第三章
1
男子寮から一般寮へ、もとい女子しか住んでいない寮へ引っ越すということは、本人にとってはものすごい出来事である。
考えてみてほしい。以前俺が住んでいた場所は男子寮だ。イコール、周りに女子がいない環境で過ごしてきたということである。
そう。女子がいない――すなわち、男子ばかりの環境だ。
筋肉もりもりで暑苦しい系男子。メガネをかけたガリ勉系男子。可愛らしいものが好きで妙になれなれしいアブナイ系男子。二次元が大好きで自分の嫁を日々愛でている現実逃避系男子。その他諸々。
そんなやつらがうじゃうじゃいる環境だ。
それが今や周りには女子しかいない。
いわゆるハーレム状態。
そんな環境に変わってしまったら、思春期真只中の男は一体どうなってしまうのか。
「――――」
そんなの、毎日が悶々とした状態になるに決まっている。理性を崩壊させる要素なんてたくさんあるんだ。
男が住んでいるにも拘らず居間で居眠りをしている無防備な姿。ローカですれ違った時に香る女子特有の甘い匂い。誘っているとしか思えないパジャマ姿。
そして――。
「あんっ、はぁんっ。んんっ……はあぁんっ」
隣の部屋から聞こえてくる色気の籠もった結衣の喘ぎ声。
……もう、勘弁してくれ。
俺はノートパソコンを休止モードにして立ち上がった。
この寮に来てからすでに二週間が経過している。だからそういう誘惑にはだいぶ慣れてきたと思っていた。
実際、風呂上がりで無防備な格好をした彼女たちに出会ってもいちいち反応しなくなったんだ。
「…………」
あ、いえ、嘘です。ごめんなさい。直視できないのでちょっと顔を赤らめて目を逸らします。
でも。
初日と比べたらかなりマシになってきたのも事実だ。だからこういう声にもすぐに慣れると思っていた。
そう。二、三日我慢し続ければ慣れると思っていたんだ。
しかし現実は――。
「んあっ……あぁんっ。あんっ」
だーくそぅ、やっぱりこれだけは慣れねぇ!
絶え間なく聞こえてくる魅惑的な声に俺はがしがしと頭を掻いた。
もう我慢の限界だ。執筆になんて集中できるか!
悶々としながら自室を飛び出した俺はローカに出てすぐ隣にある部屋、愛梨の部屋に向けて大声を上げた。
「愛梨、結衣! 練習するなら結衣の部屋か居間でやってくれ!」
そう。別にこれは結衣が愛梨の部屋でイヤラシイことをしているわけではない。
愛梨の演技を上達させるために、結衣が彼女の目の前で実演しているのだ。
「あ、暁さん……? い、今はダメ! 入ってきちゃ……あっ、やだ、そんなに強くされたら……あ、ああっ、はあぁぁぁああんっ」
本当に、練習の手伝いをしているだけなのだろうか。
なんだか自信がなくなってきた。だ、だってどう聞いてもこれは演技には思えないだろ。台詞も台詞だし……かといって怖いから部屋に入って確認なんてできないし、結衣から部屋に入るなとも言われているし。
結局悶々としながら中で行われていることをよからぬ方へ妄想してしまう俺。
しかし、次の瞬間。
「……ひゃあっ。な、何!? あぁんっ。だ、ダメ。そんなとこ……さ、触らないでぇぇぇ」
その妄想は一瞬にして消え去った。
なぜなら続いて聞こえてきたのが愛梨の下手な演技だったからだ。
「……ふぅ」
俺は安堵のため息を吐いた。
やっぱり練習に付き合っていただけらしい。
「だめ、やだぁぁ……あんっ。ほんとにやめ――」
「ストップ。愛梨、あなたちゃんとわたくしの演技を聴いていたの? ついさっき実演してみせた、あんっ、の部分が全然できていないわ。もちろん他の部分も」
「あぅ……ごめん、ちゃんと聴いてたんだけど」
「わたくしのマネをするだけなのにどうしてできないのかしら。ねえ、さっきはどんなことを想像しながら演技したのよ?」
「もちろんヒロインと主人公が触手に襲われて無理やり絡み合っているシーンを想像したよっ」
「想像できるだけじゃやっぱりだめなのかしら……」
元気よく答えた愛梨に対して、結衣のため息交じりの声が聞こえてきた。額に手を当てながら嘆いている結衣の姿が容易に想像できる。
どうやら愛梨たちが練習しているのは俺たちが制作しているゲームの一シーンらしい。
触手による不意打ちに対処できなかったせいで主人公とヒロインが絡み合ってしまうという、ちょっぴりえっちな一場面。
いわゆる、一つのサービスシーン。
異世界バトルものといえば触手は欠かせないだろ?
「それにしても、暁さんは結構な変態さんなのかしら。普段サービスシーンを巧く描けないくせに、さっきのようなシーンを描くことができるだなんて……」
「あ、愛梨もそれ思った。なんで巧く描けたのかなあって」
得体のしれないものを使ったサービスシーンの描写。
これは異世界バトルものというジャンルに初挑戦したことで初めて描いたシチュエーションだ。
そしてまた、初めて満足のいく描写ができたサービスシーンでもある。
しかし、どうやらこれは弱点克服の方法を試したことによる影響ではないらしい。その証拠として俺はまだ主人公とヒロインだけが関わるサービスシーンを巧く描くことはできない。
どうしてあのシーンだけ巧く描くことができたのか。
自分でもその理由はわかっていない。
「でもね、ちょっと考えたらわかったよっ」
――え?
続けてドア越しに聞こえてきた愛梨の自信満々な声に俺は驚いた。
自分でもわからなかった理由を愛梨が知っている!?
