09.シーナ・レイの短剣
とりあえず死体をそのままにして、ラディン達はその場を後に、長い通路を歩き出す。
「出口だわ」
しばらくして空洞に気づいたシーナ・レイが足を止めた。見上げると、天上からぶら下った縄梯子が頼りなげに揺れていた。
「おまえはここから帰るんだ、シーナ・レイ」
無明の闇へと続く空間を背にして、ラディンは鋭く命じた。
「いやよ」
「駄目だ、危険すぎる。この先に何があるのか判っているのか? 間違いなく、魔族の住みかだぞ。死ぬつもりか」
アルラウネと名乗る女の正体が魔族であるのは間違いなかった。
だが罠を張って獲物を待ちかまえるような魔性が、かつていただろうか。
ラディンの知っている魔性とは、奥深い山中などにときおり現れては、身を守る術を持たない女や子供をさらっていくだけの、その多くは、腕に覚えのある数人の屈強な男達で倒すことが可能なものだけであった。
「それだけじゃない、あいつは今までの魔族とも明らかに違っている。一年もの間、疑われていたとはいえ人間に成りすましていたんだぞ? ずるがしこいうえに、人に化けるほどだ。並大抵の奴じゃない」
「そんな奴の所に、あなたを一人で行かせられる筈ないじゃないの」
少女は笑った。凪いだ湖面のように穏やかな口調だった。夜を思わせる瞳が静かに瞬く。
「シーナ・レイ……おまえには、やらなければならないことがあるはずだ。人を探しているんだろう? こんな場所で命を落としてもいいのか?」
「彼も……ラザル・ハザも、きっと同じことを言うと思うわ。あなたを置いて、一人で逃げるなんて絶対に嫌よ」
「それでも」
「ラディン、ねぇ訊いて……もしもこれが逆の立場だったら、あなただってきっと同じことを言うはずよ。そうでしょう?」
縄梯子の続く天上の彼方――遥か天上に真円を描く月が浮かんでいた。
その白い輝きを浴びるようにして、主人に寄り添う漆黒の獣を従え、少女は静かに佇んでいる。ふいに少女は視線を転じる。
「ラディン、あなたにこれをあげるわ」
腰に差してあった布包みを手渡す。
丁寧に包んであった布を外し、中から出てきた短剣にラディンは目を見はった。
「……これは」
高貴な女性用の護身具なのだろう。
月光を照り返す細い刃先は実用よりも装飾が重視され、精緻な細工は見たこともない紋章を象っていた。
柄の中央に嵌められた乳白色とも淡黄色ともつかない、いっそう大きな蛋白石を囲むのは――紅石、青玉、翡翠、琥珀。
そのどれもが極上の輝きを放っている。
いつの時代のものなのか予想すらつかないほどの年代物だった。
手にしているだけで危険を呼び込むのは間違いないだろう、値の付けようのないそれ……。
「こんな物、受け取れるはずないだろう」
だが少女は首を振った。
「いいのよ。あたしの腕ではこの短剣は使いこなせないし、もう必要のないものなの。どうしても受け取れないというのなら、すべてが終わった後に返してくれてもいいわ。だけど、それまでは持っていて」
「……わかった」
ラディンは短剣を腰に差すと、手にしていた燭台をシーナ・レイに持たせる。そして言った。
「代わりにこれをやる」
頭髪を結ぶ紐を片手でほどくと、それを差し出した。
少女の持つ燭台の灯火が、濃紺と銀糸の複雑に絡み合う飾り紐に淡い光を投げかける。
「これは特別なものだ。魔除けの意味も兼ねている。役に立つかどうかは判らないけどな」
ほどかれた癖の強い暗褐色の髪が、中途半端に象牙色の肌を覆っていた。
左の頬に走る十字の傷痕に目を奪われていた一瞬。緑の光彩が誘い込むように降りて来る。
唇が重なったと思ったときには、既に離れたあとだった。
「……な!」
抗議の言葉も忘れて立ち尽すシーナ・レイを見下ろして、ラディンは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「行くぞ」