11.戦い
四肢を押さえ付けられていた。
体が動かない。抵抗の全てを封じられたままラディンは仰向けに横たわっていた。
ゆっくりと赤く染まってゆく意識の隅で、自分は死ぬのだと感じた。魔族に食い殺されるのだと。
腕に鋭い痛みが走り、ラディンは反射的に手を引いた。
わずかに右手が動かせる事実が、かすみつつある意識を覚醒へうながす。
指先に硬い感触を覚えた。次第に痛みを増す右手が、やっとのことでそれを掴む。
刹那、光が爆発した。
「がああぁぁああ!」
眩い光が、奔流となって闇を圧倒する。
輝きは渦となり、狭い洞窟に吹き荒た。
光が引いた後には、魔族の姿は一掃されていた。
「俺は、助かったのか……」
固い土に仰向いたまま左手にした短剣を引き寄せる。
闇に息づく光苔のように、短剣が発光していた。
凍れる半月のごとき青く冴えた光が、柄に嵌め込まれた色とりどりの宝石に透明な艶をあたえ、短剣の全体に繊細な模様を落としている。
「大丈夫か、ラディン」
ああ、と短く返して、ゆっくり立ち上がる。
ラディンは短剣を腰に戻すと、代わりに愛用の中剣を手にした。
体の数箇所から血がにじみ衣服のあちこちに染みを作っていたが、どれも大した傷ではなかった。ゆっくりと時間をかけ、獲物を弄り殺す魔族の習性が、反対にラディンの命を救ったのだ。
「次はおまえの番だぜ、アルラウネ」
配下を全て失った妖女は地に伏していた。
剣を手にしたラディンに気づくと素早く立ち上がる。
「逃しはせん」
シーナ・レイから借りた小剣を構えたシーザリオンが、逃げ道を断つべく、妖女の背後にまわった。
暗がりで三人は対峙していた。
妖女の前後を挟んで、剣を構えるラディンとシーザリオンの影が炎に揺れている。
二人から少し離れた灯火の前にシーナ・レイが立ち、その傍らにはリヴがいた。
風の吹かない洞窟に、妖女の長いまだらの髪が揺れていた。
爛々と輝く目をした、嗤いを刻んだ唇から乱杭歯の白が覗く。
「そんなに死にたいのなら、望み通り殺してやろう……ただし楽には死ねないがね。ゆっくりと時間をかけて殺してやるから、心地良い叫びを聴かせておくれ」
ふいにアルラウネの上半身が前屈みに崩れ、メキメキと鳴った。
骨の砕ける音と共に妖女の背が数倍にふくれ、両の脇腹から数本の黒いものが突き出した。異様な角度を描いて曲がるそれ。地に付いたのは脚だった。
突き出た蝕肢を震わせて、歩脚が前に伸びた。
長い鉤爪。八本の脚にはびっしりと刺があった。平べったい腹部から胸部にかけて広がった、黒と金の縞模様。
「……蜘蛛」
魔族本来の姿を現した妖女――アルラウネがラディンに襲いかかる。
鉤爪の付いた脚が空気を凪いだ。
「おもしろい、かかって来やがれ! 手を出すなよシーザリオン。こいつは俺の獲物だ」
数本の巨大な脚の攻撃を難なくかわし、ラディンが剣を繰り出した。重い手応えがあった。
だが、
「なんだと!」
鋭い音と共に、手に鋭い痛みが走る。
しびれが、手のひらの感覚を刹那だけ狂わせる。
「なんてぇ頑丈な体をしてやがるんだ。俺の剣が駄目になっちまう」
ラディンは大仰に溜息を吐いた。
中剣の切先は刃こぼれでギザギザになっていた。
「気を付けろ、ラディン」
「判ってる!」
中剣を構え直し、油断なく魔族との距離を詰めるラディンの翠の瞳は、戦いへの興奮にいっそう鮮やかさを強くする。
巨大な蜘蛛へと変化したアルラウネの脚が風を凪いで振られる。まともに食らえば即座に命を落とすだろう、強烈な一撃だった。
「ちっ! どうなってやがるんだ、傷のひとつも付きやしねぇ」
急所と思われる位置を正確に攻撃しているのに、まったく傷つくことのない頑丈さに、ラディンは苛立ちを吐き捨てる。
「そんななまくらでは、あたしを傷つけるなどできはしないよ」
アルラウネがゆっくりとラディンとの距離を縮めた。逃げ場のない所まで獲物を追い詰め、舌先が紅い唇を舐める。
「おまえのような小僧など、あたしの好みじゃないけどねぇ……けど、そうだね、その血は美味しそうだ」
「やれるものならやってみやがれ!」
「そうはさせるか!」
鋭い音がして、今まで沈黙を守っていたシーザリオンが切り付ける。
だが、手にしている小剣ではラディンの剣と同様、アルラウネには通用しなかった。シーザリオンは、かまわず二度三度と切り付けた。
「……!」
金属の鳴る甲高い音。小剣が折れた。
シーザリオンは剣を投げ捨てると、魔族の女に素手で打ち掛かる。
