その愛は、何と比べて真実なのかしら?
初夏の光が白いテラスに降り注ぐ。
庭は静かで、鳥の声だけが遠くで響く。
私は扇子を指先で軽く揺らしながら、密偵の報告を待っていた。
「ドレイモンド伯爵令息はカフェでケーキを購入し、いつもの雑木林へ。
先に辻馬車で来ていたノラ・ウィムズと合流。
抱擁を交わした後、ケーキを食べながら雑談しておりました」
私は小さく頷いた。
「いつも通りね」
──1年前。
私は王太子の婚約者だった。
だが彼の突発的な乱心により婚約は破棄され、次の候補として、婚約者がいなかった1歳下のアラン・ドレイモンド伯爵令息と婚約を結ぶことになった。
金髪碧眼の甘い顔立ちをしたアランは三男で継ぐ爵位もなく、いずれ平民になるつもりで平民のノラ・ウィムズと交際していた。
婚約が決まっても2人は別れず、こうして人目のつかない場所で密かに逢瀬を続けていた。
それは構わない。
急に決まった婚約だったし、家格と年齢を考えれば婿に迎えるのに彼しかいなかった。
彼とて断りきれなかったのだろう。
同情しないわけではない。
しかし──
「そしてドレイモンド伯爵令息は、お嬢様の暗殺計画を口にしました」
扇子の動きが止まった。
「……え? なんて言ったの?」
「暗殺計画です。
結婚してお嬢様が子を産んだ後、事故に見せかけて命を奪うと。
そうすれば子供が成人するまでドレイモンド伯爵令息が公爵代理となりますので、その後ノラと再婚し、家に引き入れると語っておりました」
胸が静かに冷えていく。
「……そう。それは聞き捨てならないわね。
愛人は、なんと?」
「『嬉しい。早く公爵夫人になりたい』と。
さらに『同じ時期に子を産んで、似ていれば入れ替えればいい』と」
「それは……完全に御家乗っ取りよね」
「さようです。
『権力に物言わせて、人の恋人を獲ったやつらに復讐してやる。
もし入れ替えられなくても、子供を虐げて鬱憤を晴らそう』と話しておりました」
「うちのお金で生活する上に、私の子供を虐げると?」
「そのようです」
「なるほどね」
扇子を静かに閉じる。
その音だけが、冷たい空気を切り裂いた。
「しょっぴいて騎士団に引き渡しますか?
それとも暗殺しますか?」
「まずは証拠を押さえるわ」
愛人がいるのは、政略結婚だから仕方ない。
しかし、婚姻後に私の命を狙い、家を乗っ取るなどあり得ない。
こちらに迷惑をかけないなら大目に見るつもりだったが──
殺害と乗っ取りを企てるのなら話は別だ。
今まで寛容過ぎたと、私は静かに反省した。
昼下がりの陽が差し込む自室で、僕はソファに寝転びながらぼんやりしていた。
僕の運が向いたのは、1年前だ。
舞踏会で突然、王太子が「真実の愛に生きる」などと宣言し、リュシアンヌ・オルフェリア公爵令嬢との婚約を破棄したことが発端だった。
学生だった僕は、三男で継ぐ爵位がない。
だからいずれ平民のノラと結婚し、父の領地経営を手伝いながら生きていくつもりだった。
平民になるとはいえ、家を手伝うのだから貴族と、あまり変わらない生活ができる。
まあ、それでいいかと思っていた。
しかし──
リュシアンヌの次の婚約者に選ばれ、婿入りが決まった。
リュシアンヌは美しく、完璧だ。
銀砂のような髪、深い瑠璃色の瞳、姿勢はいつも真っ直ぐで、まるで芸術品のようだ。
だが、僕にとっては“人形”みたいで、息が詰まる。
やっぱり僕には、ノラがいい。
明るくて、気取らなくて、僕を特別扱いしてくれる。
だから別れず、リュシアンヌとの婚約後も密かに交際を続けてきた。
そしてある時、ふと思ったのだ。
もしリュシアンヌが、出産後に死んだら?
そうすれば僕は公爵代理として、ノラを後妻に迎えられる。
公爵家の財産も地位も手に入り、ノラと贅沢に暮らしていける。
そんな“計画”を思いついた時、胸が熱くなった。
ノラに話すと、彼女は目を輝かせて喜んでくれた。
僕はその反応に、ますます自信を深めた。
後は結婚して、子供が産まれれば安泰だ。
そこへ、扉がノックされた。
「ノラ様から、お手紙です」
従者が差し出した封筒を受け取り、僕はすぐに開封した。
どうせネックレスが欲しいとか、そんなことだろう。
リュシアンヌと婚約してから、家から莫大な予算が出るようになった。
僕は学生で社交デビュー前だったから、リュシアンヌにドレスを贈る必要もない。
茶会の時に、ちょっとした手土産を持っていけば、それで良かった。
残りは全部、ノラにプレゼントしていた。
だって今までは堂々と会えていたのに、婚約してからはノラを“日陰の女”にしてしまったんだから。
それぐらい当然だろう。
ノラの手紙を開いた瞬間、僕は思わず眉をひそめた。
紙いっぱいに広がる文字は、いつも通りぐにゃぐにゃで、子供が書いたように読みにくい。
けれど、なんとか読み取れた内容はこうだった。
──隣国の叔母が倒れて、面倒を見てほしいと頼まれた。
急だけど、1~2ヶ月行ってくる。
連絡先は○○。
僕は手紙を読み終えて、ふっと息をついた。
……それなら仕方ないよな。
ノラは優しい。
家族思いだ。
だから、急に呼ばれたら行くのは当然だ。
ノラがいないと暇だ。
学校はこの春に卒業したし、父の領地経営の手伝いは1日3~4時間やれば十分。
兄が2人いるから、僕がやることなんてほとんどない。
ノラがいないと、本当に時間が余って仕方がない。
すると──
「オルフェリア公爵令嬢から手紙です」
従者が差し出した封筒を受け取り、僕は目を瞬いた。
「え? リュシアンヌから? 何だろう?」
封を切ると、整った筆跡が目に飛び込んできた。
ノラの字とはまるで違う、貴族らしい美しい文字だ。
──婿入りに際して、高位貴族の作法を学ぶため、我が家に住むように。
僕は手紙を読み終えて、肩の力を抜いた。
まあ、ノラもいなくて暇だし、ちょうどいいか。
公爵家に住めば、豪華な食事も出るし、部屋も広い。
それに“公爵の婿”として扱われるのは悪い気分じゃない。
僕は了承の返事を書き、引っ越しの準備を始めた。
ノラが戻ってくるまでの間、リュシアンヌの家で過ごすのも悪くない。
どうせ僕は、いずれ公爵家の中心に立つのだから。
こうして僕は、オルフェリア公爵邸に引っ越した。
門をくぐった瞬間から、世界が変わったようだった。
白い大理石の廊下はどこまでも続き、壁には高価そうな絵画が並び、天井には金の装飾が施されている。
見慣れない豪奢さが眩しく映った。
案内された部屋は広く、家具はどれも上質で、窓からは手入れの行き届いた庭が見える。
丁寧な使用人たちが控えていて、僕はすっかり“公爵の婿”として扱われている気分だった。
そして、テラスで使用人たちの紹介が行われた。
僕の前に立ったのは──
仮面をつけたメイドだった。
白い仮面が顔を覆い、表情は読み取れない。
栗色の髪が肩にかかり、細い体つきで、動きはどこかぎこちない。
声が出ないらしく、会釈するだけで何も言わない。
トレイを持つ手は震えていて、歩くたびに裾を踏みそうになっている。
公爵家のメイドとは思えない、不器用さだった。
「……え?」
思わず声が漏れた。
正直、驚いた。
公爵家のメイドといえば、もっと洗練されているものだと思っていた。
そんな僕の戸惑いを見て、リュシアンヌが口を開いた。
「孤児で可哀想な子だから、うちで雇ったの。
優しいあなたなら、受け入れてくれると思って」
その言葉を聞いた瞬間、僕は何も言えなくなった。
……そう言われたら、断れないよな。
僕は頷くしかなかった。
「……わかったよ。よろしく」
仮面のメイドは深く頭を下げた。
その仕草はどこか怯えているようにも見えたが、僕は深く考えなかった。
歓迎の晩餐──見たこともないほど豪華な料理が並んでいた。
肉は驚くほど柔らかく、香りは上品で、皿のひとつひとつが芸術品のようだ。
白いクロスの上で銀器が光り、天井のシャンデリアが反射して揺れている。
僕は緊張で手が震え、カトラリーを持ち替えた瞬間──
カチン、と音が鳴った。
その一瞬で、空気が凍りついた。
長いテーブルに座るオルフェリア家の人々は、誰ひとりとして表情を変えない。
静寂が重くのしかかる。
「す、すみません……」
声が震えた。
しかし誰も返事をしない。
ただ、全員が静かに食事を再開した。
食事が終わると、黒髪に銀が混じるラキ・オルフェリア公爵が淡々と告げた。
金の瞳は冷たく、威圧感がある。
「3ヶ月以内に、必要な作法と教養を身につけるように」
「……はい。努力します」
返事をしながら、胃が重くなるのを感じた。
宛がわれた部屋は広く豪華で、実家の客間よりも遥かに立派だった。
壁には繊細な刺繍のタペストリーが飾られ、窓からは庭園の噴水が見える。
けれど──食べた気がしない。
あの緊張感が、これから毎日続くのかと思うと、胸が締めつけられるようだった。
早く結婚してしまえば、この息苦しさから解放されるだろう。
とりあえず──
「……夜食を持ってきてくれ」
仮面のメイドは「さっき晩餐を終えたばかりなのに」と言うように、驚いて目を見開いた。
白い仮面の奥で、茶色の瞳が揺れる。
声が出ないから、ただ小さく頷くしかない。
「さっさとしろ! 食べた気がしないんだ!」
苛立ちを隠さずに言った。
豪華な食事を前に緊張しすぎて、ほとんど食べられなかったのだ。
メイドは、ぎこちない動きで部屋を出ていった。
──これから、どうなるんだ……?