これはチャンスだ。愛梨からその理由を聞き出すことができれば、一気にサービスシーンの描写を上達させることができるかもしれない。
まだ結衣から部屋に入っていいとの許可が下りていない――というか、忘れられているような気がするけど……とりあえず俺は聞き漏らさないように聞き耳を立てた。
すると――。
「暁がドSだからだよっ」
「なんでだよ!」
「……あり? 暁いたの?」
「いたよ、さっきからずっと」
やはり忘れられていたようだ。
そのことに何とも言えない気持ちを抱きながら待っていると結衣がドアを開いた。
「ごめんなさい、すっかり忘れていたわ。……それで? 一体何のようだったかしら?」
「練習するんだったら結衣の部屋か居間でやってくれって頼みに来たんだ。執筆に集中できない」
「なんでよ。いつも愛梨が部屋で練習している声を聞いても文句言わないでしょ」
「それはそうなんだけど。なんていうかほら、今の練習は……ええっと」
「あら? もしかして……わたくしの演技が艶めかしすぎて勃っちゃったのかしら?」
「――ッ!?」
直球な質問に思わず反応してしまうと、結衣がニヤニヤと口元を歪めた。
「図星? ねえ、図星?」
「う、ううううるせえ、そんなことない!」
「慌てて否定するとこが怪しい……ま、そのことはひとまず置いとくとして。ここに来てくれたのはちょうどよかったわ。ねえ暁さん、ちょっと一緒に考えてくれない?」
「なにを?」
「どうすれば愛梨が今のシーンを巧く演技することができるようになるのかってことを。ほら、明日収録だから」
「あー……」
そういえば、声の収録を明日やるんだっけか。
収録現場の都合上、何度もとり直しをするのは好ましくない。できるなら一発で成功させたいところだ。しかも時間が限られているため、できなかった分は次回へ持ち越しになってしまう。イコール、その場で予定していたシーンの収録が全て終わるまでとり続けることはできないのだ。
幸い、俺の方は今のところ順調に進んでいるため、愛梨のことを手伝う余裕がないわけじゃない。それに自分の担当分野が完成しても愛梨ができなければ作品は完成しないわけだし――。
「わかった、手伝うよ。確か触手に襲われるシーンだよな」
「ええ、そうなのだけれど……どうしても上手くいかないのよね」
「暁、ごめんね」
いつも明るい愛梨だが、夢のことになると真剣になるためかあまり元気がない。
「いやいいよ、こっちも切羽詰っているわけじゃないし。ちなみに場面の想像はできているんだろ?」
「うん。それは大丈夫だよ。でもね、どうしても声に色気が出ないの」
「色気か……」
そう言われて俺はうーん、と考える。
声に色気を出すにはどうすればいいのか。そんなこと考えたことがないからすぐに思いつくわけが――。
「あっ」
「もしかして早速何か思いついた!?」
俺が小さな声を洩らすと、愛梨が目を輝かせた。
「思いついたと言えば思いついたけど……でもこれってどうなんだろう」
「いいから言ってみて!」
「……走り込み」
「走り込み?」
「うん。そうすればほら、息が切れるから。その状態で演技すれば自然と色気が増すんじゃないかなと思って」
運動した後で汗だくになっている女の子。
もちろんその姿が一番艶めかしいけれど、呼吸が整っていない女子の声って妙に色気があると思わないか?
「でもこれには問題が――」
「なるほど、その手があったね。それじゃあ早速行ってくる!」
「あ、ちょっと!?」
たたたたたっ、ガチャンッ。
考えずに行動する癖があるのか、俺が止める暇もなく愛梨が部屋を出て行ってしまった。
「……まだ続きがあったのに」
結衣と二人で部屋に取り残された俺は小さく息を吐いた。
走り込みをして息を切らす方法。
試していないから何とも言えないけど、これによって声に色気が増すかもしれない。
しかし、この方法には問題がある。
それは――。
「収録現場では使えなさそうね」
「そうなんだよな……」
結衣の呟きに俺は頷いた。
そう。収録現場で走り込みなどをする時間なんてないのだ。仮に現場へ入る直前で走り込みをして、先に例のシーンをとったとしても……後から収録しなければならないシーンに影響が出ないとは言い切れない。
「まあいいじゃない、とりあえず試してみれば」
「それもそうだな。他の方法を思いついたわけじゃないし」
それに愛梨はもう外へ出ちまったしな。
愛梨が戻ってくるまでの間、結衣と二人でどうすれば声に色気を出すことができるのかを話し合う。
そうして、愛梨の帰りを待つこと十数分後。
漸く汗だくになった愛梨が部屋に戻ってきた……って!