「シーナ・レイ、こいつを燃やせ!」
「無理よ!」
とっさの呼びかけにシーナ・レイの声が重なる。
簡単すぎる拒絶にラディンは目を剥いた。
「そんなはずないだろう! 昨夜やった魔法とやらでこいつを燃やすんだ。それとも魔法というのは嘘なのか?」
「本当よ」
「だったら、すぐにやれ!」
「本当よ! 本当だけど、手のひらで燃やすのが精一杯なのよ。あんな化物を燃やす力なんてないわ」
「なんだと?」
ラディンが叫んだ。
「はったりなのか!?」
「そうよ!」
「な、なら、その犬をけしかけろ」
無理を承知で口をついた。
「そんなことできないわ」
そりゃあそうだろう。
あんな可愛気の無い凶暴な犬でも、シーナ・レイにとっては大切な相棒だ。殺されるのを承知で命令できるはずもない。
だが、返ってきたのは意外な答えだった。
「リヴには、あたしとそれ以外の区別なんてできないのよ。そんな命令を下したら最後、あの魔族を殺した後で間違いなくラディン達に襲いかかるわ。いったんリヴがその気になったら、満足するまではあたしにも止められないのよ」
「そんな駄犬捨てちまえ!」
ほとんどヤケクソで叫んだ。
「リヴに怨まれるわよ」
「そんなことぁ後だ! くそっ! こんな場所で死ねるか」
叫んだのと剣が折れたのは、ほぼ同時だった。
ラディンを狙った一撃が風を巻き起こした一瞬。
「ラディン!」
シーザリオンが大蜘蛛に飛びついた。
「邪魔をおしでないよ」
「ぐっ!」
シーザリオンが吹き飛んだ。背後の岩肌に体を打ちつけ、地にくずおれる。
「おまえにはまだ用事が残っているんだ、そのまま静かにしておいで」
昏倒した体を一瞥して、妖女はラディンへと向き直る。
「待たせたね、坊や」
「……」
ラディンは折れた剣を投げ捨てた。
「おや、とうとう観念をしたのかい?」
「まだ判らないさ」
絶望的な状況にも関わらず、ラディンの瞳は生彩を欠いていなかった。
「そうやって強がっていられるのも今のうちさ。たっぷりと苦痛と恐怖とを味あわせてあげるよ……存分に堪能するがいい」
乱杭歯の零れる口が開く。
その口元から大量の、透明な糸が吐き出される。糸は宙を流れ、ラディンの腕に絡み付いた。
アルラウネが跳躍する。
「ラディン!」
シーナ・レイが転がるようにして、ラディンと巨大蜘蛛の間に飛び込む。
手のひらで炎が踊った。
視界を炎に塞がれたアルラウネの動きが止まった、一瞬。
「ぎゃああぁぁああ!」
ラディンは短剣を突き立てた。
アルラウネの眉間に刺さった宝剣が発光する。絶叫が轟いた。
「ぐおおぉぉおおおお!」
断末魔の咆哮を上げながら、妖女は最後の力を振り絞る。
鋭い鉤爪が、一番近くにいたシーナ・レイをみいだした。
声を上げる間もなかった。
通常の反射神経では到底及ばない、刹那の、それでいて永遠にも等しい数瞬。
少女が目を見開く。
その黒い瞳をラディンはただ呆然と見た。
そして――
「がああぁああああーっ!」
大地を震わすような咆哮だった。
シーナ・レイの頭上にあったはずの鉤爪が、脚ごと消失していた。
ドサリと、重い音をさせて、切り離された脚が地に落ちる。黄金の獣の足元へ。
「おまえ……」
全身を黄金色に染めた獣が跳躍した。
一瞬にしてアルラウネの強固な体を切り刻む。圧倒的な力の差に、妖女は抵抗もできぬまま絶命した。
獣が、ラディンを見る。
大量の返り血を浴びて、濃い緑に染まった体を震わせる。長い被毛が踊って血が跳ねた。その後には染みひとつない、眩しいくらいに鮮やかな黄金が現れる。
暗い色を孕んだ双眸。
獣はラディンを一心に見詰めている。
深い水底を思わせる、静かな、それでいて不穏な光だった。
「……魔族」
アルラウネとは比較にならない強力な妖気が、黄金の獣を取り巻いていた。
アルラウネには感じなかった戦慄が絶望を伴ってラディンを凍り付かせた。
息が掛かるほどに近づくと血の香りが鼻を突いた。わずかに赤味を帯びた、艶やかな黄金の被毛。牙の鋭い輝き。
「リヴ」
シーナ・レイだった。
静かすぎるほどの呼びかけで少女がそっと手を差し出す。
獣が振り向くと黄金がさざなみのように揺れた。リヴはゆっくりとした足取りで少女の元に歩み寄った。
「良い子ね、リヴ」
少女の手が、リヴの眩い黄金を撫ぜる。
輝きが薄れ、獣の体が闇色に変わってゆく。
強烈だった妖気が霧散して、ようやくラディンは息を吐いた。