2日目。
僕は早速、家庭教師であるロレーヌ・レイベン侯爵夫人に、“高位貴族の作法”を学んだ。
そこから始まったのは、容赦のない訓練だった。
姿勢。
歩き方。
カトラリーの扱い。
発声。
呼吸。
表情の作り方。
どれも細かく、少しでも気を抜くと講師の冷たい鞭が飛ぶ。
「違います」
「その角度では失礼です」
「呼吸が乱れています。やり直し」
ロレーヌ夫人は黒髪をきつくまとめ、灰色の瞳は氷のように冷たい。
動きは無駄がなく、背筋は真っ直ぐで、まるで軍人のような威圧感があった。
僕は、すぐに疲れ果てた。
足元の姿勢が崩れるたびに、脛を叩かれて姿勢を直された。
痛みよりも、屈辱と緊張の方が強かった。
授業が終わると、僕は重い足取りでリュシアンヌの部屋を訪ねた。
白と紺を基調とした部屋は静かで、彼女は窓辺で書類を読んでいた。
「リュシアンヌ……あの、ちょっと……今日の授業、厳しすぎない?
僕、正直ついていけないよ……」
声が弱々しく震えた。
リュシアンヌは扇子を閉じ、静かに言った。
「私も太ももに鞭の跡が、たくさんあるわ。
高位貴族教育の講師が厳しいのは当たり前。
あなたが受けているのは、“公爵家の後継者を支える者”の教育だからよ」
僕は言葉を失った。
自分だけが苦しいと思っていた。
しかしリュシアンヌは、それを当然のものとして受け入れている。
「……そ、そうなんだ……」
それ以上、何も言えなかった。
とんでもない場所に来てしまったかもしれない。
いきなり舞踏会デビューするより、まずは社交サロンの方がいいだろうとリュシアンヌに連れられて来た。
サロンでは、すでに数名の貴族が輪になって話している。
白い壁に金の装飾、天井には繊細なシャンデリア。
談笑する貴族たちは皆、姿勢が良く、服も宝石も上質で、僕は場違いな気がして落ち着かなかった。
「今の政策で問題なのは──」
「識字率の低さが、労働効率に影響していて──」
最初の数語でついていけなくなった。
専門用語が多い。
経済や行政の知識が、前提になっている。
そもそも“平民の生活”に興味を持ったことがない僕には、何を言っているのかすら分からない。
リュシアンヌは黙って聞いていた。
僕はそれを見て、勝手に安心した。
あ、リュシアンヌも分かってないんだな。
そう都合よく解釈した。
主催者であるケネシー侯爵夫人が優雅に扇子を動かし、リュシアンヌへ視線を向けた。
深い緑のドレスをまとい、落ち着いた笑みを浮かべている。
「いかがかしら、オルフェリア公爵令嬢?」
リュシアンヌは、一拍置き答えた。
「平民の識字率の向上が急務ですわね。
青空教室なら、すぐにでも実施できますわ」
サロンの空気が変わった。
「青空教室?」
「聞いたことがないわ」
リュシアンヌは、落ち着いた声で説明を続けた。
「学校を建てるのではなく、空き地に子どもたちを集めて──教師が黒板に書いた文字を、子どもたちが地面に書いて真似るのです。
紙も筆記具も必要ありません。
貧富の差があっても、持ち物に差が出ませんわ」
ケネシー侯爵夫人は、目を見開いた。
「……それは素晴らしいわ。
今すぐにでも取り入れられるではないの」
周囲からも賞賛の声が上がる。
「さすがオルフェリア公爵令嬢」
「現実的で、しかも効果が高い」
リュシアンヌは微笑むだけだった。
その横顔は美しく、完璧だった。
僕は震えた。
平民の生活なんて考えたこともない。
政策の話など聞いたこともない。
リュシアンヌが黙っていたのは“分からないから”ではなく、“聞くべき時と話すべき時を知っていたから”だ。
そして、最悪の瞬間が来る。
ケネシー夫人が、にこやかに僕へ向き直った。
「では──ドレイモンド伯爵令息は、どうお考えかしら?」
背中を冷たい汗が伝った。
何も分からない。
何を言えばいいかも分からない。
リュシアンヌのように即答できる知識もない。
そもそも“平民の識字率”という言葉すら、ほとんど初耳だ。
ここで悟った。
……これからは、こういう質問が日常的に来るのか。
そして、自分が“婿入りする家のレベル”を完全に理解した。
「僕も、彼女の意見に賛成です。
いえ、まったく同じことを考えていました。
僕たちは、やはり気が合うようだ。ははは……」
とりあえず、必死に誤魔化した。
しかし、主催者は優雅に微笑んだまま、別の方向へ視線を向けた。
「では、あちらに教育部の大臣がおられるので、教科書の制作者にドレイモンド伯爵令息を推薦しておきますわ」
「えっ、いや、僕のような若輩には、まだ荷が重いです」
その瞬間、サロンが静まり返った。
え? なぜ?
僕は理由が分からず、ただ周囲を見回した。
しかし、貴族たちは冷ややかな目を向けている。
リュシアンヌは表情を変えず、ただ扇子を閉じた。
その仕草だけで、空気がさらに冷たくなる。
僕は“何が起きたのか分からないまま”評価を落とした。
馬車の揺れが、今日の出来事を思い出させるように身体に響いた。
窓の外では夕暮れが沈み、街の灯りがぽつぽつと灯り始めている。
「あの、今日の何が良くなかったかな?」
勇気を振り絞って尋ねると、隣に座るリュシアンヌが、わずかに目を見開いた。
「私の口から言うのは、憚れます……ただ……」
「ただ?」
「もう、あのサロンには呼んで貰えません」
「なっ」
息が詰まった。
たった1度の失敗で。
それも、よく意味が分からないまま。
これが、公爵令嬢の世界……。
「挽回するには?」
リュシアンヌは困ったように眉を寄せた。
その仕草すら優雅で、僕は余計に焦った。
「貴族というのは、慈善事業が好きなので……」
「好きというか……見栄の世界だからだろう?」
リュシアンヌは、呆れたように目を伏せた。
「そうではありません。
いえ、パフォーマンスは勿論あります。
しかし持てる者の矜持なのです」
「なんだ、それ? 意味がわからない」
「恵まれて生まれてきた分を還元するのです、社会に。
それが義務であり、誇りなのです」
僕は首を捻った。
恵まれたなら、自分だけ幸せでいいだろう。
なぜ、わざわざ他人に分ける必要があるのか。
リュシアンヌは扇子で顔を隠し、静かに息を吐いた。
その仕草が、妙に癪に障った。
帰宅して少しすると、使用人に呼ばれ、書斎へ向かった。
重厚な扉を開けると、ラキ・オルフェリア公爵が机の前に立っていた。
「詫び状は書いたのか?」
「わ、詫び状?」
「帰ってきて四半刻たってる。何をしてたんだ?」
「すみません。
ただ、ちょっと大袈裟ではないですか?」
沈黙が落ちた。
ラキ公爵の金の瞳が細くなる。
「…………今の家庭教師は解雇する」
「えっ、あ、そうですか」
やった、ラッキー。
胸の奥で小さく喜びが弾けた。
翌朝。
僕の前に立っていたのは──まさかの王弟シリル・ラグナスだった。
黒髪に鋭い銀の瞳。
軍服のように無駄のない姿勢。
圧倒的な威圧感。
僕は息を呑んだ。
新しい家庭教師が王弟だなんて、聞いていない。
机の上には、白紙の紙とペンが置かれていた。
「サロンでの失態を反省しろ。反省文と詫び状を書け。
お前『僕も同じ意見だ、気が合う』などと抜かしたそうだな。バカか」
「えっと……本当に同じ意見だったので、率直に言ったまでです」
「同じ意見なら『私も、その意見に賛成です』と、1度肯定した上で補足案、もしくは懸念材料を付け足す。
または別の意見を言う。
こんな当然のことも分からないのか」
銀の瞳が冷たく光る。
「しかし突然話を振られても、そんなこと思いつかないではないですか」
「はあ? それは『普段から何も考えていない、反射的に場をおさめる能力もない』と言っているようなものじゃないか。
なぜ公爵令嬢との縁談を受けたんだ?」
「それは……親が『これ以上の縁談はないし、公爵に断ることはできない』と言ったからです」
「公爵だって縁談の無理強いはしない。というか、できない」
「できない? なぜ?」
王弟は深く、ため息をついた。
「教会法で『本人の意思を無視した強引な婚姻は禁止』されている。
入籍しても無効になる」
「はあ……」
「もう婚約破棄すればいい。
違約金は相当な額になるが、本人が納得していない縁談は後で問題になる」
その言葉を聞いた瞬間、ほんの一瞬だけ頭をよぎった。
……それもいいかもしれない。
しかし、すぐに現実が押し寄せた。
三男の伯爵令息が公爵令嬢と婚約破棄したら、親からも支援は貰えないどころか縁を切られるだろう。
当然、次の婿入り先はない。
王宮に仕官しても、公爵を敵に回したとなれば雇って貰えない。
残るのは──国外で、ひっそり暮らす未来だけ。
そんな人生、想像しただけで背筋が寒くなった。
あてがわれた部屋は広く、日当たりが良く、家具調度品はどれも最高級だった。
ベッドはふかふかで肌触りがよく、上で跳ねてもきしむ気配すらない。
用意された礼服は王族御用達の衣装室が仕立てたもので、伯爵子息の僕など予約すらできない代物だ。
食事で出てくる肉は驚くほど柔らかく臭みもなく、見たこともないほど高級なバターが添えられた柔らかいパンは、香りだけで幸せになれるほどだった。
使用人たちは礼儀正しく、無駄口を叩かない。
伯爵家出身の者も多く、平民になったら一生口もきけないような人たちが、今は僕に仕えている。
この生活を全て捨てて、惨めな平民になる未来を考えれば、選択肢などなかった。