「大丈夫か!?」
「ちょっと、きつい。演技、でき……はあ」
「頑張りすぎだろ! そんな状態じゃあ演技できないじゃないか」
「あぅ……」
「ほんと脳筋ね」
その場に座り込んだ愛梨を見た結衣が半眼を作った。
仕様がないので数分間休憩を取ることに。
そして、漸く愛梨の状態がマシになってきたので試しに例のシーンの演技をしてみた。
「え、ちょっと!? やだ、あんたどこ触って……ひゃぁっ!? だめ、そんなとこさわ、触らないでえぇぇぇ」
うーん……。
残念ながらあまり色気は増していなかった。
ちょっと増したといえば増したけど、なんていうか……それ以前に根本的なところを直す必要があるんじゃないだろうか。
違和感。
そう、違和感だ。
色気以前にその台詞に対する感情が伴っていない。だから違和感を覚えるのだ。
――いや、さすがにそれは言い過ぎか。でも――。
ヒロインになりきれていないのは事実だろう。
俺の勘違いという可能性もあるため、その後もしばらく息を切らした状態で演技を続けてもらう。
「あんっ。いい加減離れなさひゃあっ!? ひ、ヒロユキ!? そこダメ、触っちゃヤ――」
やっぱりそうだ。愛梨がヒロインの気持ちになりきれていないから違和感を覚えるんだ。
愛梨の演技を見続けて確信を得た俺は片手をあげて彼女の演技を中断させた。
「愛梨。ストップ」
「……もしかして、またダメだった?」
「ダメといえばダメかな。でもどうして上手くいかないのかわかったよ。そこでいくつか質問したいことがあるから答えてくれ。確か愛梨は場面の想像ができているんだよな?」
「うん。もちろんできてるよ」
「じゃあさ、触手に襲われて主人公に変なとこ触られるヒロインがどんな気持ちを抱いているか分かる?」
「うーん……なんとなく」
「やっぱり。そこが原因だ。おそらくヒロインの気持ちを完全にわかっていないから演技にぎこちなさが出てしまうんだ。特に前半の台詞。触らないでぇぇぇって部分。必死さが足りてないから違和感を覚えるんじゃないのかな」
「必死さ……でもこのヒロインって、この時点で主人公のこと好きだよね?」
「うん、そうだけど?」
「じゃあなんでそんなに嫌がるの?」
「――え?」
まさかこんな質問をされるとは思わなかった。
嫌がるのは普通だろう、としか言えない。
「ねえなんで? 触られた方がこのヒロインは嬉しいんじゃないの?」
「……そこら辺に問題があるのか」
どうやらヒロインの気持ちをきちんと理解できていないことは間違っていなかったようだ。本来ならば嫌がる場面なのに愛梨は受け入れるべきなんじゃないのかと思っている。
むしろそう思っているのなら声に色気がもっと出ると思うんだけど……まあ、その点は置いておくとして。
「なあ、ちょっと訊きたいことがあるんだけどいいかな?」
「なに?」
「愛梨ってさ、好きな人とかいるか?」
「ふぇ!?」
「ちょっと暁さん、いきなり何を!?」
予想外な質問だったのか、愛梨が変な声を出し、結衣が身を乗り出してきた。
「あー、いや、悪い。質問がおかしかったな。えーっと、これはたとえばの話なんだけど……愛梨に好きな人がいたとしよう。まだ片思いの状態だ。それで今回のようなシーンに遭遇したとして、強制的とはいえ愛梨がその好きな人に変なとこを触られたらどう思う?」
「もちろん嬉しいよっ」
「なんで?」
「だって好きな人だもん。それに片思いだし……このボディタッチでその人が愛梨のことを意識し始めるかもしれないでしょ?」
「そう考えるのか。えっと……じゃあ、もうちょっと状況を意識してくれ。そこには他の仲間がいるんだ。そいつらのことは中学校からずっと友達だったくらいの認識でいい。それでだ。触手に襲われてアレな状態になっている愛梨たちのことをそいつらが見ているんだ。そんな時に好きな人に変なとこを触られたら愛梨はどうする?」
「もちろんその場で受け入れるよっ」
「だからなんで!?」
「だってチャンスだもん。愛梨のえっちなところを触ったことで好きな人が愛梨のことを意識してくれるかもしれないでしょ?」
「さっきの答えと同じか。なあ、愛梨。他人が見ているんだぞ?」
「……だから?」
「他人に見せるべきじゃないシーンを好きでもない人に見られているんだぞ?」
「……それがどうかしたの?」
「あーもうダメだああああああああああああああああ!」
俺は頭を抱えた。
なんでこんなに恥じらいというものを知らないんだ!
「結衣、お手上げだ」
「ねえ、わたくしも愛梨と同じ答えなのだけれど、なにかおかしいの?」
「まさか結衣まで!?」
その返答に俺は目眩を覚えた。
結衣は常識人だと思っていたのに……まさか彼女もズレていたとは。
二人とも恥じらいというものが足りない。
圧倒的に足りていない!
「なんでこんなにも恥らうということを知らないんだ。好きな人なら何でもありなのか!?」
「うんっ」
「ええ、そうね」
「誰がなんと思っても!?」
「もちろん構わないよっ」
「他人なんて関係ないわ」
「……はあ」
俺は深いため息を吐いた。
ヒロインの気持ちをちゃんと理解することができればうまくいくと思っていたけど、これはかなり厳しいか――。
と、その時。
結衣の携帯電話のアラームが鳴った。
「あら、時間だわ。そろそろ行かないと」
「え、どこ行くんだ?」
「バイトよ」
「バイト!? 今日も入っていたのか」
「あら、言ってなかったかしら?」
「……聞いてないな」
「そう、どうやら言い忘れていたみたいね、ごめんなさい。じゃあ今日の夕飯が要らないことも?」
「……聞いてない」
「あら、つくづくごめんなさいね。今日は遅くなるからわたくしと愛梨の夕飯はいらないのよ。食べてくるから」
「そんなに遅くなるのか? そこまで遅くないのなら待つけど」
「帰ってくるのは夜の九時ごろかしらね。一応八時で上がりなのだけど、すぐ帰れるわけでじゃないし……着替えとかいろんなことを考慮すると、それくらいになると思うのよ」
「そうなのか。じゃあ今日は一人で夕飯か」
