Ⅰ:Prelude in the Mist I
[I]
次の週、僕と水無月さんは日課のようにお互いの欠点を補い合い、時にノーガードで殴りあうような死闘を演じ(演じてるだけなのできっとセーフ)、技術を磨いていった。
そしてユキちゃんの合格発表を風の噂で聞いたりなんかして(どうやら合格発表はその場でされるらしい)、木曜日の放課後。僕のターンになった。若干雲量は多いが雨が降るほどの天気ではない。この位気温が安定してくれていたほうが好都合と言ったものだ。
控え室に入った僕の目の前には、4人ほどクラリネットを吹いている生徒の姿、それと大きなピアノがあった。皆違う曲を演奏している、楽譜はコピーして使えと書かれていたからそうしたのだけど、課題曲って複数あったのだろうか。だとしたらマズったかもしれない。僕も楽器を出し音だしを始める。
『うんうん、今日は普段より良い感じなのね』
「お前のその評価、あんまりアテにならないんだけどな」
『失礼な、ご主人が吹いてる楽器が言ってるんだから間違いないのね』
クラの化身クルル的にも今日の僕の音のコンディションは上々のようだ。最近の餌付けが効いているのかも知れない。と言うのも、楽器の化身だけあって彼女のテンションが低いと明らかに楽器の鳴りが悪くなるのだ。楽器の調子に気を配るのは当然なのだろうが、顔色まで伺っている奏者が何人居るだろう。無駄に疲れる話だが、どこか物理的に調子の悪い部分があれば言ってくれるので下手に調整を依頼する必要も無く経済的であるともいえた。
低音域を時計の秒針と同じ速さで32拍吹いて8拍ブレスを取りながら全音域鳴らし、下を鳴らしたら今度は上を鳴らしていく。そしてHiB♭(クラリネットの最低音から3オクターブ上に言って三度下がったとこ)まで到達した時。上級生が入ってきた。いかにも真面目そうな男子生徒だった。
どうやら此処で終わりらしい。ああ全音域やりたかったのにと落胆しながらも、上級生が用意した椅子に座る。彼曰く審査をするのは別に居るらしく、小さな紙切れを全員に配った。審査員は後ろを向いた状態で紙に書かれた番号を呼び、呼ばれた人は指定の位置に立って演奏する。その際一切話してはいけない。不正を防ぐためだそうだ。
本気で不正をしようと思うなら、何か合図を決めておいてと言うこともできるのだろうが、それは突っ込まないでおいてやった。
「なぁ、お前」
「……何か」
上級生が控え室を出て行くと、隣に座っていたやつが絡んできた。さっきカール・マリア・フォン・ウェーバーのクラリネット小協奏曲26番を吹いていた奴だ。前半と後半でテンポがガラっと変わる曲で、特に後半は息を継ぐ暇も無い位音符が並んでいる中を一気に吹ききらなければならない。一度でもしくじると多分終わる。好んで吹きたい曲ではない。
テンポを守りつつ、その中で細かい音符にどれほど魅力を付加させることが出来るか。正直、あまりコンクール向きではない気がする。コンクールの課題曲は1か0かみたいな曲ではなくもっと細かい採点要素を持ったものにしてほしい。
「曲練習してねぇけど、大丈夫なん?」
「(馴れ馴れしいな……)いや、練習しようと思ったら時間になった感じで」
「そうなのか、アホだなお前」
段々苛々してきた。髪を金に染めた、高慢を絵に描いたようなそいつは鼻につく物言いで絡んでくる。ただまあ、もしかしたら一緒に演奏することになるかもしれないのだし、ここは一つ大人の余裕を……
「基礎を馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返して、曲を吹けない奴はアホだろ。まったく理解できないね。どうせ俺の一人勝ちだろうし、あー気が楽」
「……………」
……うん。苛々が収まった。嵐の前の静けさ、台風の目と言う奴か。それか欧米で良くある散々笑ってからキレる奴とかか。
ピアノ弾く先輩が入ってきた。ウェーブのかかった髪をした胸の大きなおっとりした印象の先輩だ。入部した暁には色々宜しくお願いします。
「それでは……Cと書かれた紙を貰った入部希望者は黙って前へ」
顔を見てはいけないからだろうが、審査する先輩は背中をこちらに向けてそんな事を言って来る。どいつもこいつもむかつく。僕はピアノの先輩に曲を告げた後、指定の位置に立ち。ピアノの先輩と一瞬だけ目を合わせ。
全力で演奏した。多分中学時代の全盛期を超えているはずだ。それでも山口雪姫の足元にも及ばないだろうけれど。
一曲吹き終わって後ろを振り返った後の、ピアノの先輩の微笑みと残りの希望者の唖然とした顔は多分数日忘れられないだろう。誰とも話さずクールに去るつもりだったが、さっき散々初対面の相手を散々disってくれたチャラ男だけには少し物申しておかねばならぬと思い、歩み寄って一言。
