08.潜入
すっかり寝静まった領主の屋敷。
闇に沈んだ前庭を縫うようにして、人影が素早く移動する。やがて窓辺に辿り着くと、人影は懐から銀の針を取り出した。
「ねえ、ここの人たちって皆そういう特技があるわけ?」
鍵穴に針を差し込む後姿に、シーナ・レイが呆れたように言った。
「やっぱり、もう一人の人もできるの?」
「シーザリオンのことか? あの不器用な男にこんな細かい作業ができるか。これは俺だけの特技だ」
とうてい自慢できる特技ではない。だがラディンは胸を張って答えた。
「……ふーん」
「ふーん、って……ひょっとしておまえの探している男ってのは、こんな盗賊まがいのことをするような奴なのか?」
「うん」
驚くほど、あっさりと肯定が返される。
「シーナ・レイ……おまえ、その男に騙されているんじゃないのか?」
「騙されてなんかいないわよ。何も知らないくせに失礼なこと言わないで」
シーナ・レイの声が跳ね上がりそうになるのを制し、ラディンは声を押し殺して言った。
「静かにしろ。気づかれたらどうするんだ」
「……ごめん」
素直に謝る姿に世間知らずからなる無知を読み取って、ラディンは密かに嘆息する。犬の護衛だけで、いままで無事だったのが不思議なくらいだった。
「こっちこそ悪かったな。俺は、その……どうも一言多いらしい。よくシーザリオンにも説教されるんだ」
シーナ・レイが微笑んだ。
ラディンはうすく笑う少女に笑みを返し、背を向けると再び鍵穴に意識を集中した。しばらくの沈黙の後、針の差し込まれた鍵穴からカチリと音がした。
「開いたぞ」
銀の針をふところにしまうと、さっきまで鍵の掛かっていた窓を開ける。手慣れた様子で窓枠を乗り越え、シーナ・レイが室内に忍び込むのに手を貸した。
小部屋は夜の闇に沈んだようにひっそりとしていた。使用人は別棟で休んでいるのか、あたりに人の気配はなかった。
「行くぞ」
「あ、ちょっとまって……リヴ」
少女が窓の外に向かって愛犬の名を呼ぶと、さっきまで姿の見えなかった巨大な黒犬が、前庭に植えられた樹木の根元に現れた。
闇を吸い込むような漆黒の体毛が、風のように植え込みの間をすりぬけ、高い窓枠を優雅ともいえる仕種で飛び越える。
「そいつを連れて行くつもりか?」
「もちろんよ」
「そういや、おまえの護衛だったな」
少女のかたわらに寄り添うようにして立つ黒犬を見下ろして、ラディンが言った。
この巨大な犬が、いざ乱闘騒ぎに突入したとき多少物騒な感はあるものの、いかに有能かはすでに実証済みだった。
(こいつがいれば……最悪の事態になったとしても、シーナ・レイを逃がす時間ぐらいは稼ぎ出せるだろう)
「行くぞ」
細く開けた扉の陰から、長く伸びる廊下を伺い、小部屋の外に誰もいないことを確認する。
二人と一匹は暗い部屋を後にした。
この辺り一帯を統べるコルダー侯爵家にしては屋敷の警備は手薄だった。
見回りどころか人影ひとつ見当たらないことに、ラディンは反対に不安を覚えた。
屋敷内は死んだように静まり返っていたが、ラディンは薄気味悪い静寂の奥に奇妙な気配を感じ取っていた。
夕方屋敷を訪れたときには感じなかったそれは、奥に進みにつれ、少しずつ濃厚になってゆく。
この気配にシーナ・レイはまだ気づいていないようだったが、リヴはすでに不穏な空気を感じたらしかった。
さっきまでシーナ・レイの横を歩いていた黒犬は、いつのまに移動して主人の前を歩いていた。月光を吸い込むような漆黒の被毛は、首の後ろが逆立ち、リヴの緊張の度合いを示していた。
「次は、どこを調べるの?」
一階にある部屋を調べたあと、二階へと続く階段を上がろうとするのを、後ろから呼び止めるようにして声がかけられた。振り向くと、かすかに脅えを含んだ瞳とぶつかった。
「あの女の部屋だ」
すでにめぼしい所は探索を終えていた。
屋敷の敷居内に建てられた地下牢も調べた。残るはアルラウネの寝室だけだ。
「見つかったりはしない?」
「そうなったら本人に訊くだけの話だ」
それがシーザリオンを捜し出す一番の近道だろう。
なんの根拠もなかったが直感がそう告げている。今まで数々の危機を乗り越えて来た傭兵としての直感だった。
「そうね、行きましょう」
しばらくしてシーナ・レイは意を決したように頷いた。
ゆるくカーブして二階へ続く階段を上がるシーナ・レイの横顔を、月光が窓越しに照らしている。
斜めに射し込む青白い光をうけ、左手に巻かれた細工物の銀の腕輪がチカリと光った。
