Ⅰ:Prelude in the Mist D
[D]
そして放課後。結局屋上の鍵は二人で一緒に借りに行き、僕らは校舎3階の更に上を目指していた。流石に此処までは手入れが行き届いていないのか非常に埃っぽい。二人ともハンカチで口元を押さえながらの移動だった。
「あれ、ここ……何か血のにおいしない?」
「私は特にしないけど……ああ、でも此処なのかもね。昔この学園を卒業した先輩に聞いたんだけど、どこかの屋上に続く扉の前で自殺を図った生徒が居たらしいよ。人間一人が出す出血量じゃないレベルの血が一面を染めつくしたらしくて、学校の怪談だか七不思議だかになってるみたい」
「へぇ……」
酸化しきって錆びた鉄のようなにおいが若干ながら残っていたのでそんな話をすると、軽い伝承が帰ってきた。よく見ると床に赤い染みの名残がある。これが全部血液だとしたら相当なものだ。集団で手首を切ったりしたのだろうか。
そんな事を考えている間に、彼女は鍵をガチャガチャとやってロックを解除し、立て付けの悪いと言われていたその引き戸を力任せに引いて開けた。バシン、と言う音が人気の無い空間にこだまする。大丈夫なのかこれ。
「ふう、これでいいか……じゃあ行こうか」
「水無月さん、意外と力あるのね……」
「そうかな?」
あっけらかんと言ってのける彼女。明らかに僕より腕力が上な気がする。とりあえず怒らせないようにしようと思いながら、先に屋上へ出て行った彼女に続いた。
そこはグラウンドが一望出来るとても見晴らしのいい場所だった。そこでは多くの学生がスポーツに興じていた。てかサッカーやってる集団の中にうちのクラスの桜木さんが居るんだけど。男子サッカー部に混じって思いっきり個人プレーしてるしシュートがキーパー吹き飛ばして尚且つゴールネット突き破ったぞ。キーパー大丈夫か。
自己紹介で『運動部で荒ぶる』と豪語していたが、早速過ぎるだろあの子。あの華奢で幼い容姿のどこにそんな力が込められているのか甚だ疑問だった。
「うわ……水無月さん、桜木さんって普段どんな感じ?」
「うん……普通の子じゃないとは思ってたけど。基本的に休み時間とかはただテンション高めの女の子だよ。あと物凄い量のお弁当食べてる」
「ますます謎だな……豊穣の神に見捨てられたのかな」
「ま、まあそれはさておき。折角来たんだし練習しようよ」
陽の当たらず風の吹いてこない場所へ移動すると、二人は楽器を組み立てた。久々だったがやはり身体が覚えているのだろう、すんなりとクラリネットが出来上がっていく。彼女はとっくにフルートを組み上げると、マウスピースだけ外して吹き始めた。
全てを繋いで吹くと粗が見えにくいため、ベースであるマウスピースだけを吹いて自分の音程や音色を確認するのは割とどの管楽器でも共通したウォームアップなのです。かく言う僕もマウスピースだけを取り出し、リードをはめて吹き出した。
旗から見たら甲高い不協和音が鳴り響く(勿論口を調節すればいじれるのだけど、クラリネットとフルートのマウスピースから鳴る音は自然に吹いた場合音程が異なる)だけの異様な光景かもしれないが、大体こんなもんだ。普通はもう少し別々の場所で練習するのだけど。
「……ううむ」
「どうしたの、水無月さん」
「いや……ううん、何でもない」
会話終了。そして二人は音出しに戻るのであった。此処から先は特に記述するべきものも無いため、時間を数十分進めるとして。
「ねぇ、土屋くん。ちょっと私の音聴いてもらえないかな?」
「別にいいけど……何だってまた」
「土屋くんにアドバイスをもらいたくて……それじゃあいくね」
「あれ、楽譜は?」
「いいんだ、もう覚えてるから」
彼女はフルートを構え、息を大きく吸い込んだ。そしてその柔らかい唇をマウスピースに当て、息を通す。
聴いたことの無い旋律だった。最近の曲だろうか、だとしたら分からない。だが、自然と温かくなるフレーズだった。個人的にフルートは属性で言うと風や水、感情で言うなら感傷や哀愁を歌う事に特化していると思っていたが、これは不思議な温もりがある。
時間にして数分間の出来事だったが、僕は呼吸をすることも忘れ口の中をカラカラにしていた。最後の旋律が紡がれ、その曲は幕を下ろす。彼女は静かに眼を閉じ、楽器を口から離し。そして大きく息を吸って吐いた。
「はぁ……こんな感じ。どう、かな?」
「……とてもいい曲だった。音程も正確だしリズムも乱れが無い、音もよく飛んでくるし、曲に合ったとても温かい音色をしていた。……うん、それが正直な感想」
「……やっぱり」
正直、上手いと思う。それでいて、何が『良くない』のかも彼女は分かっているのだと思う。分かっていたからこそ、僕はそんな感想を漏らした。ならば彼女には何が足りないのか。
