Ⅰ:Prelude in the Mist E
[E]
もし、自分が音楽と何の関係もない人生を送っていたら。今頃どうなっていただろうか。
多分、今とそんなに変わらないのではないだろうか。今と同じように卑屈で、今と同じようにコミュ障で。
こんなどうしようもない自分はどうすればよかったのだろう。多分、こんな自分を変えてくれる人に運命的に出会う場所にいけば良かったんじゃないかな。
それなら、大概『運が悪かった』で無理やり納得できるのだろうし。
次の日。晴れ渡る空の下、僕は駅にて長い列の中順番待ちを余儀なくされていた。何やら脱線事故が起こったらしい。ああ……と僕は残念な気持ちになる。
恐らく入学式当日に指摘した箇所の点検作業は行われなかったのだろう。あるいは行ったが別の位置がヤバかったとか。と言うか定期的に点検作業って行っているものだと思っていた。非常にげんなりさせてくれる。
ちなみに今日もクラリネットを持ってきてはいるのだが、昨日怒鳴ってしまった所為かケース内に引き篭もったまま出て来ない。
やっと自分の番が来ると、僕は学生証を機械に通しバスの乗車券を受け取る。この辺りのフットワークの軽さは学園都市ならではといったところだろうか。バスの時間を待つ必要はあるが、定期を使う分でバスに乗って登校できる。
「……………」
駅の中でバスを待っていると、ふと訪れた静寂。ごった返した人々の足音は一つ一つ明確に鳴り響いているのに、それが一瞬だけ聞こえなくなったのだ。一瞬、ほんの一瞬だけ、微かな寂しさを感じた。
思えば、この数日は色んな人と出会ったものだ。もっと上手く立ち回れれば、その人達が傷つくこともなかったろうに。耳に入ってくる音はどんなに小さくても聞こえるのに、聞こえない音は推測することすら出来ない。
そんな事を考えていると、曇った空がぽつぽつと雫を落とし始めた。ぽつぽつはしとしとと、そしてザーザーとその顔色を変える。ううむ、どうしようか。次のバスまでもう五分ほどしか無いけれど。
「……仕方ない、か」
僕は財布から300円取り出し、エナメルの鞄を駅員に預けた。そして学生鞄を頭上に乗せ、自宅まで走りだす。多分大幅に遅刻するだろうなと思いながらも、それくらいは別に何の問題も無い些細な事だ。
今思えば、傘を借りるところまで甘えておくべきだったかなと後悔する。そりゃあ僕だって濡れたくはない。そんな趣味はない。それでも。
自分よりもよっぽど大切な。愛する()楽器を濡らしてはいけないのである。
結局二限すら大幅に遅刻して教室に入った僕は(他の生徒は全員登校済みだった、二限が理科総合で本当によかったと思う)、へとへとになりながらも席に着き教科書とノートを取り出した。全く授業内容が頭に入ってこないがまだ大丈夫だろう。伊達に中学時の貯金を持っているわけではないし、高等部序盤の授業など中学時代の延長で何とかなる……はず。だったのだが。
「……つんつん」
「ん、どうした。自分でつんつんとか言っちゃう点も含めて」
「今日の授業全然分かんないんだけど。後で教えて」
一応現在唯一の友人である(と思うことにしている)火野陽介様にそう頼み込んだのだが、彼は前方へ向き直り無言で白紙のノート面を見せてきた。ふざけきった友人である。
とは言え自分も結果だけ見ればふざけきった人種なのでどうしようもない。しとしとと雨が降り続く中何も実にならない授業はチャイムと共に終焉を迎えた。とは言え何とかしないと僕自身に終焉が訪れてしまう。課題も出てたし。
なんて感じでうーんと唸っていると、肘が道行くクラスメイトにぶつかってしまった。あっごめっ、と言おうとして顔を上げると、そこには金城さんがちょうど僕がしていたのと同じような顔をして立っている。
懐には教科書と付箋の大量に挟まれたノート、加えて何冊か参考書を納めていた。授業の一回目で理科の先生が推奨していたやつだ、買う奴がいるとは思わなかった。
「……ん、なさい……」
「いや、こっちこそごめん……あっ、あのさっ」
僕は彼女に勉強を教えてもらえないか打診する。別に一切仲良くなどないはずなのだが、こう言う時だけ袖振り合うも多少の縁だとか都合のいい事を考えてしまうのが僕の強みでもあったりする。彼女はこくんと頷くと、唇をふるふるとさせながら口を開いた。
「……昼休み、図書、館で……なら」
「ああ、それじゃあお昼軽く済ませてから向こうで待ってるから。ホント助かる、ありがとう」
「………ん」
何か言おうとして、彼女はそれをやめた、ような気がした。そのまま教室後ろのロッカーへすたすたすたと向かい次の授業の教科書とノートを取って自分の席に戻っていく。僕は若干の申し訳なさを感じながらも教材を机の中に片付け鞄から次の授業(国語)の教材を取り出した……のだが。
「……………」
……後ろを、水無月夏海の方を向くことが出来ない。昨日あんな事を言って帰ってしまった以上何かしらの謝罪くらいあって然るべきなのだが、そんな事が出来るならコミュ障やってない。我ながら酷いなと思いながらも、教科書をパラパラめくって行き場の感情を紛らわせる事しか出来なかった……カラン、乾いた鈴の音が僕の足元で鳴る。反射的に僕はその音の正体を右手で掴もうとすると、それは別の誰かの手と重なった。
水無月夏海、彼女が使っているシャープペンシルはサファイアのような色彩で、先端に鈴が付いているのを忘れていた。