ちょっとさびしいなと思いつつも、こればかりは仕様がないだろう。
いつも夜七時前に夕飯を済ませているから帰ってくるまで何も食べるななんて言えるわけがない。バイトだから尚更である。
今日は愛梨が好きだって言っていたカレーにする予定だったんだけどなあ……。
ちなみに、夕飯当番というものがある。これは俺がこの寮へ引っ越してきた初日に夕飯だけは一緒に食べようと提案したから作られたものだ。
すでにバイトへ行く準備ができているのか、ベッドの横に置いてあった荷物を愛梨が結衣に手渡した。
「結衣、いこっ」
「ええ。ということだから暁さん、その……悪いんだけど、さっきのこともある程度考えておいてほしいの」
「わかった」
そう答えると愛梨が申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね。迷惑かけて」
「迷惑じゃないよ。仲間なんだから当然だろ? それじゃあ気をつけてな」
「うん、行ってくるっ」
愛梨の部屋を出た後、俺は彼女たちを玄関で見送った。
今日で二人とも五連勤。こっちに引っ越してから知ったことだが、愛梨たちはほぼ毎日シフトが入っている。
「そんなにバイトばかりで大丈夫なのか? いやそれよりもだ。これはなかなか厳しいぞ」
俺はすぐさま先ほどの問題へと思考を切り替えた。
どうすればサービスシーンにおいて愛梨の演技が上手くなるのか。
その問題の解決方法として、俺は愛梨がヒロインの気持ちを理解すれば上達すると考えた。
しかし、愛梨がヒロインの気持ちを理解することは難しい。
なぜなら愛梨がヒロインと全く逆の感情を抱いているから――。
「あーくそぅ、この場合どうすりゃいいんだ」
「どうかしたのか?」
「――ッ!? 音日先生!?」
不意に後ろから声を掛けられたので振り返ると、音日先生がラフな格好で佇んでいた。
「いつの間に帰ってきたんですか」
「ついさっき。今日はすることがなくてな。怠かったし、勝手に帰ってきた」
「いいんですか、そんな適当で」
「いいんだよ。それで? どうしたんだよ、溜め息なんかついて」
「愛梨のことで、ちょっと」
「なんだ、言い難いことなのか?」
「いえ、そんなことないんですけど。その……どうすれば愛梨にヒロインの気持ちを理解してもらえるのかなあって」
「一体何の話だ?」
「応募する作品で出てくるヒロインのことですよ」
「あー……それって、ただ単にお前の描写が下手だからじゃねえのか?」
「そんな直球に言わないでくださいよ。自信なくします」
「冗談だ。今描いている作品のことは知らねえが、少なくとも前の作品はちゃんとできてたんだから大丈夫だろう。……で、愛梨にヒロインの気持ちを理解してもらえないんだっけか? 具体的に話してみろよ」
「ええっとですね」
先ほどまでの出来事を詳しく音日先生に説明する。
「――というわけなんですよ」
「なるほど。じゃあ身体でわからせてやったらどうだ?」
「身体で? どういうことですか」
「お前が愛梨を強引に押し倒して変なことをすればいいんだよ。そうすりゃほら、愛梨の考えも変わるだろ?」
「なっ、何言ってんですか!? そんなことできるわけないじゃないですか! というかそれ犯罪ですよ!」
「安心しろ。協力してやるからよ。しばらく監禁することになるが、うまく調教すりゃあバレねえって」
「あなた本当に教師ですか!?」
彼女の言葉を疑わずにはいられなかった。いくらなんでも荒療治過ぎる。
「でもよ、そうでもしないと愛梨はわからねえんじゃねえのか? 今回のシーンは他の仲間が見ている時に触手のせいでヒロインが辱めを受けるってシーンだ。それに対してヒロインは本気で嫌がる。でも愛梨はそれを嬉々として受け入れた。だから愛梨はヒロインの気持ちを誤解してしまう、もといその嫌がるという気持ちを理解できない。そういうことだろ?」
「……はい」
「だったら身体でわからせてやる方が早いだろ。嫌だ、怖いって感情を」
「だからってその方法は論外です」
「なんだよ、めんどくせえなあ……」
音日先生は深いため息を吐いた。
「じゃあ、恋愛でもさせてみるか」
「恋愛?」
「ああ。お前だって変だと思ったことくらいあるだろ。あいつの――あの二人の恥じらいのなさについて」
「あー……そうですね」
他人が見ればドン引きするだろう。
実際、俺自身彼女たちの恥じらいのなさには少し恐怖を抱いたほどだ。
「あいつらは何も知らねえんだ。本当に好きな人ができた時に抱く感情ってもんを。それを知ることができれば、多少なりとも愛梨の演技はマシになるんじゃねえの?」
「――え、もしかして二人とも恋愛経験がないんですか?」
「ない」
「いやでも、さすがに好きな人くらいできたことはあるんじゃ……」
「ねえよ」
「なんで断言できるんですか」
「私があいつらの面倒を見てきたからだ。少しくらいは異性に好意を抱いたことはあるけど、本気で異性を好きになったことはない。見ればわかるからな」
「見ればわかるって……そんなもんですかねえ。……ん? 音日先生が二人の面倒を見てきた……? それどういうことですか、苗字違いますよね」
「そういや話すことでもなかったから言ってなかったか。ま、詳しいことは置いておくとして。簡単に説明すると、あいつらの親と親戚関係なんだ。それでいろいろ事情があって二人のことを頼まれてな。面倒を見ることになったんだ」
「なるほど。そういうことだったんですか……っと、話がズレましたね。それで、音日先生は一体どうやって愛梨に恋愛経験をさせようと考えているんです?」
「そんなの簡単だ。お前が頑張ればいい」
「――は?」
「だから、お前が愛梨を攻略しろと言ってんだ」
「え、ええええええええ!?」
愛梨の演技を上達させるために、彼女に恋愛感情を抱かせる。
それによって恥らうということを知り、ヒロインの気持ちを理解することができるのではないだろうか――。
「確かにその方法は荒療治よりマシですけど……よりにもよって相手が俺って」
