっけらかんとした様子でそういった。こう言う事を教師が一生徒に訊いても問題ないのだろうか。このお堅い世の中、プライバシーだ何だで摘発されそうなものだけれど。それともそう言う温室栽培の弊害は女生徒にのみ適応されるのだろうか。とんだ男女差別だ。何が男女共同参画社会だ、参画と言っておきながら死角ばかりだ。


 「担任に報告する義務ってありましたっけ?」

 「別に。だから答えなくてもいいけど……昨日の放課後、楽器持って水無月と二人で屋上の鍵を借りに来たからそう言うことなのかとは思ったんだけどな」

 「あれは別に……」

 「俺がお前の事ヘタレだって知ってなけりゃ男女を二人で屋上に行かせるなんてしなかったけどな。いやもう高校生なんて一番そう言うことしたい時期じゃん。俺も性徒もとい生徒を信じたいけど信じる事=誠実では決してないわけよ。俺疑心暗鬼よ。疑心暗鬼でギシアン禁止よ」

 「それ言いたいだけじゃないですか。そう言うことなら帰りますよ俺」


 僕は踵を返そうとする。しかしそんな僕の方を先生は掴む。体罰だと叫べば良かったが、よくニュースで取り上げられるようなモラルのハザードした学校でない此処でそんな冤罪を吹っかけようものなら立場がなくなるのはこっちの方だ。

 

 「まあ、俺が言いたいのはだ。別に完全に楽器が嫌いになったんじゃなけりゃ吹奏楽部でも良いんじゃねって話だ」

 「一人で気ままに演奏するのと大人数で同じ方向向かせて演奏するのはまた別の話でしょう。それに……」

 「安心しろ」


 急に顔を近づける渡利先生。いやキモいんで止めてください、とは言えなかった。この人はたまにマジな顔をする。


 「俺の勤めてる学園の中で、お前を一人にはしねぇよ」

 「……先生が美女だったら、そのまま押し倒してますよ」

 「ま~世の中はそう上手く出来てるわけじゃないって事だ。あとお前、水無月に謝ったのか?」

 「……っ」


 何故それを、とも思ったが、別に誰経由でそれが伝えられたかなどどうでもよかった。僕は苦虫を噛み潰したような顔で先生から眼を逸らす。それを見た先生は僕の挙動を鼻で笑った。ムカつくが、そう思われても仕方がなかった。


 「気にすんな、バラしたのはお前の相棒だ。随分と拗ねてたぞ、中々ご主人が楽器吹いてくれないって」

 「相棒って……あんた一体……」

 「前に会った時はお前共々死んだ魚みたいな眼してたってのに、随分元気になったもんだな。ご主人様だけか、立ち直ってないのは」

 「別に関係ないでしょう。僕が何をやろうと勝手じゃないですか」

 「んで、やりたい事も特に見つかってない……と。勘弁してくれよ、ちゃんと期日までに部活動をクラス全員が決めてくれないと俺が怒られるんだ」


 勝手な物言いだが、言っている事は至極まともな話だった。理由を他人に転嫁する辺りがこの人らしい。徐々に怒りを募らせる僕とは対照的に先生はどこまでも冷静だった。癪に障る。

 僕は踵を返し、先生から顔を背けてそっけなく訊いた。何故そうしたかは分からなかったけれど。


 「……部活動入部の決定って、いつまでですか?」

 「ん、一応来週の月曜までだけど」

 「じゃあ吹奏楽部に入りたい人はどうするんです? オーディションに備えた練習はさせないつもりなんですか?」

 「さあな、ただオーディションは来週から何日かに分けてやるって言ってたと思うけど」

 「……分かりました」


 僕はそのまま真っ直ぐ前へ歩き出し、教室を後にするのだった。



 『おい、さっきの話どういうことだよ』

 『……………』


 たかだか屋上までの階段を、僕は山でも登るような心境で登っていた。非常に心が重い。それでも行かないわけにはいかなかった。

 クルルは、僕の愛すべき()相棒は未だにクラリネットケースの中に引き篭もったまま出てこようとしない。もしかしたらケースの中に居ないのかもしれない、その位何の返事もなかった。

 ムカついたので、僕はエナメルの鞄からケースを取り出し、ケースを少しだけ開けて。ふっと生暖かい息を吹き込んだ。


 『ひゃぁぁああぁあああああっ!!!!!?』

 『……ったく、何だってお前を引きずり出すのにこんな面倒なことしないといけないんだ』

 『うっ、うるさいのね。私にだってぷらいどがあるのね』


 2,30cmの人形サイズで具現化したクルルは翼をぱたぱたと羽ばたかせて宙に浮きながらぷんすかと怒っている。


 『その、一回引っ込んだ手前……』

 『あのさ、昨日はごめんな。お前に当り散らしたりして、悪かった』


 意外とすんなり言えるものだ。言おう言おうとすら思っていなかったのもあるかもしれないが、何事も勢いと言うのは大事らしい。


 『ご主人が辛いのは分かってるのね。今ご主人の事を一番愛しているのは私だって自覚あるし』

 『愛って何だっけ……』


 この勢いで水無月さんにも昨日の非礼を詫びれば良かったのだが、段差を一段上がるたびに立ち止まってしまう。そもそも会いに行っていいものなのかと。会って何を話すんだ。『昨日はごめん。部活には入らないけど応援する』とかか。

