10.本拠地へ
闇の中。
数箇所に設けられた灯取りに蝋燭の炎が揺れていた。そのたよりない炎が、抱き合う一組の男女を映している。
「奥方……」
「アルラウネと、そう呼んでくださいませ。シーザリオンさま」
「ア、アルラウネ殿……申し訳ないが、もう少し離れてはいただけないか?」
「嫌ですわ」
たくましい胸に頬を寄せたままアルラウネは一向に動く気配を見せない。豊満な胸元を強調するデザインのドレスに包む身体を、なおいっそうすりよせてきた。
なんだか妙な成り行きになってきた、とシーザリオンは思っていた。普段は表情のわかりづらい秀麗なおもてには、困惑の色がありありと浮かんでいる。
「シーザリオンさまの家のことなど関係ありませんわ。シーザリオンさまをこうして捕えたのは、すべてあたくしの意志ですの」
理由を問うシーザリオンにアルラウネが笑った。
「あたくしの愛しいかた」
「ま、まさか、そんな理由で私を?」
思わず声が裏返る。
「貴方が欲しいからですわ、シーザリオンさま」
「やめてくれ!」
冗談ではない。冗談ではないと、シーザリオンは蒼褪めた顔を左右に振った。
つれないかた、と拗ねてみせる女の甘く匂い立つような色気も、シーザリオンには何の感銘の与えなかった。
迫ってくる紅い唇から逃れようと、捕えられて動けない体を必死の面持ちで離そうとする。
「や、やめろ!」
ラディンが見たら腹を抱えて大笑いしそうな光景だったが、当人にはいたって深刻な状況だった。
どんな男も魅了せずにはおかないだろう蠱惑的な黄金の瞳も、濡れて光る唇も、なめらかな白い肌の感触も、なぜか嫌悪感だけを呼び起こす。自然に肌が粟立つのをシーザリオンはどうすることもできなかった。
「ア、アルラウネ殿、あなたは私に懸想したと、そんな理由で、こんなことをしたと言われるのか!?」
「そうですわ」
「馬鹿なことを、とにかく離れてくれ! いや、それよりもこの薄気味悪いネバネバしたものをなんとかしてくれ!」
最後の方は、ほとんど悲鳴に近かった。
「つれない方ですこと。それよりも愛しているとおっしゃって下さいませ。一言、あたしくのものになると誓って下さいませ」
「い、嫌だ!」
シーザリオンは必死の面持ちで頭を振りたくった。強く振りすぎて目眩がしてきたが、とにかく振った。
「あたくしを見て下さいませ、シーザリオンさま」
「絶対に嫌だ!」
「お願いですわ」
「嫌だと言ったら絶対に嫌だ!」
意地も半分手伝って、きつく目をつぶる。
が、女の様子がどことなくおかしい。薄目を開けて、シーザリオンはしなだれかかるアルラウネを盗み見た。
「何が、おかしい?」
女は嗤っていた。
くつくつと、喉を震わせて。
胸に伏していた顔が悠然と上向く。
白磁のごときおもてに乱れかかる豪奢な漆黒と黄金の髪の毛は、それ自体がまるで別の生き物のようにざわめき、そして発光していた。
深紅の唇の両端が毒を含んで、にい、と吊り上る。
うすく笑む唇はこんなにも赤かったろうか。
なまあたたかい鮮血で紅をひいたような彩りに凄惨な笑みを浮かべ、アルラウネはなおも笑っていた。
「おまえに選ぶ権利などないんだよ」
口調と共に態度が一変した。その身に纏う空気さえも。
「馬鹿な男だねえ……おとなしくあたしのものになるのなら、少しは楽しい夢を見せてやったものを」
アルラウネがいっそう笑みを深くする。
「死んだコルダーのように、簡単にあたしの『魅了』にかかるようなら話は早かったのだけどねえ……。男なら誰でも惑うはずの魅了にかからないところをみると、強く惚れた者がいるね? まあ、かまやしないさ。あたしが欲しいのはおまえ自身であって、おまえの心ではないんだ」
「何者だ?」
「教えてやるともさ」
突然、右の頬に鋭い痛みが走った。
温かい流れが伝う感触に、シーザリオンはかすかに眉をひそめる。
「……」
ゆっくりと眼前にかざされた手のひらに、シーザリオンの青い目が見開かれた。
長い、長い爪。
鋭い刃にも似た爪先に付着した鮮血が灯火に照らされて、黒いしたたりを地に落とす。その濡れた爪先を舐めとる唇には嘲笑が刻まれていた。
色鮮やかな赤と白のコントラスト。二本の牙。濡れた唇に目を奪われるほどに、乱杭歯の白が際立っている。
とうてい人のものとは思えない異形がそこにあった。
「化物め!」
艶然と佇むアルラウネの正体は魔族に違いなかった。高い知能と狡猾さ、残忍さ――おそらく強力な魔力を有する。
シーザリオンはがむしゃらに暴れた。もっともきつく戒められていたために、体をゆすった程度の抵抗に終わったが。
「私をどうするつもりだ、化物め」
「どうすると思うんだい?」
