待てが効かないとき
雅の目の前には、餓えた獣がいる。しかも面倒な空腹を抱えていて、飼い主であるはずの雅には止めることができないほどの怪力ときている。二重に厄介だ。
「……おい」
なるべく低く、ドスを聞かせた声で威嚇してみたが、そいつには効かなかった。飼い主をじっと見つめる犬……もとい人間の嵐は、犬よろしく四つん這いになって目の前の『飯』にじりじり近づいていく。
嵐は、その筋の世界では『狂犬』と評されている。戦闘狂で流血好き、おまけに背後をとらせることがない――飼い主ただ一人は例外だが。加えて欲望には真正直で、戦場に放り込めば幾百幾千の敵を葬る。
どれほど優れた武器も、使いこなせなければ意味がない。むしろ脅威となりえる。嵐も使いこなせない、手に余る武器と同じだ。誰もが、嵐の処分を考えた。
しかし、嵐は不思議なことに、雅の言うことだけはちゃんと聞いた。雅が「待て」と言えば待ち、「殺れ」と言えば殺る。どれほど血がのぼっている状態でも、雅の一声で止まった。
なぜ雅には従順なのか結局のところわからない。ただ、嵐のこの習性のようなものが、嵐自身を救ったと言える。
どんなに空腹でも雅の言うことなら何でも聞く嵐が、その防波堤となる雅の言葉にさえ従わない。
つまり、その面倒きわまりない空腹を満たさなければ嵐は餓えた獣のままというわけだ。
そしてその食料は、雅でなければならない。他のものにはつとまらない。
雅もわかっている。分かりきっているからこそ厄介なのだ。
「……嵐」
とうとう壁まで追い詰められた。これ以上距離を置けない。横へ逃げようと悪あがきしてみたが、手首を強くつかまれ壁に縫い付けられた。この犬の力は雅を組み敷くに足る。自分がどう食われるかなんて文字通り身をもって知っていても、自分の非力さが恨めしい。
「待て」
「待てない」
嵐の目は熱にうかされ正気を失っている。代わりに、欲望が溢れるほどにこもる。
「おなかへった」
「十重の飯でも食うか」
「雅が食いたい」
「バカを言うな」
「オレは超マジメっすよ」
「待てと言ってるだろうが」
「今は、待てない」
ゆっくりと、飼い犬に追い詰められて、ついに身動きできなくなる。
嵐の息づかいが耳に響く。
雅の足の間を割りこんで距離をなくす。
駄目だ、逃げられない、逃げるつもりもないのだけど。もう腹をくくるしかなさそうだ。
掴まれていた手を、がぶりと噛まれた。しかも甘噛みで。
「食うなら中途半端は許さねーぞ」
「いや、今……オレ余裕ないから……」
「容赦できずにかかってしまう恐れがあると?」
嵐の代わりに答えてやると、無言で首肯した。まだ理性は辛うじて残っていたようだ。
「いいから。食うなら食え。焦らされると怖い」
「じゃあ、遠慮なく」
欲におぼれた目はまっすぐに飼い主を見据える。
飼い主を食う犬は、笑っていた。
夜中のテンションはまことに恐ろしいということをわからせてくれる一作となってしまいました。沈まれ私のテンション!