「いえ……確かに親に強制されましたが、今は自分でも婿入りを希望しています」
そう言うと、王弟は顎を撫でた。
「ふうん? だったら早く詫び状と反省文をしたためて、先方に送るんだな」
「……何を、どう書けばいいのでしょう?」
王弟は、机の横に立つ護衛を顎で示した。
「俺は仕事があるから、後はこいつに任せる」
護衛の1人が前に進み出た。
短い黒髪、鋼のような灰色の瞳、軍服の肩章。
ザック・トーシハン侯爵──鬼将軍。
僅か5年で、子爵から侯爵へ出世した傑物。
社交界デビュー前の僕でも知っているほど、有名な人物だ。
「10分以内に書け。
できなければ、棍棒で殴る」
トーシハンが棒を構えた。
「ひっ……」
喉が詰まった。
僕は急いで反省文を書き、震える手で差し出した。
トーシハンは紙を一瞥すると、いきなり殴った。
──ドゴンッ
「ぎゃっ、あ……あ、何を?!」
「詫び状が先だろ!」
短い言葉と棍棒が落ちるだけで、痛みが走った。
叱責というより、軍の号令のような重さがあった。
「ひっ、ぎゃあっ、す、すみません。
すぐに書きます」
机に戻り、必死で詫び状を書いて渡す。
しかし、また破られた。
「どのように償うかが書かれていない!」
──ドガッ
冷たい声と棍棒が落ちるたび、背筋が強張った。
何度書き直しても、足りないと言われる。
言葉の選び方、謝罪の順序、今後の改善点──すべてが厳密に求められた。
「ぎ、ぎりぎり……すみません、すぐ書きます……」
呼吸が荒くなり、手が震えた。
紙の上に落ちる影が揺れる。
その後4回やり直して、ようやく終わった。
「よ、良かった……終わった」
机に突っ伏したいほど疲れていたが、トーシハンは表情ひとつ変えなかった。
「今すぐ着替えて届けてこい。
先触れは出しておいてやる」
「はい?」
──ドガッ
「疑問系にするな! 『はい』だ」
低い声が胸に突き刺さり、背筋が跳ねた。
「ぎゃっ、は、はい!」
喉がひきつり、声が裏返った。
重厚な扉が開き、僕は応接室へ通された。
ケネシー侯爵夫人は優雅に椅子へ腰掛け、詫び状へ目を通している。
金糸の刺繍が施されたドレス、落ち着いた仕草。
その姿だけで圧倒される。
「先日は、誠に……申し訳ありませんでした」
声が震えた。
夫人は詫び状を読み終えると、扇子を閉じて言った。
「ふう……そうですか。
お気遣い痛み入ります」
僕は、ぱっと顔を上げた。
「あ、許してくださるので?」
「許すも何も、怒っておりませんわ」
「ああ、良かった」
胸を撫で下ろした瞬間──
「では教育大臣には、こちらから話を通しておきます」
「えっ、あ、え、あ」
言葉が喉でつかえた。
「不都合でも?
こちらに『教科書を作る件、是非やらせてほしい』とありますが?」
社交辞令で書いただけだ。
まさか本当に受け取られるとは思っていなかった。
「も、もちろんです。お任せください!」
声が裏返り、夫人は微笑んだ。
その微笑みが、なぜか逃げ場を塞ぐように見えた。
また恐怖の1日が始まる。
部屋の扉が勢いよく開き、トーシハンが入ってきた。
──バコンッ
「ぎゃっ、い、いきなり何を!
ケネシー侯爵夫人には、許して貰いました」
言い終える前に、机を強く叩く音が響いた。
その衝撃だけで身体が跳ねる。
「お前の一部始終は、すでに従者から聞いている。
ケネシー侯爵夫人は、怒っているというより呆れているのだ」
「あ……それは……」
言葉が続かない。
高位貴族は本音を見せない──
「完全に怒りも何もないなら、わざわざ教科書の件を掘り返さないだろう!」
言われてみれば、その通りだった。
「お前の謝罪の仕方が、不十分だったんだ。
ケネシー侯爵夫人は、お前が大して学んできていないと見て、呆れて教科書の件を進めているのだ。
これは“試し”でもある。
クリアできれば、またサロンに呼んで貰える」
「つまり……教科書を作るっていうことですよね? ぎゃあっ」
衝撃で床に転がる。
「当たり前だろう! そして──」
トーシハンが一歩踏み出しただけで、背筋が凍った。
圧が強すぎて、呼吸が浅くなる。
「反省文は、どうした?!」
「え、ああ、それは今日やろうと──ぎゃっ」
再び体が跳ねる。
「っ、なぜ殴るんですか?! 痛いです!」
「躾ているのに苦情を言うな。
反省していたら、先延ばしにしないだろう。
何のための反省文だ?」
「つ、疲れてたので……ギャアア」
言った瞬間、頬に痛みが走った。
「戦地では老兵が鎧を着て20km行軍し、そのまま戦う。
18のお前が何を疲れるというんだ。ふざけるな!」
声は低く、静かで、逃げ道を塞ぐようだった。
そこからは反省文を書いては破られ殴られ、書いては破られ殴られの繰り返しだった。
言葉の選び方、謝罪の順序、今後の改善点──
すべてが厳密に求められ、少しでも甘さがあると容赦なく突き返される。
紙の上に落ちる影が揺れ、手は震え、呼吸は荒くなる。
時間の感覚が消えていく。
ようやく完成した頃には、全身が汗で湿っていた。
「それでは公爵の元へ行ってこい」
トーシハンは、うんざりしたように肩を落とした。
その仕草だけで、どれほど手間をかけたかが分かる。
「は、はい! すぐ!」
反省文を抱え、僕はゼイゼイと息をしながらラキ・オルフェリア公爵のもとへ向かった。
執務室へ入ると、ラキが書類から顔を上げた。
金の瞳が、僕を見つめる。
「ふうむ……少しだけマシになった」
「はあ……良かった」
胸を撫で下ろした瞬間、ラキの視線が鋭くなる。
「…………君は、本当に我が家に婿入りするのか?
君が心底、望んでいるようには見えないが」
「ああ、いえ、その……はじめは親に強制されましたが、今は望んでいます」
ラキは深く息を吐いた。
「わかった。下がりなさい」
その言葉に安堵しつつも、どうしても気になっていたことを口にした。
「あの……家庭教師って、このままでしょうか?」
「なんだって?」
「いくらなんでも厳しいですよ」
ラキは眉ひとつ動かさず答えた。
「間違わなければ殴らない。シンプルだろう」
「しかし──」
「王弟殿下が、お決めになったことだ」
その名を聞いて、思わず言葉が詰まった。
「そもそも、どうして王弟殿下が出てくるのです?」
「親戚だからだ。
王弟殿下の母君は、私の姉だ。
だから我が家を、特別気にかけてくださっている」
息が止まりそうになった。
知らなかった。
いや、考えてみれば不思議ではない。
リュシアンヌは、元は王太子の婚約者だった。
王子が浮気して婚約破棄したせいで、僕にとばっちりが来たのだ。
ラキは書類を閉じ、静かに言った。
「君、勘違いしていないか?
伯爵位といえば、高位貴族に分類される。
しかも娘と婚約が決まって1年。
実家で教育を受けるのに、充分な時間はあったはずだ。
あまりに結果がひどいようなら、君の親に抗議しなければならない」
「そ、それは……申し訳ありません。頑張ります」
背筋が冷たくなった。
親に抗議されれば、予算を止められる。
ノラが戻ってきた時、買い物に行けなくなる。
それだけは困る。
執務室から戻り、部屋で一息ついたところで、トーシハンが入ってきた。
執務室でのやり取りを報告する。
「ふむ。いいだろう。
では、着替えて観劇に行け」
「えっ」
「オルフェリア公爵令嬢は、すでに支度されている。
舞踏会に出る前に、小さい社交場から慣らしていく必要がある」
「観劇が社交場?」
「公爵令嬢といれば、多くの貴族が挨拶に来るに決まっているだろう」
なるほど、と思った。
観劇は娯楽ではなく、社交の場なのだ。
「わかりました」
観劇が終わり、ロビーに出ると、次々と貴族たちが挨拶に来た。
リュシアンヌは落ち着いた微笑みで応じ、僕は横で愛想笑いをして突っ立っているだけだった。
挨拶がひと通り終わり、帰ろうとした時──
人の流れが、ふっと割れた。
エドモンド・ラグナス王子と、その“真実の愛”と呼ばれるロザ・ピアット伯爵令嬢が立ち塞がった。
リュシアンヌが、挨拶しようと一歩進む。
「私的な場なので、正式な挨拶はいらない」
王子が、手で制す。
「さようですか」
リュシアンヌは頭を下げた。
王子は僕を見て、眉をわずかに動かした。
「彼が、ドレイモンド伯爵令息か」
喉がひきつりながらも、なんとか声を出した。
「よ、よろしくお願いします」
王子は変な顔をした。
何が悪かったのか分からない。
リュシアンヌが、補足するように言った。
「今年、社交デビューする予定です()の」
女性は15、男性は18から社交デビューする。
ただし婚約者がいる場合や代理の場合は、18未満でも舞踏会に出ることができる。
ロビーのざわめきの中、突然ロザが声を張り上げた。
「ちょっと! あなたたち早く結婚しなさいよ。
あなたたちが結婚しないと、私たちが結婚できないじゃない!」
その瞬間、ロビーがしんとなった。
周囲の貴族たちが一斉に、こちらを見る。
リュシアンヌは扇子で口元を隠し、静かに笑った。
「ピアット伯爵令嬢は冗談が、お好きなのですね。
きっと明るい性格のお子が産まれますわ」
ロザは元は平民だったが、王子と結婚するために伯爵家の養子になった。
その背景を知っている貴族たちは、微妙な表情で成り行きを見守っている。
「何よ、それ! バカにしてんの?!