なんか恋愛ってそういうもんじゃないと思うんだけど。
あくまでも俺の主観だが、その人を好きになったから振り向かせるように努力することが普通なんじゃないのか? 好きでもなんでもない相手を攻略するっておかしいだろ。
「なんだ、文句あんのか?」
「そりゃありますよ。明らかにおかしいですよね」
「そうか? そんなことねえだろ。というかお前、二人のことが嫌いなのか?」
「別に嫌いじゃないですけど」
「だったらいいじゃねえか」
「いや、よくないですよ。本気で好きな人を振り向かそうとするならまだしも、そうじゃないんですよ? そんなの相手に失礼です」
「そんなことねえよ」
「いいえ、そんなことありますよ」
「そんなことねえ」
「あります」
「ねえ!」
「あります!」
「あーもううるせえなあ。さっきから何なんだよお前は。将来の夢を叶えたい、だから作品を完成させたい、でもそのためには愛梨の力になってやる必要がある……それなのに? 荒療治する方法を取るのは嫌だ、恋愛感情を抱かせるのも嫌だ、他の方法はまだ思いついていません。やる気あんのかテメエ」
「あ、ありますよ。でもその方法は問題があるって言ってるんです!」
先生の恐ろしい形相に一瞬引きそうになったけど、これだけは譲れない。
「じゃあ今すぐ三つ目の方法を言ってみろ。ほら、さんにーいち……出てこねえじゃねえかよ。夢を叶えるためには何でもするんじゃなかったのか、あぁん?」
「で、できることはやりますってば。でもポリシーに反することはやりたくありません。仮にほかの方法を見つけたとしても、それで彼女を傷つけることになるのなら絶対にやりません!」
「ちっ、甘い奴だな……わかった、無理やりはやめだ。それなら一旦そのことについては保留するしかねえな。他の方法も思いついてねえし。じゃあよ、その代わりに。暁、お前もうちょっと仲間のことを知る努力をしろ」
「仲間のことを知る努力を……?」
「そうだ。お前あいつらのこと何にも知らねえだろ。例の約束のことも忘れちまっているようだしよ」
「……っ。その例の約束って何なんですか」
「教えねえ。自分で思い出せバカ」
「……くっ」
何も、言い返せない。
「まずは身近なことから知っていけ。お前あいつらのバイト先のことすら知らねえだろ。それだけは教えてやるから様子を見てこい」
「いやでも、本人はバイト先を教えたがらなかったんですから、見られるのが嫌ってことなんじゃ――」
「これだから童貞は……」
当然の答えをしたはずなのになぜか肩を竦まされた。
「なっ!? それとこれの何が関係あるんですか!」
「うるせえなあ……いいからバイト先教えてやるから行ってこい。そこであいつらのことをもっと知れ。いいか、勘違いするなよ。これは頼みごとじゃない、命令だ」
「…………わかりました」
しぶしぶ了解した俺は、音日先生から二人のバイト先を聞いた後、さらに四時間後に行けと言われたので、それくらい時間が経ってから寮を後にした。
2
愛梨には悪いが、例の問題については保留させてもらうことにした。
「二人のことをもっと知るべき、か……」
バイト先へ向かっている途中、俺はそのことについてひたすら考えていた。
俺は彼女たちのことをよく知らない。
それは事実だ。
この寮に来てから二週間が経過しているため、ある程度のことは知っているつもりだった。
しかし、実際は二人の過去など知らないし、どんなバイトをしているのかさえ知らない。しかも彼女たちと約束したことまで忘れてしまっている。
まずは身近なことから。
いきなり過去のことを聞くのは問題があるだろう。身近なことを知らないのにいきなりそんなことを聞かれたらびっくりするものだ。
「――っと、着いたか」
そんなことを考えながら歩いていると、音日先生に教えてもらった店の看板を発見。
店に入るべきか、否か。
一瞬戸惑う。
二人は俺にバイト先のことを教えなかった。イコール、その姿を見られたくない。俺はそう思っていた。
でもどうやら音日先生によれば、それは俺の勘違いのらしい。
……よし、入るか。
勇気を振り絞って店の方へ一歩踏み出す俺。
しかし次の瞬間、俺はその足を引っ込めることになった。
「おい、今日何度目だと思ってんだ!?」
そう。突然裏路地から怒鳴り声が聞こえてきたからだ。
びっくりした。一体どうしたんだ?
こっそりと顔だけを出して声がした方を覗く。するとそこには二つの人影があった。
今のところ詳しい人相までは確認できない。
「あ、もしかしたらミスを連発しまくった奴が裏で怒られるなんて珍しいシーンを見ることができるんじゃないのか?」
創作ネタに使えそうだと興味を抱き、一瞬だけ二人のバイト姿を見るという目的を忘れてしまう俺。
そして、もうちょっとだけ覗いてみようと思い、目を凝らすと、
「なんとか言ったらどうなんだ、あぁ!?」
「ごめん、なさい……」
愛梨!?
思わず声を出しそうになったが、すんでのところで俺はその言葉を飲み込んだ。
狭い裏路地では、明らかに年上の男性が怖い顔をしながら愛梨を叱っていた。
一方、叱られている愛梨は俯き、その男性の威圧に怯えながら小さく縮こまっている。
出て行くタイミングを見失った……というか、部外者が出て行ってもいいのか悪いのか判断がつかなかった俺は、ただその光景を見続けることしかできなかった。
男性が愛梨の真横にある壁を勢いよく殴りつける。
「おい、今日で注文ミスが三回。商品の入れ忘れが二回。どれだけ迷惑かけてると思ってんだ!」
「あぅ、ごめんなさい……」
「ここで謝るくらいならきちんと仕事しろ! 店に迷惑をかけるだけじゃなく、せっかく楽しみにしながら来店してくれたお客様にも迷惑をかけてんだぞ! お前仕事舐めてんのか!?」
「……いえ、そんなことないです。愛梨は真面目に……」
「だったらどうしてまともに仕事できねえんだよ! いっつもいっつもミスしやがって。てめえみたいな低能はずっと皿洗いでもしてりゃいいんだよ! 明日から皿洗いに変更してやろうか!?」