アルラウネの寝室に人影はなかった。
三つの部屋からなる、居間の一番奥まった場所にある寝室の中央に置かれた寝台は、使用された形跡すらなかった。
「この部屋は本当にアルラウネの寝室なの? ただの客室と間違えたんじゃないかしら」
「いや、たぶんあの女の部屋だろう」
寝室の四方に目を走らせたあと、天蓋のついた寝台の奥に掛けられた姿見にラディンは鋭い視線を向けた。
「見ろよ、シーナ・レイ」
大股で少女の前を横切ると、ラディンは鏡に近づいた。
「鏡がこんな場所にあるなんて、おかしいと思わないか? 鏡の前に立ったとしても、この位置からだと体全体を映せないだろう」
「そうね……たしかに変だわ。これだとベッドが邪魔をして、姿見としての本来の役割を果たせないわね」
「それに、この部屋は間取りが少しばかりおかしいんだ」
「どういうこと?」
「隣の部屋との位置関係からだと、この壁はもっと後ろにあるはずだ」
ラディンは白い壁に耳を寄せた。
「俺の経験からだと、こんな場所には大抵、隠し部屋かなにかがある」
どのような経験か、あえて口にしなかった。
シーナ・レイは沈黙していた。もっとも不審に思わなかっただけかもしれなかったが。
「この鏡が、隠し扉になっているかもしれないということね」
「まあ、そんなところだ」
鏡を横にずらしラディンが口笛を吹いた。
目の前に現れた小さな扉を開くと、小部屋が現れた。そこから細長い階段が下へと続いていた。
隠し階段を下りきった所から続く階段を、二人は下っていた。
やがて階段が終わり、せまい通路へと足を踏み入れる。歩き続けるうち、はじめは階段同様に石を敷き詰めてあった通路は、いつのまにか固い土に変わっていた。
「どこまで続くのかしら」
「はっきりとは判らないが、たぶんこの通路は屋敷の裏手に広がる森のどこかにつながっているんだろう。だから、それほど長くはないと思う」
「そう」
シーナ・レイは寝室から持ち出した燭台を掲げた。もう一方の手がラディンの左袖を固く握りしめていた。暗い所は苦手なのだろう。
「あれを見て」
しばらくして前方を指差してシーナ・レイが言った。夜目の利くリヴが走り寄る。
扉だった。なんの変哲もない木の扉だった。
かなり古いものらしく錠前は錆びていて、簡単に外れた。
「何度か開けた形跡があるな」
ラディンが力を込めると、扉は重い音と共にゆっくりと開いた。
「なんだ、この匂いは」
淀んだ空気に混じって異様な匂いが鼻を突いた。扉を開けた途端、襲ってきた異臭にラディンは顔をしかめる。
どこかで嗅いだ覚えがある。
逆流しそうになる胃を意志の力で押え込んで、どこだったのだろうと記憶を探る。
胸のわるくなるような、この匂いは……。
「見るな!」
背中越しに覗こうと伸び上がらせた細い身体を、とっさに振り向いて抱き止めた。手を伸ばして、少女の視界を覆おうとしたが間に合わなかった。
「……っ!」
穴蔵を思わせる空洞が口を開けていた。
闇が淀んでいる。重く沈んだ闇。枯れ枝のごとく折り重なるそれは……。
「シーナ・レイ」
ラディンは縋り付いてくる背中に腕をまわして、安心させるように強く抱き寄せる。その肩が小刻みに震えていた。
「……ありがとう、もう大丈夫」
しばらくして落ち着いたのか、シーナ・レイはわすかに身じろぐと、緩められた両腕から抜け出した。
「死体を調べるわ」
故郷での弔いの儀式なのだろう。
シーナ・レイは朽ちかけて横たわる死体に手を合わせると、気丈にも積み重なったそれらを丹念に調べ始める。手を貸すラディンと共に、しばし無言の作業が続いた。
死体の数を数えると、その数は20人にものぼることが判った。
山と積まれた死体は、どれもが男性だった。
無残に投げ出された体は肉が削げ落ち、骨と皮ばかりで、なかには白骨化しているものもあった。
よほど恐ろしい思いを味わったのか、どれもが苦渋に歪んだ顔をしている。きっと館で働いていた使用人や、招かれたまま姿を消した人々のなれのはてなのだろう。
顔の確認を終えたラディンは、折り重なる死体の中に相棒の姿が混じっていなかったことに密かに胸を撫で下ろした。
(とりあえず、いまのところはシーザリオンは無事だ……)
祈りにも似た思いで胸中に呟いたとき、
「あのひとはいないわ……」
シーナ・レイが蒼褪めた表情に、少しだけ安堵を浮かべて言った。
「探している男はいないんだな?」
「ええ。そうよ……彼は、こんなところで死ぬような人じゃないもの……行きましょう」
「ああ」
ラディンは頷いた。