あなたが側室になるのを断ったせいで、こっちは大変なんだから!」
「ロザ、やめろ!」
王子が慌てて制止するが、ロザは引かない。
「だって──」
「ロザが失礼した。
しかし、君の助けが必要だ」
王子はリュシアンヌへ向き直った。
その声には焦りが滲んでいる。
「我が父以外にも、公爵は3名おりますわ」
リュシアンヌは、落ち着いた声で返す。
「君が頷かないと、他も頷かない」
「私が頷いても、父は頷きませんわ。王弟殿下も」
王子の顔が引きつった。
ロザは苛立ちを隠さず叫ぶ。
「何なの、その言い方! 投獄するわよ!」
周囲がざわついた。
王子がロザの腕を掴み、力づくで引っ張っていく。
「すまない、失礼する!」
2人が去っていくと、ロビーの空気が一気に緩んだ。
しかし、僕の背中には冷たい汗が流れていた。
この世界は、僕が思っていたよりずっと複雑で、ずっと危険だ。
リュシアンヌは扇子を閉じ、何事もなかったように歩き出した。
僕はただ、その後ろを追うしかなかった。
部屋の扉が勢いよく開き、トーシハンが入ってきた。
同時に鳩尾を打たれる。
うう……朝食が出てしまう……。
「お前という奴は! それでも男か!」
「は……?」
「なぜ婚約者を庇わない?!」
昨日の観劇のことか。
「え、相手は王子と、その婚約者ですよ?」
無理だろう。
「だから、なんだ?
お前も女公爵夫になるのだろう」
「いや、でも今は伯爵子息だし……」
トーシハンは呆れたように冷たい目で、こちらを見た。
「では、伯爵令息として王子殿下に『よろしくお願いします』と言ったのは、正しかったか?」
「殿下が『正式な挨拶しなくていい』と言ったんで──ぎゃあっ」
身体が跳ねて、床に転がった。
「『以後、お見知りおきを』だろうが!」
「す、す、すみません」
トーシハンは深く、ため息をついた。
「今回は、向こうも失礼だったから詫び状はいい。
ただし反省文は書け」
「また、で──ぎゃっ」
言い終える前に、鋭い拳が飛んできた。
「……わ、分かりました。すぐに書きます!」
そこからは、いつもと同じ地獄だった。
書いては突き返され殴られ、書いては突き返され殴られる。
トーシハンは、淡々と指摘する。
「言い訳が多い」
「主語がない」
「責任の所在が曖昧だ」
「改善策が書かれていない」
「感情を書いて、どうする」
紙が山のように積み上がり、手は震え、呼吸は浅くなる。
時間の感覚が消えていく。
ようやく、トーシハンが破らずに机へ置いた。
「……これでいい」
その一言で、全身の力が抜けた。
椅子に崩れ落ちる……。
慌てて反省文をラキに渡しに行き、部屋へ戻ると、トーシハンが腕を組んで待っていた。
灰色の瞳が鋭く光り、空気が一瞬で張りつめる。
「教科書の企画書を書け。
教育大臣から仰せつかってきた」
「はえっ?! な、内容ですか?」
「当たり前だろう、バカ」
短い言葉なのに、胸に重く落ちる。
「何を、どう書けばいいです──ぎゃっ」
言い終える前に、身体が跳ねた。
「質問する前に手を動かせ。まず書け」
「す、すぐ書きます」
急いで書き、震える手で差し出す。
トーシハンは紙を受け取り、目を通した瞬間、眉をひそめた。
その表情だけで、背中が冷たくなる。
「……リサーチしたのか?」
「何をですか?」
「実際に平民街に行って、その生活を見て、何が必要か調査したのか?」
「ええ、ええ、平民街にはよく行くので、平民のことは分かっています」
トーシハンは額に手を当て、深く息を吐いた。
「……本当に、これでいいんだな?」
「ええ、完璧だと思います」
トーシハンはしばらく黙り、やがて静かに言った。
「分かった。大臣に渡す。
今日の授業は、これまでだ」
「やった……!」
胸の奥で喜びが弾けた。
ようやく終わった。
ようやく休める。寝よう!
企画書を渡して数日。
重い扉が開き、僕は城の会議室へ通された。
長い机の向こうには、リュシアンヌ父娘、王弟、ケネシー侯爵夫人、そして教育大臣が並んでいる。
緊張で喉が乾いた。
「まずはドレイモンド伯爵令息の企画書を、ご覧ください」
大臣が複写した企画書を、全員に配った。
紙が配られる音だけが、静かに響く。
ページを開いた瞬間──
僕以外、全員が青ざめた。
空気が重く沈む。
ラキが頭を下げた。
「申し訳ありません。大臣、ケネシー侯爵夫人」
リュシアンヌも深く頭を下げる。
僕だけが、ぽかんとしていた。
何がそんなに悪いのか、よく分からない。
ラキが言った。
「こちらで責任を持って、書き直させます。
1ヶ月ほど時間をください」
大臣は険しい表情で頷いた。
「今回は大目に見ますが、次は陛下の耳に入れます」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気がさらに冷えた。
王弟は目を閉じ、ケネシー侯爵夫人は扇子を握る手に力を込めている。
僕は、ただ紙を握りしめたまま立ち尽くしていた。
自分が何をしでかしたのか──
帰りの馬車も、夕飯も、まるで葬式のような空気だった。
誰も口を開かず、重苦しい沈黙だけが続く。
さすがに僕も、これはマズいと思った。
部屋に戻り、湯に浸かってようやく身体の緊張が少しだけ緩んだ。
湯上がり、メイドが訓練で受けた“衝撃の痕”に湿布を貼っていく。
腕、肩、脇腹、背中──
触れられるたびに、鈍い痛みが走る。
「毎日こんな酷い目に遭ってるっていうのに、まだ足りないって言うんだぜ?」
メイドは黙って頷いた。
声が出せない彼女は、いつもこうして仕草で返す。
「ああ、そうか。お前、口がきけないのか……話し相手にならないな」
そこで、ふと思いついた。
「ノラが居れば……そうだ。ノラに企画書を書いてもらおう。
平民の彼女の方が、何が必要か分かってる」
僕は机に向かい、急いで手紙を書いた。
・自分の代わりに企画書を書いてほしい。平民の視点が必要だ。教科書の内容を任せたい。
・婿入りが成功したら一緒になれる。だから協力してほしい。
・公爵家で酷い目に遭っている。
早馬で手紙を送ったため、わずか1週間で返事が届いた。
封を切る。
中には、ノラの拙い字で書かれた手紙が入っていた。
・リュシアンヌに、子どもが生まれるまで辛抱するように。後妻にしてくれる約束を信じている。
・読み書きができない人が多いから、教育用の絵本を作るのは、どうか?