 彼女の誘いを断った時点で、絶望的なほどに関係はこじれているのだ。彼女は僕の演奏が好きで寄って来たのだから。

 まあその演奏も散々なもので、もう僕など彼女にとって見ればイベントや宝箱全て取り尽くしたダンジョンのようなものだろう。僕が彼女のような聖女と対等に話せるだけのカードは無いのだ。それだけは肝に銘じておかなければならない。


 『それに、私のためにわざわざ傘を取りに行ってくれたご主人、嬉しかったのね』

 『馬鹿、楽器を濡らしちゃいけないんだよ』

 『ご主人は私が、クラリネットが、音楽が大好きなのね。だから、私は』

 「違う」


 言い切った。思わず声が漏れた。本当は自分だって……いや、考えるのはやめよう。鉛のような足を動かしながら、ついに踏み出した足が空を切る所までやってきた時。僕の前には屋上へ出る扉が姿を現した。鍵は開いているはずだ。おそらく今日も彼女は先生に鍵を借りている。僕はその開き戸に手をかけ、立て付けの悪いそれを強引に抉じ開けた。

 屋上はついさっきまで降っていた雨のせいでほぼ前面が水に浸かっていた。こんな所で練習をする必要もあるまいに……と思ったところで、根本的な事に気がつく。何故彼女はこんな所でわざわざ練習しているのだろう。確かにこの学園の吹奏楽部は結構いろんなところで練習しているみたいだが(特に金管楽器は日光を浴びても即死にはしないため、野外での練習が主だったりする)、ここを選んで練習している酔狂な生徒など彼女くらいのものだ。

 僕は壁越しに彼女のフルートの音色を聞いた。さっき階段を登っていたときから聞いていた音だ。ロングトーンをしている。彼女のメニューの前半を聴いたことがあるから、フルでVerやっているとするとかれこれ1時間になるだろうか。彼女は僕の演奏を絶賛していたが、彼女と比べれば特に絶賛される程のものでもないことがこう言う事からもよくわかる。上積みが無いから、多少の外傷で完全に自分を見失ってしまうのだ。


 『早く行くのねご主人』

 『いや、まあそうなんだけど……っ!!!?』


 強い風が吹いた。それはクリップでとめていたらしい彼女の楽譜を吹き飛ばし、彼女の音色を止める。楽譜が濡れる、思うより先に僕は飛び出し、両手で一枚ずつ、宙を舞う楽譜を掴んだ。


 「つ、土屋くんっ!!!!!?」

 「あ、いや、その……」


 そりゃあ物陰から急に出てきたら吃驚するだろう。素っ頓狂な声を上げる彼女に、僕は何ともばつが悪そうな顔を返した。後ろでクルルがにやついている。後で色々弄られるんだろうな、憂鬱だ。


 「……昨日はごめん。ずっと謝ろうと思ってたんだけど、妙に恥ずかしくて」

 「……………」

 「そのせいで、何も悪くない水無月さんに謝らせてしまって、本当にごめん」


 僕は頭を下げた。クルルへ謝罪したよりもずっと、肉袒負荊する想いで平身低頭した。彼女に許してほしいとは思わなかったが、何故か許してもらえるまで頭を下げ続けようと言う矛盾した気持ちが僕の中にはあった。


 「……じゃあ、下手に出てくれた土屋君にお願い。私の慇懃無礼な発言を、全部無かった事にして欲しいな」

 「へっ!?」

 「それなら、何の問題もないと思わない?」

 「……じゃあ、それでお願いします」

 「うん、お願いされます」


 僕は強く握ったせいで皺のできてしまった楽譜を彼女に返す。何と言うか気恥ずかしい。彼女は残りの楽譜と合わせて譜面台の上でとんとんと揃えると、ファイルの中に仕舞った。


 「ところで、別段気にしてはいなかったんだけど……どうしていつも、わざわざこんな所で?」

 「あ~、そっか。気になるよね。私、誰かに練習してるところを見られるのがあんまり好きじゃないんだ。結構前からなんだけどね」


 彼女は口を開く。曰く、中学時代吹奏楽部の部長をしていたらしい。彼女ほどの容姿と性格なら妥当か。ただ、そのせいか後輩や同期、時には先輩とぶつかることも多かったのだそうだ。