「で、でも皿洗いは担当の人が……」
「あぁん!?」
「……なんでもない、です」
「ったく、バイトし始めてから三か月も経ってんのにまともにできやしねえ。いい加減仕事できるようになんねえとやめさせんぞこらぁ!」
「ひゃぅ!?」
再び強く壁に打ちつけた拳により、愛梨はさらに縮こまった。
続けて男性が文句を言おうとしたところで。
「主任さん。今日はそれくらいにしておいてあげて。わたくしたちもうあがらないといけないのよ」
裏口のドアが開き、店の制服を着こなした結衣が出てきた。
結衣の顔を見た主任は小さなため息を吐く。
「もうそんな時間か。まあいい。次はミスしないように気をつけろよ」
「……はい」
涙一つ流さずに我慢していた愛梨がゆっくりと歩き出し、ドアの内側へ消えていった。
そして結衣と二人きりになった途端、主任の表情が変わった。
「ご苦労様。今日は特に大変だっただろ」
「そうねえ、平日なのになぜかお客さんが多かったわね。それよりもごめんなさいね、いつもわたくしの妹が迷惑をかけて」
「いや、いいよこれくらい」
「それじゃあわたくしも失礼するわね」
そう言ってドアに手を掛けると主任が結衣を引き止めた。
「あ、ちょっと待ってくれ、結衣ちゃん」
「なにかしら?」
「あのさ、いつになったら俺にメアドを教えてくれ――」
「今日は急ぎなの、ごめんなさい。それじゃあお先に失礼するわね、お疲れ様」
「あ、ちょっとまっ――」
ガチャリ。
ドアが閉まり、裏路地には主任がドアに向かって右手を伸ばしている姿だけが残された。
その後、俺はすぐにその場から離れ、近くにあったコンビニに入って二人が出てくるのを待った。
「……愛梨、大丈夫かなあ」
適当に雑誌を手に取ってぱらぱらと捲るが全然頭に入ってこない。そりゃそうだ。だってあんな光景を見てしまったのだから。
あれは相当きついと思う。ただミスしたことを叱られるのならまだしも、悪口も言われたし、やめさせるぞとまで言われたんだ。俺だったら絶対耐えられないだろうな……。
「――っと、きたか」
愛梨のことを心配しているうちに、私服に着替えた二人が店から出てきた。
愛梨はまだ落ち込んでいるだろうなと思っていたが……あれ? 意外と普通だな。いつも通りの表情だ。
偶然を装って二人に話しかけようかと思い、コンビニを出る。
しかし、ふと違和感を覚えた俺は一度伸ばした手を引っ込めた。
「バイトって八時まであるんじゃなかったっけ?」
そう。今日はバイトが夜八時まであると結衣が言っていたのだ。それなのに今の時間は午後四時半を少し過ぎた頃。仮に早あがりになったのなら、寮に帰ってくるはずだ。しかし、二人が行く方向は真逆。そちらには住宅街しかないので買い物へ行くわけでもないだろうし……まだ何かあるのだろうか。
ストーキングすることに多少なりとも抵抗があるものの、気になるのだから仕様がない。
せっかくここまで出歩いてきたんだし、どこに行くのか知るくらいいいよな?
返事がくるわけでもないのに心の中で自分にそう問いかけた後、俺は即座に行動を開始した。
一応周りの人々に不審がられないように気をつけながら十メートル以上離れて二人のあとをつけていく。すると、工事現場に辿り着いた。
二人は立ち入り禁止と書かれてあるのに躊躇いもなく入っていく。
もしかしてこれは、新手のバイトなのかな?
いやでも、音日先生は二つやっているなんて言っていなかったし……。
「はっ、まさか怪しいことでもしているんじゃ――」
一瞬そんなことを考えたが、そんなわけないかと思い直す。
でも一応念のためにと思い、俺は工事現場に近づいて二人の姿を探すことにした。
えーっと、結衣と愛梨は……あ、いたいた。
やはり怪しいことをしているわけではないようだ。どこからどう見ても土木関係のアルバイトだ。
作業服に着替えた二人がヘルメットを被り、工事現場のおっちゃん達と何やら話をしている。
これから作業に移るらしい。愛梨と結衣がスコップを持って作業場へ歩いていく。
仕事内容がどんなことなのか気になるけど……二人のバイト姿を見るという目的を果たしたことだし、そろそろ寮に戻ろうかな。
そう思い、踵を返したところで。
「なにか用かい? さっきから現場を覗いていたみたいだけど」
作業服を着たおじさんに話しかけられた。
彼が着ている作業服は結衣と愛梨が着ていたものと同じ種類。どうやら彼も現場で仕事をしているうちの一人らしい。
「あー、いえ、ちょっと友達の姿が見えたもので」
「友達?」
「はい、あそこで作業している二人のことです」
「あー、あの二人の……」
結衣と愛梨が作業しているところを見て、うんうんと頷くおじさん。
「三週間前くらいから一緒に働いているけれど……妹の方が仕事はできるねえ」
「え、愛梨の方が?」
「そうだね。どうやらお姉ちゃんの方は力仕事があまり向いてないみたいで……ほら、危なっかしいだろう?」
顎で結衣の方を指すおじさん。
そちらを見ると……確かに危なかっしい。
猫車を使って指定の場所まで土を運んでいるのだが、結構ふらふらとしていて足取りがおぼつかない。見ていられなくなったのか、愛梨がスコップをその場に置いて結衣に手を貸した。
「ああいうことをされると作業効率は落ちるけど……まあ、安全第一だ。それに彼女たちが来てから現場の雰囲気が良くなったんだよ」
「そうなんですか?」
「ああやって姉妹で協力しながら一生懸命働いている姿は和むものだろう?」
「確かに……そうですね」
実年齢は俺と同じだけど、見た目は小学生くらいだ。作業場にいる人は年長者が多いみたいだし、孫でも見ている気分になるのだろう。
周りの人たちはみんな親切で、他のおじさんたちも結構な頻度で結衣に手を貸している。
「さて、私は作業に戻るよ。なんだったら兄ちゃんも一緒に働いていくかい?」
「あーいえ、俺はこれからすることがあるんで」
「そうかい、それは残念だ。気が向いたらバイトしにおいで。あの子たちの友達なら大歓迎だよ」