・企画書は書いたことがないから分からない。
紙の端には、ノラの手の跡が残っていた。
懸命に書いたのだろう。
僕は手紙を握りしめた。
「絵本か……そうだな」
その案を企画書にまとめ、トーシハンへ差し出した。
トーシハンは紙を受け取り、目を通した瞬間、眉をひそめた。
「……もしかして、平民1人1人に教科書を配るのか?」
「そうですが?」
「予算は、どこから出る?」
紙は高価だし、印刷は人力。
だから教科書は高い。
しかし──
「平民に買わせればいいのでは?」
トーシハンは肩を落とした。
その仕草だけで、全否定されているのが分かる。
「……わかった。
明日から平民街に行き、実際に授業しろ」
「ええっ、僕がですか?」
トーシハンは額に手を当て、深く息を吐いた。
殴る気力すら出ないほど、呆れている。
「服は用意するよう言っておく。
今日の授業は、ここまでだ」
──嫌な予感しかない。
朝の日差しが照り付ける中、僕は平民の格好をさせられ、広場へ連れてこられた。
原っぱにあるのは黒板だけ。
見物人がぽつぽついるが、肝心の子どもが来ない。
トーシハンが短く言った。
「生徒を集めて来い」
「そこから?! ……い、行ってきます」
背中に鋭い視線を感じ、慌てて走り出した。
人々に声をかける。
「勉強しませんか? 文字を教えますよ?」
だが──
「忙しい」
「勉強より仕事だ」
「遊ぶから無理」
子どもは労働力として扱われ、空き時間は遊びたい。
授業を受ける理由がないのだ。
僕は途方に暮れ、広場へ戻った。
トーシハンが集まった大人たちに向かって、黒板へ文字を書いていた。
大人たちは真剣に聞き入っている。
「何してるのです?」
「お前、勘違いしてる」
「え?」
「文字を読めないのは、子どもだけではない。
生徒が子どもである必要はない」
「えっ」
その発想がなかった。
勉強は子どもがするものだと、勝手に思い込んでいた。
トーシハンは、黒板に字を書きながら言った。
「俺は“リサーチしたのか”と聞いたはずだ」
僕は何も言えず、俯いた。
その日は、トーシハンの授業アシスタントとして板書を運んだり、道具を整えたりして終わった。
夕暮れの平民街は、いつもより広く感じた。
湯から上がると、メイドが“衝撃の痕”に湿布を貼っていく。
足をマッサージされると、じんわりと痛みが広がった。
全身が重い。
腕も、腰も、背中も、どこもかしこも痛む。
僕は天井を見上げた。
──ようやく分かった。
最初の企画書、なぜ王宮に呼ばれるほどの問題になったのか。
なぜ皆が青ざめたのか。
なぜトーシハンが、あれほど怒ったのか。
僕は、何も知らなかったのだ。
また朝が来て、僕は1人で教壇に立つことになった。
しかし、人々は仕事があるので、バラバラの時間にしか来ない。
ようやく数人が集まったところで、僕は聞いてみた。
「図書館に自習用の本はないのか?」
返ってきたのは、予想外の答えだった。
「文字が分からないから、どの本が自習用の本なのか分からない」
「そこからか……」
途方に暮れた。
“本を読む”という前提すら成立していない。
夕暮れ。
くたくたになって屋敷へ戻ると、廊下でリュシアンヌに会った。
「ずいぶん疲れているわね」
僕は今日あったことを話した。
平民が来ないこと、時間が合わないこと、本が読めないこと──。
リュシアンヌは、やがて言った。
「平民のアシスタントをつくればいいのよ。
例えば隠居してあまり働いていない老人や、自営業で時間が選べる人を集めて教え、その人たちが後から来た人に教えればいいの」
「そんな……発想……なかった……」
頭が真っ白になった。
そんな方法があるなんて、考えたこともなかった。
リュシアンヌは、微笑んだ。
「“全部自分でやろう”とするから疲れるのよ」
「ああ……そうだ。ありがとう」
リュシアンヌは軽く会釈し、
「どういたしまして」
と、去っていった。
その背中は、今日も揺らがず強かった。
その日も授業に行く予定だったが、朝から激しい雨が降り続いていた。
平民街の広場は屋根がないため、授業は中止になった。
雨が降ったぐらいで授業ができないなんて──
平民は、なんてひどい生活をしているんだろう。
ようやく理解した。
貴族たちが“平民の識字率”について議論していた理由を。
部屋に戻ると、トーシハンが待っていた。
雨の日でも容赦はない。
「では、殿下から『最近どうだ』と聞かれたら?」
「え、ええと……恙無く過ごしておりま──ぎゃっ」
いつものように言い終える前に、身体が跳ねた。
「会話が終わる。気の利いた返しをしなさい」
僕は固まった。
話題を広げられない。
相手の意図を読めない。
反射的に場を整えられない。
社交界で最も重要な“瞬発的な会話力”が、僕には壊滅的に欠けていた。
トーシハンの声は淡々としているのに、逃げ場がない。
「王弟殿下に『普段から何も考えていない、反射的に場をおさめる能力もない』と言われたのに、何していた」
「すみません……」
俯くしかなかった。
トーシハンは、深く息を吐いた。
「仕方ない。マルチダ・レイベン公爵夫人の茶会に行け」
「ひい……」
思わず声が漏れた。
顔が青ざめるのが、自分でも分かった。
マルチダ・レイベン公爵夫人──
礼儀に厳しい。
社交界で最も毒舌。
教育係としても有名。
“本物の社交界”を知る人物。
社交界では、
・相手の意図を読む
・話題を広げる
・その場を整える
・失礼にならない返しをする
これが必須。
僕は全部できない。
いや、できないと最近わかった。
トーシハンは腕を組み、冷たい灰色の瞳で僕を見下ろした。
「お前は最悪、平民になれば済むと思っているだろう。
──違う。
最低でも鉱山労働か、遠洋漁業の過酷な現場に送られるだろう」
その言葉に、頭が真っ白になった。
「……え?」
「それとも、お前は他に高額を稼ぐ宛でもあるのか?
婚約破棄の違約金は、“お前が払う”んだぞ。
そうでなければ実家が潰れる」
足が震えた。
背中に冷たい汗が流れる。
──もう、ダメだ。
そう思った瞬間、ふと“考え”が浮かんだ。
リュシアンヌと行けばいい。
リュシアンヌがフォローしてくれれば、なんとかなる。
「わかりました。行きます」
自分でも驚くほど、軽い声が出た。
顔を洗っていると、執事が部屋に来て、恭しく封筒を差し出した。
「ドレイモンド伯爵令息アラン様へ」
そこには、マルチダ・レイベン公爵夫人の茶会への招待状が入っていた。
しかし──
リュシアンヌの名前がない。
「……え? リュシアンヌへの招待は?」
「ございません」
血の気が引いた。
僕は、慌ててリュシアンヌの部屋へ向かった。
「リュシアンヌ! レイベン公爵夫人の茶会に、一緒に行ってくれ!」
リュシアンヌは、鏡台の前で髪を整えていた。
振り返り、静かに首を傾げる。
「……私、招待されていないわ」
「で、でも! 僕ひとりじゃ……!」
リュシアンヌは、困ったように微笑んだ。
その微笑みは優しいのに、逃げ道を塞ぐ。
「招待されていないのに、勝手に行くわけにはいかないの。
それに、今日は別の予定があるの」
「……っ」
喉が詰まり、声が出なかった。
──終わった。
リュシアンヌのフォローはない。
僕は“ひとりで”マルチダの茶会に行かなければならない。
震える足をなんとか前に出し、マルチダ・レイベン公爵夫人の屋敷へ向かった。
案内されたテラスには、すでに2人の夫人が座っていた。
「お、遅くなって申し訳ございません」
声が震えた。
マルチダは、落ち着いた仕草で言った。
「いいえ……時間通りよ。お掛けになって」
「はい」
席に着くと、それぞれの夫人を紹介され、挨拶を交わした。
1人は、金髪をきっちりまとめたエレオノール夫人。
鋭い青い瞳が、こちらを値踏みするように向けられる。
もう1人は、黒髪に深紅のドレスを纏ったカトリーヌ夫人。
扇子をゆっくり揺らしながら、興味深そうに僕を見ていた。
その直後、執事が女主人に耳打ちする。
マルチダの視線が、ゆっくりと僕に向いた。
「レセーヌのバターケーキを、手土産にくださったそうね」
その瞬間、エレオノールとカトリーヌが息を呑んだ。
何が、おかしいのか分からない。
有名店で買ったのに。
「本日はトーシハン侯爵閣下から“教育を兼ねて”と、お願いされています」
マルチダの声は静かだが、逃げ場がない。
エレオノールが扇子を閉じ、淡々と言った。
「マルチダ様は公爵夫人ですから、レセーヌはランクが低いのです。
失礼にあたりますわ」
「えっ」
胸が冷たくなる。
実家では贈呈の定番だった。
しかし伯爵ランクだったのだ……。
カトリーヌが続けた。
「そもそもマルチダ夫人は油の多いものが、お嫌いです。
私たちは、茶葉や砂糖菓子を持ってきますの」
「ひっ……も、申し訳ありません。知らずに」
エレオノールが、さらに追い打ちをかける。
「この季節、生クリームやバターは溶けやすいので、形が崩れている可能性があります。
贈呈には不向きですわ」
頭が真っ白になった。
マルチダは呆れたように、ため息をついた。
「リュシアンヌ嬢に一言聞けば、教えてくださったはずなのに。
たったそれだけのことすら、しなかったということになりますね」
「ひっ、あっ、すみません!
次から気を付けます」
夫人たちは小さく笑った。
その笑いは、優しさの欠片もない。
「次があるはずないではないですか」
心臓が一瞬、凍る。
カトリーヌが続ける。
「ドレイモンド伯爵令息、ジャケットの色がマルチダ夫人と被っていますわ。
しかも婚約者の色が、どこにも入っていません。
普通はペアのアクセサリーに、互いの色を使いますのよ。
あなたは平民になりたいようですね」
言葉が胸に突き刺さる。
汗がダラダラと流れ、喉がひきつる。
マルチダの前で、僕はアワアワと口を開けたり閉じたりするしかなかった。
「まあ。本日は“教育を兼ねて”とのことですから、会話の練習をしましょうか。
トーシハン閣下からうかがいましたわ。
平民に勉強を教えているとか?」
「そ、その……字の読み書きができてないものでして。
黒板にリンゴの絵を描き、横に文字を書いて、これはリンゴだと教えます」
その瞬間、同席の夫人たちが一斉に笑い出した。
エレオノールが扇子を広げて言う。
「私たちも、そのぐらいは分かりますのよ。
ずいぶん教養が低いと思われてますのね」
「ちち、違います! そのような!」
マルチダは扇子を閉じ、静かに言った。
「ここでは“どのような理念を持っているか”、”今後の展開をどう考えているか”を、お話になればよろしい」
理念?