簡単な話だ、彼女の演奏では、アナログが超えるべきデジタルを超えられない。彼女の音はデジタルでも出せる。そんな事を言われれば身も蓋も無いように聞こえるが、それが彼女の悩んでいる事だったのだろう。
贅沢な話だと思う。それすら出来ない奏者が世界には半分以上ではないだろうか。それを備えているだけでも十分だと思う。しかし、それに彼女は甘んじては居ない。
「私、ずっと前から『お前の音には魅力が無い』って言われ続けてきたんだ。魅力って何なんだろうね、多分音程や音圧、そういうデータでは測れないものなんだと思うけど……」
「……水無月さんは何を目指して音楽をしてるの?」
「分からない……でも私は、音楽が好き。それだけなんだ。勿論一人でこうやって演奏するよりも、大勢で演奏するほうが好き。木管も金管も、弦楽器も打楽器も織り交ぜて、それぞれにしか出来ない魅力を最大限ぶつけあって完成する音楽が好き。でも私の存在は、マイナスにはならなくても決してプラスにはなれない。どうしたらいいのかな」
……僕は口を噤んだ。答えて欲しいのか、それを。彼女が悩めば悩み続けてきただけ、その模範解答は磐石のものとなるはずなのに。
『それが貴女の才能の限界』だなんて、言える訳が無いじゃないか。ましてやこの僕が。彼女のように99%の努力で技術を高めながらも1%の才能に恵まれず苦しんでいる子の前で何を言えばいいのか。
彼女は右手で涙を拭う。そして、無理に微笑を見せてくれた。
「ねぇ、土屋くんの音も聴かせて。どんなに短いフレーズでも構わない、私が惹きつけられた音、もう一度聴いてみたい」
「……分かった」
彼女が僕の音を聴きたかった理由が良く分かった気がした。だからこそ……僕は楽譜を開き、ページをめくり、この曲を選んだ。
曲のタイトルは『無伴奏チェロ組曲 第1番 ~プレリュードとサラバンド~』、音楽の父、J.S.バッハの作ったチェロ単独で演奏される曲だ。音域としてはバスクラくらいが丁度いいのだが、敢えてB♭クラで挑戦してみようと思う。
僕は深く呼吸をひとつし、マウスピースを口に当てて……
積み重ねるアルペジオ、粘り強い弦と弓の摩擦、そよ風の流れと川のせせらぎ。僕は夢中で旋律を奏でた。他に何の感情も挟まない位音の泉に浸かった。重力からも時間からも開放されて、僕は周囲の空間を完全に掌握して……
なんて事が出来ればよかったのだけれど、上の描写は全部真っ赤な嘘。よくもまあこんな嘘八百を並べ立てたものだ。自分の演奏に全くのめりこめない。ピッチは外れまくりだしリズムも所々乱れた。お粗末にも程がある。
水無月さんは……黙っていた。一応名誉のために言っておくと、全力は出しました。別に彼女を失望させようとした訳ではないので、と僕が口を開こうとしたとき、別にの一声が重なった。
「「別に」手を抜いたわけじゃ、無いんだよね……土屋君、凄く納得してなさそうな顔してる」
「……まあ、思い描いてた演奏はこんなんじゃないよ」
「音程も悪いしリズムも運指に引っ張られてガッタガタ、コンクールなら容赦なくハネられるんだろうな。だけど……その演奏は、私が確かに惚れ込んだ演奏だったよ」
「……やめろよ」
少しだけ、少しだけムキになってしまった。さして親しくも無い異性にこんな攻撃的な台詞を吐いてしまうくらいには。
「……吹奏楽は相互に干渉しあう究極の団体競技だ。野球もサッカーも一人位下手な奴が居たって多少は問題ないだろうけど、吹奏楽は下手なやつ一人居ればそれだけで傷がつく」
『凄い暴論なのね。野球部やサッカー部に謝るのね』
「練習すればいいよ。ずっと吹いてなかったんでしょ?」
「練習したから……ごめん、帰る」
僕は楽器を片付け、彼女を置いてその場を去った。逃げるようだと笑ってくれ。事実逃げた事には変わりないのだから。自分の中途半端さが醜くてしょうがない。最初から彼女の誘いを断る勇気も無ければ彼女を傷付けない言葉を選ぶことも出来ず。プライドがあるのか無いのかはっきりしない言動と行動が結局は相手を傷付けると分かっているのに、どうする事も出来ないで居た。
『ご主人、ド下手糞なのね。だけど私だってご主人は嫌いじゃないのね。それにご主人の演奏だって』
「お前に僕の何が分かるってんだよ」
『ご主人は団体行動を嫌がってるだけなのね。あのフルートの子も言ってたのね、その楽器にしか出来ない魅力を折り重ねて完成する音楽が好きだって。ご主人だって同じ事を思っていたはずなのね』
「だったらどうしたよ。僕の我侭でキャンバスに泥を塗るわけにもいかないだろ」
『ご主人、ムカつくのね。色々言ってるけど、全部言い訳なのね』
「だったらどうしたって言ってんだよ!!!」
誰も居ないはずの階段に怒声が反響する。僕はどうしたいのか。彼女の優しさに甘えているのなら死んだほうがマシだ。別段自殺する勇気があるわけでもないが。その辺りが中途半端なのだと誰か居たら叱責してくれるのだろうか。
ホラ、ソうやっテまタ他人に頼っテいル。