 「私ね、基礎練習をとても大事にしてるんだ。だから、それを疎かにして、合奏とかで周りに迷惑をかけるみたいな人が嫌いで、よく喧嘩してた」

 「まあその意見は分かるけど……言い過ぎって思う人や大きなお世話だと思う人もいるか」

 「普通なら、部長は部員全員が仲良くする事に努めるべきなのにね……色々忙しくて練習に遅れていくことも多かったし、基礎に長い時間を取りたいからって結構自分一人で練習してた。私は自分をうまいとは思わないけど、一本正しい軸は持ってたから、それに外れた人とは激しく対立したの」


 フルートは思ったよりも息を使う楽器で、その簡素な構造故に音程があまり安定していない。それでも彼女は完璧に合わせていたのだろう。彼女の音はそう言う音だ。とても優等生感に溢れた、『まじめにやってます』とでも言わんばかりのスマートな音色をしている。

 中学生で完璧な音程感覚を備えている者がどれほど居るだろうか。フルートと言う立場上、音程がどうのと発言するにはナンセンスな立場だったのかもしれない。

 勿論、音程だけ合わせればいいというものではないのだけれど。それすら出来ない者が何を言ってもという話なわけだ。自分で言ってて身につまされる。


 「あの日の前日も、合奏の時にとある同級生の子と喧嘩したんだったな」

 「……あの日?」

 「ソロコンの全国大会。私の地元で行われるなんて凄いよね。チケット取ってたから、当日はあまり乗り気じゃなかったけど聴きに行ったんだ」


 吃驚した、音程はそんなによくないかもしれないし、インターバルもちょくちょく崩れるけど、とても音そのものがキラキラしてたの。私の今までの常識を根本から覆す演奏、それが……土屋君だったの。、と。

 彼女は夢見る少女のような笑顔をしている。明るくて眩しくて、周囲の水溜りが光の粒を反射して照り返し輝く様子がとても幻想的だった。


 「まあ、金賞は取れないと思ってたけどね」

 「……手厳しいな。まあ、僕もそう思ってたよ。僕も専ら小手先の技術よりも魅せ重視だし」

 「そう言うのって評価されないよね。でも、感動したんだ。ああ、私はこういう演奏がしたかったんだなって。だから、土屋君が同じ学園に来て、同じクラスで、とても嬉しかった。土屋君も色々あっただろうからもう無理に誘ったりはしないけど、時々で良いから練習見て欲しいなって」

 「……時々なんて、淋しいじゃん」

 「……え?」


 僕とは間逆の、でも本質は同じ悩みを抱えた彼女。そんな彼女が本当の音楽を追い求めているのだ。彼女よりも酷い目に遭ったかもしれない、彼女よりも絶望したかもしれない。

 それでも、彼女にとっての僕が居たように、今の僕にとっては彼女がそれだ。


 「多分間逆の欠点があると思うんだよね、僕ら。だから、オーディションまで一緒に練習すれば……って。どうだろう」

 「それって……」

 「いや、まあ思いつきなんだけど、そもそも今から入部希望の紙書いて持っていって間に合うか分かんないし、それでも別に、音楽やるのに無駄なんてないから……」

 「凄く良いと思うっ!!!」


 彼女は急に抱きついてきた。なっ、反射的に振りほどこうとしたが、そもそも僕より身長の高い彼女を振り払えるはずもなく。両肩に胸が当たる。もっと身長差があったら、などといっている場合ではない。僕に足りないのは慎重さだ。


 「ちょっ、水無月さんそれはまずいっ!!!!」

 「はっ!!!!? ご、ごめん」

 「反射的に来た割にちゃんとフルートの事は気遣うのね……」

 「いや、それはまあフルート大事だし」

 「うん、僕も同じ事を言うと思う。ただ僕が言うときは多分社会的に死ぬ時だ」


 僕は教室へ戻り、入部希望届けにサインをし。職員室の勅使河原先生の所へ持っていった。生憎(幸運にもの間違いか)先生は留守だったが、彼の机には希望届けを入れる箱と課題曲の原譜がおいていた。コピーして使えとのメモ書きもおいてある。


 曲名は『クラリネットのための3つの小品』、イーゴル・ストラヴィンスキーの作曲した、三楽章に分かれているものの全楽章が5分内に収まってしまうくらい短い曲だ。過去に聞いた記憶が正しければ、細かい技巧の要求されるかなり難易度の高い曲だったはずである、これをたかだか数日で聴かせられるレベルまで独学で仕上げろと言うのか。幾らなんでも酷すぎる。徹底的に初見さんを排除したいらしい。

 とりあえず全曲コピーし、僕は屋上へ向かった。地獄への階段も、多少足に負担がかかるくらいでそれなりに悪くないものだと思えた。

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