「あっ……ご、ごめんなさい……」
「い、いや……」
僕は顔を赤くし、それを彼女に手渡した。顔など見れたものではない、罪悪感と気恥ずかしさが合わさってどうしたら良いかわからなかった。
僕は前へ向き直ると、前よりも一層教科書を読み込んでいた。途中で上下逆さだったことに気がつき慌てて直したが。
「あ、ありがとう……昨日はごめん」
……僕は教科書を読む手を止めた。聞き間違いかと思った。僕は後ろを振り返り、今日一度としてみなかった彼女の顔を見る。彼女の顔はきっと僕以上に呵責の念に囚われていた。
「私の我が侭に付き合ってもらったのに……私、きっと酷いこと言った……」
「……僕こそごめん。折角誘ってもらったのに、」
「ごめんなさい、もう無理に誘ったりしないから……」
「……………」
僕は無言で前を向く。色んな方向を向いて忙しいことこの上ない。ふふっ、と乾いた笑いが漏れる。気持ち悪いだろうな、傍から見たら。
今更ながら気がついた、いや最初から気付いていたのかもしれない。気付いていて認めたくなかったのかもしれない、いやきっとそうだ。
少しでも彼女を綺麗だとか可愛いだとか思うべきではなかったのだ。そもそも僕は彼女が思っているほど凄い人間ではないのだから。それを知ればただただ絶望するだろう。彼女には哀しみ以外に何も残りはしないのだ。
きっともう彼女と話す事は無いだろう。良いじゃないか、それで。日常会話をたまに交わせればその程度でかまわない。別に無理に話す必要だってないのだ。別に彼女だけがクラスメイトではない。これを機に他のクラスメイトとも仲良くならなければならないだろうし。基本的に外部に頼っていかなければ生きていけない人種なのだ、僕は。
それから昼休みに入るまで、僕は左腕の震えが止まらなかった。右腕でなくてよかった、右腕だったら字も書けやしない。
「……土屋君、上の空」
「っ、ごめん……」
昼休み。弁当と数分睨めっこした所で食事も喉を通らなかったので、諦めて教材持って図書館に移動した僕だったが、彼女は先に学習机に座って本を読んでいた。何だこの子、自分が言えた話ではないけれど。
と言うことで勉強を教えてもらっていたのだが、なにぶん集中できない。彼女の言っていることは十二分に理解できるのだけれど、じゃあ実際にと問題を解いてみると筆が止まってしまうのだった。
昼食を終えた生徒達が続々集まってきたらしく、館内は次第に慌しくなってきた。表立って大騒ぎする馬鹿は居ないにしても、人が多くなるというだけで雑音が増えるのは仕方のないことなのである。心音とか。
加えて今日は雨なので、普段昼休みを外でのスポーツやらに費やしている連中も此方に流れてきて居たりする。彼女もあまり落ち着かないらしく(だが本は読んだままだ)、いすの上で妙にそわそわしていた。それにもう昼休みの半分近くを費やしてもらっていた僕は、やりかけのノートを閉じて立ち上がる。
「こっから先は家でまた頑張ってみるよ、本当に有難う」
「……これ。もし詰まったら、また」
彼女が取り出した携帯端末には特殊なQRコードが表示されていた。最近流行っているWHISと言うアプリで、チャットや通話が出来る。過去にも似たようなアプリはいくつも存在していたが、隆盛を究めていたアプリの仕様が『携帯の電話帳からデータを勝手に抜き取る』ようになっておりこれが大規模な犯罪に利用されたため、セキュリティの高い安全なこちらが使われる様になったんだけどそれはどうでもいいか。
その気になれば画像やそれ以上に大きなファイルもやり取りできるため、リア充グループが情報共有(宿題とか)に使っていた気がする。摘発されてしまえばいいのに。
「よっ、と……登録したけど、金城さんもこう言うのやってんだね。ちょっと意外」
「……友達、0。気に入った、企業のアカウントだけ」
「……まあ僕もそんなに登録してないし、登録した後でチャットしたの妹くらいなんだけど」
「……妹?」
「うん。女優やってる。テレビ見ないから一度も画面越しに見たことはないんだけどね」
妙に食いついてきた(普段と比べれば)彼女に少しばかり鼻を高くして説明したが、彼女は特にリアクションを見せるでもなく……と思いきや、急に右手を握り左手にポンと振り下ろした。
「土屋……涼花……」
「ああ、知ってたのか。そうそう、本名でやってんだよ。僕とは全然似てないから誰も気づかないけど」
「……情弱」
「いや、それはいくらなんでも失礼すぎやしないだろうか」
右手を口に当ててぷぷぷと笑う彼女に若干のいらつきを覚えながらも、彼女が笑うところをはじめて見た気がした。もっといい笑顔なら良かったのだけど、別に贅沢は言うまい。
「今日は長い事付き合ってくれてありがと」
「……大丈夫、問題ない」
「あーそれは大丈夫じゃないフラグだな。それじゃ、僕は教室に戻るけど、金城さんは?」
「もう少し、此処に……」
「そっか、じゃあまた」
僕の言葉にこくりと頷いて返す金城さん。基本的に人と話すのが苦手なようだが、それでも知り合ったばかりの他人に時間を割いてくれる(それが読書の片手間だったとしても)のだ、悪い人ではないだろう。
僕は教室へと戻りながら次の授業が何だったか時間割のアプリを見る。そこには、赤文字で(僕がそうした)『数が苦』の二文字が。
一気に地球の重力加速度が倍加したような感覚に襲われながらも、鈍重な足取りで僕は階段を上っていった。