「その時は是非よろしくお願いします。あー、あの、ちなみに二人は何時あがりですか?」
「ええっと、確か……二十時だね。まだ三時間近くある。すでにバテ気味なお姉ちゃんは大変だろうねえ」
どうやらこのバイトがラストのようだ。
「それじゃあ失礼するよ」
「はい、お仕事頑張ってください」
俺の声援を背に、こちらを振り向くこともなく手を上げながら作業場へ戻っていくおじさん。
先ほどの飲食店で働いている姿は見れなかったけど、この場所での愛梨は生き生きとしていた。
その一方で結衣はすごくしんどそう。本当にあと三時間も持つのか心配だ。
……二人とも頑張れー、と心の中で応援した後、俺は寮に戻った。
そして時は経って午後九時ごろ。
ガラガラガラと玄関のドアがゆっくりと開く音を聞いた俺は、バイトから帰ってきた二人を出迎えに玄関へ赴いた。
「おかえり、二人とも」
『ただいまー』
あまり元気がない二人。相当お疲れのようだ。
「ちょうど今風呂焚けたところなんだけど、先に入るか?」
「え、本当!? やったぁ、汗だくで早くお風呂に入りたいなあって思っていたところなの」
それを聞いた瞬間、愛梨が目を輝かせた。
その一方で結衣は意外そうな顔をした。
「あら、珍しいわね、お風呂なんて。いつもはシャワーだけなのに……どうして?」
「たまには風呂に入って疲れを癒すのもいいかなあと思って」
「本当に?」
「ほ、本当だよ」
「そう、それならならいいのだけれど。……もう、そういう正妻ポジションはわたくしのものなのに」
後半は小さすぎて何を言っているのかは聞こえなかったが、どうやら二人が返ってくる時間に合わせて風呂を焚いたことはバレていないようだ。
だって恥ずかしくて言えないだろ。頑張っている二人を見て、少しでも疲れを癒して欲しいと思ったからだなんて。
お風呂が大好物なのかルンルン気分ではしゃいでいる愛梨と、なぜか熱い眼差しで俺のことを見つめてくる結衣に挟まれながら俺は居間へ向かうのであった。
3
風呂上がり。
俺は布団の上でゴロゴロしながら考え事をしていた。
「なんであんなに頑張ってるんだろう」
そう。今日彼女たちがバイトしている姿を見ていろんなことが気になったのだ。
どうして大変な思いをしてまでバイトを続けているのか。
どうして夢のことになるとあそこまで躊躇いがないのか。
そして、例の約束とは何なのか。
編集部審査会に参加することで頭がいっぱいだったせいか、俺は彼女たちのことを全く知ろうとしなかった。しかも約束という単語を音日先生に言われるまでそのことをすっかり忘れていたのだ。
「あーくそぅ、気になる」
さっきからずっとそのことを考えているせいでなかなか眠れない。もう深夜を過ぎているっていうのに何時間も彼女たちのことを考え続けている。
コンコンコン。
不意にドアを三回ノックする音が聞こえてきた。
「暁さん、起きてる?」
「……結衣か。どうしたんだこんな時間に」
「ちょっと、その……」
ドア越しであるせいか、結衣の声が小さすぎてほとんど聞こえない。
「とりあえず入ってくれ」
「……そうさせてもらうわ」
返事と共にドアが開き、髪を解いた結衣が部屋に入ってきた。
案の定いつも通りの無防備すぎるパジャマ姿。
ボタンを上までとめていないせいで、どうしても見えそうで見えない胸元へ目がいってしまう。
その如何にも襲ってほしいという姿に……多少なりとも慣れてきたとはいえ、やはりドキッとしてしまう俺。
しかし、いつもと違う様子の結衣を見て、すぐに冷静さを取り戻した。
「……抱いて、ほしいの」
ごめんなさい。一気に冷静さを失いました。
「ちょ!? 今なん――」
「しー、静かに」
あまりの出来事に大声をあげると、結衣が唇に人差し指を当てながら俺の方へ近づいてきた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
「だから静かにして。愛梨が起きちゃうわ」
「わ、わかった、静かにするから。ストップ、ストップだ。それ以上は近づくな」
両手を前に出して静止を促すと、結衣は襲うつもりがないのか、その場で立ち止ってくれた。
俺は一度深呼吸をする。
落ち着け。落ち着くんだ俺。
これはきっといつもの冗談に違いない。
「……で? 一体何の用なんだ」
「あら、意外と冷静になるのが早いわね」
「そりゃあな、からかわれるのにも少しは慣れてきたし……」
「そういう割にはかなり動揺してたわよ?」
「うっ……そ、そんなの当たり前だろ。あんなこと言われたら誰だってびっくりする。それで? こんな時間に一体どうしたんだよ」
本題に入るように促すと、結衣は少し戸惑いつつも「……眠れないのよ」と一言。
「眠れない?」
「ええ。怖くて眠れないの」
「怖くてって……一体どうしたんだよ。何かあったのか?」
そう訊ねたが――結衣は無言のまま。
しかし彼女からは明らかに不安そうな、何かに怯えているような雰囲気が滲み出ている。
彼女の身に何か起きたのは間違いない。
そう確信した俺が、結衣が話し始めるのをもう数秒だけ待っていると。
「……笑わないって約束してくれる?」
「わかった。笑わない」
「本当に?」
「本当だ」
結衣の目を見てしっかりと答える。
すると彼女は、ふいっと視線を逸らしてから、
「……夢よ」
「夢?」
「ええ。好きな――ううん、大切な人が事故に巻き込まれてこの世からいなくなってしまう夢を見たの。それで昔のことを思い出して……怖くなって眠れなくなったのよ」
「そう、なのか……」
昔のこと。
その話から察するに、結衣は過去にショックを受けるような出来事に遭ったのは間違いないだろう。
眠れなくなるほどの恐怖を抱いてしまう過去。
俺はその過去を知らない。
でも、今の彼女の表情はどこかで見たことがある。
そう。ちょうど俺がこの寮へ引っ越してきた翌日に見たような――。
「ん? 事故に巻き込まれる?」
と、そこまで思い出しかけて。
ふと先ほど結衣が言っていた言葉に何かが引っ掛かった。
大切な人が事故に巻き込まれる。
大切な人――親?