そんなもの分かるはずがない。
やれと言われたから、やっているだけだ。
「つまり……識字率が上がれば税収も増えます。国が豊かになります」
夫人たちは、また笑い出した。
「ですから、その程度は承知の上ですわ。
増えた税収は、何に使うと良いと思われますか?」
カトリーヌが困ったように言った。
「ええ、それは……病院でしょうか」
我ながら、いい返しだ。
「どういった病院を建てるのがよろしいという構想、お持ちですか?」
マルチダが畳み掛けてくる。
「びょ、病院は病院でないのですか?」
夫人たちは大笑いした。
笑い声がテラスに響き、僕の背中が冷たくなる。
マルチダは、ため息をついた。
「婿入りするにあたり、領地経営は学んでいらっしゃらないの?」
「もちろん学んでいます。
帳簿の付け方、読み方は分かっています」
カトリーヌが首を振る。
「政治家というのは、数字だけ見ていればいいものではありません。
そのために理念が必要なのです」
マルチダが頷いた。
「私たちは女ですから、公の場でする政治の話は控えめにしています。
しかし、その受け答えだと、将来“紳士クラブ”から爪はじきされるでしょう」
エレオノールが冷静に言う。
「婿が紳士クラブから弾き出されたと知られたら、オルフェリア公爵の中央での発言力が下がります」
マルチダの視線が、鋭く僕を射抜いた。
「そのままではあなた、婚家を潰します」
息が止まった。
胸が締めつけられ、手が震える。
──僕は、何も分かっていなかった。
“教養がない”ということが、どれほど恐ろしいことなのか。
屋敷に戻る頃には、全身の力が抜けていた。
マルチダの茶会は、平民に文字を教えるより何億倍もきつかった。
また詫び状だ……。
リュシアンヌに助けを求めようとしたが、執事に言われた。
「お嬢様は、チャリティーに出掛けております」
チャリティーより婿を優先しろよ……と、思ってしまった。
夕方、リュシアンヌが帰ってきたので急いで部屋へ向かった。
「リュシアンヌ! 今日の茶会が──」
しかし、彼女は鏡台の前でドレスの準備をしていた。
「ごめんなさい。
これからパーティーの支度があるの」
「パートナーは……僕じゃないの?」
リュシアンヌは淡々と答えた。
「迎賓館で行われる国外の貴賓を招いたものだから、最低でも5か国語喋れないとならないのよ。
それでも行きたいなら手配するわ」
「い、いや……大丈夫」
僕は逃げるように部屋を出た。
──5ヵ国語なんて無理無理。
でも、少しくらい聞いてくれたっていいのに。
やっぱりノラの方がいいや。
マルチダに比べたら、平民に文字を教えてる方が楽だったな。
むしろ、そこがチャンスでは?
平民学校の教師になれば、それを理由に社交界に出なくて済むのでは?
僕は自分の机に向かい、早速ペンを取った。
──ノラへ
最近、こっちは本当に大変なんだ。
今日も貴族の奥様方に囲まれ、何を言っても笑われてしまって、正直、心が折れそうになった。
公爵家のやり方は厳しすぎる。
僕が何をしても足りないと言われるし、リュシアンヌも忙しくて全然助けてくれない。
でもね、ひとつだけ希望が見えたんだ。
平民学校の教師になれば、社交界に出なくて済むかもしれない。
僕は平民の子たちに読み書きを教えるのは得意だし、僕を必要としてくれる。
だから、これが僕の道なんじゃないかと思う。
ノラ、早く君に会いたい。
君と話すと、全部うまくいく気がするんだ。
アラン──
ペンを置き、ふう、と息を吐く。
ノラが、ここにいればいいのに。
いつ帰ってくるんだ?
そんなことを考えながら伸びをすると、仮面のメイドが掃除をしていた。
背格好や目の色が、ノラに似ているように見えた。
「君……年は、いくつだ?」
メイドは指で24と示した。
「ノラと同じだ……ちょっと顔を見せろ」
メイドは驚いたように後ずさり、首を振った。
しかし、見たいのだ。
抱えるようにして捕まえ、力ずくで仮面をはがした。
露わになった素顔を見た瞬間、僕は息を呑んだ。
顔はイボだらけで、醜いなんてものじゃない。
驚きと混乱が一気に押し寄せ、声が漏れた。
「……化け物っ!」
メイドは怯えたように、部屋を飛び出していった。
胸が激しく脈打つ。
あんな化け物の近くにいたなんて──
最悪だ。
最悪だ。
何もかも最悪だ。
ノラが隣国に行ってから、全てがおかしくなった。
ノラが帰ってくれば、また元に戻る。
いや、いっそ僕が隣国に逃げてしまうのもいいかもしれない。
持てるだけの財産を持っていけば、平民としてなら余裕で暮らせる。
それでもいい。
机に置いたままの手紙を取り、書き足した。
・屋敷で不安になる出来事があったこと
・そちらに逃げるかもしれないから受け入れてほしいこと
・君こそが“真実の愛”だということ
書き終えると、胸にじわりと安堵が広がった。
ノラがいれば大丈夫だ。
ノラだけが僕を分かってくれる。
そう思い込むことで、ようやく呼吸が落ち着いた。
トーシハンが来て、朝から厳しい訓練が始まった。
茶会での失態を細かく問われ、また詫び状を書かされる。
午後には、その詫び状3通を持って夫人たちの家を回り、どこでも厳しい指摘を受け心が折れそうになった。
つい……オルフェリア公爵家の馬車なのに、気づけばノラの家の周りをうろついていた。
やはり不在だと分かり、肩を落とす。
従者にノラへの手紙を渡し、メールショップに出すよう頼んで馬車で待っていると、平民の生徒が僕に気づき声をかけてきた。
立ち話をしているうちに、“やっぱり教師になろう”という考えが、また頭をもたげた。
夜、部屋に戻ると仮面のメイドが仕事をしていた。
昨日の出来事が頭をよぎり、胸がざわつく。
「近寄らないでくれ! 他にもメイドはいるだろう」
声が荒くなった。
メイドは驚いたように下がり、部屋を出ていった。
どうしようもない苛立ちと、不安が渦巻いた。
翌朝、またトーシハンに殴られる。
「詫び状の後は、反省文だろう!」
「しかし昨日3軒もまわり、疲──ぎゃひんっ」
言い終える前に、また叩かれる。
慣れてきた自分が悲しい。
「す、すみません! 書きます」
反省文を書いては破られ殴られ、書いては破られ殴られ、ようやく完成した頃には、手が震えていた。
ラキに反省文を渡し、応接室から出ると、リュシアンヌが執務室から出てきた。
「ちょうど良かった。メイドを変えてもらえないか」
「メイド? 何かあったの?」
「あーその……要領が悪くて」
リュシアンヌは少し考え、言った。
「それも含めて、あなたに“しつけて”欲しいのよ」
「しつけ?」
「ええ。頼めるかしら?」
「う、あ、ああ、もちろん」
リュシアンヌは微笑み、紙を差し出した。
「良かったわ。はい、これ」
「え?」
「図書館にある自習用のテキストのタイトルよ。
これを生徒に渡せば、授業のない日に自習できるわ」
確かに、これを渡せば自分の株が上がる。
ラッキーだと思った。
「ありがとう。さすがリュシアンヌだ」
「お役に立てて嬉しいわ」
彼女は微笑んで戻って行った。
しかし──
リュシアンヌは完璧すぎて、近くにいると緊張する。
休まらない。
やっぱりノラに会いたい。
舞踏会へ向かう馬車の中で、僕は胃がねじれるような気分だった。
リュシアンヌは、隣に座っている。
白と銀を基調としたドレスは完璧で、僕とは揃いじゃない。
「会場には、トーシハン侯爵もマルチダ夫人もいるから大丈夫よ」
「ひい……は、腹が痛い。帰りたい」
「今さら欠席できないわ。
それに『今日、失敗したら婚約を考え直す』と、父が」
「ひいいい……」
馬車が宮殿前で停まる。
僕は足が震えた。
煌々と輝くシャンデリア、磨かれた大理石の床、色とりどりのドレスと礼服。
奥に王族が並んでいた。
黒髪の美男、王弟殿下もいる。
だが、ロザの姿はなかった。
ラキ・オルフェリア公爵は、堂々とした声で挨拶した。
「本日は、お招きいただき光栄です、陛下」
王は頷き、僕に視線を向けた。
「アラン・ドレイモンド伯爵令息。
本日の社交デビュー、祝おう。
オルフェリア公爵の婿として、しっかりやるように」
頭が真っ白になった。
それでも、なんとか声を絞り出す。
「あ、ありがたき幸せ」
「うむ」
王は満足げに頷いたが、僕の膝は笑っていた。
貴族たちへの挨拶が一通り済むと、血縁の家族が近づいてきた。
父のドレイモンド伯爵は、緊張した顔でラキに頭を下げる。
「息子は、いかがでしょうか?
