彼女の泊まるホテルでは
出張先のホテルで火災に遭遇したことがある。
そう話すと、大抵の人は「怖かったでしょう」と顔をしかめる。
けれど、本当に怖かったのは火災そのものではない。
あの夜、植え込みの縁で出会った女のことだ。
◆
当時の私はシステムエンジニアだった。
地方の病院を飛び回り、古いシステムを切り替える仕事をしていた。繁忙期になると、月の半分以上をホテルで過ごすことも珍しくない。
その日も地方都市の駅前から少し離れた場所にあるホテルに泊まっていた。
翌朝は本稼働初日。トラブル対応のため早朝から病院の作業室で待機しなければならない。
だから私は二十二時には眠っていたと思う。
深夜、耳をつんざく非常ベルで飛び起きた。
「勘弁してよ…」
ホテル暮らしが長いと、火災報知器の誤作動には慣れる。酔客が押したり、タバコの煙で鳴ったり、そんなことは何度かあった。
だが館内放送が続いた。
『○階で火災が発生しました。宿泊中のお客様は非常階段より避難してください』
本物だ。
急いで服を着る。ストッキングは履かずに仕事用のバッグに入れた。
素足で靴を履き、バッグを持ってドアを開ける。
スーツケースは置いたまま部屋を出た。
廊下に煙はない。けれど非常階段を降り始めたあたりで、焦げた臭いが鼻についた。
その瞬間、脚が震えた。
「あ、本当に火事なんだ」
現実感が一気に押し寄せた。
ホテルの外には消防車数台に救急車。多くの宿泊客が寝巻きのまま、あるいは私服で立っていた。私のようにスーツを着ている人もちらほら見えた。誰も大声を出していないのが、逆に不気味だった。
私は少し離れた植え込みの縁に腰を下ろした。
そこに、女がいた。
二十代前半くらい。
俯いたまま、ハンカチで涙を拭っている。
その姿に少し安心した。怖いのは私だけじゃないんだ、と。
「ここ、座っていいですか?」
女はゆっくり顔を上げ、頷いた。
街灯の明かりでもわかるくらい目が赤かったし、泣きすぎたせいなのか、寒さのせいなのか、顔も赤らんでいた。
「びっくりしましたね」
彼女を落ち着かせるように、そして自分自身の不安や恐怖を紛らわせるように話しかけた。
「はい……」
声は普通だった。少し安心する。
「こういうの、何百泊もしてて初めてですよ。本当に火事だったの」
そう軽く笑ってみせると、女は小さく首を傾げた。
「初めてですか?」
「え?」
「火事になったの」
妙な聞き方だと思った。
「誤報なら何回かありますけど、本物は初めてですね」
すると女は、ハンカチを握りしめたまま言った。
「わたし、初めてじゃないんです」
「……え?」
「二回目です」
気の毒に思った。
「それは災難ですね」
「一回目の出張でも、泊まったホテルで火事があって」
女の目からまた涙がこぼれた。
「次もそうだったらって思うと……怖くて……」
私は励まそうとした。
偶然ですよ、と。
さすがに三回目なんてないですよ、と。
ありきたりなことを言ったと思う。
女は黙って聞いていた。
そのうち鎮火したらしく、ホテル側から客室へ戻るよう案内があった。
幸い、火はボヤ程度で済んだらしい。
数人が煙を吸って病院に搬送されたものの、死者は出なかったと後で聞いた。
私は立ち上がった。
その時だった。
「○月○日、XX市に行きますか?」
突然、女が聞いた。
「え?」
「XXホテルに泊まる予定、ありますか」
仕事柄、可能性はあった。
だから曖昧に答えた。
「まだわからないですね」
すると女は、妙に真剣な顔で言った。
「泊まらない方がいいですよ」
「どうして?」
「その日、わたし三回目の出張なんです」
冗談には聞こえなかった。
私はなんとなく、手帳の隅に日付とホテル名を書き留めた。
◆
数ヶ月後。
朝食を食べながら、何気なくローカルニュースを見ていた時だった。
『昨夜、XXホテルで女性が刃物で刺されるという事件が発生しました。女性の命に別状はありません——』
私は箸を落とした。
すぐ手帳をバッグから出して開く。
そこに書かれた日付は、昨日だった。
ニュースには被害者女性の名前と年齢も出ていた。女性は40代。
それならあの女ではない。
犯人もすぐ捕まったらしい。
被害者とは知人だったという。
偶然。
ただの偶然。
そう自分に言い聞かせた。
◆
そして数年後のある日。
ある地方都市に出張だった。