「ッ!」
「急にどうしたの!?」
「いや、その……何か思い出しそうなんだ。そう、何か、何か大切なことを――」
額に手を当ててそれを思い出そうとする。
――事故に巻き込まれて親が亡くなる。
そう、それだ。俺はそんな話を過去に聞いたことがある。
結衣の一言によって忘れていたことが徐々に蘇っていく。
「なあ、結衣。こんな時で悪いんだけどさ、一つ変な質問をしてもいいか?」
「……なに?」
「ユリア。このニックネームに覚えはないか?」
「――ッ」
ユリアという名前を言った瞬間、結衣の表情が変わった。
やっぱり、やっぱりそうなのか。
「ごめん結衣。今更だけど全部思い出した」
「じゃあ、例の約束も?」
「うん」
例の約束。
それは親が叶えられなかった夢を結衣と愛梨が代わりに叶えてあげるための協力をすること。
エロゲーの制作。
それが二人の親が叶えられなかった夢だ。
☆ ☆ ☆
これはちょうど結衣と愛梨が小学生の頃の話。
桐島家は大きな事故に巻き込まれた。
――火事。
そう。隣の家から燃え移った火により家が全焼したのだ。
それが昼間ならまだよかった。
しかし、時刻は深夜。みんなが寝静まった頃だった。
気が付いた時には火の手が回っており、まともな逃げ道がなかったという。
唯一残された脱出方法は窓から飛び降りること。
場所は三階。下はコンクリート。その場に居たのは計四人――家族全員だった。
時間帯のせいで救援の連絡が遅れたため、もうその場から飛び降りるしか手段は残されていなかったそうだ。
父親が愛梨を抱え、母親が結衣を。
そして二人はそこから飛び降りた――――。
それから半年後。
俺と二人はとあるソーシャルネットワーク上で知り合った。
二人はユリアという名前の女性キャラを共用していた。
まだ小学生ということもあって、俺は二人が気に障るような領域まで話を掘り下げていた。今思えば相当失礼なやつだっただろう。それにその時の出来事まで思い出させてしまって、辛い思いをさせたこともあっただろう。しかし、二人は俺にきちんと話をしてくれた。受け取り方を変えるのならば、それくらいの領域に踏み込んでも許してもらえるような仲だったのだ。
そしてその時に二人から聞いたんだ。
親のやりのことした夢を代わりに叶えてあげたい――と。
☆ ☆ ☆
「小学生でエロゲー制作なんて笑えるよな。自分が十八歳未満じゃねえか」
「そうね、プレイすらできないのによく作ろうだなんて言ったものだわ」
「結局、年齢違反ってことでギャルゲーを作ろうってなったんだよな。俺がシナリオ。結衣がイラスト。愛梨が声優。音日先生がプログラミング」
「音日先生は嫌々だったわよ」
「まあそうだろうな。面倒くさいこと嫌がりそうだし。でも今はこうして……そっか。ちゃんと約束を果たせそうだな」
「何言ってるのよ、今まで忘れてたくせに」
「ごめんごめん。あ、でもさ、どうして俺が約束した奴だってわかったんだ? 性別はまだしも本名なんて――」
「キャラクター名」
「あっ! そういやそうだった」
俺が使っていたキャラクター名は暁悠斗。イコール、本名丸出し。しかもプロフィールのところに住んでいるところとか、将来の夢とか、何から何まで隠さずに載せていた。
今思えば小学生の頃の俺って恐ろしいな。アブナイ情報まで載せるなんて。
「まあ、その話は置いておくとして……結衣。やっぱりあの時の記憶って強く残っているものなのか?」
「当然よ。肌が焼ける臭いまで覚えているわ」
「うわぁ、生々しい……ごめん、こういうことは訊くべきじゃなかったよな」
「いいわよ、別に」
そう言いながらキュッと服の袖を掴んできた。
その手は微かながらも震えている。
俺はその様子を見て……空いている方の手でぽりぽりと後頭部を掻いた。
「その、なんだ。俺でよければ結衣が安心して眠れるまでそばにいてやるよ」
「そう言ってわたくしが眠った後に襲うつもりなんでしょう?」
「しねえよそんなこと」
「くふっ、冗談よ……ま、こうして話したおかげで少しはマシになってきたのだけれど……やっぱり今日は一人になったら眠れそうにないわ。でも暁さんがそばにいるとなんだか安心するの。だからその、一緒に寝てほしいの……ダメ?」
「…………わかった」
自分から言っておいて断るなんてことはできなかった。
「なによ、今の間は」
「なんでもねえよ。それよりも押し入れにある布団出してくるよ」
「それはダメ」
「なんで。それだと寝る場所が――」
「一緒に寝るって言ったでしょう?」
「――ッ!? そ、それって……」
「ええ、同じ布団で寝るのよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。そこまで許したつもりはないぞ!?」
「ダメ? 怖くて眠れないの」
上目遣いで俺のことを見つめてきやがった。
「…………それは卑怯だ」
観念した俺は先に布団に入って壁側を向いた。さすがにこの状況で顔なんて合わせられない。
そして数秒後、本当に結衣が俺の布団に入ってきやがった。しかも遠慮することなく、俺の背中に引っ付くかのように近づいてきて……首に吐息がかかるほどそばにやってきたことで、彼女の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
――ドクン。
その瞬間、俺の心臓がひときわ強く跳ねた。
「信用、しているから」
「――え?」
「ううん、なんでもないわ。これ以上変なことはしないから安心してって言ったのよ」
「そ、そうか。それは……助かる」
これ以上ひっつからたら絶対に理性が崩壊する。
結衣の方から香ってくる女子特有の甘い香り。背中に当たっている大きくて柔らかい何か。
そして、女の子と同衾しているという初めての状況。
「おやすみなさい、悠斗さん」
「……おやすみ」
ドキドキして後半部分が聞き取れなかったが、なんとかおやすみという言葉を返すことはできた。
数十分経過すると、結衣の小さな寝息が聞こえ始めた。
どうやら眠ったようだ。結衣の寝顔は見れないけど、安心して眠っているような気がする。それならそれでこうして一緒にいてあげた甲斐があったというものだ。
しかし、そんな彼女に対して俺は――。
「眠れん……」
初めてという状況にドキドキするせいで、むしろ眠気が吹っ飛んでしまうのであった。