シーザリオンの問いになぶるような答えを返し、アルラウネは目を細めた。
返すべき言葉を失って、シーザリオンは精一杯の抵抗とばかりに妖女を睨み据える。
「ますます気に入ったよ。おまえはあたしの夫に相応しい」
「なんだと? ……っ!」
シーザリオンの言葉を遮るように長い爪が一閃した。
鋭利な刃の強靭さで斜めに振られたそれが、シーザリオンの体を上衣ごと引き裂く。胸を鮮血に染めてシーザリオンは粗く息を吐いた。
「怖いかい?」
この一年間で急激に数を増やしたという魔族の生態は、あまり知られていない。
解っているのは、奴等は人間を食すということだった。
人肉を、生き血を糧にするということ。
そして、なによりも、生あるものの阿鼻叫喚を好むということ。
魔族は人々の断末魔の悲鳴を聴くために、温かい血をすするために、消えかかった命をことさらに長引かせる。
魔族に捕えられるということは、生きながらに終わりのない苦痛にのたうち、最後の瞬間まで苛まれるということなのだ。
「殺せ!」
短い答えを返し、次に来るであろう苦痛を予想した。だが返ってきたのは意外な答えだった。
「おまえを殺すのはあたしではないよ。聞こえなかったのかい? あたしはおまえが気に入ったと言ったんだ……ごらん」
いつのまに出現したのか、アルラウネは手のひらに乳白色の小さな球体を乗せていた。
「あたしの可愛い卵だよ。これをおまえの体に植え付けるのさ。やがて卵は肉のなかで孵化し、おまえ自身を糧に成長する。おまえはこの子達の父親になるんだ、大切なこの子達の父親にね。おまえならコルダーのときよりも立派な子供達が生まれるだろうよ」
体中を食い荒され、森で発見されたというコルダー侯爵。そしてシーザリオンも同じ運命を辿ろうとしていた。
「やめろっ!」
それは本能的な恐怖だった。
なぶられ、苦痛にのたうちながらの死と、体の中に卵を産みつけられ、内側から食われての死。どちらも恐ろしいが、自分の体に卵を産み付けられるなど堪えられるはずもなかった。
「それいじょう近づくな、化物め!」
「なんとでも言うがいいさ」
アルラウネの尖った爪の先がシーザリオンの傷ついた胸を抉った。新たな血が地面に黒い水溜まりを作る。
「苦しいかい? それもすぐに終わるさ。この卵を埋め込んだらすぐに孵化が始まる……一夜ですべてが終わるよ」
小さな血溜まりの湛える傷口に、妖女が卵を押し込めようとしたとき、
「ぎゃああ!」
アルラウネの背中に火が灯った。
「ラディン!」
「よう、シーザリオン。無事か?」
シーナ・レイが炎で攻撃するのと同時に、ラディンの剣がアルラウネの卵を持った手を叩きつけた。地に転がった卵をラディンが踏み潰す。
「ああ、なんとか無事だ」
無事を伝えるシーザリオンの横で、
「お、おのれ! よくも大事な卵を」
アルラウネの長い爪がラディンを狙った。それをすんでのところでかわして、ラディンが軽口をたたく。
「なんだシーザリオン、おまえ親父になり損ねたのか? それは悪いことしたな」
「馬鹿なことを言っていないで、これを早くなんとかしてくれ」
「あたしが!」
シーナ・レイが小剣を手に駆け寄ると、ねばつく白いものを切り裂いた。
「助かった、後は大丈夫だ」
半分いじょう切り裂いたところでシーザリオンは自力で戒めを抜け出した。少女を背後に庇い、アルラウネと対峙する。
「許さないよ、人間どもが! 皆殺しにしてくれる。……下僕どもよ、我が呼びかけに応え地の底から出て来るがいい!」
ふいに、ラディンの足元が揺らいだ。
「なに!」
何者かに足を掴まれてラディンは大きく体勢を崩す。そのまま前のめりに倒れ込んだ体を、地面から伸びだ十数本の腕が押さえ込んだ。
「くそっ!」
ふいを突かれ、引き倒された体を地に縫い止めるように幾つもの異形が地から這い出した。腐臭を撒き散らしながらアルラウネによって召喚された魔族の群れが、手の中の獲物へと殺到した。
「ラディン!」
悲鳴が重なった。
引き倒されたラディンの体は魔族に覆い尽くされ、見えなくなった。助けようと駆け寄るシーザリオンの眼前にアルラウネが立ちはだかる。
「行かせないよ」
「退け!」
怒気を込めて叫ぶ。捕えられたときに剣を奪われたシーザリオンは、その体ごと妖女に突進した。
「くっ!」
だが弾き飛ばされたのはシーザリオンだった。
細い肢体のどこにそんな力が隠されているのか、アルラウネはよろめきもしなかった。刃のごとき長い爪で威嚇しつつ、妖女が嗤う。
「シーザリオン、おまえだけは生かしておいてやるよ。おまえはあたしの大切な夫だからねえ」
「許さんぞ、アルラウネ!」
血の匂いが立ち昇る。洞窟に妖女の哄笑がこだました。