夕方にはホテルに入り、チェックインを済ませてエレベーターに乗る。
扉が閉まりかけた時だった。
「すみません」
細い手が扉を止めた。
女が乗り込んできた。
あの女だった。
数年経っているはずなのに、まるで時間が止まったみたいに、何一つ変わっていなかった。
私の全身から汗が噴き出した。
女もこちらを見た。
そして困ったように微笑んだ。
「……以前、会いましたよね」
声も同じだった。間違いない。あの時のあの女だ。
私は震える声で聞いた。
「あれから……どうでしたか」
何が、とは言わない。けれど私が何を聞きたいかはわかったようだ。
「あれからも一人でホテルに泊まるたびに何かが起きてます」
そう言って苦笑いした。
「怖くないですか」
「……慣れました」
「今日も何か起きるんですか?一体何が。火事?」
女は少し考えてから、小さく首を振った。
「わたしにも、よくわからないです」
エレベーターが止まる。
扉が開く。
女は降り際に、ぽつりと言った。
「大丈夫ですよ。死なないから」
そう言って女は廊下の奥へ消えた。
私は、その言葉の意味を理解できなかった。
部屋に入ってすぐに避難経路を確認する。
夕食は外で摂る予定だった。
いつもならホテルの近くの居酒屋で飲みながら夕食にする。でもお酒を飲む気にはなれなかった。
どこにでもあるファミレスチェーン店に入り、ハンバーグを頼む。
食べながら考える。
ホテルを変えようか。
いや、どこも予約が取れなくてあのホテルにしたんだった。
どこか漫画喫茶で夜を明かそうか。
何かが起きると決まったわけでもないんだし、明日も仕事だし、ホテルに戻ってさっさと寝た方がいいだろうか。
答えが出ないままホテルに戻った。
入り口の前で立ち止まって深呼吸をする。
大丈夫。「死なないから」って言ってたし。
そう思いながらホテルに入る。
ーー待って、「死なないから」って誰が?自分が?彼女が死ななかったとして私は?
心臓が激しく鼓動する。
立っていられなくてホテルのロビーの古びたソファーに座る。
このホテルは地方都市によくある少し古いシティホテルで、ロビーは古いホテル特有の吹き抜け構造だった。
見上げると、各階の廊下がぐるりと四角く並んでいる。
ロビーにいた若い女の子二人が
「ちょっとあれ!」
「やばくない?どうする?」
と上階を指さして言っている。
気になって吹き抜けの縁まで移動して見上げた。
二人の男性が言い争いをしているようだった。かなりヒートアップしているのが見ただけでわかる。
五階の廊下だ。
廊下と吹き抜けの間には胸の高さくらいの柵しかない。
言い争っているうちにお互い手が出ている。
これは危ない。落ちたら死んでしまうのでは?
走ってフロントに行くがフロントは無人。テーブルの上のベルを激しく鳴らす。
「どうなされました?」
出てきたホテルマンが言い終わる前に被せる
「あの!五階の廊下で喧嘩してて!落ちそうで!」
吹き抜けを指してそう言うとホテルマンはバックヤードに一旦戻り、今度は二人で出てきた。
一人はエレベーターに向かい、もう一人が吹き抜けに向かう。
私も後から付いて行って吹き抜けから五階を見上げる。
その時
「危ない!」
次の瞬間、一人の身体がぐらりと傾いた。
柵を越えたのが押されたからなのか、自分で踏み外したのか、わからなかった。
「キャーーー!」
「イヤーーー!」
一緒に見ていた女の子たち二人の叫び声が聞こえる。
咄嗟に目を閉じた私が聞いたのは、バキバキという木の割れるような音、そしてその後にドン!と重いものがぶつかった音。
目が開けられなかった。
「救急車!」
ホテルマンの声だと思う。もしかしたら私に言っていたのかもしれない。でも動けなかった。
女の子たちの泣き声も聞こえる。
恐る恐る目を開けると血だまりが見えた。
後から聞いた話によると、落ちた男は生きていた。
二階の喫茶室の庇に引っかかってからロビーに落下したそうで、私が最初に聞いた木が割れるような音は庇が壊れた音だったようだ。
その庇がなければ、彼は死んでいたかもしれない。
ーー大丈夫ですよ。死なないから
あの女の言葉はこれのことだったのだろうか。
それから私は出張のたび、ホテルのロビーで女を探すようになった。エレベーターに乗る時も。
でも見つけたことは、一度もない。
ただ、今でも時々思う。
もしまた彼女に会ったらーーー