ご迷惑かけてませんか」
僕の顔がひきつる。
ラキは微笑んだ。
だがその微笑みは、氷のように冷たい。
「はは、とてもユニークなご子息だ。
我々にはない革新的な発想を、お持ちのようだ」
家族の顔が、一斉にひきつった。
「さ、三男だから、いずれ平民になるかと甘やかしすぎました。
何卒、ご容赦を……」
伯爵夫人──僕の母──も頭を下げる。
ラキは扇子を持つリュシアンヌに一瞥を送り、静かに言った。
「まあまあ、憎まれっ子世にはばかると言うから、将来が楽しみだ」
母はその場で気絶しかけ、父が慌てて休憩室へ運んでいった。
僕は、ただ立ち尽くすしかなかった。
煌びやかな舞踏会の中で、僕だけが場違いな存在のように感じた。
──社交デビューは、地獄の始まりだった。
帰りたい。
その思いだけを胸に、僕はファーストダンスのために広間の中央へ連れていかれた。
リュシアンヌは、銀砂のようなプラチナブロンドを揺らし、深い瑠璃色の瞳で僕を見上げる。
姿勢は完璧で、まるで絵画の中の人物のようだった。
僕はというと、緊張で手が汗ばみ、足が震えていた。
音楽が始まり、僕たちは踊り出す。
さすがにダンスは習っているが、緊張でステップを何度も間違えた。
「最初だから仕方ないわ」
リュシアンヌは落ち着いた声で言う。
その余裕が、逆に胸に刺さる。
「君は失敗したことあるかい?」
「デビューのころは、殿下の婚約者だったから」
その一言で理解した。
失敗などできない立場だったのだ。
失敗したら“問題”になる世界にいたのだ。
僕とは違う。
生きている世界が違う。
ダンスが終わると、僕は早々に休憩室へ逃げた。
胸が苦しくて、息がうまく吸えない。
「すまない。
ここのどこかに、僕の母がいるはずだ。ドレイモンド伯爵夫人だ」
近くにいた給仕が答える。
「それなら4号室です」
「ありがとう」
僕は急いで向かった。
部屋に入ると、灯りが落とされていて暗かった。
「母上? 寝てるのですか?」
奥へ進んだ瞬間、誰かに腕を引かれ、ベッドに倒れ込んだ。
「わっ──」
顔を上げると、そこにいたのはロザ・ピアット伯爵令嬢だった。
赤茶の髪を派手に巻き、濃い色のドレスを着ている。
王子の婚約者とは思えないほど、自由な雰囲気だ。
「あんた、いつになったら結婚するのよ? 早くしなさいよ!」
「あなたは殿下の婚約者の……なぜ、こんなところにいるのです?」
「舞踏会へ出ちゃダメって言われてるからよ。
私が王妃教育終わらないからって。
だからあんたの婚約者が公妾になって、私の仕事を代わりにすればいいわ。
私はマナーだけ学んで、パーティーに出放題なのに」
何を言っているのか分からない。
でも、僕の口から出たのは別の言葉だった。
「そう言われても、僕には……僕は逃げたいんです!」
「はあ?」
ロザが眉をひそめる。
僕は、公爵邸に行ってからのことを全部話した。
トーシハンの教育、社交界の恐怖、マルチダ夫人の茶会、詫び状と反省文の山。
気づけば泣きながら訴えていた。
「逃げたい……もう無理なんだ……」
ロザは呆れたようにため息をつき、しかし声の調子は少しだけ柔らかかった。
「まあ……気持ちはわかるわ。
私も、いきなり王妃教育に放り込まれて、失敗したら“国の恥”って言われるの」
その言葉に、僕は言葉を失った。
ロザもまた、別の地獄にいるのだと気づいたからだ。
ロザと互いに愚痴をこぼし合っていた時だった。
外が急に騒がしくなり、ざわめきが休憩室まで響いてきた。
「……何だ?」
胸がざわつき、僕はロザと一緒に会場へ向かった。
広間に戻ると、そこは異様な空気に包まれていた。
人々が円を描くように距離を取り、その中心で2人の王族が向かい合っていた。
黒髪に銀の瞳の王弟──シリル。
赤みのある金髪の王子──エドモンド。
そして2人の間には、銀砂の髪を揺らすリュシアンヌがいた。
場の空気が張りつめていた。
「私には、リュシアンヌいないとダメなんです!」
王子が叫んだ。
翡翠色の瞳が、涙で濡れている。
「1年前にその婚約を捨てたのは、お前だろう」
王弟の声は低く冷たい。
銀の瞳が王子を射抜く。
「捨てていません! 側室になるよう言いました!」
その瞬間、拳が4歳下の甥の頬を打った。
乾いた音が響き、周囲から悲鳴が上がる。
王子は床に倒れ込み、会場がざわめきに包まれた。
王弟はリュシアンヌの手を取り、そのまま会場の出口へ向かった。
リュシアンヌは抵抗せず、静かに歩いていく。
白銀のドレスが揺れ、背筋はまっすぐで、まるで嵐の中心に立つ女神のようだった。
僕は呆然と立ち尽くした。
倒れた王子に、ロザが駆け寄った。
「エド! 大丈夫?!」
「……なぜ、ここに?
『舞踏会に出てはいけない』と……」
王子が驚いたように、ロザを見る。
その時、周囲の貴族がざわつき始めた。
「ピアット伯爵令嬢が、あの人と休憩室から出てくるところを見ました」
令嬢が、僕を指差した。
「私も見ました!」
別の貴族も声を上げる。
会場の視線が、一斉に僕へ向いた。
背中が冷たくなる。
王が立ち上がり、重い声で言った。
「ドレイモンド家、オルフェリア家、会議室に来い」
その言葉が落ちた瞬間、会場の空気が凍りついた。
僕は足が震え、喉がひきつった。
恐怖の会議が終わり、自室で頭をかきむしった。
──ああ、終わった。
次の舞踏会で、僕の“有責による婚約破棄”が公表される。
その後は国外追放。
最低限の路銀だけで、他の財産は持ち出し不可。
実家とも縁切り。
──王とラキが、そう決めた。
最悪だ。
最悪だ。
最悪だ。
胸が締めつけられ、息が苦しくなる。
──そうだ。
舞踏会の前に、財産を持ってノラのところに逃げよう。
後のことは、もう知らない。
僕は服の中に隠せる大きさの貴重品を、次々と引っ張り出した。
宝石、金貨、小さな銀細工──とにかく詰め込めるだけ詰めた。
すると、仮面をつけたメイドが気づき、慌てて止めに入った。
「……っ、やめろ!」
僕は逆上して、突き飛ばした。
勢いでメイドが、床に倒れ込む。
声を出そうとしても、彼女は喉を押さえ、息を呑むだけだった。
声が出ない……?
そうだ……リュシアンヌは、このメイドを“しつけてほしい”と言っていた。
だったら、殴ってもいいじゃないか──
「……邪魔をするなっ……!」
僕は荒い呼吸のまま馬乗りになり、気が済むまで殴り続けた。
頭が、ぐらぐらする。
ようやく落ち着いた頃、メイドは這って出ていった。
冷えてきた頭で考える。
──いま逃げたら、処刑されるかもしれない。
国外追放どころでは、済まないかもしれない。
それよりも──
実家やリュシアンヌに、泣き落としした方がいいのではないか。
許してもらえるかもしれない。
助けてもらえるかもしれない。
翌日、僕はリュシアンヌに嘆願しようとした。
だが執事に遮られ、会わせてもらえなかった。
「お嬢様は本日、お会いになりません」
そのまま僕は馬車に押し込まれ、実家へ送り返された。
屋敷に戻ると、父と母にこっぴどく叱られた。
だが、公爵家での出来事をすべて話すと、2人の表情が変わった。
「……そんな教育を受けていたのか」
「アランも大変だったのね……」
母は涙ぐみ、そっと僕の手を握った。
「バレないように支援するわ。あなたを見捨てたりしない」
その言葉に、胸が少しだけ軽くなった。
その時、ノラから手紙が届いた。
“隣国から帰って来られた”と書かれていた。
僕は、急いでノラの家へ向かった。
扉を開けると、ノラがいた。
栗色の髪、明るい茶色の瞳。
明るい色のワンピース姿は、以前と変わらない。
僕は思わず抱き締めた。
……だが、何か違和感があった。
けれど今は、それどころではない。
不安を押しつぶすように、僕はノラにすがった。
そして、今までの出来事をすべて話した。
ノラは大きく頷き、僕の背中をさすった。
「アランは悪くないわ。
全部、向こうが厳しすぎるのよ」
やっぱりノラは、僕の味方だ。
分かってくれる。
僕にはノラだけだ。
「一緒に国外へ行ってくれる?」
「もちろん。伯母の家で暮らしましょう」
「良かった……ああ、愛してるよ。君だけだ」
「ええ、私たちは真実の愛で結ばれてるものね」
ノラは微笑み、僕の手を握った。
そして──
「ねえ、あなたは私財を持ち出せないけど、私が預かって運べばいいわ」
「確かに、そうだ。
贈呈については規制されてない……。
すぐに家にあるものを売ってくるよ」
「私も伯母に手紙を書くわ。
それと、いいアイディアがあるの」
「え?」
「次の舞踏会、私も出たい」
僕は息を呑んだ。
王宮の舞踏会は、平民は基本的に出られない。
特例は、受賞者や貴族の親族、あるいはパートナーの代理など、ごく限られた場合だけだ。
僕は悩んだ。
「貴族として最後の舞台でしょう?
どうせなら、“真実の愛”を見せつけてやりましょう」
ノラの言葉は甘く、耳に心地よかった。
「……そうだな。どうせ国から出ていくしな。
わかった、ドレスは僕がプレゼントする。
明日、また来るよ」
「ええ、待ってる」
ノラは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔だけが、今の僕の救いだった。
実家に帰った僕は商人を呼び、私物を次々と売った。
宝石、銀細工、時計、衣装──持ち出せるものは、すべて金に換えた。
その金を持ってノラを迎えに行き、ドレス店へ。
「1週間でフルオーダーはできないから、セミオーダーになってしまうけど……」
ノラは栗色の髪を揺らし、明るい茶色の瞳で微笑んだ。
「そんなこと、まったく構わないわ」
店員が丁寧に頭を下げる。
「では、完成したらお届けします」
僕たちは店を出て、近くのカフェに入った。
ガラス越しに夏の光が差し込み、ノラの瞳がきらきらと輝いて見えた。
ケーキを食べながら、僕は思った。
以前は堂々とデートなどできなかったが、今はもう誰にも遠慮しなくていい──
それから連日、僕たちは観劇したり、美術館に行ったり、街を歩いたりした。
ノラは楽しそうに笑い、僕はその笑顔を見るだけで胸が満たされた。
最高に幸せだと思った。
あのままリュシアンヌと結婚して地獄が続くより、ノラと平民として暮らす方がいい。
母も支援すると言ってくれた。
生活に困ることはない。
舞踏会当日。
僕はノラを連れて、王宮へ向かった。
ノラはセミオーダーのドレスを身にまとい、アクセサリーをきらきらと揺らしていた。
平民が王宮に入るなど本来あり得ないが、僕はもう何も考えていなかった。
会場にはリュシアンヌが、家族と共に来ていた。
挨拶が済んだ後、王が声を上げた。
「ドレイモンド家、オルフェリア家、前に出なさい」
胸がざわつく。
2家族が集まると、ラキが一歩前に出た。
その存在だけで空気が張りつめる。
「本日、ここにてオルフェリア家は──
ドレイモンド家、三男アラン殿との婚約を、アラン殿有責により破棄する」
会場がざわめきに包まれた。
「やはり……!」
「あの平民と?」
「公爵家の娘を侮辱した……!」
「王族の前での不祥事もあったと聞く」
視線が一斉に、僕へ向けられる。
ノラが、そっと僕に合図を送った。
僕は胸を張り、前へ出た。
緊張で喉がひきつったが、ノラが後ろにいると思うと勇気が湧いた。
「皆さんに、聞いてほしいことがあります。
オルフェリア公爵家での日々は、まさに地獄でした。
些細なことで揚げ足を取られ、無理難題を押し付けられ、婚約者のリュシアンヌは助けてくれず……」
ざわめきが広がる。
僕は続けた。
「しかし、僕には”真実の愛”があったので乗りきれました。
ノラ、君を愛している」
ノラは微笑んだ。
「嬉しいわ。私もよ」
しかし──
リュシアンヌが、静かに歩み出てきた。
白銀のドレスが光を吸い、扇子を閉じたまま、表情は微動だにしない。
「疑問なのですが、真実の愛とは何でしょう?」
会場が静まり返った。
「は? それは……本物の愛ということだ」
当然だろう。
リュシアンヌは、淡々と続けた。
「本物ということは、偽物もあるのですよね?