「基礎舐めんな」
まあ『お前が言うな』といわれればそれまでだけれど、それは自分が一番よくわかっているので許してください。
と言う一悶着があって、次の日僕が登校すると、机の中に合格通知が入っていた。そう言えば結果発表も聞かずに帰ってしまったんだったか。非常に失礼な行動だったのによく採ってくれたものだ。
中には色々書いてある。正式入部は来週の月曜日なんだそうだ。こんな古き善き告白の手法使って手紙を入れなくてもよさそうな物だけれど……とはいえ自分がすたこらさっさと退室してしまったのだから何の文句も言えないし感謝してしかるべきだ。そんな事を思っていると。
「あっ、土屋君」
山口さんだった。僕の姿を見るなり駆け寄ってくる。朝から非常に嬉しい。
「合格通知読んでくれた?」
「って事は、これユキちゃ……山口さんが?」
「私、結構部室入り浸ってるから。先輩とも仲が良くて、同じクラスならこれ渡してくれって言われたの。土屋君の演奏の時ピアノ弾いてくれた先輩居たでしょ? あの人クラの先輩なんだけど、土屋君の事絶賛してたよ」
明るく話しかけてくる山口さんに、自然と顔が綻ぶ。オーディションの時間なんて一瞬だからあまり実感がなかったが、ちゃんと受かったのだという事を再認識できた。
ともあれ別に狂おしいほどに吹奏楽をしたかった訳ではない僕としては、自分の結果も大事だがむしろ明日の方だ。今日はオーボエ、ファゴット、ホルンのオーディションがある日、そして明日は水無月さんの戦いの日である。
「今日はオーボエ、ファゴット、それからホルンの日だっけ、んで明日はフルートとサックスだっけか。陽介も水無月さんも受かると良いね」
「あ、ああ……そうだね。ごめん、火野君忘れてた」
「おい」
たった今登校したらしい陽介が若干寝癖を残しつつ大層ご立腹な様子で後ろに仁王立ちしている。虚勢だな~と思いながらも言わないであげた。
「お、おはよう火野君」
「山口さん、俺の事忘れてもらっちゃあ困るな。来週は同じ部活で頑張るんだし」
「随分な自信だな」
「だってファゴット俺しか希望者居ないらしいし」
そう言う事か。一気に冷めてしまった。基本的にファゴット経験者の割合は非常に少ない(楽器もリードも高くメンテも大変、ボーカル(楽器とリードを繋ぐ細長い管みたいなやつ)の耐久性が悪い等々)のだが、そんなレア楽器を中学から続けている人間など超希少種だ。僕の周囲にもファゴット吹きは居なかったし。
むしろその条件下で落ちたら笑ってあげるのに、と軽口を返し、僕と山口さんはくすくすと笑った。……と。
「山口さん、何で今日はまたトランペットを持ってきてるの? いつも教室には置いてないよね?」
「あ、普段は音楽室に置かせてもらってるんだけどね。さっき朝錬してたら熱入りすぎちゃって、音楽室まで持ってくの面倒だから持ってきたんだ」
「あれ山口さんだったのか……」
此処に来る前、駅を降りた所でオセロ(シェイクスピアの作った悲劇を元にA.リードが作曲した五楽章からなる組曲だ)の二楽章が聞こえていたのだ。何百メートルあるだろう。確かにトランペットはよく音が飛ぶ楽器だが、それにしたって限度があるだろう。化け物か。
そして割と早くに登校している自分よりもかなり早くに登校していたらしい山口さん。此間『ちょっと早起きしてみた』と言ってたのだから普段はもっと遅いんだろうに。
オーディションなど彼女にとっては軽くジョギングする程度の労力なのだろう。彼女の本気はこれから発揮されると言うわけだ。末恐ろしい。
そんな事を話していると渡利先生が入ってきた。蜘蛛の子を散らしたように自分の席へと戻っていく僕ら。先生はいつものように雑な感じで出席を取ると(今日休みの奴手ぇ上げろ、居ないなじゃあOK、的な感じだ。適当すぎるがそれで成り立っているのだからいいか)、日直の日誌を近くに居た男子生徒に渡した。支倉君だ。よく話したことは無いが面白いトークが持ち味で、クラスの盛り上げ番長である。
「今日は水無月が風邪で休みなんで、支倉と宮崎が日直な。それじゃあ、ホームルーム終わり」
きりつ、れー……と気だるく終わるホームルームだったが、僕は先生がさらっと口にした発言を気にしていた。水無月さん休みなのか、昨日はオーディションの関係で放課後彼女と練習していないから分からなかったけれど、一人だからと無理して頑張りすぎたんじゃなかろうかと邪推してしまう。
明日の本番大丈夫かな~と思いながら、僕は一限の準備を始めるのだった。