その偽物は、どこにあるのです?
──まさか私では、ないですよね?
私は、あなたを愛したことはありません。
あなたが婚約者に選ばれたのは──同世代の高位貴族で婚約していないのが、あなたしかいなかったからです」
それはわかってたが、なぜ急に……?
何か言わなければと思い、口から出たのは支離滅裂な言葉だった。
「それは……えっと、しかし……君は僕に優しかったじゃないか。
図書館にある自習用の本のタイトルを調べて、渡してくれたり……」
その瞬間、周囲から冷たい声が飛んだ。
「さっき、ご令嬢は『助けてくれなかった』と言ったばかりだろう」
会場がざわつく。
僕の背中に冷たい汗が流れた。
リュシアンヌは扇子を閉じたまま、静かに言った。
「婚約者と円満な関係を築こうとすることは、当たり前ではないですか」
その声音は穏やかで、しかし逃げ場がなかった。
「……と、とにかく……僕には真実の愛があるから、君がいなくても痛くも痒くもない。
むしろ、せいせいした」
これは本音だった。
リュシアンヌは、僕を見据えた。
瑠璃色の瞳が冷たく光る。
「なるほど。話を戻します。
真実の愛とは、本物の愛なのですね?」
「そ、そうだ」
「では、いずれ年を取って見た目が変わっても、変わらず愛し続けるということですね?」
「当たり前じゃないか。
真実の愛とは、魂で繋がっている男女のことだ。
見た目などに惑わされることはない」
言い切った。
会場が静まり返る。
リュシアンヌは扇子を軽く上げた。
「わかりました。あれを」
侍女が、手紙の束を差し出した。
見た瞬間、僕の心臓が跳ねた。
それは──僕がノラとやり取りした手紙だった。
僕は青ざめた。
「見覚えありますね?」
「し、知らない……分からない」
声が震えた。
リュシアンヌは淡々と続けた。
「では、これは?」
侍女が次に差し出したのは──婚約契約書。
僕とリュシアンヌのサイン。
両家の当主のサインと印。
足が震えた。
その時、1人の男がやってきた。
「彼は王宮所属の筆記鑑定人です。
では、この契約書と手紙を鑑定してください。
それと──」
リュシアンヌが扇子を向けると、奥から仮面のメイドが出てきた。
昨日、僕が取り乱した時に殴ったメイドだ。
「彼女の文字も鑑定、お願いします」
「な、は? あのメイド……なんで?」
僕は理解できなかった。
メイドが紙に文字を書いて渡す。
鑑定人が、淡々と告げた。
「この手紙は、アラン・ドレイモンド伯爵令息と、彼女(仮面メイド)の筆記と合致します」
「はあ?!」
頭が真っ白になった。
なぜメイドの筆跡が出てくるんだ。
リュシアンヌが、仮面のメイドへ視線を向ける。
「あなたの名前はノラ・ウィムズかしら?」
メイドは頷いた。
──えっ? バカな……。
その瞬間、侍女が“ノラだと思われていた女性”にメイク落としを渡し、顔を拭わせた。
化粧が落ちていくと──まったく別人の顔が現れた。
僕は息を呑んだ。
リュシアンヌが問いかける。
「あなたのお名前は?」
「エーファ・ノーガスと申します」
聞いた瞬間、僕は腰が抜けてその場に座り込んだ。
「は? な……意味がわからない……」
リュシアンヌが、扇子を開く。
「説明してあげるわ。
婚約が決まった時から、あなたには公爵家の影がついていました」
「え……」
「あなたが、そこのノラと恋愛関係だったことも把握していました。
しかし、それは別に良かった」
「なっ……」
「突然決まった婚約だもの、仕方ない。
あなたは公爵からの打診を断れなかったのでしょうし、隠れて付き合っていたので」
喉が鳴った。
周囲の視線が痛い。
知られてたなんて……。
リュシアンヌは淡々と続けた。
「しかし──婚姻後に子供が生まれたら私を殺害し、子供が成人するまで公爵代理となり、愛人を後妻に据えると計画した。
そして子供が、ノラの産んだ子と似ていれば入れ替え、似ていなければ虐げる、と」
会場が一斉にざわめいた。
「排除?」
「公爵代理……」
「愛人を正妻に?」
「そんな計画を……」
視線が突き刺さる。
空気が重く、息ができない。
リュシアンヌは、まるで裁判官のように言った。
「だから私は、兵にノラを捕えるよう命じた。
そして『処刑される』か『イボのできる毒を飲んでメイドとして働くか』選ぶように言った。
彼女は『メイドになる』と答えた」
僕はガタガタと震え出した。
足が冷たくなり、呼吸が浅くなる。
瑠璃色の瞳が、まっすぐ僕を射抜く。
「あなたには、公爵子女への殺害及び家門乗っ取りを企てた罪が確定しています」
何も言えなかった。
声が出ない。
尋常じゃない汗が視界を覆う。
その時、王が僕の名を呼んだ。
「アラン・ドレイモンド。
お前の行為は、貴族社会の秩序と安全を著しく損なうものと判断する。
よって、王国法に基づく最も重い処分を科す」
「……っ……!」
脱糞しそうなのを何とか堪える。
いや、もう我慢しなくていい……。
「また、ドレイモンド家は本件の責任を負い、家門としての資格を失う」
その言葉が落ちた瞬間、父と長兄は、反射的に王の前へ進み出て跪いた。
父は震える声で言った。
「……陛下。
この度は、愚息アランの引き起こした数々の不祥事、誠に申し訳ございません」
覚悟を決めた声だった。
母は気絶し、次兄が支える。
長兄が頭を下げる。
「申し訳ありません。
……責任は、必ず償って参ります」
会場は静まり返った。
誰も息をしていないようだった。
僕は震える声で言った。
「え、何だったんだ、今まで?
おかしいだろ……だってノラがいなくなって……その後の時間は、何だったんだ?」
何のために、リュシアンヌと同居してた?
──手紙? 証拠のため?
そのために1ヶ月も?
王弟もトーシハン侯爵も王子の婚約者もマチルダ夫人も教科書も授業も……はあ?
父が振り返り、必死に言った。
「やめろ。もう喋るな!」
でも、もう止まらなかった。
頭を抱え、叫んだ。
「なんでだよ……なんでだよ……!」
会場の視線が一斉に、僕へ突き刺さる。
世界がぐらぐらと揺れた。
──1番、重い罰……死刑。
錯乱した元婚約者アランが兵に両腕を掴まれ、引きずられていく。
その背中は、もはや貴族のそれではなく、ただの迷子のようだった。
王が軽く手を振る。
「見世物は、ここまでだ。舞踏会を再開する」
音楽が再び流れ、ざわめきがゆっくりと消えていく。
王族が中央へ進み出ると、空気が一瞬で整った。
ノラ──いえ、エーファと本物のノラは、静かに奥へ下がっていった。
その時、隣から声がした。
「踊ってくれるか」
黒髪に銀の瞳を持つ王弟にして従兄──シリルが手を差し出していた。
軍服の黒が、白銀の会場に映える。
「もちろんよ」
私は、その手を取った。
音楽に合わせてステップを踏む。
シリルの手は温かく、動きは迷いがない。
彼と踊ると、世界が静かになる。
「よく頑張ったな」
「これと言って、何もしてないわ」
「しかし精神的に辛かったろ」
「どうして? 平民になるつもりで17まで生きてきた伯爵令息など、結婚しても”お飾り”にしかならないと初めから分かっていたじゃない」
シリルが小さく笑う。
「うん、だからこそのケネシー侯爵夫人、大臣、トーシハン、マチルダだものな」
「そうよ。彼が、いかに無能かを社交界に知らしめるための時間だったのよ。
彼は分かってないみたいだけど」
シリルは視線を横に流す。
少し遠くに、4歳下の甥エドモンドの姿があった。
「アランは、貴族に生まれたのが運の尽きだったな。
そして──エドモンドが”仲間になりたそうに、こちらを見ている”が、どうする?」
「そうね。
彼にも、そろそろ隠居してもらいましょう。
証拠は揃ってるわ」
「なぜ”王が誰になろうと、オルフェリア家が権勢を保持する”と分からないのだろうな」
「さあ? それだけ“真実の愛”が、魅力的なのでしょう?」
シリルが鼻で笑う。
「そんなもの幻想だ」
「そうね」
銀の瞳は、私だけに向けられる時だけ、ほんの少し柔らかくなる。
「これから、よろしくね。旦那様」
「ああ。もう外交官はやめて、君の傍にいると約束するよ」
音楽が終わり、私たちは優雅に一礼した。
──舞踏会は続く。
だが、今日でひとつの物語は終わった。
そして、私とシリルの物語が始まる。
□完結□




